29 今までで一番驚きましたわ
それから一年後、全ての手続きを終えたルーランド伯爵は息子に爵位を譲り領地に戻った。
領地にあった屋敷は売り払い、伯爵家の墓地がある丘の近くの小さな家に移り住み、畑を作ってつつましく暮らした。
夫は自分で育てた花を抱えてハンナの墓に跪き、涙ながらに懺悔する日々を送っている。
夫婦で暮らしているが、ハンナの墓に行くのは夫だけだ。
平民リックとなった彼は、命が尽き果てるまで悔恨の日々を送るのだろう。
許されることも貶されることもなく、ただ虚無の中で朽ち果てていくだけの人生。
マリアンヌはルドルフとケニーに誘われて、一度だけその様子をこっそり見に行った。
遠くから見たリックは瘦せて、背中を少し丸めて歩いていた。
マリアンヌ達に全く気づかない彼は、黙ってハンナの墓標の前に跪き、掃除をして花を手向け、じっと祈る。そして冷たい墓石に縋りついて声を上げて泣いていた。
「ただの石に縋りついても仕方がないのに・・・意味が分からないわ」
ケニーがマリアンヌに言う。
「そう?生きているうちに謝れなかったから、絶対に許しを貰えないって凄い罰だよね」
「天国の母は許しているのかしら」
「マリアンヌなら許す?」
「私は・・・どうかしらね」
ルドルフがお道化て言った。
「札束で顔をひっぱたくって言ってたけど?やらないの?一応準備はしてきたけど」
「まあ!あなたったら・・・本当に札束を持ってきたの?」
「うん。結構なダメージを与えられるくらいは持ってきた」
「ルドルフ・・・」
「バカだって呆れてるでしょ」
「伯爵は嫌いな部類のバカだけど、あなたは興味深い部類のそれだから許容範囲だわ」
「ありがとうマリアンヌ」
「さあ、早く帰りましょう。アランが待っているわ」
それから二度とマリアンヌがそこを訪れることは無かった。
リックは今日もハンナの墓前に蹲っていることだろう。
それからさらに数年後、ダニエルとオスカーが率いる薬膳レストランも順調に店舗数を増やし、ワンド侯爵家はますます発展していた。
早くから人員の育成に注力していたマリアンヌは、徐々に仕事量を減らして、部門それぞれの責任者に決定権の多くを委譲し、第一線から一歩引いた経営スタイルを確立した。
全事業の統括的な役割を受託するリッチモンド商会とそのサブマスターであるケニーの存在は、経済界で不動の地位を確立していた。
アランが貴族学園三年生になった秋、マリアンヌが絶叫するほどの出来事があった。
「えっ~~!け・・・結婚するの~~!今までの人生で一番びっくりなんだけど」
ルドルフとマリアンヌ、そしてケニーの前で腕を組んでニコニコしながら立っているのはマーキュリーとイリーナだ。
三人は開いた口がふさがらないまま、石像のように固まっている。
「ええ、彼の知識量は素晴らしいわ。まるで歩く百科辞典よ。私はそこに惚れこんだの。それに顔も性格も好きだし」
「僕は彼女のクールな人柄の虜になった。もちろん容姿も全て好きだけど。彼女と地方都市の発展をテーマに語り合うひと時はまさに至福だよ。学生時代に古代文字で書かれた文献を読めた時の感動を思い出すほどさ。私たち二人ならお互いの存在意義を尊重し合える夫婦になれると思うんだ。祝ってくれるだろ?」
「え・・・ええ、もちろんよ。す・・・素晴らしいわ」
マリアンヌが慌てて肯定し、ルドルフは口を開けたままコクコクと頷くだけだった。
そしてケニーがぼそっと言った。
「変態夫婦の誕生だ・・・」
二人の披露宴はワンド侯爵邸で開かれた。
エントランスを開放して、気心が知れた仲間だけで祝う心温まるパーティー。
ダニエルもララも駆けつけ、オスカーがアーラン州の名物料理を振る舞う。
結婚を機にマーキュリーは実家の籍から抜けて、平民戸籍をイリーナと共に作る予定だったが、持っていた方が後々助かるからと、ルドルフは所有する子爵位を祝いとして贈った。
ヘッセ子爵の誕生とともに、子爵夫人となったイリーナ。
二人は侯爵邸の近くに屋敷を構え、マーキュリーは相変わらずワンド侯爵家の司書として出勤し、イリーナは忙しく飛び回っている。
社交シーズンを終えたマリアンヌが領地視察に向かう馬車の中でぽつっと言った。
同行しているのはケニーだ。
ルドルフはタウンハウスで仕事三昧で、アランは勉強に忙しい。
「わたしね・・・初めて人を心から羨ましいって思ったの」
「イリーナのこと?」
「うん。とても幸せそうだった。しかも生活ペースは何も変わっていないでしょ?凄いと思うわ」
「ああ、それはきっと相手の度量だね。あの二人はお似合いのカップルだ。羨ましいってことはマリアンヌも結婚したくなった?」
「忘れているみたいだけど、私は一応人妻よ。でもまあ・・・なんと言うか、あんな夫婦になりたいなって思った」
「ルドルフ様と?」
「まさか!何回生まれ変わっても絶対に無いわ」
「ははは!安心した」
「安心?どういう意味?」
「僕が結婚に重きを置いていないのは知っているだろ?まあ相手の女性が結婚したいって言ったら、喜んで即実行するけどね。でも結婚だけが全てではないでしょ?結婚しなくてもあの二人のようなお互いを尊重するカップルにはなれると確信しているんだ」
「籍は関係ないってこと?」
「うん。いつか話したよね。籍は公的な家族の証明ではあるけれど、本物の証明ではない。要は心の繋がりだと思うんだよね。まあ男としては体の繋がりも欲しいところだけど、僕にとってはさほど重要ではないかな。そもそも僕は跡継ぎを作らないって決めているしね」
「子供が欲しくないの?」
「うん。子供は好きだけど、自分の子供はいらないかな。もちろん子供が出来たら喜ぶし、全身全霊で育てる自信もあるけど・・・育ててもらった家族に跡目争いなんていう禍根は残したくない。そもそも僕に似た子供なんて・・・考えただけで厄介そうだ」
「ははははは〜確かに!かなりの確率でアイロニカルな子供になりそうだわ」
そう言って笑うマリアンヌの目をケニーが真面目な顔で覗き込んだ。




