第四話「背信」
神社の神人たちは朝早くから起床する。彼らの一日は清掃に始まり、清掃に終わる。
先ず作務衣に着替え御本殿を、そして境内の掃除を行い、その後に神人全員が御本殿に揃い『朝拝』でお祓いを受け、心身を清める。その際に、祓詞という祝詞を唱え、御念経を毎日欠かさず行い、神々に捧げるのだ。
この祈りは大和国の安寧と、皇室朝廷の益々の繁栄を願い奉る。
悪羅丸も同じように朝早くから目を覚ます。
作務衣に着替えた彼は、まだ眠たい目を擦りながら、何時ものように境内の掃除をするため部屋から出た。
しかし、何時もの朝とは様子が違うことに気付く。何やら騒がしい。彼にも気配で判る。普段、こんなにもざわつく様なことがあれば、直ぐに宮司様が場を収めるはずだがその様子もない。胸にザワつきを覚える。
悪羅丸は御神木の辺りに人が集まっていることが判ると、自身もまさかと思い、胸のザワつきを抑えながら足を運んだ。
そして到着した彼へ、集まっていた僧侶たちの視線が一斉に向けられた。余りにも異常な空気と気配に悪羅丸は気圧された。彼に向けられた視線はまるで突き刺さるかのようだった。中には怯えた顔の僧侶もいた。
庭に集まった集団の中から一人、悪羅丸の前へ早足で寄るとこう告げた。
「悪羅丸。我主、昨夜、御神弓を盗み出し、この御庭の御神木に向けて矢を射たとは真なるや?」
昨夜の悪戯がバレていたことに悪羅丸は驚いたが、チラリと自身に詰問する僧侶の背後を見ると、共に悪さをした小坊主たちが集められている。それを見て察した悪羅丸は観念した。
「は、はい。如何にも俺が矢を射ました……」
「ひ、ひいぃぃ!? 実にも恐ろしやぁ――!」
言い終わらぬうちに僧侶が叫び出した。突然のことに悪羅丸はポカンとしたが、僧侶は続けてこう叫んだ。
「この神社で梟を射殺すなど、なんと罰当たりな! 何と悍ましき仕儀じゃ!」
梟?――と寝起きの悪羅丸は一瞬何のことか判らなかったが、直ぐに思い出した。昨夜、闇夜の中で鳴き声を頼りに矢を放った梟のことだ。
(俺の矢は梟を射抜いていたのか!?)
周りの神人たちがまるで彼を薄汚い者でも見るかのような目で睨んでいた。これは云わば神に叛いた背信行為である。
しかし当の悪羅丸はそんな大人たちの視線など気にもとめず、急いで飛び出し確認した。すると、神社の御神木の下で梟が一羽、見事に矢で射抜かれ死んでいたのだ。
「こ、是をまことに俺がやったのか――!?」
悪羅丸は目を見開きじっくりと見た。いまだに信じられないとばかりに、口を開き唖然とする。僅かに興奮し、鼻息が荒くなった。
その時、この赤眼を輝かせ梟の死骸を凝視する小坊主の隙を衝いて、年長の小坊主・長丸が悪羅丸を指差し口を開いた。
「わしたちは悪羅丸に脅されたのじゃ! 昨夜、御神弓を持って参らぬと酷い目に遭わすと申され、悪事に加担させられたのじゃ!」
不意を衝かれた言葉に、悪羅丸はハッと我に返ると振り向く。
「なっ!? 長丸兄ぃ、そりゃあ酷い! 御神木に矢を射よと申したは長丸兄ぃじゃった!」
「嘘を吐くな! わしは御神木に矢を射るなど恐れ多いと、あれほど止めたではないか! この祟り憑きが!」
祟り憑き。この言葉が響いた瞬間、集団は皆、口を揃えて繰り返した。
「祟り憑き、祟り憑き――」と。
祟り憑きは災い齎す。僧侶たちは思い出したかのように悪羅丸から距離を取る。
まるで世界が全て敵に回ったようだ――と悪羅丸は思った。今まで築いてきた何かが心の中でボロボロと崩れ去る音がし、寂しさが心を占める。
