私が諦めないたったひとつのこと
【登場人物】
倉林和泉:27歳会社員。総務課。物事を割り切って考えるタイプ。
内田ほのか:和泉と同じ会社に努めている27歳。営業課。要領が悪く仕事で失敗することも多い。
毎日毎日机仕事で嫌になる――なんて言うと色んな人達に怒られそうだけど、少なくとも私にとって仕事に勤しむ日々は苦痛と退屈の繰り返しでしかない。
一日中パソコンの画面とにらめっこしながら他の部署と連絡を取り合ったり外からの電話に対応したりする。目はしばしばするし座りっぱなしで肩が凝るし、面倒な顧客と話すのは疲れるし。やり甲斐もなければやる気もない。それでも仕事を続けていくのは自分が生きていく為だ。働いてお金を稼ぐから美味しいものが食べられておしゃれも出来る。
だから仕事というのは私にとって諦めることと同義だ。余計なことを考えるからよりつらくなる。無心で働き続ければ『まぁこんなものか』と感慨も湧かなくなるだろう。
無心で働いていても抗えないものがある。それはお昼ごはんの後の眠気だ。必死に睡魔と戦う時間は私にとって拷問と変わらない。コーヒーを飲んだり手の甲をつねったりしてなんとか凌ぐが、それでもどうしようもなく眠いときもある。
「はぁー……」
お手洗いに行ったとき非常階段に立ち寄ることにした。自販機で買ったホットコーヒーを手に鉄製のドアを開けて踊り場に出ると外の冷えた空気が私の顔に吹き付けてきた。少しばかりここで目を覚ましていこう。
ドア付近だと他に人が来るかもしれないので少し移動しようと階段をのぼったとき、途中の踊り場に人影が見えてぎょっとした。スーツ姿の女性がうずくまっている。体調不良だろうかとこっそり首を伸ばし――泣き声が聞こえた。泣きじゃくるようなものではなく、声を殺すようにすすり泣く声。
「え」
思わず声が出てしまった。
うずくまっている女性が振り返る。ハンカチで顔を隠してはいたがその目が赤くなっているのはすぐに分かった。向こうもこの時間に階段を使う人がいるとは思っていなかったのだろう。驚きに満ちた眼差しで私を見つめている。
「……あー」
はっきり言って気まずいことこの上ない。
年齢は私と同じくらいか年下か。多分同じ会社の女の子だと思うけど、首から下げてある社員証は見えないし髪形だけで分かるほど他の部署の社員を覚えていない。
見なかったことにして立ち去ればいいのか声を掛けて悩みを聞けばいいのか。カウンセリングの心得はないし、そもそも私もリフレッシュするためにこっそりここに来た手前顔を覚えられるのも困る。
一瞬の間に思考を巡らせた結果、私が取った行動はそれらの折衷案だった。
「まぁ、そういう日もありますよ。これよかったら飲んでください」
買ったばかりのホットコーヒーを無理矢理渡し、そそくさとその場を後にした。ちょっともったいないけど仕方ない。幸いにも眠気は吹き飛んでくれたので飲まなくても大丈夫だ。
(それにしてもなんというか)
自分のデスクに戻って仕事を再開しつつ、先程の女の子を思い出していた。
(ああいうタイプの子は生きるの大変そうだなぁ)
私とは大違いだ。
何か熱中できるものを見つけましょう。
子供のころ先生に言われたことがある。両親も私のやりたいことを見つけようと色んな習い事に通わせてくれた。スポーツ、武道、ピアノ、絵画……結局どれも長続きはしなかった。中学校から部活動に参加するようになってもそれは変わらなかった。飽き性なんだと思う。ある程度上達したらふと興味がなくなってしまう。それでも続けることが大事なんだと言うかもしれない。やっている人達のなかには惰性で続けている人もいたし、遊び半分の人もいた。でも私は、私みたいな人間がいることで熱意ある人達の邪魔になってしまうのではないかと考えるととても部活に行く気にはなれなかった。
この頃から私は『諦める』という言葉を使うようになった。
私が熱中できるようなことは何もない。諦めよう。
運動や勉強を頑張ったってやりたいことはない。諦めよう。
諦めグセ、とでも言うのか。宿題や仕事のようにやらなければならないと決まっているものは終わらせるが、自主的に何かをしようとするときいつもこの言葉でやめてしまう。
こんな性格だからか交際も長続きした試しがない。別れるとき相手の男にだいたい言われるのが『一緒にいてつまらない』。余計なお世話だ。
私自身はこの性格を嫌いだとは思っていない。物事を割り切って考えられるというのは社会に出てから特に有用だと実感した。不満やストレスだってそういうものだと割り切ればさして苦ではない。
同僚からは達観しているとよく言われるが、私に言わせればみんな些細なことで悩みすぎだ。頑張ったって苦悩したって結果が同じなら拘る方がバカらしい。
(私みたいな人の方が珍しいんだろうけど)
とはいえ私は薄情なわけではない。これでも気遣ったり配慮したりは得意な方だ。そういった処世術くらいは身につけている、という意味でもあるが。
(どこの部署の子だったんだろ)
空いた時間に社員のリストをざっと見る。名前と内線番号、メールアドレスは記載されているがそれ以上のことは分からない。せいぜいここ一・二年で入社してきた人が誰かが分かるくらい。もっと詳しく調べるなら人事課だけど、そこまでして調べる意味はないだろう。
(名前が分かったからどうするのって話だし)
いち平社員がよその部署のやり方に口を出す権利なんてない。もし職場環境が間違っていると思うなら彼女が自分で行動を起こすべきだ。
(一応次に会ったら労基とか労働局のこと知ってるかくらいは聞いておこう。今は退職代行ってのもあるしね)
あくまで会えたならの話で考えていたのだが、意外にも彼女と再会したのはすぐだった。
「あ、あの……」
翌日のお昼休み、同僚たちと外に食べに行って会社に戻ってきたとき、私のデスクにその子はやってきた。
一見しておとなしそうな性格だと分かる。顔立ちは整っているもののどことなく俯きがちで表情が暗い。顔に見覚えはなかったが雰囲気から踊り場で会った女性だと推測できた。
「あぁ、えーと」
多分私の社員証を見てここに来たのだろうが、踊り場でのことは大きな声で話しづらい。言いよどむ私に彼女が紙袋を差し出してきた。
「ありがとうございましたっ! こ、これコーヒーのお礼ですっ!」
「ど、どうも」
