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番外編~Sideリリベル

「ちょっと!あんた!早く探しに行ってよ!また自警団から呼び出されでもしたら…伯爵様に顔向けできないじゃないの!」

「はいはい。あいつはもうどうしようもねぇぜ?まあ、ブロワ-伯爵様にも釘を刺されてるしな」

「結婚してこの家を出るっていうんだよ?許せることじゃない!」

「もうあいつも16歳だ。ほっときゃいいじゃねえか」

「何言ってんのよ!ダメよ!あたしは…」

「まあ会ってくるから、そうカリカリすんな」

 のろのろと立ち上がって出ていく夫の後姿にため息を吐きながらリリベルはひとりごちた。

「どうすればいいの…」

 彼らの子供は去年学校を卒業した。

 娘は、卒業と同時に同級生だった商人の息子のところへ嫁いだ。

 もう一人の息子は、騎士になる才能にも、努力する才能にも恵まれず、近くの商店で店員をしながら、女の尻ばかり追いかける下らない男になっていた。

 娘は美しい黒髪で、息子はリリベルによく似た金髪だった。

 リリベルは腕に女をぶら下げて脂下がっている息子の姿を街で見かけるたびに、遠い昔のルドルフと自分を見る思いがして胃液が上がってくるのだった。


 ------------------------------


 ルドルフの元を去ると決心したとき、ワンド侯爵家の護衛騎士をしていたハンセンが、一緒に逃げようと言ってくれた。

 好みの顔をしていたハンセンを、あたしはよく護衛に使っていたけれど、特別な感情を持っていたわけではない。

「なんとなくルドルフに似てるって思っちゃったのが始まりよね」

 逃げた当初は良かった。

 とても大事にしてくれたし、マリアンヌのお陰で彼の仕事もすぐに決まって、生活にも苦労しなかった。

 持ってきた宝石を売って家を購入し、生活の基盤も手に入れた。

 寂しさなのか何なのか分からない霧のような苦しい気持ちを胡麻化すように、毎晩ハンセンと抱き合い、互いを貪りあった。

 ハンセンはかなり遊んでいた部類なのだろう。

 ルドルフが与えてくれたものとは別の女の悦びを教えてくれた。

 あたしはすぐに妊娠した。

 二回目なので慌てることも無いと高をくくっていたが、一度目には殆ど無かった悪阻が、今回は酷かった。

 口にできるものは水と柑橘類だけという日々を耐え、やっと安定期に入ろうかという頃、ハンセンが浮気をした。

 相手の女は酒場で働く女だということはすぐにわかった。

 あたしは少し目立ち始めた腹を抱え、女が働く酒場に乗り込んだ。

 女は悪びれることもなく、ニコッと笑って明るく言った。

「ああ、奥さんのお腹が大きかったの。だからあんな気を起こしたんだね?奥さん、大丈夫だから。あたいとあんたの亭主は何度か遊んだだけで、お互い心なんて通っちゃいない。また誘ってきても断るからさ。おいしいもんでも作って、機嫌よく待ってりゃいいさ。あんなのは男の気の迷いだから。あんたも別れたくはないんだろ?だったらあんまり責めるんじゃないよ?」

 罪の意識など微塵もないような女の言い草に、あたしは怒りよりも呆れを感じた。

「フンッ!二度と人の亭主に手を出すんじゃないよ!」

「こっちから願い下げだよ!可愛い顔してるのに気の強い女だねえ」

 あたしは無言で店を出たが、マリアンヌのような銀髪のその女の顔を忘れることはできなかった。

 その日の遅くに帰ってきたハンセンは、女に聞いたのだろう、跪き何度も床に額を打ち付けて謝った。

(あの時ルドルフがこうして謝っていたら、あたしは許したかしら…)

