シャーロック・ホームズという人
十分後、マイクと僕は店を出て、道を北東に向かって進んでいた。
目指す所は、ヨーロッパ一古い病院として知られている「聖バーソロミュー病院」(通称バーツ)だ。
何故僕達がそこへ向かっているのかと言うと、マイクが「シャーロック・ホームズさんは、一昨日からバーツの化学研究室で、ずっと何かの実験をしているんだ。今から行けば会えるかも。どうする?」と言ったからだ。
僕は藁にも縋りたい気持ちだったから、その提案には一も二もなく飛びついた。
「ホームズさんは僕のお爺ちゃんの友達なんだ。だから結構前から僕も知っているんだけど、ちょっと変な人だよ。三年くらい姿を見かけないと思ったら、一昨日の夜にいきなりバーツに現れてさ。お爺ちゃんはびっくりしてた。何でも、つい最近までドイツで暮らしてたんだって」
「へえ、ホームズさんもどこかの病院の先生なの?」
僕が聞くと、マイクは首を振った。
「ううん、違う。僕が前に『ホームズさんは、どんなお仕事をされているのですか?』って聞いたら、『俺は探偵だ』って言ってた」
「探偵? 浮気調査とかをする、あの探偵?」
「探偵は探偵でも、ホームズさんの場合はちょっと違うらしいよ。警察から事件の手伝いをしてくれって言われるんだってさ。『浮気調査も嫌いじゃないけどな』とか言ってニヤっとしてたけど」
「そうなんだ……?」
僕は納得したようなしてないような変な気持ちになった。
「ジョンの気持ちはよく分かる。僕にもあの人のことは理解出来ないんだよ。
例えば、あの人は解剖学に凄く詳しいんだけど、僕のお爺ちゃんが聞いた限り、体系だった医学の授業は全然受けていないみたいなんだ。ホームズさんの研究は極めて気まぐれで意味不明だってお爺ちゃんは言ってる。でも、不思議なくらい知識をいっぱい吸収している人でさ」
「ある意味天才なのか」
「天才は当たってる。ホームズさんは、相手がどんな仕事に就いているかとかを、一瞬観察するだけで当てられるみたいだよ」
「凄い……!」
「うん、まあね……」マイクはため息を一つして、「でもさ」と言った。
「あの人はさ、遺体安置所から死体を引っ張り出して来て鞭で叩いたり、ついでにその死体が入っていた納体袋を、『仮眠室は騒がしいから』っていう理由で寝袋代わりに使っちゃったりする人なんだよね……」
「え?」
「しかも袋にはめちゃくちゃ血がついてたんだぜ……。何らかの事件に巻き込まれたと見られる死体が入っていたやつだからね」
「なにそれ」僕は絶句した。
「ク、クレイジーな人だね……」
「同感」
バーツに到着すると、マイクは白衣を着た大勢の人が行き交う廊下を、慣れた様子で右に左に曲がった。マイクはお爺ちゃんがここに勤務しているので、勝手を知っているのだ。
辿り着いた化学実験室は、天井の高い部屋で、棚には数え切れないほどの瓶や実験器具が所狭しと並んでいる。散らかっている訳ではないが、綺麗という訳でもない。大きな低いテーブルがあちこちにある。
でも、部屋にいた研究者は一人だけだった。遠くの白テーブルに覆いかぶさるようにして研究に没頭している。
「ホームズさん! こんばんは! あの、こちらは僕の同級生のリーハ・マフィーです」
マイクが呼びかけると、その人は顕微鏡から顔を離して背筋を伸ばし、サッと振り返った。
黒く艶やかな、少しクセのある髪が揺れる。ところどころ赤いシミで汚れた白衣の裾が翻る。並外れた長身痩躯のシャーロック・ホームズさんは、彫りの深い顔に輝く二つの赤褐色の瞳で、真っ直ぐ僕とマイクを見つめた。