ぺこりとお辞儀をして去っていく彼女を見送った。
同僚の女性が横から首を伸ばしてくる。
「倉林さん今の子誰? コーヒーのお礼って?」
「ちょっと前にたまたまコーヒーをあげた子。営業課の内田さん、らしい」
「らしい?」
「名前は今知った」
社員証が見えたので名前をチェックした。営業部営業課の内田ほのか。新入社員ではなかったと思う。
紙袋の中身を取り出す。包み紙を開けると高級そうな洋菓子の詰め合わせが出てきた。
「本当にコーヒーあげただけ?」
「……あげただけだよ」
コーヒーをあげたことさえ偶然でしかない。悩みを聞いたわけでもないただの無責任な慰め。それでもこんなにきちんとお礼をしてくれるのは真面目なのか義理堅いのか。
(缶コーヒーと全然釣り合ってないじゃない)
物欲しそうにしていた同僚にお菓子を分けながら、どうしたものかね、と小さく嘆息した。
業務が終わりいつもならさっさと電車に乗り込んでいる時間、私は小さなイタリアンレストランの二名席で内田さんと向かい合っていた。
「今更自己紹介もなんですけど、総務課の倉林です」
「あ、営業課の内田です。よ、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる内田さんに苦笑する。
「あんまりかしこまらなくていいですよ。もうプライベートなんですから」
お昼休みのあと、社内のメールで内田さんに連絡を取り、いただいたお礼もかねて食事に誘った。お礼のお礼、というのも変だと思ったけど他に言いようもなかったし。
会社の外で合流して以降、内田さんはずっと恐縮しているように見える。
「で、でも、倉林さんの方が先輩ですし……」
「内田さんはいつうちに入ったんですか?」
「中途で入ったのが三年前くらいです」
私は大学卒業後にここに入ったので入社はだいたい五年前。一応は先輩に当たるのか。
「まぁ直属の上司部下じゃないし別にいいんですよ、こんなの。年齢だって同じくらいですよね? 私27です」
「……私も27です」
「じゃあ尚更いいじゃないですか。なんだったらタメ口でもいいですよ」
「さすがにそれは……」
私としてもここで急に慣れ慣れしくタメ口でこられてもちょっと引いてしまうのだが、会話の成り行きというか打ち解ける作法みたいなものだ。私相手だったら会社で話しづらいことでも話していいですよ、と。まぁ内田さんのようなタイプはどのみちなかなか自分からは話さなそうだけど。
「とりあえずあんまり肩肘張らずに。軽くご飯を食べるだけですから。あ、ここのお店ピザが美味しいんですよ。小さい一人前のもあるのでおすすめです」
「あ、じゃあそれで」
「メニュー見ながらゆっくり決めていいんですよ」
「は、はい」
「先に飲み物だけ頼んじゃいましょうか? 私は赤ワインにしようと思うんですけど」
「私、お酒苦手で……」
「ソフトドリンクとかお茶もありますよ」
「……ではウーロン茶で」
私は近くにいた店員を呼んで飲み物を注文した。少ししてから運ばれてきたグラスを手に、軽く乾杯する。
「はい、お疲れ様でーす」
「お、お疲れ様です」
「あんな良い洋菓子を持ってきてくれてありがとうございました」
「いえそんな、たいしたものじゃないので……」
「同僚と分けさせてもらったんですけど」
「あ、どうぞどうぞ! お口に合わなかったら捨てていただいても大丈夫です!」
「はは、さすがに捨てたりはしませんよ」
やっぱりというか、こういう感じの人なのか。あんまり謙虚になられ過ぎても卑屈に見えてしまうので私はあまり好きではない。
微笑みは崩さないままメニューをめくる。私は何を注文しようか。食べ過ぎ飲み過ぎは明日に支障が出る。メインはピザにして他はサラダや前菜にとどめておいた方がいいか。
オーダーが決まってから内田さんの方を窺う。まだ注文を迷っているようだ。慣れないイタリア料理に戸惑っているのかもしれない。私の視線に気付き、肩を縮めてぺこぺこと頭を下げる。
「ご、ごめんなさい、すぐに決めますから」
「別に悩んでもらって構わないですけど……」
あまり他人が人様の考え方や嗜好にあれこれ口を出すべきではないかもしれないが。このままだとお互いに気を遣い過ぎてしまうだろう。少し悩んでから行動に移した。
「すみませーん」
私は店員を呼んでメニューを見せながら尋ねる。
「女性にオススメのものってありますか?」
店員が人当たりの良い笑顔で答えてくれる。
「そうですね、当店のピザは女性にも人気ですね。Sサイズでしたら無理なく食べられますし、特にモッツァレラチーズの乗ったマルゲリータは好評をいただいています」
「ピザ以外だと何が人気ですか?」
「サラダはうちのオリジナルドレッシングが美味しいと言っていただいていますね。サラダやカプレーゼをお一つ注文されて、複数人でシェアされていることも多いです。あとは、メインで言うならパスタでしょうか。カルボナーラとボロネーゼは男性女性ともに人気があります。どのパスタも半分のサイズに出来ますのでピザと一緒に注文される女性のお客様も結構いらっしゃいますよ」
「ありがとうございます。決まったらまた呼びます」
店員が丁寧にお辞儀をしてから離れていった。私は目の前の内田さんに視線を移す。
「どうです? 参考になりました?」
「は、はい……すみません」
「何で謝るんですか」
「私が注文を決められないから……」
思わず溜息をつきそうになったのをこらえる。内田さんに聞こえたら余計に自分を責めてしまうだろう。
「内田さん」
私は声を柔らかくすることを意識して語りかける。
「注文くらい悩んでもいいじゃないですか。上司や取引先の人と食事してるわけでもないし、私は文句なんか言いませんよ」
「でも……」
「今オススメを聞いたのだってそれを頼めって意味じゃなくて、他の人がたくさん注文しているものだからハズレの確率が低いっていうひとつの指針なんですよ。これは私が食事するときの考え方なんですけど、自分にとって今何が一番の目的なのかを意識することにしてるんです。私はその目的をだいたい五つに分けてまして――」
「…………」
内田さんは食い入るように私を見つめている。私は指を折りながら挙げていく。
