書籍化記念番外編 Sideリック・ルーランド
7月10日にツギクルブックス様より書籍化されます。
それを記念して少しずつですが番外編を投稿しますので、よろしくお願いいたします。
いつもと同じ時間に目が覚める。
「今日は鳥のさえずりが聞こえないな」
不思議に思い窓に目を向けると、薄いカーテンの隙間から朝虹が見えた。
階下に降りると、妻が朝食の支度をはじめようとしていた。
「あら、おはようございます。いつもよりお早いですわね」
「ああ、おはよう。朝虹だ。雨が降り出す前に行ってくるよ。朝食は帰ってからにする」
簡単に身支度を整え、いつものように鋏をもって庭に出た。
「今日はこれにしよう」
誰にともなく呟くと、まだ蕾の多いピンクの春紫苑を切って空を見上げた。
まだ虹が消えずに残っている。
この虹を渡ることができたら君に再び会うことができるだろうか。
そんな有り得ない事を考えていると、後ろでカタンと音がした。
ここに暮らすようになって、少し日焼けした妻が不安そうに僕を見ている。
「ちょっと行ってくるよ」
「ええ、お気をつけて」
昨日の朝と同じ会話をして歩き出す。
小さな庭を抜けて通りに出ると、教会に向かう子供たちとすれ違う。
これも毎朝の光景。
この判で押したような日々を送るようになってもう何年になるのだろう。
僕の時間はあの日から止まったままだ。
握っている花束を見てフッと息を吐く。
春紫苑の花言葉は『追想の愛』だと教えてくれたのは誰だったか。
道端にでも咲くようなこの花を私は裏庭にたくさん植えている。
今更だ……僕は自嘲の笑みを浮かべた。
「ハンナ」
口に出して言う。
胸が引き裂かれるような気分が押し寄せ、苦い胃液が上がってきた。
「ハンナ……ハンナ……ハンナ」
そう呟きながら僕は再び歩を進めた。
道からはずれて、少しだけ坂を上るとルーランド家の墓所がある。
ふと見ると虹はすでに消えていた。
「おはよう、ハンナ。今日は雨が降りそうな気配だ」
僕は小さな墓石の前に跪き、掃除をしてから花を供え祈りを捧げる。
「君は僕になど祈ってほしく無いだろうね。もちろん許してくれとは言わないよ。許せるはずもない。分かっているよ、分かっているけど……ごめん」
冷たい石に頬を寄せ、愛しい人の背をさするように撫でる。
「ハンナ……ハンナ……」
もう何度この名を呼んだだろうか。
きっと君が生きていた時よりずっと多いだろう。
君に屈辱と絶望を与えた男が、毎日泣きに来る姿を空から見ている気分はどうだい?
ざまあみろって思ってくれているなら良いのだけれど、君は優しいから心配だ。
「罵ってくれよハンナ。頼むよ……頼むから……私を罵倒してくれよ。黙ってないでさぁ」
僕の体を引き裂いて、そこらの野犬にでも喰わせてくれたら良いのに。
それで君の気持ちが少しでも軽くなるならうれしいのに。
ただ死ぬまで生きるという僕に与えられたこの罰は軽いのか重いのか。
ひとしきり泣いてふらふらと立ち上がる。
「明日も来るね。ゆっくり眠るんだよ」
妻の待つ家に向かってゆっくりと坂を下る。
朝の仕事から戻る農夫とすれ違う。
これも毎朝の光景。
違っていたことといえば、農夫が掘ってきたばかりの芋を数個くれたこと。
妻に渡せば家計が助かると喜ぶだろうか。
それとも手間が増えたと思うだろうか。
雨が降ろうとも雪が舞おうとも、毎朝欠かさず前妻の墓参りに行く夫を静かに見送り、泣き腫らした顔で戻るのを優しく迎える妻は、毎日どんな気持ちでいるのだろう。
そんなことを考えながら来た道を辿る。
妻と暮らすこの家は、もともとルーランド家の墓守を住まわせていたものだ。
素人が修繕した箇所があちこちにあって、お世辞にも快適とは言い難い。
ハンナとマリアンヌが過ごしたであろうあの地獄のような日々を思うと、僕にとってはまだ贅沢すぎるけれど、彼女には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
実家は貴族とは名ばかりの貧しい暮らしぶりだった妻は、拙いながらも料理も作るし掃除も洗濯もきちんとこなす。
もう実家も無い彼女はきっと仕方なく僕とここにいるのだろう。
この暮らしが少しでも贖罪になるとしたら、受けるべきは僕だけだ。
僕は彼女も不幸にしてしまったんだ。
息子にも娘にも残せてやれたのは爵位と屋敷と借金だけ。
誰一人として幸せにできなかった僕は、なぜまだのうのうと生きているのだろうか。
「あなた、あの子からお手紙が来ていますわ」
妻の声で現実に引き戻される。
いつの間にか朝食を終えていて、冷めきった紅茶だけがテーブルに置かれていた。
何を食べても味を感じなくなってどのくらい経つのか。
「ああ、いつもの定期報告かな。もう送らなくても良いのにね。君に似て真面目な子だ」
僕は妻から手渡された手紙を読む。
ルーランド家の紋章が押された封筒には、過去三か月の収支報告と一緒に、短い手紙が入っていた。
僕はその手紙を読んで泣いてしまった。
妻が驚いた顔で駆け寄ってきて顔を覗き込む。
「マリアンヌに……子供が生まれたそうだ。ワンド侯爵が教えて下さったらしい。とても嬉しそうに話しておられたと書いてある」
ワンド侯爵が自領の商会を通して、ルーランド伯爵領特産品の販路を作って下さったお陰で、息子はなんとか貴族としての体裁を保つことができている。
一度お礼の手紙を送ったら『投資分は回収しないとね』などと嘯いておられた。
「まあ!それは……おめでとうございます」
「僕にはその子に会う資格はないけどね」
妻はぐっと拳を握って俯いたあと、無理やり笑顔を作って台所に向かった。
私は手紙の続きを読んだ。
今度は女の子でピンクゴールドの髪と空のように美しいブルーアイだと書いてある。
ハンナの色だ。
ハンナ……美しい人。
僕が追い詰めて殺したんだ……あんなに愛していたのに僕は……。
僕は君から孫を抱くという権利も奪っていたのだね。
「マリアンヌ……どうか幸せになっておくれ」
涙を止めるために窓の外を見て、ハンナの笑顔を思い浮かべた。
また涙が溢れてくる。
本当に悲しいけれど、僕はマリアンヌの笑顔を知らない。
おそらく死ぬまでそれを見ることは無いだろう。
僕は手紙を丁寧に折り畳み、残っていた紅茶を飲み干した。




