書籍化記念番外編 Sideミセス・オスヤ
まだ幼いマリアンヌお嬢様だけを乗せ、遠いアーラン州に向かう馬車をお嬢様のお部屋の窓から見送る。
千切れても構わないと思いながら振り続けたこの手は、お嬢様の目に映っただろうか。
メイドの一人も付き添うことを許さなかったリック・ルーランド伯爵。
それどころか、外で見送る事さえ禁じられた。
「なぜそこまで憎悪なさるのでしょう?」
私の口から零れた疑問に応えてくれる人はいなかった。
馬車が見えなくなるまで一緒に手を振った使用人たちも、それぞれの持ち場へと散る。
その足取りは一様に重く、この屋敷の未来を暗示しているかのようだ。
一人部屋に残った私は、昨日までマリアンヌお嬢様が使っていた勉強机を掌で撫でた。
「大変よく頑張りましたね、マリアンヌお嬢様」
もういないその机の主に向って、最後の言葉をかけた私は、リック・ルーランド伯爵の執務室に向かった。
ノックをして返事を待つ。
「どうぞ」
「失礼いたします」
まだ早朝だというのに、伯爵はすでに書類を執務机に並べて睨んでいた。
その横には少し目が腫れている執事長のベンジャミンが立っている。
「お忙しいところ恐れ入ります」
私はマリアンヌお嬢様に教え込んだのと同じカーテシーで感謝を示した。
伯爵は眉間の皺を隠そうともせず、ペン先でソファーを指す。
「話があると聞いたが?」
ソファーに腰かけた伯爵は、お茶の準備を命じてから私に話しかけた。
「ええ、先日お話をいただきました件のお返事をと思いまして」
「ああ、うちの子供たちの家庭教師の件だね?執事長からあなたの優秀さは何度も聞いている。今までは一人だったがこれからは二人だ。倍というわけにはいかないが多少は上乗せするつもりだから安心してほしい」
「伯爵様、そのお話ですが……謹んでご辞退申し上げます」
「断る? 今『断る』と言ったのか?」
「はい」
「なぜ! もう何年もここで教えてきたんだ。勝手も分かっているだろうし、使用人達とも上手くやっていると聞いていたが? 何が問題だ」
「私はもう教えるという仕事を辞めようと考えております。マリアンヌお嬢様を最後の生徒として引退する所存ですわ」
「アレが迷惑を掛けたのだな? それで懲りたというところか。安心したまえ。うちの子たちはとても素直で従順だ。アレほどの苦労を掛けることは無い」
「マリアンヌお嬢様に苦労など掛けられたことは、一度たりともございません。むしろもっと甘えたり我儘を言ってくれたらと思っておりました」
「ではなぜ!」
「ここでマリアンヌお嬢様がどれほど素晴らしい教え子だったかなど、お話ししても詮無き事でございましょう。私はマリアンヌお嬢様に持てる全てをお伝えいたしました。そしてお嬢様は、その全てを正確に理解し、実践する努力を怠りませんでした。この先彼女を超える教え子が出てくるとは思えません。私はきっと比べてしまう。ですからマリアンヌお嬢様を最後の教え子といたします」
「フンッ! アレのことがよほど気に入ったのだな。そう言うことならこちらから願い下げだ。家庭教師のなり手などいくらでもいる」
そう言うとリック・ルーランド伯爵は不機嫌さを隠そうともせず、ベンジャミンに向って言った。
「未払いは?」
「ございません」
ベンジャミンの返事にひとつ頷いて、伯爵は私に向き直った。
「今までご苦労だった。ミセス・オスヤだったかな。そう言えば君はアレを産んだハンナの葬式の時もいたな。まあ、今後関わることも無いだろう。ベンジャミン、先生がお帰りだ。見送りを頼む」
そう言った伯爵はイライラしながら仕事に戻り、二度と私の顔を見ようともしなかった。
ベンジャミンは小さな返事をして、申し訳なさそうな笑顔を私に見せた。
そんなベンジャミンに頷いた私は、伯爵に向かって最後のカーテシーをして退出した。
伯爵邸に置いていた教材や本を詰めたトランクを持って、私は門の前に立った。
ふと振り返り、屋敷を見上げる。
外観も庭もよく手入れされていて、裕福な貴族の体裁は整っている。
でも私には監獄にしか見えなかった。
