幼馴染のマイク
僕はそのまま駅へ走り、ポケットの中のコインをかき集めてロンドン行きの列車に乗った。
何のあてもなかったけれど、とにかく家から離れたくて……いや、現実から逃れたかったんだ。
そして二時間後には、チャリング・クロス駅の雑踏の只中に足を踏み入れていた。
昨夜の雨のせいか、ロンドンの空は曇っていて、星一つ見えやしない。肌を撫でる風は薄ら寒く、僕は服の裾を伸ばしながら、テムズ川ぞいの道をとぼとぼ歩いた。
たった一度、次のステージへのジャンプに失敗しただけなのに、「もう君はお終いだ」と言わんばかりに人生がどんどん別の方向へ変わって行く。
カリフォルニアへ行くという事は、母さんにとっては確かにチャンスだろう。
でも僕まで一緒に行く必要ってあるの? 母さんは僕に自分の理想を押しつけたいだけなんじゃないか?
不意に、歩道に敷き詰められたタイルの割れ目に足がはまった。あんまり突然だったから、体制を立て直す暇もなく、僕は転んだ。しかも大きな水たまりの中に。派手に水しぶきを上げながら。
周りを歩く人達のクスクス笑いが聞こえてくるけど、足や腕に広がった痺れるような痛みのせいで、なかなか立つことが出来ない。
クスクス、クスクス、クスクス……嘲笑が降って来る。
惨めで惨めでたまらず、僕は気が狂いそうだった……でもその時、不意に聞き覚えのある声がした。
「じょ、ジョン?! 大丈夫か?!」と。
ジョン……それは僕のあだ名だ。僕が昔飼っていた犬の「ジョン」に、僕の顔がそっくりだったよとからかって、たった一人の幼馴染みが付けた名前。
「マイク……?」
顔を上げてみると、やっぱりそうだった。僕を手を差し伸べて、水溜りから引っ張り上げてくれたのは、幼馴染のマイク・スタンフォードだった。
「どうしたんだよ、大丈夫か?」
頷いたものの、僕は情けないことに、その時こぼれ落ちた一粒の涙をマイクに見られてしまった。おい、と慌てたマイクの手が肩に伸びて来る。それを振り払い、大丈夫、大丈夫、と僕は言い続ける。でももう恥ずかしくて、マイクの顔もまともに見られなかった。さっきよりも惨めになって、いっそこの世界から消えてしまいたいと思った。
ごめんね、マイク……。僕は彼に背を向け、その場を去ろうとした。
その時だった。マイクが自分の上着を脱いで、僕の肩にかけたのは。
「水臭いな、ジョン。話聞くからさ、どっかその辺の店にでも行こうぜ」
*
「えええっ、それ本当かよ?!」
「嘘なんかついたってしょうがないよ……」
二人して適当に注文を済ませた後、僕は問われるままに今日のことを話した。願書を出した全ての大学から落ちてしまったこと。カリフォルニアへ引っ越すこと。
するとマイクは目玉を飛び出さんばかりに驚いた。
「なんで! ジョンは僕以上に勉強とか頑張ってたじゃん?! 逆に、どうしたら全部の大学から落ちるんだよ?!」
「……分からない、でもいつも僕は、ここぞって時に弱いから」
僕は溜め息をついた。
「それで、これからどうするんだ?」
「どうするって……母さんと一緒にカリフォルニアへ行くしかないよ。もう家も売れちゃったらしいし……」
「でも、医者になるのを諦める訳じゃないんだろう?!」
「諦めたくないよ……。でも母さんは、僕に野菜を育てる人になって欲しいと思っているから、どうなるか……絶対色々邪魔される」
僕は再び後悔に苛まれた。
ウェイトレスの女性がせっかく運んで来てくれたフライやポテトは、一度も手を付けないうちにすっかり冷めてしまった。カリカリだったはずの衣は悲しいくらいしにゃしにゃだ。僕の人生もそれと同じに見える。夢は叶えられぬまま、どんどんダメになっていく。きっといつか、憧れる気持ちすら失くしてしまうんだろう。
「ダメだよそんな、何とかイギリスに残れよ、ジョン!」
「無理だよ。僕一人で何とか出来るくらい、もの凄く安い下宿とかがあれば別だけどさ。でもそんなの、」
ある訳ないし、と僕は言おうとした。
しかしその瞬間、マイクが真っ直ぐ僕を見て「それだ!」と大声を上げた。
店の中にいた人が皆、僕らを振り返った気配があった。視線が背中に突き刺さって来る。
けれどもマイクは声を潜めることなく、最後まで言い切った。
「あるんだよ! すっごく安い下宿が! 僕の知り合いのシャーロック・ホームズさんって人が、ちょうど昨日話してたんだ!」




