第四十二話
季節が変わるたびに、新しい知識が増えていく。
ベリー類は熟れる前に食べると酸っぱくて渋みが強い、なんて、食べるまで知らなかった。
熟れ頃を食べると頬が落ちるほど甘くておいしい。
以前と比べてシンプルな料理が増えたが、その分食物本来の素朴な甘みが分かるようになる。
今の自分の生活の方が、昔よりも断然好きだ。
そして、日常的にイザベラとビショップが触れ合うことが自然になっていく。
目が合うと微笑んでキスをする。
どちらからとなく、指を搦めて手をつなぐ。
二人が傍にいることが、当たり前の日常になる。
もちろん、イザベラは努力した。
お互いがお互いを理解するべく、なるべく話し合った。
妖精であるビショップに理解出来ない事も多々あったが、イザベラは何度も丁寧に説明した。
ビショップが、聞き上手なのもあってイザベラも難しく考えずに何でも話せた。
二人の時間を積み重ねていくうちに増す信頼関係。
月日が過ぎていくのと同じように、イザベラも当然のように年を重ねていく。
容姿も、年相応に老いていく。
自分だけが老いていく不安も、寂しさもないと言ったら嘘になる。
でも、それで泣いたイザベラをビショップは子供をあやす様に優しく慰めてくれる。
そして、容姿が変わろうと変わらず愛を囁くビショップの瞳の色を見れば、そこに嘘が無いのが分かる。
ビショップと今まで積み重ねてきた時間がイザベラに自信をくれた。
だから、イザベラはいつでも笑顔でいられた。
いつでも、ビショップに笑顔を向けれた。
穏やかに、緩やかに時間が流れていく中で、徐々にイザベラの最期の時が近付いてきた。
ビショップは、出会った時と寸分変わらぬ姿でイザベラの看護をしていた。
イザベラは自分の容姿が衰えるのも気にせず、ビショップを変わらず愛した。
そしてビショップも、出会った当初と変わらずに、同じようにイザベラを愛していた。
イザベラが寝付いてから7日が過ぎようとしていた。
イザベラは、ここ最近、食事をとるのも辛い。
身体もだるくなってきて、寝ている時間が増えてきた。
残された時間が長くない、と感じたイザベラは、ずっとずっと聞きたかった事を口にした。
聞きたかったが、聞いたらビショップが消えてしまいそうで怖くて聞けなかった事、だ。
「ビショップ様、あなたは、私に何か言いたい事があるのではないでしょうか?
私、ずっと気になっていた事があるのです。
何か言いたそうにしては、顔を顰めるのを何度も見てました。
聞いたら、あなたが消えそうで聞けなかった事です…
私があなたに最後に聞きたかった言葉が一つあるとしたら、これなの」
ビショップが一瞬眉をしかめ、悲しそうな顔でイザベラを見つめた。
イザベラが何を問うているのか、思い当たるのだろう。
顔を顰めたビショップの顔を見て、やっぱり何かを言いたかったのだ、とイザベラは確信する。
「…イザベラ…」
ビショップは答えを口にするか考えあぐねているようだった。
イザベラは辛抱強くビショップを見た。
こんな長い間一緒にいても、結局、彼の闇のようなものは、消せなかったのだ。
妖精だから仕方ない、と思い、自分の気持ちに蓋をしていた。
だが、もう自分は長く持たないだろう。
ビショップを一人残していくのが気がかりだった。
だから、せめて少しでもビショップの気持ちを軽くしてあげたかった。
やがて、ビショップはイザベラの瞳をじっと見つめて小さな声で呟いた。
「…我の名を…」
イザベラは聞き取れずに、ビショップの顔を再度見た。
「我の名…トワイゼルと呼んでくれ…」
イザベラは小首を傾げた
「…ビショップ様…?」
「…その名は、我の、本当の名前ではないのだ…」
ビショップは苦しげな顔をしてイザベラを見た。
イザベラは困惑した瞳でビショップの瞳を見つめる。
「トワイゼル…?」
イザベラが小さな声で呟く。
…トワイゼル…?