 そんな思いが頭をよぎったが、捨てた過去のことなど考えても無駄なことだと思った。

「今度だけだからね。また浮気なんかしたら…あんたを殺す」

「ああ、分かってる。ホントにごめん。酔った勢いだったんだ。もう二度としない」

「…ご飯、早く食べちゃってよ」

「うん。ありがとう」

 ハンセンの安堵した笑顔に、あたしはまたルドルフを探してしまい、少し心が沈んだ。

 そんな気持ちを胡麻化すように、突き出た腹を摩りながらひとりで寝室に向かう。

 それからハンセンは改心したかの如く、毎日早く帰って家事を手伝ってくれた。

 悪阻はおさまったものの、日を追う毎に動きにくくなる体を持て余していたのに、浮気のことなど無かったように、あっけらかんと出産日を迎えた。

 助産師からは双子かもしれないと言われていたが、拍子抜けするほど安産だった。

 出産から二週間も安静にしていられるほど生活に余裕があるのは、マリアンヌのお陰だ。

 子供達の産着もベッドも下着も着替えも、マリアンヌがくれたお金で準備した。

 そうやって彼女に貰ったお金を使う度に、私の心にマリアンヌへの罪悪感が顔を出すが、もう過去のことだと割り切って知らん振りをすることにしていた。

 そろそろ床上げをしようかと考えていたある日のこと、ハンセンの雇い主であるダニエル・ブロワー子爵様が奥様と一緒に尋ねてきた。

 出産直後とはいえ、寝間着のままお迎えするのはいけないと思い、急いで簡単なワンピースに着替えて出迎える。

「やあ、奥さん。双子だったそうだね。おめでとう。体の具合はどうかな?」

「あ、ありがとうございます。お陰様で順調に回復しております」

「それは何よりだ。だったらハンセンを国境近くの町まで使いに出しても良いだろうか」

「全てお任せいたしますわ。子爵様」

「物分かりの良いことだ」

「私どもは子爵家の使用人です。全て仰せのままに」

「なるほど。つい数年前までワンド侯爵家で正妻のように暮らしていたと聞いた。もっと貴族的な振る舞いをする人かと思っていたが、弁えているのだね」

 伯爵夫人がそっと夫の袖を引いている。

 今の発言を諫めているのだろうが、そんな皮肉などあたしは気にしない。

「そうですわね、確かに贅の限りを堪能いたしましたわ。貴族的な振る舞いをお望みでしたら、いかようにもいたしますが?」

 ぴくっと伯爵夫人の肩が跳ねた。

 夫の袖口を握っていた手をそっと降ろし、あたしに向き直った。

「ちょっとあんた!私も今では子爵夫人として大人しくしているけれど、あんたと同じ平民出身だよ!だからあんたが贅沢な暮らしや、貴族として扱われることに憧れていたことは理解できるんだ。でもね、それはもう終わったの。あんたが自分で捨てたのよ。私の親友を犠牲にしてね。でも彼女はあんたの幸せを願ってる。その意味が分かる?」

 あたしは何も言えなかった。

 子爵夫人は拳を握りしめて強い口調で続けた。

「はぁぁ…もういいわ。あんた達が来て彼女たちの関係も微妙に変わったの。私たちは彼女には絶対に幸せになってほしいと思ってる。だからこの先、ワンド侯爵と夫人がこの地を訪れても、絶対に会わないって誓ってちょうだい」

 あたしは慌てて返事をした。

「もちろんでございます。子爵夫人。身の程は弁えております。それに私はマリアンヌに…いえ、侯爵夫人にこの一生では償えないほどの恩を賜っております」

「分かっているならいいの。それに今日はそんなことを言いに来たのではないし。これ、良かったら食べてね。滋養になるから」

 そう言って子爵夫人は籠いっぱいの卵をテーブルに置いた。

 あたしは少し驚いた。

(この人たちは…なんてお人よしなのかしら。マリアンヌもこの人たちも良い人過ぎる)

「何か困ったことがあったら私に言いなさい。マリアンヌに頼まれているから悪いようにはしないわ。そしてどんなことがあっても幸せにこの地で暮らしなさい。たとえ本当は違っていても幸せそうにしていなさい。少しでもマリアンヌに悪いと思う心があるならね」

