書籍化記念番外編 Sideルーランド夫人
今朝の空は明るいのになぜか重たいような色を漂わせている。
いつもより少し早い時間に降りてきた夫は、少しだけ会話を交わした後でいつものように墓参りに行った。
その背中を勝手口から見送り、私は自分のためにお茶を淹れる。
この判で押したような日々が私にとって心地よいと言ったら、悲しみの沼に身を沈める夫は怒るだろうか。
私の生まれた家は男爵家だった。
貴族とはいえ平民と大差はない。
両親は社交術も商才も無く、受け継いだ財産を切り売りして生活をするしかなかった。
3つ上の兄は、学園を卒業してすぐに騎士となって家を出た。
騎士としての報酬のほとんどを渡してくれる兄だけを頼りに、私たち3人は生きていた。
国境沿いで隣国との戦争が勃発したのは、私が学園を卒業して2年も経ったころ。
夕食の準備に取り掛かろうとしていた時、久しぶりに兄が帰ってきた。
「俺は戦争に行く。志願したんだ。これは準備金として貰った金だがお前に預けておく。父上や母上に渡したところですぐに無くなってしまうだろう。だから内緒にして、俺が戻るまでこれで凌いでくれ」
「いつもありがとう、お兄ちゃん。でも戦争って……心配だわ」
「そりゃ殺し合いだもの。命の保証は無いさ。でもお前が思っているほど俺は弱くないからね? 1年もすれば終わるはずだ。父上と母上を頼んだぞ」
兄は私の頭を数回撫でて出て行った。
私は自室にお金を隠し、兄の言う通り両親には黙っていた。
兄からの便りは無く、街でも明るいニュースは聞こえてこない。
そんなある日、見知らぬ男の人が父を訪ねて来た。
「例の投資の件うまくいってますよ。これは利益から今月分の返済を引いた残りです」
そう言って男は数枚の銀貨を父に渡した。
「そうなのか?助かるよ」
お茶を出しに行った私を無遠慮な視線で追いながら、ニヤッと笑った男が続けた。
「本当に面白いほどですよ。戦争景気で笑いが止まらない。そこでね、増資されてはどうかと思いまして」
「増資? この前預けた金だって借金なんだ。無理だよ」
「そうですか? これからもっと跳ね上がるのに。大儲けのチャンスですよ?」
「私に金を貸す人などいないよ。この前のだって君が紹介してくたからなんとか借りられたんだ」
「また紹介しましょうか?」
父の喉がゴクッと動いたのが見えた。
母が父の横で口を開く。
「あなた、確かに戦争景気というものがあると聞きますわ。そうそう戦争など起こるものでもないでしょう?ここはひとつ……」
「確かにそうかもしれないが、もう担保として出すものが無い」
男が私を盗み見ながら言った。
「お嬢さんでどうですか?まぁそんなことは万に一つも無いでしょうけれど、もし仮に返せなかったら。お嬢さんがその方の後妻に入るという条件ではいかがでしょうか。融資いただける方は裕福な商人ですし、お嬢さんもそろそろ結婚を考える年でしょう? どちらに転んでも悪い話では無い」
私の気持ちなど聞こうともせず、父と母は喜んで契約書にサインした。
でも、あれから何日経ってもその男はお金を持ってこなかったし、連絡も寄こさない。
不思議に思い父に尋ねると、融資金は全額投資に回し、渡された銀貨は借金の利息の支払いに渡したと言う。
さすがに呆れたが、まだ兄から渡されたお金もある。
そう思った私は何も言わず、そのまま数か月。
兄が言った通り、一年で戦争は終わった。
たくさんの人が死んだと聞いた。
兄は大丈夫なのだろうか……。
兄から渡されたお金はもうほとんど残っておらず、あの男からの音沙汰もない。
父もさすがに焦り始めていた。
ある日の午後、たった一人の使用人と一緒にジャガイモの皮を剝いていたら、応接室の方で大きな音がした。
慌てて駆けつけると父が床に転がっていた。
その前にはあの男。
母は怯え立ち竦んでいる。
「何事ですか」
私が父に駆け寄ろうとすると、男にいきなり腕を掴まれた。
「それでは男爵様、お約束通りお嬢さんを」
「待ってくれ! 約束が違う! 儲かると言ったじゃないか!」
「だから、一回目の借金は全部返済できたってお伝えしたでしょう?家が残っただけでも感謝してほしいですね。ただし二回目の分には足りなかった。戦争が早く終わったんでね」
なるほど、やっぱりそういうことね?
