男は蜜蜂の本を渡し、女は自由を奪われ押し黙る
「これは何だ! 説明しろ、アルタモント!」
「見てお分かりになりませんか。実用養蜂便覧です」
深夜零時のドイツ・ハンブルク。嵐に揉まれるビルの最上階。点滅するシャンデリアの光の真下、とあるテロ組織の首謀者ボルクは、テーブル上の書類の海に横たわる小さな青い本を前に、声も出ぬほど怒り狂っていた。
人を食ったような題名もそうだが、何よりもこの本を「先日ご注文頂いたものです」と言って持って来た情報屋・アルタモントの態度だ。
長身痩躯、黒づくめの服の彼は、四方八方から銃を突きつけられているのにも関わらず、優雅に椅子の上で足を組み、煙草をくゆらせ、頬には笑みさえ浮かべている。ボルクの怒号に揺らぐ様子は微塵もない。そのふてぶてしさはいっそ不気味とも言える。
「お気に召しませんか」
「当たり前だ、ふざけるな!」ボルクは言った。
「我々がお前に注文したのは、中央情報局や連邦捜査局のアクセスコードや重要ファイルのリストだったはずだ!」
「ええ、確かにそう承りましたが、私はそこらの情報屋とは違いましてね。
ご注文の先の先までを読むこと……つまり、お客様の真のご要望やご信条に沿った働きをするということを誇りにしているのですよ」
端正なアルタモントの顔は、薄暗闇の中に不思議なほどくっきりと浮かび上がって見えた。
「ボルク様は先日、『この世界に真の平和をもたらすため、この命を捧げたい』と仰ったではありませんか。
もちろんそれに加えて、『まずは諸悪の根源であるアメリカの強大な権力を奪い世界を制圧しなければ』と仰ったことも忘れてはいませんが、何より私はボルク様のその平和への願いを叶えて差し上げたく、この本をお持ちしたのです。
ハトの本でも良かったのですが、ボルク様はこの国でお生まれになったのですからきっとアインシュタインの有名な……彼が言ったのではないという説もありますが……あの言葉をご存じだろうと、それからひらめきまして」
「アインシュタインの言葉だと?」
「“ミツバチが絶滅すれば四年後に人類が滅びる”という言葉です」
ボルクは呆れかえった。
「何だと、お前は我々にミツバチを育てろとでも言うのか?」
「ご明察です。ミツバチを育てることは、そのまま人類の未来に貢献することになります。信じられないような話ですが、ミツバチたちはあの小さな体で一生懸命働いて、地球上の作物の三分の一を賄っているのですよ。しかし既に環境破壊や温暖化などで総数は四分の一にまで減少していて……」
バン、とボルクはテーブルを叩いた。瞬時にアルタモントは口をつぐむ。
「残念だ、アルタモント」ボルクは長いため息をついた。
「非常に残念だ。お前はこの三年間、幾度も組織に尽くしてくれた。儂も、お前ほど有能な情報屋はいないと思っていた。だから惜しい……」
惜しいが、このふざけた振る舞いを許すわけにはいかない。
ボルクは肩をおとしつつ、片手を上げ「撃て」と部下たちに合図した。
*
ドイツと時を同じくして。
ロシアの首都、モスクワでは「オシプ」という名の気取った武器商人が、手錠で自由を奪われている一人のプラチナブロンドの美女を前に、無機質なオフィスの中で食事を楽しんでいた。
「鬼だの悪魔だの、世間ではワタシのことを色々言いますけどね。そりゃ間違いです。ええ、間違いですとも。ワタシほど真剣に、世界が平和であれば良いなあ、と思っている者はいませんよ。だってそうでしょう……」
オシプはしばしうっとりと、フォークに刺した肉の一切れから血がぽたりぽたりと滴るさまを眺めた。
「もし世界が滅んでしまったら、このような食事は出来なくなってしまいます。貴方のような美しいお嬢さんにも会えなくなる。そうなったら悲しいですからねえ。でも、」
「……それとこれとは別の話」
美女は不意にぽつりと呟いた。
その青い瞳は、静まり返った水面のように何の感情も映さず、ただ真横にある窓の外を見つめている。自分の考えを口に出したというよりは、オシプの語りの続きを引き取ったという風だった。
「そう、そう……残念ながら」オシプは苦笑しながらも認めた。
「ビジネスはビジネスですからね。生きる為には仕方ないので、爆弾も麻薬もどっさり売ったり買ったりしていますよ。暴力をふるうことも厭いません。
だから今後の展開次第では、貴方のその綺麗な手足をもぎ取って、血みどろのだるま人形にしてしまうとかね、ワタシはそういうことをするかも知れませんよ」オシプは咳払いをした。
「では、これから幾つか貴方に質問をします。まず一つ目。貴方のお名前は?」
美女は黙っていた。
「ふぅん……では、二つ目。貴方はどこかの組織の捜査官ですか? それとも諜報員? マフィアの人?」
美女は答えない。
「じゃあ、三つ目。貴方は一体何の目的でコンパニオンに扮し、ワタシの兵器の披露パーティーに紛れ込んでいたのですか?」
会場で出会った彼女は、色白ですらりとしていて美しく、何故か子供のように大きなフランス人形を抱えていたので、女達の中でも一際目立っていた。オシプはすっかり気に入って「パーティーが済んだら部屋へ来なさい」と声をかけたほどだ。
しかし彼女は客らの相手をするどころか厨房や控室などに忍び込み、そこにあるだけの荷物をひっくり返すという暴挙に出た。ああ、こりゃスパイだな……と睨んだオシプはパーティーを早めに切り上げ、このオフィスにやって来たのである。
「パーティーの合間に、取引に関するデータを盗み出そうとしていたのですか?」とオシプは聞く。
「それとも、ワタシが先日『遂に完成』と宣伝した、小型核兵器についてのデータがお目当てで?」
まあデータは両方ともこのオフィスにあったんですけどね、とオシプは言ったが、美女は何も言わなかった。
「ずいぶん頑固ですね……。これじゃあ、『何故フランス人形を持って来たの?』と聞いても教えてはくださらないでしょうね?」
オシプは足元から人形を抱えあげ、テーブルの上に置く。
天使のように美しい金髪に、薔薇の模様の赤いドレス。その二つのガラスの瞳は、美女と同じように青く、そして妙に生き生きとしている。
「持って来たわけじゃなくて」美女はポツリと呟いた。
「マリーが、勝手について来ただけ」
「……は、マリー? それは人形の名前ですか? いやその前に、『人形が勝手について来た』とはどういうことです?」
美女はもう答えようとしなかった。
「はいはい、分かりました、分かりました。普通に聞いても教えてくださらないのですね。では、今からちょっと……痛い目に遭って頂きますよ
ついにオシプは両手を上げて降参し、テーブルの下にあるブザーを押した。
ガラスの扉が音もなく開き、銃を携帯した男たちがやって来る。
背後から髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられた美女の瞳を覗き込み、オシプは「全く……」とほくそ笑んだ。
しかし、その時だった。