「一つ目は時間。これは食べる時間が短いなら調理時間が短いものを選ぼうってやつです。お弁当とかファストフードとか。二つ目は値段。お財布の関係上安さを第一に考えなきゃいけないときもあります。三つ目は味。やっぱり美味しいものが食べたいですからね。味が一番に来たときは値段のことは考えないようにするのもいいと思います。四つ目は興味。初めて食べる料理って試してみたくなるじゃないですか。旅行に行ったりするとこれが一番の目的になったりすることが多いですね。最後の五つ目はカロリー。これはもうそのままカロリーを気にするかしないかって話ですけど――」
内田さんが真剣な表情でうんうんと頷いた。熱心に聞いてくれるのは嬉しいが、そんなに熱心に聞く内容でもないんだけど、とも思う。
「ま、まぁあくまで私の持論ですし、みんな食事するときはだいたい値段と味を半々に考えてたりしてますけどね」
こんな場所で食事に対する講釈を垂れていることが恥ずかしくなりメニューに視線を落とした。
「ありがとうございますっ! すごく参考になります」
お礼を言われ首の後ろあたりがむずがゆくなる。内田さんの純粋さは私には毒だ。
二人ともメニューを決めてから、改めて店員に注文をした。私はルッコラのサラダ、カプレーゼ、マルゲリータのSサイズ。内田さんはマルゲリータのSサイズとカルボナーラの半分サイズ。
サラダやカプレーゼを内田さんに分けてあげようとするとものすごい勢いで遠慮されたりと色々あったが、幸いにもどの料理も内田さんの口に合ったようで一口食べる度に顔をほころばせていた。
食事中、私は意図して仕事の話をしないようにした。私はカウンセラーでも労基の職員でもない。せいぜい愚痴を聞いてあげることしか出来ないのに首を突っ込みたくはない。食事が終わって解散するときにでも仕事に関する相談先をいくつか教えてあげればいいだろう。そんな風に考えながら好きな食べ物や趣味なんかを聞きつつ箸を進めていた。まぁ実際は内田さんはあまり答えずに一方的に私が話す形になっていたが、それはもうしょうがない。
当たり障りのない会話が途切れ少し間が空いたとき、内田さんがぽつりと呟いた。
「……先日はお恥ずかしいところを見せてしまってすみませんでした」
向こうから切り出したか。私は内心で息を吐いた。こうなったら予定を早めてこの場で助言だけしてしまおう。
「気にしなくていいですよ。仕事してれば誰だってつらいときはありますから。でももし職場環境がおかしいと思ったらちゃんとした所に訴えた方がいいですよ? 病院で診断書をもらうって手もありますし、自己防衛だけはきっちりと――」
「そ、そういうんじゃないですっ! 大丈夫です! みなさん仕事が出来て良い方たちばっかりですから!」
「…………」
私が疑いと心配の混ざった視線を送ると内田さんが俯いた。
「本当にみなさん良くしてくれてるんです。私がダメなだけで……あ、ごめんなさい。これじゃただの愚痴ですよね」
「……まぁ、自分が潰れるくらいなら誰かに愚痴でも聞いてもらった方がいいとは思いますけど」
「……倉林さんはすごいです。仕事が出来て考えもしっかりしてて、思いやりがあって美人で――」
身に余るお世辞だと思ったが言われて悪い気はしない。内田さんが眉を下げて笑う。
「私なんか本当にダメダメなんです。勤めて三年も経つのにまだ仕事を要領よくこなせなくて、同僚の方々や先方に迷惑かけてばっかり……」
「それはその、原因は分かってるんですか?」
口は出さないと決めていたのについ聞いてしまった。
「原因、ですか?」
「うまくいかない理由がスキル不足なのか自分の性格によるものなのか、それとも業務内容によるものか」
「……自分の性格だと思います」
「それは自分で変えられそうですか?」
「分かりません。もっとこうしようああしようって思ってもいざそのときになるとうまくできなくて……。何かいい方法ありますか?」
「その手の専門家じゃないのでなんとも。自己啓発本でも読むか、あとは職場で目標の人を決めてその人ならどう動くかを思い浮かべるとか」
「目標の人……――」
内田さんの瞳に光が宿った。その瞳はまっすぐ私の方に向かう。
「え」
「倉林さんのこと、師匠って呼んでいいですかっ!」
「いやいやいや、なにをバカなことを――」
「私も倉林さんみたいになりたいんです!」
「総務と営業じゃ業務内容全然違うじゃないですか」
「仕事の仕方とかじゃなくて、考え方とか話し方とか佇まいみたいなものを学びたいんです!」
「私なんて人から参考にされるような人物じゃないし」
「そんなことないです!」
羨望の眼差しに私の頬の筋肉が引きつる。本当にそういうガラじゃないのだ。
「今だから言いますけど、あのとき非常階段にいたのは眠気を覚ますために風に当たりにいったからで、コーヒーだって自分で飲む用だったんです。それがたまたま内田さんと会って、気まずかったから渡しただけなんですよ」
「でも今はこうやって私を食事に誘ってくれたじゃないですか。私にはそれが全てです」
だってそれは過剰なお礼を持ってきたから。反論しようと思ってやめた。ここでいくら言い合いをしても多分内田さんは引かない。おまけに目標の人を決めて、と言ったのは私の方だ。対象が自分だからダメなんていうのは筋が通っていない。
今度は溜息を隠さずに吐き出した。
「……私、一緒にいてつまらないって言われるような人間なんですよ? それでもいいんですか?」
最後の抵抗は呆気なく内田さんの笑顔に破られた。
「私もよく言われます」
なんでこんなことに。休日の賑やかな繁華街を私は内田さんと一緒に歩いていた。
『師匠って休日は何をしてらっしゃるんですか?』
『家でゆっくりしてるか買い物に行くかですけど。……師匠って言うのやめてくれません?』
『じゃあ今度の休日、師匠について行ってもいいですか?』
『…………』
実際は買い物と言っても食材や日用品を買うのがほとんどなのだけど、さすがにそんなプライベートな買い物に付き合ってもらうわけにはいかない。というわけで、せっかくの休みだというのに人混みのなかに繰り出してきたというわけだ。
「師匠、今日はどういうご予定なんでしょうか?」
「……その師匠っていうのはいつまで続けるんですか」
「この方が気分が出るかと思いまして」
「出ませんからやめてください。師匠って呼ぶなら私帰りますよ」
「あ、す、すみません……もう絶対言いませんから」