他人の言葉を真に受けて、自分で調べようともせず甘い汁を吸うことだけを夢見る父。
そんな父を諫めようともせず、まだ見ぬ金で何を買おうかばかりを考えている母。
こうなることをどこかで予想していたのに、深く考えることを放棄した私。
そして、そんな家族を見捨てることができず、命を賭して戦場に向かった兄。
みんなバカだ。
私は抵抗することを止めた。
どうせいつかはこうなる運命だったのだ。
この体も心も命も、もう本当にどうでも良い。
娼館にでもどこでも売ればいい。
それで全部終わらせる。
私は腕をつかんでいる男に抗わないことを伝え、荷造りの許可を得た。
兄から貰ったお金の残りを全て使用人に渡し、すぐに逃げろと言って裏口から追い出して応接室に戻った時、彼はいきなり現れた。
リック・ルーランド伯爵。
兄の戦友で、私の救世主。
「残りはいくらなんだ?」
「き……金貨3枚」
リックは鼻で笑って、ポケットから金貨を3枚取り出し、テーブルに置いた。
伯爵が普通に持ち歩く程度の金で売られるところだったのだと思うと笑いが込み上げる。
男は舌打ちをして私の顔を見た。
「これはお前の取り分だ。その代わり二度と近寄るな」
リックが金貨をもう3枚投げてやると、男は急いで拾いながら、リックに向って下卑た愛想笑いをした。
男が置いて行った契約書を破り捨て、リックは話し始めた。
兄が戦死したこと。
死ぬ間際に、妹に渡してほしいと剣と数枚の銀貨を預かったこと。
先ほどの金貨は、その剣を自分が購入した代金だと思ってほしいこと。
「間一髪でした。もしあなたが連れて行かれていたら、僕を庇って死んだ彼に申し訳が立たない。間に合ってよかった」
そうか、兄はこの人を庇って死んだのか……。
死ぬ間際まで私を心配してくれていたのか……。
可哀想なお兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん。
その日はもう遅いということで、リックは泊まることになった。
粗末な客間で申し訳ないと言うと、戦場に比べると天国だと彼は言った。
なぜか次の日も、その次の日もリックは家に帰らない。
私たちが男女の仲になるのに、そう時間は掛からなかった。
妊娠した事を告げると、物凄く嬉しそうにしてくれたけれど、瞳の奥は泣いていた。
そりゃそうだろう。
私だって市場に行けば噂くらい耳にする。
ルーランド伯爵家のスキャンダルを知らない者などいない。
でも私は口を噤み、全ての事実から逃げた。
私を抱き、果てるその瞬間に何度かハンナという名前を呟いたことも聞かなかったことにしたし、時々ひとりで静かに泣いているのも知らないことにした。
兄が命を代償にして渡してくれたこの幸せを手放すよりずっとマシだもの。
見ざる、言わざる、聞かざる。
それがこの幸せを逃がさない唯一の方法だと私は知っている。
リックは生まれた子供が自分と同じ黒髪だというだけで、泣き叫んで喜んだ。
あなたがこの子でどんな傷を埋め合わせようとしているかなんて知りたくもない。
私はあなたさえいてくれたら良いの。
あなたが本当は誰のことを愛しているかなんて関係ないわ。
あなたとあなたによく似た子供達と私。
もう本当にそれだけでいいのよ、リック。
だからそんなに申し訳なさそうな顔でお墓参りに行く必要は無いの。
「ありがとうね、お兄ちゃん」
もう消えそうな朝虹に祈りを捧げ、私は冷たくなったお茶を飲みほした。




