ブラコンお姉ちゃんは妹とちゃんとお話ししたい。(3/3)
真希が大学の講義を終えて家に帰ると、リビングのソファでパラパラと漫画を捲っていた弟の姿があった。
「おかえり。お姉ちゃん」
「ただいまぁ~」
その一言で一日の疲れが抜けていくのを感じる。一日とは言ってもまだ十七時過ぎだが。そして何となしに周囲を見回すが母と妹の姿がない。そういえば玄関に靴もなかったような気がする。
「お母さんと杏奈は?」
「お母さんは買い物。杏奈は遊びに誘われたからちょっと遅くなるって」
「ふぅん」
ソファの脇に鞄を投げ出して冷蔵庫を漁る。なるほど、確かにスカスカだ。常備してあるピッチャーから作り置きの麦茶をコップに注ぐ。もちろん二杯分。
「新しい学校でもちゃんと友達ができたみたいでよかったよ。登下校も僕と一緒の時が多かったからちょっと心配だったんだ」
コトリと麦茶の入ったコップを日葵の前のテーブルに置きつつ、当然の権利として弟の隣に座る。他にも座るところはあるが、日葵の隣が空いているのならそこに座らない道理は姉にはない。
「一緒に住む都合で転校することになっちゃったもんねぇ」
杏奈は現在中学二年生。同居の開始を四月の新学期に定めたのは彼女に無理なく学校を移ってもらうためであった。ただ、どうしても一年からの友達が零の状態から二年生開始にはなってしまう。杏奈が新しい学校に馴染めるかどうかというのは家族全員の心配事であった。
(あの子可愛いからなぁ……変な難癖付けたりされないといいけど)
くぴりと麦茶の入ったコップを傾けながら姉はそんなことを思う。容姿が整っていることは必ずしもメリットをもたらすだけではない。それは同じく容姿が整っている真希の経験則に基づく心配である。女子の世界というのは男子の世界よりも複雑で面倒だ。
(ふむ……ということは、今は家にハルと私の二人だけか……)
となれば。
「ハル」
真摯な声色で日葵に向き合った真希。
「?」
漫画を手にきょとんと首を傾げる弟。姉は半分ほど中身の残ったコップをそっとテーブルに置いた。
空いた両手を、最愛の弟へ。
「お姉ちゃん、もう、我慢できない……!」
そして、血の繋がった実の姉弟の顔がぐっと近づき、そのまま――
真希は日葵の腰をがっしりと抱きしめてそのお腹に顔を埋めた。
(ああ~~~やっぱ大学から帰ってきたら弟を吸うに限るぜぇ~~~)
すーはーすーはー。
「もう、暑いよ~」
突然の姉の奇行に暑いよ~と抗議はしたものの抵抗はしない。慣れとは恐ろしいものである。
思えば弟を吸うのも久しぶりな気がする。やはり家族とはいえ第三者の目があると真希も気が引けていたのだろう。杏奈達と同居する前は、父が仕事で家を空けがちであるが故に日葵と二人きりなのが常であった。誰の目も気にすることなく弟を愛で放題。あの頃に戻りたいというわけではないが、こういう時間も少しはあって然るべきである。
最初の抗議以後、日葵は特に文句も言わずまた姉の頭の上で漫画を捲る。読みづらい上に先ほど言ったように暑いだろうに、姉を無下に振り払ったりはしない。
姉が姉なら弟も弟。もはや日葵にとっても普通の姉弟の距離感というものはこういうものだと刷り込まれているのかもしれない。他に人の目がなければ恥ずかしくもない。
果たして、それを第三者はどう思うのか。
「ただいまー」
ガチャリと廊下から扉を開けて入ってくる小さな人影。別にやましいことをしているつもりはなかったのだが、なぜか真希の身体が強張った。
「あ……おかえり。早かったね」
一方、少し苦笑しつつ日葵がそう返すと、