沈み込んで本気で謝る内田さんに私の方が申し訳なくなってくる。これでは私が意地悪しているみたいだ。
「本当に帰ったりはしませんよ。言うほど嫌ってわけじゃないですし、好きに呼んでください。会社では困りますけど」
「――はいっ!」
甘いかもしれないが、私を師匠と呼び慕うときの内田さんは確かに普段の自信のない態度とは大違いだ。弟子になりきることが内田さんの精神に良い影響を与えている可能性はある。
(本物のカウンセリングじみてきたな……)
なにはともあれ改善の兆しがあるのは結構なことだ。
「今日は服を見に行こうと思ってます」
「おぉっ!」
どこに感嘆する要素があったのだろうか。
「最近あんまり服を買ってなかったし、冬物が安くなってないか見て、ついでに春物もチェックしようかなと」
「いいですね」
「私より内田さんの方がファッションに詳しいんじゃないですか?」
「そんなことないです」
私は自分と内田さんの服を見比べた。色彩のほとんどない質素なパンツルックの私と比べると、内田さんの方が色を使っているし服装も女の子らしい。
「もしかしたら今日は私が内田さんにコーデを教わることになるかもですね」
「わ、私の服装センスなんてダメダメですよ」
「私よりマシですって」
「師匠の服の方が似合ってて格好いいです! 私、今日師匠と同じ服を買って帰ろうと思ってるんですから」
「え、同じ服……?」
「双子コーデってあるじゃないですか。だから私も師匠とお揃いにしてあやかろうと思うんです」
「それはマジでやめてください……」
「で、ですよね……すみません」
「あー、内田さんとお揃いがイヤというか、お互いに似合う服装違うんですから変なことはしない方がいいんじゃないですかね。真似するなら私の外見じゃなく内面を真似するべきです」
「おっしゃる通りです……すみません」
少し責めるような口調になると途端にいつもの弱気な内田さんになってしまう。そういう所こそ意識して変えていけばいいのに。
「内田さん、今から謝るの禁止」
「えっ?」
「内田さんに一番足りないのは自信だと思うんですよ。自分に自信がないからやること全部不安になる。だから今から謝らないでください」
「でも自分に否があるときはどうしたらいいんですか?」
「じゃあ笑いながら『ごめんごめん』にしましょうか。軽い感じで」
「……それって会社でもですか?」
「そんなわけないでしょ! 仕事でのミスはしっかり謝るの! 私といるときだけ!」
「す、すみませんっ!」
「違う。そうじゃなくて」
「う……ご、ごめんごめん」
「笑顔が足りないですけど、まぁ勘弁してあげます」
「すみませ……ご、ごめんごめん」
なんだかもう会話が成り立っていない気もするが、とりあえずは一歩前進した、のか。
それから内田さんと二人で服を見て回った。高級ブランドなんて買う余裕もこだわりもないので、お手頃な値段のファストファッションが中心だ。内田さんもよく利用するようで、あれこれ意見を出してもらいながら試着して感想を言い合った。何軒か回ったところで疲れたのでコーヒーショップで休憩することにした。
「いやぁ、結構買っちゃいましたね」
内田さんと向かい合わせで座り、アイスコーヒーをストローで掻き混ぜながら足元の紙袋を一瞥する。中には購入した服が何着か入っている。
「ですね。私もです」
内田さんの足元にも私と同じように紙袋があった。
「やっぱり誰かと服買うと色々意見言ってもらえるのがいいですよね」
「はい、師匠の意見もたいへん参考になりました」
「服の師匠は別の人にお願いした方がいいと思いますけど」
「私に一緒に買い物に行ける人が師匠以外にいると思います?」
「いないんですか?」
「いません」
悲しいことをそんなにはっきり言わなくても。ただそれは内田さんに限った話ではないが。
「まぁ私も内田さん以外いないんですけどね」
「奇遇ですね」
二人でくすくすと笑い合う。本当に久しぶりだ。こうやってプライベートで誰かと出掛けておしゃべりするなんて。
「あ、師匠、今日の晩ごはんはどうしますか? この辺りのオススメのお店色々調べてきたんですよ。この前は結局奢っていただいたので、そのお礼に今日は私が――」
「そのループやめましょう。きりが無くなるんで。買い物でお金使っちゃいましたし、晩ごはんは各自家で、でいいんじゃないですか。別に晩ごはんを一緒に食べる決まりはないですし」
「そ、そうですね」
相変わらず内田さんは義理堅いというか真面目というか。金額的なことでいえばあのご飯分で洋菓子ととんとんなのだから気にする必要はない。
「内田さんは自炊とかしないんですか?」
「してますよ。料理作るの好きなので」
「へぇすごい。私なんて全然。焼くか煮るかくらいです」
「私だってそんなたいしたものでは。母が和食ばかり作っていたので和食しか作れないですし」
「十分すごいですって。私の和食なんてインスタント味噌汁とかすき焼きのタレ入れて煮込むとかですよ?」
「……」
内田さんが一瞬何かを言いよどみ、口をまごまごさせてからきゅっと引き結び、決意をもって私の方を見た。
「あ、あのっ、もし良かったら私が料理を教えましょうか?」
「へ?」
予想外の言葉に変な声が出た。
「わ、私が一方的に教えてもらうばかりでは不公平だと思うんです。私もその、師匠の、倉林さんの役に立ちたい、です」
恐らくそれは内田さんにとってはすごく勇気のいった提案だったのだろう。恥ずかしさと不安が入り混じった感情が傍からも見てとれる。
一歩踏み出した彼女のその勇気は素直に称賛に値すると思った。
「内田さんがよければ、是非」
「あ、わ、私なんかで逆にすみませんというか――」
「ストップ。謝るときは何て言うんでしたっけ?」
「え、えっと、私なんかで逆にごめんごめん……おかしくないですか?」
「おかしいですね、くく……」
「笑わないでくださいよ!」
翌週の土曜日、私は内田さんの家に訪れていた。もちろん料理を習うためだ。私の家よりも器具や調味料が豊富なので私が出向く形となった。
「部屋綺麗ですね」
内田さんのワンルームの部屋はきっちり整頓されていて本棚の本は一冊の乱れもなかった。小さな観葉植物もいくつか置いてあり細かいところにも気が配られている。
「頑張って整理整頓しました。師匠に来ていただくのに汚いままじゃ失礼ですからっ!」
「そんなに気合入れなくていいのに」
