第三十二話
イザベラが挨拶の切っ掛けを掴めないまま、歓談は歓迎ムードとは言えない状態で終わりに近づく。
その間、ビショップはイザベラの腰から手を離さない。
イザベラとしては、挨拶をしたいと思って何度か離れようと腰を捻ろうとしたが、自分の体に力を入れようとすると、すぐにビショップがそれを上回る力強さで押し留める。
それを何度か繰り返し、イザベラは諦めた。
気恥ずかしさもあり、イザベラは俯くことしかできない。
一つ、イザベラが心底良かったと思ったのは、彼が傍にいることの嫌悪感がなかったことだ。
前回の嘗め回すような視線の件で、イザベラは正直ビショップに対しあまり良い印象がなかった。
傍に来られたら、嫌悪感を抱いてしまうのではないか、と不安だった。
そんな心配は杞憂だった。
表情がないと思っていたが、表情があったからだろうか?
笑顔を見たからだろうか?
番という概念が良く分からないが、とりあえず自分もそこまで嫌悪感を抱かないですんだことは良かったのだろう。
顔を上げると、イザベラが見ないようにしていたルイスと、目が合った。
ルイスの表情はいつもと同じように穏やかな笑みを浮かべていて。
でもそれは感情を一切見せない、公務用の笑だ。
イザベラには、その心情が手に取るように分かる気がした。
白紙にされてしまったとはいえ、自分たちは夫婦だったのだから。
悲しんでくれている。
それだけで、十分だ。
もしかしたら、全然違う事を考えているかもしれない。
でも、それでも良いと思った。
永遠に彼の心の中の声なんて聞こえないのだから。
別れを惜しんでくれているのだ、と思った方が前へ進める。
彼は、謝ったじゃないか。
約束を守れなくてすまない、と。
彼なりにピリオドを打ってくれたじゃないか。
だから、私も、大丈夫。
私も、ピリオドを打ってあげよう。
イザベラは微笑んだ。
王太子妃としてではなく、あの、東屋で約束を交わした頃のように無邪気な笑顔で。
ルイスだけでなく、ゆっくり時間をかけて一人一人の顔を見つめながら。
ありがとうございました、お元気で、その気持ちを込めて。
全員の顔を見終わると、イザベラはビショップの顔を見た。
ビショップは微笑みながらイザベラの瞳を見つめ、顔を近づけた。
距離が近い、と思った瞬間、ビショップの唇がイザベラのおでこに当たる。
チュ、という軽い音がして、イザベラは額にキスされたのだ、と気が付いた。
「!!!」
イザベラは声にならない悲鳴を上げた。
ビショップは驚きすぎて固まったイザベラに頓着せずに耳元で囁いた。
「そちは、本当に愛らしい。
この場は、もう良いだろう。
持っていきたいものがあるのなら、持っていこうではないか。
…まぁ、持っていかなくても、困りはしないがな」
息を吐くように甘い言葉を吐くビショップに、イザベラはどう返答していいかさっぱり分からない。
そんなイザベラの困惑顔を更に愛しそうな瞳で見つめるビショップに、イザベラは困り果てた。
「ビショップ殿、こちらに滞在はするご予定はありますのでしょうか?
本日はもう夜も更けております。
ご滞在されるのであれば、既に離宮を用意しておりますし、もしよろしければ、このままこちらでゆっくりとお過ごし頂いて、歓迎の宴などを催し出来れば、と思っております。
如何でしょうか?」
助け船とばかりに王妃様のよく通る声が、イザベラとビショップに掛けられる。
そうだった、とイザベラは思った。
どれくらい滞在するかも分からないから、一応歓迎の宴などを考えていたのだ。
そして、結婚式、とまではいかないが、細やかなお祝いの宴を、と思い準備してきたではないか、と。
ただ、自分がそれに出たいか、と聞かれれば、答えはもちろん、いいえ、だ。
既に王太子妃の仮面を外してしまった自分に、いや、王太子妃をしていた自分が、一体どんな顔でその宴に出れるというのか。
「イザベラ、そちはどうしたい?
そなたの望みを聞くぞ?」
耳元で小さく囁くビショップの声に、イザベラは小さく首を振った。
それが、答えだ、と分かったのだろう。
「心違いは有難いが、結構だ。我の望みはこのまま戻ることだ」
そういうと、続きはイザベラの番だ、とばかりにイザベラの腰に添えた手に更に力を入れた。
イザベラは顔を上げた。
母のイヴェッタの泣き顔が目に入る。父であるグレイソンも泣いていた。
イザベラは胸が締め付けられるような気持ちになる。
王妃であるヴィエナですら、目に涙が浮かんでいた。
物語が終わるように、ここでの生活が、全て終わる。
イザベラは小さく息を吐いた。
「今まで、有難うございました。
今までの御恩は生涯忘れません。
皆様も、くれぐれもご自愛くださいませ」
誰一人、声を発しない。イザベラを、イザベラだけを全員が注視した。
イザベラの姿を目に焼き付ける様に。
イザベラの声を忘れないように。
今までイザベラを力強く押さえつけていたビショップの手の力が緩む。
こんなあっさりと離してくれるとは思わなかったが、多分、イザベラの意を汲んでくれたのだろう。
イザベラの顔に自然に笑みが浮かんだ。
さようなら。
声に出さずに、唇だけ動かす。
最後に、もうする事はないであろうカーテシーをする。
舞台の幕は閉じ、イザベラの演目が終了した。




