人間は三種類に分けられる。見える者。見せられたものだけが見える者。見えない者。
「お客さん」車が走り出すなり、初老の運転手が言った。
「貴方は幽霊を信じますか」
「信じはしないが、存在することは知っている」シャーロックは言った。
「人形を連れた男が運転手になりすまし、本物をトランクで眠らせていることもな。世の中、不可解な出来事ばかりで回っている」
「なるほど、それは確かにその通り」
ニヤリと笑った運転手は、もう初老の男ではなかった。バックミラー越しにシャーロックを見返る瞳は明るく輝き、髪や肌の色艶までが瞬く間に美しさを取り戻す。
それとほぼ同時、シャーロックは運転手の後頭部へ両腕を伸ばした。同時に袖からスルリと小型の銃が現れ、手品のように指に嵌まる。しかし引き金を引く刹那、運転手の腕が動く。彼は肩を外して可動域を広げるや振り返る事なく左手の銃を掴み、弾倉を引き抜いた。更に助手席から顔を出した片目の人形が右手に飛び付き、銃口の向きを変える。
ロビンだ。シャーロックはとうにそれに気付いていた。顔も服も仕草も自分とリーハを病院まで乗せて来た男と同じだったが、纏う空気が違う。その瞳の輝きも違っていた。本物は眠らされてトランクの中と言ったところか。
だがしかし、想定内だ――攻撃を封じられながらもシャーロックは笑みを禁じ得ない。
例えばこいつが使った盗聴器。エンジニアの天才がいかに意匠を凝らした物でも、それが機能する範囲はせいぜい数百から数千メートル。接近すればするほど感度が良くなるということもそうだが、こいつは大胆だ。必ず視界の中に現れる。ハリーの長めの髪を利用されたのは想定外だったが、潜伏先の検討は付いていた。
Because your choice is my choice……何故ならお前の選択は、すなわち俺の選択だからだ。
同じレベルで物を見ていてくれて嬉しいね――ロビンはバックミラー越しに微笑んだ。
瞳を見れば互いの言わんとすることが分かる。己の意思が違わず通じていることも。第一級の暗殺者の名に恥じぬ技術と勘を持つ彼ら二人には、もはや言葉など要らないのだ。
ロビンはシャーロックが人形を振り払い撃ち抜いたその刹那、アクセルを踏み込んだ。メーターの針が大きく振れる。軽いとは言えない加速度がかかる。シャーロックがわずかによろめいたその隙に、ロビンは袖からナイフを滑らせた。コンマ一秒の遅れもなく銀の刃が宙を飛ぶ。
決着をつけるかい、シャーロック。
車がサンクチュアリに着くまでのこの時間が、唯一僕らが自由になれる時。どちらかがどちらかを――極秘裏に葬ってしまえる時だ。
僕はやがて運転手を起こし、薬を嗅がせ、普段と変わらぬ日だったと言い含めるつもりでいる。決して君を殺したってことが目立たぬように。
If you want to do the same, so be it……君もそうしたいならするといい。 出来るかどうかは分からないけれど。
だが次の瞬間、流星の如く飛んだロビンのナイフは地に落ちた。シャーロックが鍛え抜いた体幹でバランスを取り直し、横合いから銃で叩き落としたからだ。
しかし予断は許さない。ロビンは突如ハンドルを切り、車を左に大きく降ると、首元に伸びたシャーロックの腕を振り切った。迫る銃口も躱し切る。更にアクセルを踏みながら、もう一本のナイフを片手に携え、片目のない人形に待機せよと合図を送る。瞬時にシャーロックは人形を蹴倒し、身を捩って銃口をロビンの後頭部に押しつけたが、その時には首元にロビンのナイフが伸びていた。二人はもう動けない。互いに互いの動きを封じてしまったのだ。
「君とは同じレベルで話が出来るから嬉しいよ。まあ、僕は諜報活動のプロ、君は探究活動のプロだからね」ロビンは外していない方の肩をすくめて見せた。
「言いたいことはそれだけか」
「いや。どうせ引き分けだし、今は話がしたい気分だよ。君は?」
「ふん」シャーロックは鼻を鳴らしたが、やぶさかではないと言うように殺気を緩め、銃を元通り袖の中へ滑り込ませた。それを見てロビンもナイフの刃をくるりと返し、服の内側に差し戻す。
「さっきの君たちの話はなかなか面白かったよ。なかなか盗聴しがいがあった」言いながらロビンは人形に手伝わせて肩を嵌め直した。
「あの愉快なMr.ロイロットなんて、かなりの曲者らしいじゃないか」
「そうだな。奴は意外に大物だ」シャーロックは頷いた。