周囲が自分に敵意をもって睨んでいたことにも気付いた。裏切り者を見るような眼差しを向ける僧侶たちの中には、矢張り災いの元凶だと囁く者もいた。
どうやら長丸たちに謀られたらしい。流石にまだ小さい彼でも判った。
長丸たち小坊主らは、内心自分を嘲笑っているのだろう。こうも見事に罠に引っ掛かってくれたのだから、さぞかし愉快なことであろう。
「おのれ――――ッ!!!」
瞬間、悪羅丸の心には怒りが込み上げる。今すぐにでも殴り掛かり、長丸を殺してやりたいという激情に駆られる。
冷静さを失った彼は気が付けば、長丸目掛けて走り出していた。騙された屈辱を晴らすべく飛び掛かった。
しかし悪羅丸が飛び出した瞬間、周りを取り囲んんでいた僧侶たちが一斉に動き、赤眼の小坊主を取り押さえた。僧侶といえども立派な僧兵だ。如何に悪羅丸が大人を相手に劣らぬ膂力を備えていようとも、武士を相手に戦い抜いてる歴戦の戦士数人掛かりでは、手も足も出ない。
何時も武術の稽古を付けてくれる先輩僧兵たちが、悪羅丸を取り押さえる。
地面に組み伏せられた彼は、キッと長丸を睨みながら、周りに弁明するため考えた。本当は梟を殺すつもりは無かった――と周囲に伝えるべく激昂する頭を巡らせる。
――だがどうやって?
何と言えば周りは信じてくれるのか? 事実、梟を射殺したのは悪羅丸本人だ。今更、発言を撤回しても無理というものだ。
悪羅丸は孤立無援だ。ぐにゃりと世界が歪んで見えた。助けるものなど誰もいない。
――恐ろしい。
初めて悪羅丸は肝が冷えた。いっそ逃げ出してしまいたいと思ったが、組み伏せられ、その場から動くことが出来ない。何か言い返したかった。しかし、何を言えばいいのか思い浮かばない。何を言っても信じてもらえないだろう。何故なら自分は祟り憑きだからだ。
昨夜、弓を引いている間、自分の身体が何者かに乗っ取られているように感じた。その時、自分は弓矢に込められている神々の御加護なのだと信じてやまなかったが、恐らくそれは祟り憑きの力なのだろう。周囲に災い齎すため、俺はこの両目に操られたのだ。そう考えると悔しくて堪らなかった。
――もうこんな両目は要らない。
「ぐ、うおぉぉぉ――――ッ!!!」
悪羅丸が渾身の力を込めて右手を取り押さえる僧侶を振り払い、自身の両目をその場で潰そうとしたその時だ――。
「其処までじゃ! 皆、静まれ――ッ!!」
一同を一喝する声が轟く。
皆が声の方へ視線を移すと、そこには大森宮司が立っていた。
「ぐ、宮司様……。然れど此度は穏やかならず……! 御神弓を盗み、神社の御神木を穢し、その上不殺の禁忌を破ったのですぞ!?」
僧侶が憤りながら告げた。流石に小坊主の悪戯にしては度が過ぎている。
だが、憤慨する僧侶に宮司はあくまでも冷静に宥めた。
「実にも、此は罷りならん仕儀じゃ。然りとて、今、其処許たちが為すべきは、一介の小坊主を吊るし上げるに非ず! 先ずは早急に梟の骸を丁重に、神々の御座す天上界まで弔い奉るべし!」
そう諭されると坊主たちは一旦収まった。
そして宮司は直ぐに悪羅丸を見やった。
「悪羅丸! 我主は在ろうことかこの神社の御神木を血で穢し、剰え不殺を破った! 是以上この神域を血で穢すこと罷りならん! わしが呼ぶまで部屋に戻っておれ!!」
解放された悪羅丸はそう命じられると、目を潰そうと思った激情が消え失せた。親代わりの宮司様にそこまで言われては、自身を傷つけるなど出来ないからだ。
彼はまるで魂を抜かれた屍のように、虚ろな表情で部屋へトボトボと戻っていった――。