「人の訪問があるときに部屋を掃除するのってあるあるじゃないですか?」
「まぁそうですね」
「って言っても私の家に来たの師匠が初めてなんですけど」
「またそんな悲しいことを……でも私の家も人が来たの数回か」
「お付き合いされている方はいらっしゃるんですか?」
「いると思います?」
「いやぁ、それは私の口からはちょっと……」
「正直に」
「……恋人がいたらわざわざ休日に時間を割いてまで私と会ったりしないだろうなぁとは」
「えぇまったくもってその通りです。でも同じことは内田さんにも言えますからね!」
「ですね、ふふ」
「笑い事じゃないんですけど」
一段落ついてから近くのスーパーに向かい材料を購入する。メニューは全て内田さん任せだ。料理に慣れたら私からもリクエストしてみるつもりではいる。
家に戻ってきてからエプロンを着けて台所に立った。内田さんが私のエプロンを見て笑みをこぼす。
「それ可愛いですね。すごく似合ってます」
今日のために買ったチェックのエプロンを見下ろした。
「近くで売ってるのがイラストとかガラが入ってるのばっかりだったんですよ。本当は内田さんみたいなシンプルなやつがよかったんですけど」
内田さんのエプロンは紺一色。使い込まれた具合がいかにも料理やってますというオーラを放っている。
「私は師匠のエプロンの方が好きですよ」
「じゃあ交換します?」
「魅力的な提案ですけど、このエプロンもお気に入りなので」
「だと思いましたよ。どんなエプロンでも料理の腕には無関係なのでこれでいいです」
「素晴らしい心構えだと思います」
さっそく料理の準備に取り掛かった。今日の献立はカレイの煮付け、ハマグリのお吸い物、インゲンの胡麻和え。最初ということで簡単な料理を選んだらしい。
簡単、と言うだけあって本当に簡単だった。煮付けは基本的に材料と調味料を入れて煮込むだけでよく、私は内田さんに指示された分量を鍋に入れていただけだ。お吸い物もダシは市販の白ダシを使った。あとは食べる寸前に三つ葉と手鞠麩を入れて完成。インゲンも茹でて調味料とあえるだけ。
料理が完成しての私の第一声は「もうこれで出来たの?」だった。
「料理って調味料をきちんと揃えて分量を覚えてさえいればそんなに難しくないんです。勿論手間がかかるのもありますけど、まずは料理がお手軽なものだっていう認識を持ってもらいたくて」
その配慮も指導の仕方も私には十分すぎるものだった。称賛の意味もこめて呟く。
「仕事をするときもそのくらいの落ち着きがあったらうまくいくんじゃないですか」
「だといいんですけど……」
「そうなるために仕事に対する気の持ちようをちょっとずつ変えていきましょう」
「……はいっ!」
テーブルに出来上がった料理を並べて、二人で手を合わせて食べ始めた。どの料理も美味しく、特に煮付けはご飯がよく進んだ。あっと言う間に完食し、ふぅ、と一息つく。
(料理を教えてもらってこんなに美味しいものが食べられるのなら、内田さんの師匠を続けるのも悪くないかもね)
「空いた食器持っていきますね」
「あ、ありがとうございます」
内田さんが食器を回収して流しに運んでいく。テーブルの上が片付いたあと、水の流れる音が聞こえてきた。見ると内田さんが洗い物をしていた。
慌てて立ち上がり台所へ向かう。
「洗い物は私がやりますよ」
「師匠は休んでてください。料理作ってもらったんですから」
「作ったのほとんど内田さんじゃないですか。人の家にお邪魔してるんだから私がやります」
「いいんですって、このくらいすぐ終わります」
「じゃあ私がやってもいいじゃないですか。スポンジ貸してください」
「あぁっ、取らないでください!」
「いいから家主はゆっくりしてて」
「そういうわけにはいきません!」
狭い流しでスポンジを取り合うことしばし、ポチャンッ、とスポンジがお椀に溜まった水の上に落ちて泡と水が周囲に飛び散った。
「……」
「……」
お互いに泡のついた顔を見つめ合う。
「……ぷ」
「……ふふ」
堰を切ったように私達は笑いだした。笑いながら袖で泡を拭う。
「あっはは、子供じゃないんだからさぁ」
「いい大人がスポンジを取り合ってなにしてるんですかね」
「ホントホント。じゃあいい大人らしくちゃんと決めときましょ。今回は私が洗うから次は内田さん。交代で洗い物当番していく。それでいい?」
「はい、構いません。あ、私は横で食器を拭く係でもいいですか?」
「いいですよ。ぷっ、なんだろね、家庭科の調理実習みたいな感じしません? 一緒に作って一緒に洗って」
「すっごいします。でもお料理教室って大人向けの調理実習みたいなものじゃないですか?」
「確かにね。じゃあこれからは内田さんのことを先生って呼びましょうか」
「師匠と先生でややこしくなるからやめてください」
「え~、でもこっちの方が雰囲気出ると思うんですよ~」
「それ私のマネですか!?」
それから週一回、私は内田さんの家に通って料理を教わるようになった。魚料理、肉料理、焼き物、天麩羅、煮しめにお鍋。料理を習うことが楽しいというより、内田さんと一緒に料理を作ったり食べたりすることが楽しかった。
これだけ一緒にいれば仲良くなるのも当たり前で。仕事の帰りの時間が合ったら晩ごはんを食べに行くようになったし、ちょっとしたことでも連絡を取るようになった。
(今更友達が出来るなんてね)
友達、と呼べるかは分からないがやっていることは友達のそれだ。打ち解けてきたのは向こうも同じで、最初のころにあった遠慮や恐縮なんていうのは少なくとも私に対しては無くなったように思う。会社でたまにすれ違うときも姿勢よく笑顔で挨拶をしてくれる。
それとなく同僚経由で営業課の人に聞いてもらったが、人が変わったかのように内田さんが明るくはきはきと話すようになって驚いているそうだ。
(多少は私も役に立ったのかもね)
特別何かを教えたわけではない。ただ一緒に過ごし会話をするうちに彼女が私という人間から勝手に学んでくれたのだ。師匠なんて名前だけのものだが、それでも内田さんが良い方向に変わってくれたなら嬉しく思う。
変わったのはどうやら内田さんだけではないようだった。
「なんかさぁ、最近倉林さん変わったよね?」
「そう?」
同僚たちとの昼食中、急にそんなことを言われた。
「確かに変わった変わった」