「うん……放課後にちょっとクレープ屋さんに寄ってお喋りしてきただけだから……」
声色に若干の困惑が聞いてとれる。そりゃそうだろう。家に帰ってきたら兄のお腹に姉がひっしと抱き着いているのである。
「お、おかえり~」
日葵の腹からくぐもった声が響いた。
その声が響いた方にとてとてと足音が近づいていく。
「……………」
動くに動けない真希は無言の視線をひしひしと感じた。見られている。
無音の圧力に真希の背中に冷や汗が滲む。
(いや、なんで私、こんなに緊張して……別に変な事してないし……)
少なくとも真希の基準では。
そしてようやくその沈黙が破られた。
「――えいっ!」
「わわっ!」
不意に感じた衝撃に真希が顔を上げると、頭上に杏奈の顔があった。杏奈がソファの背もたれ側から日葵に抱き着いたのである。
「ちょ、ちょっと!どうしたの?」
突然抱き着かれた日葵が目を白黒させると、
「お姉ちゃんだけお兄ちゃんとくっついてずーるーいー!」
そんな駄々をこねる声を上げながら、ますます杏奈は日葵の頭を抱え込む。上と下から抱き着かれた日葵は流石に苦しそうに悶えた。
「んもー!流石にこれは暑いよー!二人とも離れて!」
堪らず姉と妹の抱擁から抜け出した日葵は胸元をぱたぱたと仰いで別のソファへと移動した。今は六月が終わろうかというところ。クーラーもつけずにこの密着度合はキツいものがある。
「えー、お姉ちゃんはいいのに私は駄目なのー?」
「そういうことじゃなくて……流石に二人同時は暑いっていうか……」
くすりと杏奈が悪戯っぽく笑う。
「じゃあ次は私ね!」
そして杏奈は移動した来春にまた駆け寄ってその隣に腰掛ける。そのまま兄の腕をとってぴとりと寄り添う。
「ちょ、ちょっと!」
久々の日葵との密着タイムを邪魔された真希が堪らず声を上げた。だが、なんと言うべきか迷って二の句が継げない。
(ハルを返して……?いやいやそれは一番駄目でしょう。だってハルは確かに私の弟だけど杏奈の兄でもあるわけだし……。でもこれが続くようじゃもう満足にハルの香りを堪能することができないし……)
弟成分が不足すれば姉は死ぬ。
そう、つまりこれは真希にとって死活問題なのだ。
「お、お姉ちゃんもさっき帰ってきたばっかりだから……その、もうちょっと……」
弟を吸いたい。
その妙に切実な姉の様子に杏奈は、
「えー、でも私も今帰ったところだし……」
ふーむと杏奈は思案し、やがてすぐ側にある兄の顔を見やった。
「そうだ!お兄ちゃんに決めてもらえばいいよ!」
突然の提案に日葵は目をぱちくり。
「お兄ちゃんは、私とお姉ちゃん、どっちがいーい?」
息がかかりそうなほどの至近距離。硝子玉のように煌めく血の繋がらない妹の瞳に見つめられて、日葵は、
「どっちがって……どっちも暑いよ~」
特に何か感じ入るでもなく苦笑した。妹とはいえ血の繋がらない杏奈に密着されて、驚きこそすれ必要以上にドギマギすることもなく。姉の真希としてはその鈍感さはいらぬ心配をしなくていいので好ましい。それは幼少時より姉弟は密着するものだ教え込んだ真希のブラコン英才教育の賜物なのかもしれなかった。
「もー、それじゃあ決められないでしょー」
じゃあ、とばかりに杏奈はさらに日葵に身を寄せる。
「私の方が小さいからくっついてても邪魔にならないでしょ?」
「それは……そうかも……」
まるで猫が飼い主に頭を擦り付けるように、日葵に顔を寄せる杏奈。その小動物然とした様子に、日葵もなし崩しで許容するようなそぶりを見せる。
「いやいやいや!ほら、確かに私のほうが大きいけど、なんていうか、こう、柔らかいし……!」
