3 6歳で孤独を理解しました
リックが子供二人を連れて屋敷に来た日からハンナは食事をしなくなった。
誰が言っても、マリアンヌが泣いて頼んでも水しか口にしない。
「このままでは奥様が死んでしまう」
困り果てたベンジャミンはリックに相談した。
「医者でも呼んでやれば?不貞を犯していたくせにかまってちゃんとは・・・呆れるね」
ハンナはずっと自室の窓から外を眺めている。
そうしているときだけ穏やかな表情になるのだ。
しかし、マリアンヌが傍に来て、刺繍糸のようにまっすぐで美しい銀髪が視界に入ると、ハンナはからっぽの胃から血を吐き泣き叫ぶ。
使用人たちは母娘のためを思って、二人を近寄らせないようにした。
そして父親にも母親にも、一片の愛さえ貰えないマリアンヌを心から憐れんだ。
ルーランド伯爵家の長子であり、正当な後継者であるはずのマリアンヌ。
ベンジャミンをはじめとする使用人たちはリックに隠れて最大限の愛情を注いだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
マリアンヌは4歳になった日から伯爵令嬢としての教育を受けている。
雇われた家庭教師は事情をすべて把握し、心を尽くしてマリアンヌを教育した。
「さすがマリアンヌ様です。6歳でこの本が読めるなんてとても優秀ですよ」
「ありがとうございます。先生のお陰ですわ」
「今日はこれで終わりにいたしますが、何かご質問はございますか?」
「先生・・・全く別件ですが、ひとつご教示をお願いしたいことがございます」
「何でしょう?」
「人は・・・何のために生まれ、なぜ生きようとするのでしょうか。誰のために努力し、誰のために学ぶのでしょうか・・・」
「マリアンヌ様?」
マリアンヌがポロッと涙をこぼす。
「私は・・・」
家庭教師が慌てて駆け寄りマリアンヌを抱きしめた。
マリアンヌの頬に一筋だけ流れた涙の跡を指先でなぞりながら優しい声で言った。
「マリアンヌ様、人は自分のために生まれ、自分のために懸命に生きていくのです。自分のために努力し、自分のために学ぶのです。誰からも見返りを求めてはいけません。全て自分のためなのですよ」
「それでも私は・・・お母様によくやったねって褒めて戴きたいのです。頑張っているよって慰めて戴きたいの・・・ベンジャミンにも使用人たちにも、騎士達にも愛されているとは思います。でもお母様は・・・この髪を短く切ってしまえば、お母様は私に会って下さるでしょうか」
「・・・マリアンヌ様、厳しいことを言います。たとえその美しい銀髪を切ったとしてもお母様はお会いにはならないでしょう。それは・・・マリアンヌ様がどうこうできる問題ではないのです。今あなたにできることは・・・誰にも依存せず己を磨き続けることですよ」
「そうすれば何か変わるのでしょうか・・・」
「そうですね。人として一番大切なことが身に付きます」
「それは何ですか?」
「本当の意味での自立です。他者に幸せにして貰おうなどという烏滸がましい考えを持たない強い心です。自分を幸せにできるのは自分だけです。でも人には優しくしなくてはいけません。誰も優しくしてくれなくても、他者に優しい人。これが本当に自立している人です」
「難しいですね・・・」
「そうですね、マリアンヌ様はまだ六歳ですものね。焦る必要はありません」
「先生・・・人って結局のところ・・・みんな孤独なのですね」
「マリアンヌ様・・・」
じっと佇むマリアンヌに微笑みかけて家庭教師は部屋を出た。
扉の外にはベンジャミンが立っていた。
ベンジャミンが家庭教師にそっとハンカチを差し出す。
ハンカチを受け取り家庭教師は声を殺して泣いた。
「六歳で孤独の真理を理解し、人生を諦観する・・・過酷すぎます」
それからもマリアンヌは毎日努力を続けたが、ハンナの視界に入ることは無かった。
心を伽藍洞にしたハンナの美しかったピンクゴールドの髪は、いつのまにか色が抜け、灰色になっている。