「なんか角が取れたっていうか、話しかけやすくなったっていうか」
「私、そんなに話しかけづらかった?」
「づらいづらい。怒ってはないけど冷たそう」
「ねー」
同僚の言葉に地味にショックを受ける。日頃から愛想が良い方ではないと自負はしていたがそんな風に思われていたなんて。
「もしかしてなにかあったんじゃなーい?」
「別になにもないよ」
「ほんとのこと言いなよー。彼氏とか出来たんじゃないのー?」
「出来てないから」
出来たのは私を師匠と呼ぶ同い年の友達だけ。彼女が私に影響を受けたように、私もまた彼女に影響を受けたらしい。
まったくもっていい迷惑だ。
「倉林さん、なーに笑ってんの?」
「笑ってないって」
内田さんの家で料理教室をするようになって三カ月ほど経った。私もだいぶ料理を覚え、最近は二人で洋食のレシピに挑んだりしている。
炒め物をしているとき、油が私の目に飛んできた。
「――っつ!」
「大丈夫!?」
すぐに内田さんがフライパンを受け取り炒めるのを代わってくれた。水道から水を流しながら手のひらですくい目元を洗う。何度か洗ってから目をぱちぱちと瞬きさせてみる。異常はなさそうだ。
「ちょっとこっち見せて」
内田さんが私に顔を近づけてきた。
――瞬間、息が止まった。何故かは分からない。ただ、鼻先が触れるほど近くにいる内田さんから目が離せない。
「瞬きしないでくださいね」
真剣に私の目とその周りをチェックしてくれているのに、そのことに対して感謝も申し訳なさも湧いてこない。頭の中にあるのは戸惑いと緊張。理由が分からないまま体を強ばらせる。
「目の下のところがちょっと赤くなってるので多分ここに跳ねたんですね。あんまり痛むようなら軟膏塗っときましょう」
「あ、ありがと、大丈夫」
ようやく呼吸が出来た。酸素が脳に回ったからか思考もはっきりしてくる。今のは急に近づかれて驚いただけだろう。
静かに深呼吸をしながら、トクトクと鼓動を繰り返す胸元を手で押さえた。
いつ頃からだろうか。毎日に苦痛と退屈を感じなくなっていたのは。仕事をしていれば目にも肩にも疲労はたまるし、業務が重なってしんどいときもある。でも不思議と毎日を頑張ろうと思えるようになったのだ。物事に何でも見切りをつけて余分な思考を捨てていた私とは到底思えない。
原因は分かりきっている。ただその原因というのが厄介で。
「どうしたんですか師匠、ぼーっとして」
テーブルの向かいから内田さんに声を掛けられて愛想笑いを返す。
「次に何作ろうかなと思って」
「あ、それなんですけど、私が決めていいですか?」
「全然いいですよ」
「えっと、その前に一つ発表がありまして――」
内田さんがこほんと咳払いをして少し間を空けたあと、破顔する。
「なんと私、大口の契約を取れましたっ!」
「え、ホント?」
「はいっ、まぁ私ひとりでってわけじゃないですけど、先方にもお褒めの言葉をもらったりして……半分くらいは私のおかげですかね」
「言うようになったじゃないですか」
「ふふ、会社じゃこんなこと言えないですから、せめて師匠の前でくらいはと思って」
「うぅん、きっと内田さんが頑張ったからですよ。おめでとう」
自分のことのように嬉しかった。それは師匠としてではなく、一人の友人として。
「ありがとうございますっ! これも師匠の教えの賜物です」
「私は何も教えてないですけど」
「そんなことないです。色んなことを教えてもらいました。本当に色んなことを」
感慨の込もった言葉には何が含まれていたのか。初めて会ったときには踊り場で泣いていた彼女が、今はこうやって私と笑い合っている。それだけで、本当にすごいことだと思う。
「それで来週のメニューなんですけど、ケーキ作りませんか? もちろんホールで」
「二人で食べ切れます?」
「そのときは持って帰ってください」
「連続でケーキ……」
「私のお祝いなんですから喜んでくださいよ!」
「ちゃんと喜んでるって。何のケーキにします?」
「苺のショートケーキがいいです」
「まぁチョコケーキよりは食べやすい、かな」
「ホイップクリームたっぷりがいいですよね~」
「もう内田さんの好きに作ってください」
「デコレーションは一緒にやるんですよ」
「分かってます」
来週は塩気のあるお菓子を持ってこよう。そうじゃないと半分すら食べられる気がしない。
平穏だったのはこのときまでだった。
また一週間が始まり仕事に勤しむ傍ら、内田さんに何かプレゼントをあげようかと考えていた。今回の件で会社から褒賞が出るかは分からないのでせめて私から彼女を労ってあげたかった。
(何か欲しいものありますか、っと)
スマホからメッセージを送って反応を待った。しかし夜になっても既読がついたまま内田さんから返信がない。翌日になってようやく返信が来たと思ったら『特にないです』のみ。
どこかおかしいと思いつつそのあとも日常会話やケーキ作りについて何度かメッセージを送ったが、やはり反応が鈍い。こういうときに限って会社でも会わないし。
「倉林さん、前に営業の内田さんについて聞いてたよね?」
仕事の合間に同僚のひとりが話しかけてきた。以前内田さんが営業課でどう見られているか聞いてきて欲しいと頼んだ人だ。その表情はどこか暗い。
「そうだけど、どうかした?」
「えっと、私も人から聞いた話なんだけど……」
同僚が私に耳打ちをする。
「内田さん、退職願出したんだって」
「え!?」
声が大きくなり慌てて口を押さえる。
「……なんで?」
「知らない。月曜に営業課のオフィスで急にキレて叫んで、翌日出社したときに退職願提出してそのまま帰ったんだってさ。上の人と連絡は取ってるみたいだけど会社には来てなくて。一応有給扱いらしいけど」
「キレたって、え、なんで? いきなりキレるような人じゃないんだけど」
「私に聞かれても知らないよ。近くにいた人に向かってキレてたから何か言われたんじゃないかって言ってたけど。とにかくオフィスがしんと静まり返ってヤバかったって」
「そう……ありがとう、教えてくれて」
経緯はどうあれ最近の内田さんの異変の理由は分かった。分かったが、納得は出来ない。
(普通私にすぐ相談するもんじゃないの? 勝手にキレて勝手に退職願出して、それで私には何も言わない? なんでよ! 私は師匠なんじゃないの? それとも私のことなんてどうでもいいの?)
