第二十八話
王妃との朝食を終えたイザベラはドレッサーに向かい気合を入れた。
鏡台にうつる自分の顔は、自分が思っていた以上に晴々としていた。
その自分の顔を見て、イザベラはホッとした。
これから王太子宮に向かう。
陰鬱な表情で向かうことは出来ない。
まだ、自分は王太子妃なのだ。
最後まで王妃様をサポートする、と明言したのだ。
だから。
王妃様が書いたシナリオ通りにふるまう。
「番に見いだされ、幸せ一杯の笑顔を振りまくイザベラ」として王太子宮で働く人々の記憶に残るように。
笑顔で最後の挨拶に行くのだ。
表向きは、留守にしていた間の確認。
実際は王太子宮の主要メンバーに別れの挨拶。
彼らはもうキャッサンドラをどうサポートするのかに向けて動き出している。
心強い限りだ。
そして、キャッサンドラ。
彼女は、まだ産後間もなく、体調もそこまで戻っていないために妃教育はまだ始まっていないが、どう立場が変わるかは既にルイスから説明を受けているはずだ。
アメリアが殊更丁寧に化粧をした。最後、リップブラシで丁寧に唇に色を乗せる。
髪の毛のセットも、いつも以上に丁寧に。
アメリアは悪戯っ子のような笑顔を見せて言った。
「さぁ、イザベラ様、出来ました。
皆さんに、イザベラ様の美しさを見せつけてあげましょう!」
微笑むイザベラに、アメリアは何度も満足そうに頷く。
カークウッドまでアメリアと同じリズムで一緒に頷いているのを見て、アメリアと共に吹き出してしまった。
一通り笑ったら、折角の入れた気合も吹き飛んでしまっていた。
だが、笑ったおかげで肩の力が抜けたように感じる。
「本当にあなたは人の心を和ませるわね。
フフ、私が肩の力を入れ過ぎていたのを知っていたのかしら?
ありがとう、カークウッド」
イザベラはカークウッドを撫でた。
カークウッドは気持ちよさそうに目を閉じる。
久々に王宮の客間から外に出た。
王宮の芝生の緑、遠くに見えるポプラ並木。
自分の目に焼き付ける様にイザベラは外をじっと見続けた。
王太子宮の表玄関では、執事のフィンレィと数人の侍女、召使が表玄関前で既に待機していた。
フィンレィのエスコートの元、イザベラは笑顔で降り立った。
王太子宮の入り口にある石灰岩を使ったシダを模った彫刻。
玄関を入ると真っ先に目を引く青磁の花瓶と、さり気なく活けられている大ぶりな枝木と花々。
細やかな木彫りの欄干。
たった、4日ぶりだというのに全てが懐かしく感じる。
…私の家だった、場所…。
フィンレィにエスコートされて、室内に足を踏み入れてまずは自分の執務室に向かう。
王太子宮の主要であるルークやミセス・ハウデンと、ミセス・オットマンに会うのだ。
あくまでも、留守中に異常がないか、などの打ち合わせの態を崩さないために。
移動しながらも廊下や壁、シャンデリアを見ていく。
時間がないのでゆっくりと一部屋ずつ部屋を見れないのは残念だ。
イザベラが部屋に入ると、既にイザベラが番であることを知っている人間が揃ってイザベラを待っていた。
皆、何とも言えない顔でイザベラを見ていた。
イザベラは執務室の机の前に行くと、おもむろに椅子に腰を掛けた。
「既に聞いている通り、私は妖精の番に選ばれました。
中途半端なまま全て置いていくのは心残りですが、皆はきちんと任務を全うすると信じています。
今まで、私の補佐をしてくれて、ありがとう。
とても助かりました。
これからは、西の方ことキャッサンドラ様を補佐し、ルイス様を盛り立ててください。
皆の活躍はトワイゼル王国の礎となるでしょう。
これからも、王太子宮の管理を、よろしくお願いします」
イザベラは一人一人の顔を見ながらゆっくりと話していった。