「畏まりました…奥様」

 二人はあたしの平民らしからぬカ-テシ-に困ったように小さく笑って出ていった。

 子爵は夫人の腰に手を回して、労わるようにエスコートしている。

 壊れやすいガラス細工を扱うようなその手つきに、忘れたはずの思い出が頭をよぎった。


 それから数年後、市場で買い物をしていた時、偶然ルドルフとマリアンヌの姿を見た。

 子爵夫妻との約束はもちろんだが、合わせる顔もないあたしは気づかないふりで通り過ぎた。

 あたしの後ろには夫に抱かれた双子がいる。

 かつて愛したあの人の腕の中には、あたしが置き去りにしたアランが笑っていた。

 育てることを諦めたあたしの初めての子供。

 あの子はあたしの存在を知っているのだろうか…あたしが母親だと名乗ったら、あの子はどんな反応をするのだろうか…。

 一瞬とんでもない考えが浮かんだが、すぐに打ち消した。

「おかあしゃん?」

 後ろから夫に抱かれていた息子があたしを呼ぶ。

「お腹が空いたの?たくさんパンを買ったよ?帰ったら一緒に食べようね」

「あい!」

 あたしはできる限り足を速めた。

 本当はまっすぐ行くのだけれど、一番近い角を曲がった。

 夫が慌てて付いてくる。

 後ろで何か言っているけれど、今はそれどころではない。

 早く姿を隠さなくては…そればかりを考えていた。


 それから数年後、子供たちはすくすくと育ち学校に入る年になった。

 夫は男の子を騎士にしたがったが、あたしはどちらでもよかったから口を出さなかった。

 マリアンヌがくれたお金はまだたくさん残っていて、双子を学校に入れる余裕はあった。

 娘は教会がやっている平民の通う学校に入った。

 息子は騎士を目指し、アランフェス学院を平民枠で受験したが、結果は不合格。

 寄付金を積めば入学できると言われたが、夫が大金を使うことに反対したので諦めた。

 あたしはどちらでも良かったので、夫にも息子にも何も言わなかった。

 仕方なく息子は娘と同じ学校に入ったが、学年が進むほどに荒れた。

 平民が通う学校はアランフェス学院より卒業が三年早い。

 平民に上級教育は必要ないとでもいうのだろう。

 十五歳で卒業し、娘はさっさと嫁いで家を出た。

 息子もどうにか勤め先を見つけ、文句を言いながらもきちんと通っていた。

 そんなある日、息子が酷い怪我をして帰ってきた。

「どうしたの!」

 息子を担いできてくれた男が口を開いた。

「こいつ、同級生だった女の子を孕ませたらしくて。その子の親父さんが店に怒鳴り込んで来たんだ。こいつ知らぬ存ぜぬでしらを切っていたんだけど、帰り道で襲われて…」

 あたしは盛大にため息を吐いた。

 いつかはやらかすという予感はあったが、どうしていいのか分からなくて、あたしは気づかないふりをしていた。

 その結果がこれだ。

 結局、息子が孕ませたという少女は流産したそうだ。

 少女は最後まで相手の名を明かさず、救済院のシスターとなってこの町を出た。

 息子は見送りもしなかった。

 やはり息子が相手では無かったのだと、あたしは自分に言い聞かせた。

 少女が街を出てから半年ほどで、息子はあまり家に帰らなくなっていた。

 近所の噂で別の少女の家に入り浸っていることがわかった。

 それでもあたしは放置した。

『ルドルフと出会った頃の年齢になったのだから、恋くらいしてもおかしくないわ』

 結局、あたしはまた逃げたのだ。

 ある日、最近子爵から伯爵に出世なさったブロワー様から手紙が来た。

 息子が入り浸っている娘の家は、ブロワー伯爵夫人の遠い親戚の家だと書いてある。

 結婚する気がないなら出入りをするな…当然の要求だ。

 あたしはその夜、息子がいるというその家に一人で行った。

 果たして息子はいた。

 しかも、あたしには見せないような寛いだ笑顔を浮かべて。