実はシャーロックのWebサイトは、訪れた者のPCや端末に保存された個人情報を勝手に盗み見ることが出来るようになっている。
と言うのも、この商売をしていると、後ろ暗い過去を持つ者や胸に一物ある者に多く出会うのだが、彼らが全ての情報を開示するとは限らず、仕事がよく面倒になる。それを嫌ったシャーロックが、少々法律違反にはなるけれども「今更だろ」とアーサーに作らせた罠だった。
先程の電話は、それにロイロットが引っかかったとの連絡である。
彼は多額の金を、知り合いのとある劇場のオーナーの口座に振り込んでいる。更に「赤い輪党」というマフィアと通じている。同時に、「毒蛇」の名を知っている……。世界のあらゆる毒に通じ、それどころか、現代科学をもってしても決して検出されることない不思議な毒を生み出した男のことを。
「もう何年も前の話だけど、インドで仕事帰りの彼に擦れ違ったことがあるよ。向こうは気付いていなかったけどね。ひょろっと背の高い、浅黒い肌をした男だった」
「人を小馬鹿にしたような顔つきのな。まあ、奴はどうでもいい。赤い輪党も知るか。邪魔するようなら消すだけだ。だが」シャーロックは流れ去る景色を見ながら眉を顰めた。
「ロイロットは娘を売って劇場の何を買おうとしている? 女優か歌手が目当てだとしたら、遠回り過ぎるアプローチだ。パトロンか? パトロンにでもなりたいのか? 何にしても、赤い輪党に始末代を払うのが先だろうが?」
「不思議なことは他にもある」ロビンが言った。
「そもそもの話、君と僕が同じ国の同じ街の同じ下宿に住み始めるなんて、何万分の一の確率なんだろうね?」
実はロビン、タクシーでシャーロックを待つ間にMI6のマリアンへ連絡を取っている。「状況を逐一報告せよ」と命令されたのがその理由だ。
その際、ロビンはシャーロックに遭遇したことを伝え、真意を聞いてみたのだが、マリアンは『まさかそんなことが……』と、ただ当惑していた。(ついでに言うと、「彼がこの件の黒幕だという証拠がない限り、余計な騒ぎは起こさぬように」と釘を刺されたのだが、聞かなかったことにしている)
「ほう。なら、マイクロフトの嫌がらせか」
「さあね……。でもさ、いつだって慎重なあの二人が、自分らのとっておきの駒をこんなくだらない所で戦わせようなんて考えるだろうか」
「Noだな。互いに淘汰よりも共存を選ぶ」
「ハハ、でも偶然だなんて言わないでくれよ」
「そんな気はさらさらない。死人が蘇ったと考える方が自然だ」シャーロックは嘆息した。
「俺はちゃんと殺したんだがな」
不意に硝煙の匂いが、断末魔の悲鳴が、二人の鼻孔や耳に蘇る。ぬるりと肌に垂れ落ちた血の感触も。同じような事態は何百、何千となく経験している二人だが、遠く過ぎ去ったはずのその日の記憶は、今もって特別である。ロビンはハンドルを、シャーロックは銃のグリップを握る手に力を込めた。
「仕方がないさ。あの時の僕らはとても若かったから。全てが見えていたとはとても言えない。永遠の国もまだあるかも知れないぜ」
「まあな。だが、もう少し様子を見ても良い……誰だか知らんが思惑に乗ってやっても損はない」
「そりゃ、僕らはそうさ。でも、君が深く深く巻き込んだあの子はどうなるのかな?」
「ハリーか」シャーロックは一瞬沈黙した。
タクシーはまもなくベーカー街に近接した通りに入ろうとしている。二人はミラー越しに瞳を探り合った。
「あいつは俺達を『殺し屋みたいですね』と見抜いた。全く良い勘をしているが、残念なことにそれを実生活で活かすことが出来ないようだ。俺達が何をしようと何を言おうと、何も見えず見ず、素直に後をついてくる」
「フフ……知らずに任務を遂行してくれるなんて、一番良い工作員だよね」
「情報戦争の時代だ。メディアや政府に毒されて、あいつに限らず世界中の人間が皆そうだ。まあ、俺もあいつを矢面に立たせるのは哀れだと思っている。一度は脱却のチャンスをやるつもりだが」シャーロックは暗い笑みを漏らし、ロビンに問いかける。
「自分の頭で考えることを止めた人間に、一体どんな忠告が届くと言うんだ?」
「そうだねえ……」ロビンは目を細めた。
「僕に何か言えるとしたら、ショーペン・ハウアーの言葉だけさ」
―― “我々の全ての災禍は、我々がひとりきりではいられないことに由来する”
それは普遍の法則である。故に、運命に流されるままを選ぶ者にはちょうど良い諦め文句とも言える。……それが慰めになるかどうかは別として。




