第四十三話
イザベラが起きたら、喉を通りやすい栄養満点のスープを飲んでもらって元気になってもらおうと、ビショップは下準備をはじめた。
だが、イザベラがそれを口にすることはなかった。
そのまま3日間、うつらうつらとした日々を過ごし、最後は水さえ受け付けずイザベラは旅立った。
死ぬな、と言ったのに。
まだまだ、共に生きよう、と。
ただ、呆然とイザベラの亡骸を見つめていた。
眠るように、穏やかな顔をして、ベッドに横たわっている。
何度呼びかけても、何度頬をさすっても、瞳が開くことはない。
まだ、温もりが残っているイザベラを抱きしめる。
トワイゼルは、イザベラと月日を過ごすうちに、いつかイザベラに本当の名前を呼んでもらえたら、と思い始めていた。
だが、イザベラに名前を明かすつもりはなかった。
今更だと思ったからだ。
そして、自分自身、そこまで名前に拘りはなかった。
ただ、もし、次に番が現われたら、もう名前を偽ることはやめよう。
そう思った。
自分にとってイザベラもまた、出会って別れる番の一人だったから。
だが。
トワイゼル、と、イザベラに自分の名前を呼ばれて。
心の底から震える思いがした。
自分の名前だ、と思った。
ずっと自分は呼んでもらいたかったのだ、と思った。
自分の名前を。
ずっと。
ずっと、拒んでいた。
ディジーではない誰かの声で名前を呼ばれるのを。
デボラが教えてくれたから。
いつかまた番が現れても、自分の名前を呼んでくれたディジーの代わりになりそうで。
だから。
ディジーの思い出を胸に、自分の名前を捨てた。
自分が愛した番は、ディジーだったから。
ディジーの魂を持った番は、やはり番だから特別だ。
だから、トワイゼルも、彼女らを愛した。
彼女らも自分に愛を返してくれた。
だけど、愛を返してくれる期間は短くて。
彼女らはゆるやかに正気を失っていって。
彼女らがくれた愛は、いつも自分が欲しかった愛とは違って。
出会い、そして別れる。
寂しくて、恋しくて。
期待しては、裏切られる。
次こそは、次こそは、と。
ずっと、ずっと愛してほしくて。
愛してほしかった。
自分を。
トワイゼルを。
イザベラは自分の目を見て、自分の名を呼んで、愛していると言ってくれた。
トワイゼル。
かつて自分が捨てた、自分の名。
自分の名を、かつてこれほど特別に思ったことがあっただろうか。
もう、イザベラはいない。
何度名前を呼んでも、返事は返ってこない。
イザベラが自分の名を呼ぶ甘い声、微笑み。
イザベラが細い手で自分の髪を、瞼を、頬を、唇を優しくなぞる優しい時間。
キスをしたら、ニッコリ笑ってキスを返してくれた。
二人で過ごした幸せだった時。
あの時間以上に幸せな時間がこの先にあるとは思えなかった。
イザベラは最後まで正気を失わず、最後まで自分を愛してくれた、たった一人の人間だった。
イザベラだけが、最後まで、自分を気にかけてくれた。
幸せだった、と言ってくれた。
「…イザベラ…」
一人しかいないこの部屋に、自分の声だけが響く。
トワイゼルがずっと住んでいた家。
昨日まで、あんなに温かみがある家だったはずなのに。
イザベラがいないだけで、無機質のように冷たく感じる。
気がついたら、夕暮れ近くなっていた。
朝方、イザベラが旅立ってから半日以上が過ぎ去っていた。
イザベラを埋葬しようと、イザベラを抱きながら外に出たトワイゼルはそこで膝をついた。
ここは、イザベラがよく寝転がって空を見ていた場所だ。
イザベラは、お行儀が悪いわね、私、と言いながらもよく空を見上げていた。
洗濯物を干し終わって、中々戻ってこないときは、大抵ここで寝転がっていた。
夜、寒くないときはやっぱり寝ころびながら星空を見、寒くなると毛布にくるまって二人でずっと星空を見ていた。
トワイゼルは冷たくなったイザベラの身体を抱きしめた。
魂を失ったイザベラの身体は何も返してこない。
何度抱きしめても、抱きしめ返してこない。
その瞳が開いて、自分の姿を映してくれることもない。
自分を見つめ、微笑んでくれることもない。
その口が声を発する事も。
もう、全てが全て、どうでもよく感じた。
もう、良いではないか。
十分過ぎるほど、生きたではないか。
もう、良いではないか。
十分過ぎるほど、生きた。
そう、十分に。
「…こんなに冷たくなって…」
イザベラの、物言わぬ唇に最後のキスを落とす。
トワイゼルは自分の力を土壌に向けた。
これで良い。
自分の力全てを土に明け渡した。
自分の力がどれ位持つのかは分からない。
だが、当分この地は安泰だろう。
ディジーが愛した土地だ。
イザベラと、共に過ごした土地だ。
せめて今以上に豊かな土地になるように。
祷りを込めて。
願いを込めて。
全ての力を出し切った時、さらさらと音がして、漆喰の壁がゆっくりと崩れていった。
カークウッドがゆっくりと涙になって消えていった。
力尽きたトワイゼルの身体がグラリと揺れて、イザベラの身体に覆いかぶさる。
その衝撃でイザベラの手がゆっくりと上に上がり、トワイゼルの背中にのった。
トワイゼルの薄れゆく意識の中で、背中に感じたイザベラの手の重み。
イザベラが抱きしめ返してくれた気がした。
トワイゼルは微笑みながら崩れ落ちていった。
静かに全てが土に帰っていく。
イザベラも、トワイゼルも。
全てが塵のようにゆっくりと消えていった。
後に残ったのは、大きなクルミの木と、野原。
最初から何もなかったように。
どこにでもあるような草原だけがそこに、広がっていた。
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トワイゼル王国には、少女が夢見るおとぎ話がある。
妖精の番に選ばれて幸せになる女の子のお話が。
「ねぇねぇ、お母さん、お話読んでー」
ベッドの上で飛び跳ねながら、甘える声で少女がねだる。
「はいはい、エミリー。あら?またこの本で良いの?
本当にこのお話好きなのね」
ベッドに入った少女は満面の笑みを浮かべる。
「うん、だって妖精の王子様でしょ!私も選ばれるんだもん」
「あらあら、王子様が選ぶような女の子は、きっとベッドの上で飛び跳ねるなんてお行儀の悪い事しないのじゃないかしらね?」
少女に上掛けをかけながら母親が言う。
「えー、うーん、気を付ける…」
母親が優しい声で物語を読み始める。
少女は瞼を閉じて、話を聞き始める。
胸をワクワクさせて。
そして今日も夜、また違う母親が子供の枕元でお話を聞かせている。
それはもしかしたら、王太子妃だった女性が、妖精の番に選ばれたお話かもしれない。
終
初の長編で、至らぬ点が多々あるとは思いますが、無事に完結出来ました。
読んでくださった皆様のお陰です。
お付き合いくださり、有難うございました。