 あたしは怒りで頭がクラクラしてきて、ノックもせずにドアを乱暴に開けた。

「さあ、帰るよ!早く!」

「なんだよ!」

「いいから!早くしなさい!」

 息子は渋々立ち上がった。

 娘は目を丸くしていたが、同席していた母親はあからさまに安堵していた。

 母子家庭のようだった。

 あたしは母娘にペコッと頭だけ下げて、息子を引きずるように連れ帰り平手で頬を叩いた。

「なにすんだ!」

「このバカが!彼女を作るなとは言わない。でも噂になるような付き合い方はやめなさい」

「なぜ?俺はあの子と結婚する。あいつんちは父親がいないから俺が働いて食わせてやるんだ。だから邪魔をしないでくれ」

「あんたはこの家の跡継ぎなのよ!なにバカなこと言ってんの!」

「関係ないだろう?お貴族様でもあるまいし。父さんが望んだ騎士にもなれず、初めて好きになった女は勝手に修道女になって…俺の人生だ。俺の好きにする。もうこの家には帰らない。苗字もないようなこの家を継ぐって何言ってるんだよ。ばかばかしい」

「出ていくっていうの?母さんを捨てるの?」

「捨てるって?どの口が言うんだ?俺は知っているんだぜ?俺には兄さんがいるんだろ?母さんが捨てたんだろ?」

「あんた…」

「父さんが酔ったときに言ってたよ。父さんを利用したんだろ?」

「何も…何も知らないくせに!私がどんな思いをしたか…何一つ知らないあんたに言われたくない!」

「じゃあ誰が言ってやるんだよ。なあ母さん。父さんを少しでも哀れだと思うなら、精一杯幸せそうな振りをしてやれよ。父さんは母さんのこと可愛そうな女なんだって言ってたぜ。そう言って泣いていたよ」

「……」

「この話は妹も知っている。だからあいつはこの家を出たんだ。俺もここを出るよ。後は父さんと二人で死ぬまで静かに暮らせよ」

「…あたしは…あたし…は…」

「捨てられた兄さんがどこの誰かも知らないし、知りたいとも思わない。俺は俺で生きていく。いままでありがとう…俺に言えるのはそれだけだ」

 あたしはもう何も言えなかった。

 あたしがルドルフを頼って家を出たとき、母さんに言われた言葉をふいに思い出した。

「身内はまだいい。でも他人様に迷惑をかけたり、後ろ指をさされるようなことをしたら、地獄に落ちるんだぞ。そのことだけは忘れるな」

 あたしはもう何も言わなかった。

 あたしはこの街でハンセンと二人で生きていくしかないのだから。

 もう何度も間違えた。

 でももう間違ったりしない。

 ハンセンは私を助け、愛し、共に暮らし続けてくれた優しい人だ。

 何も文句はない。

「本物の幸せって…どんなのかな…想像もできないや」

 ふとあたしの口から出た言葉に、自分で驚いた。

 そしてあの子たちが生まれたとき、ララ夫人に言われた言葉を唐突に思い出した。

「どんなことがあっても幸せにこの地で暮らしなさい。例え本当は違っていても幸せそうにしていなさい。少しでもマリアンヌに悪いと思う心があるならね」


 仰せのままに、奥様。

 それがあたしにできる唯一のマリアンヌへの贖罪だもの。

 そう思った瞬間、あの子たちが生まれた瞬間に感じた温もりを思い出した。

 そうだ、私は本物の幸せを知っていたんだ。

 ちょっと辛いことがあっただけで、昔の贅沢な日々を思い出すことで現実から逃げていたんだ。

 でも、もう逃げない。

「さあ!そろそろ帰ってくるわね」

 あたしはフッと息を吐いて、ハンセンの好きな煮込み料理を作るためにキッチンに立った。

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ダニエル・ブロワー子爵と伯爵夫人と子爵夫人。 混在していて子爵か伯爵か、わからないです。
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