国の、名前…
ディジー姫と結ばれた、妖精の、名前。
その瞬間、全ての点が線になって繋がった気がした。
イザベラの世話が妙に上手かったのも。
料理や洗濯が妙に上手かったのも。
全てが全て。
あぁ、彼は。
言ってたじゃないか。
一人は寂しい、と。
言ってたじゃないか。
傍にいてくれるだけでうれしい、と。
彼は、変わらない。
会った当初から。
私が年を重ねても。
同じように時を重ねても、彼と私の肉体は同じように過ぎなかったじゃないか。
私、だけじゃなかった。
番は。
私だけが、彼の番ではなかった。
まさか、まさか。
彼の思いつめた瞳や辛そうな顔がそんな理由だったなんて。
イザベラの顔面が蒼白になる。
「…なぜ…
あなたはビショップで、私がイザベラで、それで良かったのでは…」
震える声でイザベラが問いかける。
「イザベラ、そちに、我の本当の名を…ずっと…ずっと呼んで欲しかった…」
イザベラの目に涙が浮かぶ。
ビショップがそれに気が付き、イザベラの目元の涙をすくう。
イザベラの目からポロポロと涙がこぼれる。
ビショップが捨てられた子供のような目をしてイザベラを見た。
お互い、見つめあった。
「本当の名前など、もういらぬ、と思っていた。
我は変わらぬ。
…ずっと、待っていた。
次、いつ会えるか分からぬ者を。
…人が、こんなにも儚いのだと分かっていたなら。
…我は人など番にはしなかった…」
イザベラは何も言えずに、手を差し出しビショップを抱きしめた。
ビショップはぽつぽつ話し出した。
ディジーとの事、デボラの事。
そして、名前を変えたこと。
イザベラは黙って聞いていた。
もし、この話を若い頃に聞いていたら、きっと自分がディジー姫の代わりだと思ってしまったでしょうね。
そして、それを悲しんだかもしれない。
だけど、私は知っている。
彼は私を愛してくれてたという事を。
他の誰でもない、イザベラとして彼は私を愛してくれていた事を。
知っている、私は。
私も彼を愛していた事を。
ずっと傍で生きてきたのだ。
この何十年、ずっと二人で笑いあってきた。
手を取り合って、生きてきた。
私は、彼の愛を信じている。
そう、私はビショップ様を苦しめたい訳じゃない。
一人残される彼をそのままにしておきたくない。
自分の名前じゃない名前を名乗らざるを得なかった彼の思いを考えると胸がつぶれそうになる。
長い長い時の中で、一人で暮らさないといけなかったビショップの、いやトワイゼルの苦悩。
それだけ考えれば、どう慰めていいのか、どう励ましていいのか分からない。
だって、私は彼を一人残していくのだから。
胸を痛めつつも、モヤモヤするのは。
自分だけが番じゃなかった、それだけが、やっぱりどうしても…ね。
イザベラは苦笑する。
こんなおばあちゃんになっても、嫉妬するなんてね。
私は存外嫉妬深かったのね。
イヤだわ、こんな年を重ねても、まだ新しい自分を知るなんて。
あぁ、私はこんなにも、この人を愛しく思っていたのか。
こんなおばあちゃんになっても、しわがれた手をとって頬ずりしてくれる。
私に変わらぬ愛を囁いてくれる、愛しくて、可愛い困った人。
イザベラは微笑んだ。
イザベラは出会った時とは違う。艶やかだった髪は褪せ、手足もやせ細り、筋張っている。
だが、イザベラは今までの年月を愛していた。
その年月を共に過ごした、自分の皺だらけになった顔も、体も。
そう、この体は、長い年月をトワイゼルと過ごした、とても大切な証なのだから。
イザベラは手を伸ばし、いつもするように優しくトワイゼルの髪を手櫛で梳く。
トワイゼルが目を伏せた。瞼、頬、そして唇をユックリとなぞる。
撫で終わると、瞳をあけたトワイゼルを真直ぐに見た。
「トワイゼル様、私は、あなたを愛しています」
はっきりと、言い聞かせるようにイザベラは言った。
トワイゼルが、ずっと聞きたかった言葉を。
イザベラの声で聴きたかった、たった一つの言葉。
ずっと忘れようとしていた自分の、名前。
言ってしまったら全てが壊れてしまいそうで言えなかった自分の願いを、イザベラは微笑んであっさりと叶えてしまった。
押し寄せるのは後悔。
もっと前に、きちんと話せばよかった。
もっと自分の名前を呼んで欲しかった。
もう、誰にも呼ばれなくなった、自分の本当の名前。
トワイゼルの目から涙がこぼれた。
自然に流れ出て、止まらなかった。
「イザベラ、我もそちを愛してる、だから死ぬな。我の傍で生きてくれ…」
トワイゼルが泣きながらイザベラに向かって叫ぶ。
イザベラは困った顔で微笑んだ。
「トワイゼル様、私はあなたを愛しています。ずっと、ずっと。
だから、苦しまないでください。
私は、幸せでした。いえ、今でもとても幸せです」
ビショップがいつもと同じようにイザベラを優しく抱きしめる。
イザベラを確かめる様に、優しく額に、頬に、唇にキスを落とす。
イザベラはビショップを抱きしめ返し、微笑むと目を閉じた。
今日はいつもよりも多く話したから疲れたらしい。
しばらく目を閉じていたイザベラは、そのうち規則正しい寝息をたてて眠り始めた。
トワイゼルは、しばらくイザベラの寝顔を見ていた。
何年経っても変わらない愛しい番。
自分を信じてくれた、たった一人。
変わらぬ愛をいつも微笑んで抱きしめ返してくれたイザベラ。
死ぬな。
寝ているイザベラの頬を起こさないようにゆっくりと撫でる。
まだ、まだ共に生きよう。
まだ、話したいことが沢山ある。
そして今度こそトワイゼルとしてイザベラを愛したい。