家に帰ってからメッセージを送ったが既読すらつかない。電話を掛けてもすぐに留守電に切り替わる。向こうの家に乗り込んでやろうかとも思ったが、今内田さんが家にいる確証がない。
何十回目かの留守電の案内を聞いて、スマホをベッドの上に放り投げた。
(なんなのよもう! 着信あるの分かってるでしょ! いい加減取りなさいよ!)
ふーふーと荒い息を吐いてから自分もベッドに倒れ込む。
「………………ばか」
口から零れたのは恨み事ではなく落胆。連絡が取れないことよりも、信頼してくれなかったことが一番悲しい。
「せっかく、私……」
意識しないようにと心の奥底にしまっていた想いが声に出てきそうになって飲み込んだ。もう今更だ。
内田さんが私と関わりたくないと思っているならそれでいい。私も自分から関わったりしない。
すーっと体が冷えていくのを感じた。今までだって考えても仕方のないことは切り捨てて生きてきた。望むことが出来ないのなら諦めるしかない。そうすることで平穏が訪れる。
やっと金曜が終わる。
たった数日がこれほど長く感じたのはいつぶりだろうか。それもこれも、諦めるなんて言っておきながら返信がないかを逐一確認している自分のせいだろう。未練がましいのは分かってる。それでもまだ割り切って考えるには時間が足りない。
(これで最後にしよう)
短く『明日は?』とだけメッセージを送った。本来なら一緒にケーキを作ると約束をした日。
もしこれで何も反応がないならすぱっと忘れる。そう自分で決めたとき。
ぴこん、と通知が出た。すぐに画面を開き確認する。そこには内田さんからの返信があった。
『ごめんなさい』
たった一言。でもその言葉を見た瞬間、私のなかの何かが爆ぜた。
『今から行く。待ってて』
それだけ打ち込んで、荷物をまとめて会社を飛び出した。駅に向かって全速力で走る。
諦める? 何をバカなことを言っていたのか。私にとって内田さんはその程度の人だったの? 勝手に辞めようとしたからどうした。連絡が取れないからどうした。内田さんと一緒にいて楽しかったんだろう? もっと一緒にいたいと思ったんだろう? だったら諦めるな! 他のことはどうだっていい。たったひとつ。そのひとつが欲しいと思ったのなら諦めるんじゃない!
非常階段の踊り場で初めて会ったときのように、声を掛けて手を伸ばす。それはきっと諦めてしまうよりもずっと簡単なこと。どうせ私に出来ることなんてほとんどないんだ。また最初から一つひとつ積み重ねていけばいい。
内田さんのマンションに着いた。弾む息を整えながらオートロックの入口の前で内田さんの部屋を呼び出す。何も応答がないままドアのロックが外れた。そのまま部屋に向かう。
ドアの前で小さく深呼吸をしてからインターホンを鳴らした。
『……なんで来たんですか』
内田さんのか細い声が聞こえてきた。おびえているようにも感じる。
私の返答は決まっていた。
「明日、何時に来たらいいか確認しにきたんです。ケーキ、作るんですよね?」
それは料理教室を心待ちにしていた私の嘘偽りのない願いであり、差し伸べた手だった。
『――――……わ、わたし……っ……』
スピーカーの向こうから嗚咽の混じった声がした。
「無理に喋らなくていいですよ。落ち着くまで待ってますから」
すすり泣く声が遠ざかった。一旦離れたのだろう。
夜の風が通路に溜まった落ち葉を巻き上げ吹き抜けていく。肌寒さに身震いをしていたとき、目の前のドアがゆっくり開いた。
「……中、入ってください」
部屋の中のあたたかさにほっと息を吐く。けれどくつろぐわけにはいかない。出迎えてくれた部屋着姿の内田さんは見るからに憔悴していた。目はまだ少し赤い。
「大丈夫?」
私が声を掛けるとこくりと頷き、そして深々と頭を下げた。
「ご迷惑、ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした」
「い、いや、まぁそれはいいけど……」
よくはなかったがこの状態を前にしては言えるはずもない。内田さんが淡々と続ける。
「私が退職願を出したことは?」
「聞きました。オフィスで何かあったことも。でも詳細までは」
内田さんは一度目をつむってから静かに息を吸い、私の問いに答えてくれた。
「月曜に部長たちと契約が取れたことについて話してるときに、思わず言ってしまったんです。総務課のとある方が私に考え方や話し方を色々教えてくれたおかげなんですって。多分それを聞いてたんでしょうね。自分の席に戻ったときに近くにいた先輩方が私に聞こえるように話してたんです。『総務課に営業が出来るわけない。男への媚び方でも教えてもらったんだろう』って。私のことを言われるのは我慢出来ました。でも倉林さんのことは……」
私が悪く言われるのが耐えられなくてキレてしまったということか。おそらくはこれまで積もりに積もったものもあるのだろうが、自分のためではなく私のために怒ってくれたことは嬉しい。嬉しいが、やはり褒められたことではない。
こう言うとあれだが向こうの気持ちも分かる。これまで仕事が出来なかった後輩がようやく挙げた大きな成果。かと思いきやそれを他の課の人のおかげなんて言いだした。先輩としてのプライドや嫉妬なんかが混ざって嫌みを言ってしまう気持ちも理解できる。元々の性格がアレかもというのは置いておいて。
「だからってそれだけで辞めるのは早計すぎじゃないですか? そんな人達別に気にしなくていいのに」
内田さんが首を小さく横に振る。