言い終えてから気付く。
(何言ってんだ私……)
妹に張り合おうとしているのもどうかと思うし、そのアピールポイントが柔らかいとは。
ちなみに身体全体のことであり、一部分に限ったことではない。確かにそこは杏奈よりも真希のほうがはるかに大きくて柔らかいが、そこを弟にアピールするようではいろいろとよろしくない。
しかし杏奈はそうは思わなかったようで。
「……私まだ成長期だもん」
「違う……!違うの杏奈……!」
唇を尖らせて拗ねてしまった妹と狼狽する姉。兄及び弟はよく分からずにぽかんとしている。
「あー、うー……今回は私の負けかな……!あ、ははは……」
これ以上この話をするのはよろしくない。名残惜しいが、ここは妹に勝ちを譲るとしよう……。
(いや、負けってなんだ……何の勝負だったんだ……)
自分に心でツッコミを入れる姉。
しかしそれでは杏奈の気は収まらないようで。
「むー……私が大学生になったら逆転するから……」
姉の一部分に視線を注ぎ再戦に闘志を燃やす妹。
(気にしてるんだ……まだ中学二年生なんだし気にすることないと思うけどな……)
実際成長期だというのは事実であるし、この年齢差では杏奈が勝てないのは当然なのであるが、お年頃というのは難しい。
しかし再戦を誓ってなお、燃え上がった闘志はそう簡単には収まらなかったようで。
「……ねぇお姉ちゃん、勝負しよっか」
「ふぇ!?」
突然の提案に素っ頓狂な声を上げる姉。猫を思わせる動作から一転、小悪魔チックな微笑を杏奈が浮かべた。
「どっちがお兄ちゃんにより気に入ってもらえるか。勝ったほうはたぁくさんお兄ちゃんと一緒にいれるの!」
「別に勝負なんてしなくても僕は……」
一緒にいてくれる。それはそうだ。家族なのだから。だがここでの一緒にいれるとはそういうことではないのだ。
どちらがより、日葵を愛でられるか。そして杏奈は言っているのだ。愛でたくば己でその時間を勝ち取ってみろと――!
少なくとも真希はそう理解した。
であるならば、その勝負、ブラコンを極めし真希が乗らない道理はない!
一度下げた頭を上げた時、最近の弟成分不足で我慢の限界だった真希の顔には不適な笑みが浮かんでいた。
「……いいよ。でもその勝負、お姉ちゃん負ける気がしないなぁ……。杏奈がハルと一緒にいられる時間減っちゃうかもよ……?」
今まで遠慮していたが、杏奈の方から言ってきたのであれば問題あるまいと、負けるはずがないと確信がある姉は挑発的に言った。
伊達に十五年姉をしてきたわけではない。それがいかに日葵に気に入ってもらえるかの勝負で負けるわけがない。否、負けるわけにはいかない。
「大丈夫だもんっ。私、お兄ちゃんのこと大好きだし!」
そして自分のものだとアピールするかのように日葵の腕をぎゅっと抱きしめる。
「二人ともどうしちゃったのさ……なんかよく分からないけど……恥ずかしいよ……」
自分を取り合って火花を散らす姉妹にいたたまれない様子の日葵はもぞもぞと身体を動かすが、その腕をがっしりと杏奈が抱きしめて離さない。
姉にしろ妹にしろ、度を越したレベルのブラコンの境地だが、当人達に羞恥心などはまるでない。
全てはこの可愛らしい日葵を愛でるため。そのためであれば姉妹であれ刃(?)を交えよう……。
このような些細な顛末から姉妹は日葵を巡って事あるごとに張り合うようになったのだった。
それは姉妹の間で遠慮という壁が取り払われた瞬間でもあった。そういう意味ではより真希と杏奈が本当の家族に近づいた瞬間であるとも言えるかもしれない。
そして時間は冒頭へと戻る――。