第七話
昨夜は色々あり過ぎて、寝つきが悪く、かつ目覚めは最悪で、体もだるかった。
起床後に、毎朝のルーティンである王宮医の診療を受けた際には、根を詰め過ぎなのでは、と注意されたのと、ラベンダーのポプリを枕元に置いて寝ることを勧められたくらいで健康ではあるのだが。
何となく、気が晴れない思いで着替えに向かう。
最初の一声は、マリアだった。
「…?
王太子妃様、昨夜どこかでぶつかられましたか?」
遠慮気味に、私に向かい問いかけてきた。
ぶつけられた?
「…?え?」
意味が分からず問い返すと、マリアは合わせていたドレスを外し、私の胸元を指した。
「こちら、赤くなっておりますので…」
ふ、と指先に視線を落とせば、左胸の上のほうが軽く赤くなっている。
無意識に、掻いていたのだろうか?
「あら、本当に。
昨夜は色々あって、寝覚めが悪かったのもあって、私、無意識に自分で引っ掻いたのかしら…?」
マリアは頷き、傍に控えていた侍女に軟膏を持ってくるように指示した。
「王太子妃様の玉のようなお肌に、こんな…今日は軟膏を塗りましょう。」
マリアが刷り込む様に軟膏を塗る。
それをぼんやりと眺めながら、今日の予定を反芻する。
今日も一日が始まる。
朝食はオートミールに、果物。
柑橘類の爽やかな酸味が有難い。
疲れた体に染み渡るような酸味に目が覚める気分だ。
気分を一新させ、食後、紅茶を飲みながら執事のフィンレィと軽くブリーフィングをする。
「ルイス様と、誕生の報告のためにお城に上がるわ。
その後、私はそのまま王妃様の元に向かいます。
それと、あぁ、そうだわ、西の方にお祝いを渡して置いてちょうだい。
ミセス・オットマンには、マッケンジーの部屋の最終確認をお願いして頂戴。
足らないものがあれば、用意して」
「王太子妃様、スチュワードのルークから、もし時間が取れるようならお時間を頂きたい旨承ってますが、どうしましょうか?」
「分かりました、この後向かいます。
ルイス様は、もう食事をとられたのかしら?」
「本日は、西の方とご一緒にとられるとのことです」
…本日も、でしょう?
イザベラは左の眉だけ軽く上げる。
気にしていたら、きりがないのだが、今回に限っては軽い打ち合わせの時間くらいは欲しい。
「明日から、軽い打ち合わせを兼ねて朝はご一緒したい旨、伝えておいて。
今日は一緒に登城するから、良いわ。
よろしくね」
カップをソーサーに戻し、執務室に向かう。
室内には、ルークがすでに資料片手に待っていた。
「王太子妃様、御多忙の中、お時間を下さり感謝します」
この王太子宮の財務全般を預かるスチュワードのルークは、ハウスキーパーのミセス・オットマンの夫だ。
神経質そうなミセス・オットマンとは雰囲気が全然違い、お腹の突き出た柔和そうな笑みをいつも浮かべる年配の男性だ。
面白いことにこの夫婦、見た目と中身が逆なのだ。
神経質そうな見た目のミセス・オットマンは、仕事の手際は素早く完璧主義だが、話し方、性格はゆっくりとして、大らか。かたやいつも柔和な笑みを浮かべている夫であるルークは財務の仕事をしている関係からか、細かく、几帳面で口うるさいのだ。
二人とも、真面目で責任感があるのでイザベラにとって信頼のおける夫婦であることは、間違いない。
執務室の椅子に座り、イザベラはにこやかに笑う。
「何か、ありましたか?」
ルークは財務帳簿を開きながら、口籠る。
「王太子様が、その、西棟の一部屋を模様替えしたいと仰せなのですが」
視線でそれで?と続きを促す。
ルークは少し困ったように眉尻を下げる。
「その、部屋の模様替えですが…どうやら、お子様の遊び部屋の様な感じでして。
もちろん、私どもは宮の管理をしている王太子妃様のご許可がないと施工は出来ない旨を伝えているのですが…」
イザベラの表情がサッと変わる。
今、ルークは何て言った?
西棟の一部屋を子供の部屋に?
「それは、誰の為の部屋なのかしらね?」
答えの分かり切った質問をする。
「その、マッケンジー様のご様子が分かるとキャッサンドラ様も喜ぶであろうと…」
「そう、ルイス様が仰ったのね?」
イザベラの声のトーンが一つ下がる。
ルークは恐縮しきりで起立している。
イザベラは大きくため息をついた。
彼の私的財産を使えば私の管轄外だから文句は言えない。
だが、イザベラの管轄内の宮内で変更をするには、彼女の許可がないと何も行えないのだ。
「許可出来ません。
彼女に子供を会す会せないも、私が決めることです。
ルイス様には私から話します。
フィンレィ、ルーク。
もし、王太子宮で私の許可なくルイス様が何か為すことがあればすぐに報告を。
分かりましたね?」
目を細め、フィンレィ、ルークを見る。
イザベラは淡々と答えたが、怒りで声が震えそうだった。
それを辛うじて抑えて淡々とふるまったが、やるせない気持ちだけが残る。
慣例通り、こちらで子供を育てる、それに異があるのか。
どうして。
いや、まだ生まれたばかりでルイス様も興奮しているのかもしれない。
だから、少し正常な判断が出来ないだけだ。
イザベラは大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
そして、再度フィンレィとルークを見て微笑むと、
もう話は終わったとばかり立ち上がり、執務室を後にした。
「マリア、何かハーブティーを入れて頂戴、少し気分を落ち着かせたいの」
後ろに控えていたマリアがすぐに傍にいた侍女に指示する。
自室に戻る気もならず、かといって行きたいところも特にない。
イザベラの足は自然にコンサバートリに向かう。
コンサバートリは色とりどりの花にあふれ、小さな温室のようになっている。
目の端に池が見えた。
あの幸福だった時代は、今のイザベラからはあまりにも遠かった。