「本当はもう限界だったんです。この会社ではせめて三年間頑張ろうって、そう思ってずっと耐えてたんですけど、結局三年経っても何も変わらなくて。初めて倉林さんに会ったあのときが、ちょうど限界を超えたときでした」
非常階段の踊り場で泣いていた内田さん。偶然だったとはいえ労いの言葉を掛けた私は彼女にとってどう映ったのか。
「この三カ月、すごく楽しかったです。倉林さんのおかげで自分に自信を持てるようになりました。本当にありがとうございます」
また深く頭を下げるのを見て胸の内にもやっとしたものが広がる。
「会社を辞めるかどうかは内田さんの自由だからもういい。でもそこまで私に感謝してくれてるんだったら、なんで私の連絡を無視したんですか」
「それは……」
内田さんが俯いて黙り込む。だけど詰問をやめるつもりはない。最低限の説明くらいしてもらわないと納得が出来ない。
「……距離を、置こうと思ったんです」
「なんで? 会社を辞めるから?」
「違います。その……」
内田さんが顔をわずかに上げて前髪の隙間から私を窺い見る。
「……言わなきゃダメですか?」
「ダメです。師匠命令です」
「っ……横暴です」
「師匠って呼び始めたのはそっち」
内田さんが諦めたように息を吐いた。
「理由を言ったら帰ってくれますか?」
「ちゃんとした理由なら」
私の視線はいまだに内田さんと合わない。内田さんが居住まいを正して、けれど視線は床に落としたままゆっくり話し始める。
「会社で倉林さんのことを言われて怒ったときに、気付いたんです。私がなんでこんなに怒ってるのか。どうしてこんなに倉林さんのことを大切に思ってるのか。……でもその感情は抱いちゃいけないものなんです。これから先、倉林さんと今の関係を続けていくのに邪魔になってしまうから……だから、もう会わない方がいいって……」
「――――」
驚いた。何に驚いていいのか分からなくなるくらいに。
どう答えればいいのだろうか。内田さんが直接の言葉を避けたように、私もそれを口にするのは恥ずかしい。浮かんだ想いを頭のなかでこねくり回して言葉に変えていく。
「……内田さん、その程度で私から学んだつもりになってるんですか?」
「え?」
「その感情を抱いたから会わない方がいい? そうじゃないでしょ。会いたいから会う。遊びたいから遊ぶ。自分の感情に従うならこっちの方が優先順位が高くなるんじゃないですか?」
「で、でも――」
「少なくとも私は、同じ感情を抱いたときそういう風に思いました」
「………………!」
私の言いたいことが伝わったのか、ようやく内田さんがこっちを見てくれた。
喜びと安堵が私の胸をあたたかくする。自然と頬が緩んだ。
「私達二人ともが同じ気持ちだったらどうします?」
「あ……え……」
驚愕に見開いた内田さんの目から涙が零れていく。それでも両手で口を覆ったまま私から目を逸らさない。
「い、いいんですか? 私、一緒にいてつまらないって言われるような人間ですよ?」
「私もよく言われます」
いつかとは逆のセリフのあと、私は手を差し出した。
「これからもよろしくお願いします」
「え、えと――」
内田さんは手を握り返そうとして自分の手が気になったのか、手のひらをごしごしと服にこすり付けながら片膝を浮かせる。
「い、今ちょっと洗ってきま――」
逃げようとしたその手を強引に引き寄せて、ぎゅっと握る。
「だ、ダメっ!」
「何がダメなんです? もしかして断りたい?」
「そうじゃなくて!」
「手を握りたいから握る。抱き締めたいから抱き締める。おかしいですか?」
「……おかしくないです」
「よろしい」
私が軽く腕を引くと内田さんが私の胸元に体を預けてきた。囁き声が私の耳をくすぐってくる。
「……私の方こそ、これからよろしくお願いします」
嬉しくて両腕に力を込めた。
なんて幸せなんだろう。感触もぬくもりも鼓動も全てが愛おしい。この愛おしいものを私は一生離したくない。何もかもを諦めてばかりいたけど、これだけは絶対に諦めたりしない。
ふと思いついたことがある。私は冗談めかしながらそれを呟いた。
「コーヒー、買ってきましょうか?」
彼女は頬を濡らしたまま笑って首を横に振った。
「あれ、内田さんお風呂入ってます?」
私の言葉に内田さんが超速反応で飛びのいた。
「く、く、く、くさかったですか?」
「いや匂いは別に。ちょっと髪が油っぽかったから」
「す、すぐシャワー浴びてきます!」
「あ、だったらお風呂入れましょうよ。私も入るんで」
「……え?」
「今から帰っても遅いし、私泊まっていきますね」
「と、と、とま――」
「変なこと考えてません?」
「か、考えてないですよ!」
「明日ケーキ作るんだし、私がここに泊まった方が合理的でしょ?」
「……はい」
お風呂場へ向かう内田さんの背中にさらに追い打ちをする。
「ついでに一緒にお風呂も入ります?」
「お、おふっ、いやそれは――」
「あぁさすがにまだ早いですか? お互いにですますをやめるのと、名前で呼び合うのが先ですよね?」
「……順番に処理していくということでお願いします」
「うん、そうしよう。ね、ほのか」
「――っ」
お風呂場に消えていった内田さんを見てひとりで小さく笑う。
同じベッドで寝るとなったときの反応が今から楽しみで仕方ない。
終
書きながら『この話はこれでいいんだろうか。おもしろくないんじゃないのか』と思うことはよくあります。今回も半分くらい書いたところでボツにしようか悩みました。でも今は書いて良かったと思ってます。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。