「先生、今まで本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ長い間お世話になりました」
「先生のお陰でマリアンヌお嬢様は立派なご令嬢になられました。あの状況で心を壊すことなく、素直に育ってくださったのは、ひとえにオスヤ先生のご尽力の賜物です」
「マリアンヌお嬢様と過ごした3年間はとても充実した時間でした。私が今まで続けてきた努力が全て報われたような思いがいたします。それを宝物として過ごして参りますわ」
「先生にそう言っていただけると……それにしても長いような短いような……私は先生のことを戦友だと思っているのですよ」
「まあ! それは光栄です」
「ははは……お別れですな。寂しくなります」
「ええ、お別れですわ。どうぞお元気で。これからもマリアンヌお嬢様のことをよろしくお願い申し上げます」
「はい、私の存在理由はその一点に尽きますからね。ところで先生はこの先どうされるのですか?」
「夫の元に行きますわ。夫は仕事の都合で遠い街におりますの。本当なら私も一緒に行くべきだったのですが、どうしても教師という仕事を諦めきれず、我儘を申しておりましたが、やっと思い切ることができました。夫には苦労を掛けてしまいましたから、これからゆっくりと尽くして参ります」
「そうですか。それは何よりです。偶にはお手紙を下さいね」
「はい。私にもマリアンヌお嬢様の近況などをお知らせくださいませね。でも、できればお嬢様には私の居所は教えないでいただきたいと思っています」
「理由をお伺いしても?」
「私は過去にすべき存在ですわ。お嬢様の本当の人生がやっと始まったのです。この屋敷での嫌な思い出と一緒に、私のことも記憶から消し去った方が良いのです。私のことを思い出すと、必ず悲しい過去も一緒に思い出してしまうでしょう? それではあまりにも可哀想ではないですか」
「なるほど……しかしそれではあなたが寂し過ぎませんか?」
「大丈夫ですわ。私の姿形は忘れても、私がお伝えしたことは必ず覚えていてくださいますから。お嬢様の中で私の心は生き続けるのです。寂しくなんてありません」
「納得いたしました。それではご要望の通りといたしましょう。でも、お嬢様がどうしても先生の助けを必要とされた時には、お約束を破ることをお許しください」
「勿論です。もしもそのような事態となった折には、何をおいても馳せ参じます」
「やはり先生は戦友ですな」
私はベンジャミン氏が差し出した手を握り、固い握手を交わした。
彼の言う通り、私たちは戦友だったのかもしれない。
そんなことを考えながら、重たいトランクと一緒に馬車に乗り込んだ。
それから二十年。
ベンジャミン氏とは何度か手紙のやり取りをした。
今朝届いた久しぶりの手紙によると、マリアンヌお嬢様は幾度となく訪れた苦境を見事に乗り切って幸せを掴んだらしい。
私は心の底から湧き上がる喜びを抑えることができず、勢いよく立ち上がり、両手を強く握りしめた。
私の向かい側に座り、新聞を広げていた夫が不思議そうに私の顔を見る。
「何か良いことでもあったのかい?」
「ええ、私の大切なお嬢様がやっと幸せを掴んだのよ」
「マリアンヌお嬢様? それは良かったね」
「お嬢様はいろいろと奪われ続けていたから心配だったわ」
「なぜ頑なに会おうとしなかったの?」
「私はね、お嬢様が本当にお辛かった時のほとんどを共有してしまったの。あれ程恋しがったハンナ様の死の瞬間でさえ一緒だった。彼女が辛い過去を浄化する過程で、私という存在だけを残すのは無理だから……」
「一緒に消してくれて構わないと? なんだか妬けるほどの愛を感じるんだけど」
「ふふふ……そうよ、私の大切な大切な宝物」
そう言った私の肩を夫は優しく抱いてくれた。
なぜこんなに涙が出るのかしら。
私はずいぶん白髪が増えた頭を夫の胸に埋めた。
どうかマリアンヌお嬢様のこれからが、穏やかな幸福で満たされますように。
そして彼女の伴侶となった方が、健康で過ごされますように。
どうか、どうかお願い申します、神様。
私はベンジャミン氏からの手紙を握りしめて、心からの祈りを捧げた。