どす黒くこけた頬と落ち窪んだ眼。
まさに幽霊の姿で、意味もなく窓の外を眺めている。
「今日もお母様にはお会いできないのでしょうか?」
東屋で家庭教師にお茶会の作法を学んでいたマリアンヌがポツリと聞いた。
「マリアンヌ様、奥様は眠っておられます」
「そう。それなら仕方がないですね。寝顔を拝見するのもダメかしら・・・」
家庭教師はマリアンヌが置かれているあまりにも理不尽な立場に耐えかねた。
「絶対に声を出さないと約束できますか?」
「ええ、約束いたしますわ」
「分かりました。それでは一緒に参りましょう」
家庭教師は年齢の割に小さい体のマリアンヌを軽々と抱き上げると、今から向おうとしているハンナの寝室の窓を何気なく見上げた。
その刹那、ゆっくりと窓が開き、やせ細ったハンナの上半身がゆらりと浮かび上がった。
マリアンヌと家庭教師、メイドたちが見ている中、ひらひらとハンナの体が宙を舞う。
何かを掴もうとするかのように、ハンナの手が空に伸びていた。
メイドが大きな声をあげて叫んだ。
「奥様!奥様!ああ・・・」
意外なほど大きな音をたてて、ハンナの体が庭に叩きつけられた。
マリアンヌは母親の壮絶な死の瞬間を直視してしまったのだ。
体が震え、世界中から色が抜け落ちた。
なぜか自分の呼吸音だけがうるさいなと思った。
それでも声は出さない。
自分が声を出してしまうとお母様の眠りを妨げてしまう。
マリアンヌは真一文字に唇を引き結んだ。
ベンジャミン達使用人が屋敷から駆け出す。
全員が右往左往している中、家庭教師はマリアンヌを抱きしめてハンナの側に行く。
頭から大量の血を流し、目を開けたまま命を落としたハンナ。
「マリアンヌ様、お母様の目を閉じてあげましょうね」
マリアンヌは家庭教師に言われるまま、母親の血だらけの顔に手を伸ばし、そっと瞼を押し下げた。
最後に残っていた肺の中の空気がグフっという音を立ててハンナの口から漏れる。
ハンナは悲しみと絶望を抱えたまま逝った。
マリアンヌは見たくても見ることが叶わなかった母の顔を静かに見つめ続けた。
その日の夕方、リックが慌てて帰ってきた。
マリアンヌは自室に連れていかれ、部屋の外の様子は何も分からない。
メイドが一人張り付いて、何かと話しかけてくるがマリアンヌの耳には入らない。
その日はそのままベッドに入らされ、次の日の朝には真っ黒なワンピースを着せられた。
同じように真っ黒な服を着た家庭教師が迎えに来るまで、一人で部屋にいた。
誰も口をきかず、誰もマリアンヌと目を合わさない。
馬車に乗せられ家庭教師と一緒に教会に連れていかれた。
屋敷を出るときに母親の寝室の前を通ったが、ドアは閉ざされ中の様子は分からない。
黒いリボンで結ばれた銀髪が風に揺れ、弔問客の涙を誘う。
マリアンヌは泣かなかった。
祭壇の一番前に喪服を纏ったリックがぽつんと一人で座っていた。
家庭教師が付き添い、マリアンヌはリックの真後ろの席に座る。
リックは振り返らない。
マリアンヌはリックの背中が小刻みに震えていることが不思議でならなかった。
最後のお別れだと言われ、つま先立ちで母親の棺を覗き込むマリアンヌ。
あまりにも穏やかな母親の死顔を見てマリアンヌは思った。
お母様は私と同じ髪色になられたのね・・・と。
母親とのお別れを済ませたマリアンヌはゆっくりと振り返った。
リックは相変わらず床を見つめたままだ。
ずっと自分を避けてきた両親。
二人の姿を同時に見たのは初めてだとマリアンヌは思った。
微笑むような死顔の母親とうつろな目で動かない父親。
『亡くなったお母様より生きているお父様の方がよっぽど死人のようだわ』
初めてみる両親のツーショットを目に焼き付け、マリアンヌは教会を出た。
母親の棺に土をかけ、その上に置かれた四角い石を眺めながらマリアンヌは呟いた。
「人って生きていても死んでいても、所詮はひとり・・・結局のところ孤独なのよね」
その言葉を聞いた家庭教師とベンジャミンは唇を嚙みしめた。