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座席番号31番

「ちょっと待ってくださいよ! 皆さんどこに行くんですか?!」


 僕はカウチから身を乗り出して、ロビンさんとホームズさんの服の裾をむんずと掴んで引き戻そうとした。……けれど、布に手が触れるか触れないかという所で、二人ともまるでウナギのようにするりと逃げて行った。僕は自分の体重をカウチの上に戻せずに、顔から床に転げ落ちた。


「カエルみたいだねー」

「カルフォルニアへ行ったら、受け身の練習をするんだな」


 絨毯の上にベッチャリ潰れた僕のことを、二人は鼻で笑った。

でも一瞬後には何事もなかったかのように、「あのさ、シャーロック」「何だよ、ばかロビン」ととか何とか早口で言いながら、玄関へ歩いて行く。


「ユウミさんは僕の車で送るから、君は安心してバスを使うんだね」

「お前こそバスを使え。お前の車は今、スクラップ工場でただのくず鉄と化しているって噂だ。路駐ってのはリスクがあるな。意外に治安が悪いからなロンドンは」

「うん。土に還ろうか、シャーロック」

「何とでも言えよ。ユウミさんは俺と一緒にタクシーかリムジンに乗る」

「それがさ、今日一日だけはどこのタクシーもリムジンも満車なんだよね。不思議だね。急に人口が増えたのかねロンドンは」

「……覚えていろ、いつかお前の体で養蜂業が出来るようにしてやる」


 “お前の体で養蜂業”ってどういう意味だよ!!

 

 叫び出したくなるのをこらえて、僕は立ち上がった。それよりも重要なことはいくらでもある。二人が変なのは今に始まったことじゃないし。


 とりあえず、「ホームズさんたちは行き先を絶対に教えてくれないだろう」ってことだけはよく分かった。

 そりゃそうだよね、あの二人は僕がカルフォルニアへ行くことを期待している。恋敵は一人でも少ない方が嬉しいって思ってるんだ。アッカンベーだよ馬鹿ヤロー!! 

 行き先が分からないからって、僕が大人しく母さんの到着を待つと思ったら大間違いだ! ユウミさんもいなくなってしまう、この割れ窓をブルーシートで塞いだだけの、もう暖炉の火も小さくなって寒くなりかけてるサンクチュアリになんか、一時間といてやるものか。

 行き先はユウミさんに教えてもらうから見てろ。現地で会ってもビックリすんなよ!!

 


 僕はさっと居間を横切って、玄関へ飛び出した。その途端、探していた当のユウミさんに鉢合わせ。気づいた時にはぶつかっていた!


「きゃあっ!」

「うわっ、ご、ごめんなさい!!」 

 

 別に痛くはない。どちらかが倒れたり弾き飛ばされたりすることもなかった。でもユウミさんの手からはベージュ色のかごバックがポロリと落ちて、中身が床にばらばらばら……


 僕はもう自分の不甲斐なさが申し訳なくて、何度も何度も謝った。ユウミさんは「大丈夫ですよ~」とのんびり言ってくれるけど、出来ることなら時間を元に戻したい。唇を噛みしめながら、落ちたものを拾い集める。


 四葉のクローバーが描かれたかわいいお財布、小さな青いノートブック、分厚い帆布のペンケース、メガネ、重い聖書にマザー・グース、ハトの刺繍のハンカチに、青い宝石がついた指輪……。うん、全部素敵だ。かわいい物ばかりだ。ユウミさんはセンスが良い。でも、おや、この紙切れは何だ。ハー・マジェスティーズ劇場のチケット?


「はい。実は、これからホームズさんたちとオペラを見に行くんです」と、ユウミさんは嬉しそうに微笑んだ。

「演目は『オペラ座の怪人』なんですって。素敵な題名だと思いませんか。私は全く知らなかったのですが、有名な物語なんですってね。マフィーさんは知っていらっしゃいます?」

「ええ、まあ……」

 

 そりゃ知っている。クリスティーヌという名の天使のような歌声を持つ美貌のオペラ女優が、パリ・オペラ座の地下に住まう怪人に惚れられてしまったことから問題が続出するお話だ。

 僕は十五歳くらいの時に伯父さんに連れられて、まさにそのハー・マジェスティーズ劇場でそれを観劇したことがある。(ていうか、この劇場は「オペラ座の怪人」の専門劇場なのだ。いつだってそれを上演している)


「私は全く知らなかったのですが」って本当かな……。内容を知らなかったとしても、タイトルくらいは世界中の人が知ってそうなものだけど。


 でもユウミさんには本当に初めてのオペラのようだ。床にぺたんと座って、好奇心いっぱいの瞳でチケットを見つめている。まだ床には本やらハンカチやらが落ちているのだけど、それすらも忘れてしまったかのようだ。うつむくユウミさんの薄紅色の花飾りがついたつば広の帽子からは、綺麗な金髪が滝のように流れて、真っ白なレースブラウスの上でかさかさと微かな音を立てた。


 ああ、やっぱり今日も天使だ……。そう思うのと同時に、僕は悔しくてほぞを噛んでいた。

 チケット如きでこんなにユウミさんが喜ぶなんて知らなかった! 何でこんなに突然劇場の話が飛び出して来たのかは知らないけど、あの二人にもう先を越されてるなんて腹が立つ!


 でも、でも。まだチャンスはあると信じたい。


 僕はハンカチと本を集めてバックに入れながら、そっとユウミさんの持つチケットの座席番号を盗み見た。よし、「B‐31」か。B列の三十一番ってことだね。神様の配慮なのかも知れないけれど、僕の高校時代の学生番号と同じだから、覚えやすくて良い。


 あの二人はきっと、三十番や二十九番の席も予約しているんだろうな。ユウミさんの隣の席なんて羨ましくて気が狂いそうだけど……フフフフ、見てなよ。

 僕はきっと、ユウミさんのすぐ後ろの席を取ってやるからね!!

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