ルークもフィンレィも、ミセス・ハウデンもミセス・オットマンも皆、涙を浮かべ頷いた。
イザベラも微笑んで頷く。
そして執務室を出て向かったのは、コンサバートリ。
どうしても、ここで、キャッサンドラ様と会いたかったのだ。
コンサバートリはさほど広くはない。
が、お茶をするスペース位はある。
あそこは、イザベラの、ただ一つのオアシスだった。
イザベラだけのサンクチュアリ。
イザベラは顔を上げ、コンサバートリに向かう。
既に、キャッサンドラは椅子に座っていて、ベビーキャリーの中にいるであろう赤ん坊をあやしていた。
後ろに控えていたウィルソン子爵婦人が軽く目礼をする。気が付いたキャッサンドラも立ち上がって礼をする。
「いいのよ、キャッサンドラ様、ウィルソン子爵婦人。時間がないから挨拶は気にしないで頂戴」
イザベラはニッコリ笑って席に座るよう促す。
ベビーキャリーにいたマッケンジーが小さい声をあげた。
覗き込むと、イザベラがあんだケープをまいたマッケンジーと目が合った。
イザベラは思わず微笑む。
何て可愛らしい…
「キャッサンドラ様、マッケンジー様のお誕生、おめでとうございます。
取り込んでしまい、挨拶がままならず申し訳なかったわ。
ウィルソン子爵婦人も、ごめんなさいね。指示が中途半端になってしまって」
「お祝いのお言葉、ありがとうございます、王太子妃殿下」
「勿体ないお言葉ですわ、王太子妃殿下。幸い殿下が指示を残してくださったお陰でスムーズにお世話出来ております」
ウィルソン子爵婦人がマッケンジーを抱き上げて、イザベラに改めて紹介をする。
「王太子妃殿下のお名前を頂いて、マッケンジー・イザベラ・トワイゼルと名付けられました」
抱きますか?と聞かれたので頷いて赤ん坊を抱いてみる。
孤児院の慰問で抱いてきた赤ん坊と比べ、マッケンジーは生後間もな過ぎてイザベラは緊張しながら抱き上げる。
マッケンジーは口をパクパクさせてイザベラの小指をぎゅっと握った。
瞳の色はルイスと同じ翡翠の様な濃い緑。
全体的に見てルイス似なのだろう。
見ると、ケープ以外に、マッケンジーが履いている靴下も、帽子もイザベラが編んだものだった。
「ミドルネームに、私の名前を…?」
「はい、ルイス王太子殿下の希望で決まりました」
ウィルソン子爵婦人がハキハキと答える。
その様子を見て、イザベラは夫人に乳母をお願いしてよかったと、思った。
そして大人しくイザベラの腕の中で抱かれるマッケンジーの小さくそれでいて力強い暖かさに胸が一杯になる。
幸せの重み、なのね、これが。
赤ん坊特有のミルクの匂い。
抱いているだけで満ち足りた思いになる。
キュ、と最後に少しだけ強めに抱いて、ウィルソン子爵婦人にマッケンジーを返した。
「わざわざ時間をとってくださって、ありがとう。
特に、キャッサンドラ様はいまだ顔色も優れず…ご自愛くださいませ」
イザベラは立ち上がると座ったままのキャッサンドラを抱きしめた。
抱きしめられたキャッサンドラは一瞬肩を震わせたが、そのままイザベラに体を預ける。
「ルイス様の事をお願いします、王太子宮をお願いします。
あなた以外頼む方はいないの。
キャッサンドラ様、マッケンジー様と一緒に、ルイス様とどうかお幸せに。
私が幸せにして差し上げられなかった分、どうかよろしくお願いします」
イザベラが、キャッサンドラの耳元で囁くように懇願した。
キャッサンドラは息を呑んだ。
「あ…」
キャッサンドラが返事をする前にイザベラは立ち上がり、微笑んだ。
コンサバートリを一瞥して、キャッサンドラに目線を合わせる。
キャッサンドラは途方にくれた子供の様な目をしてイザベラを見上げる。
「キャッサンドラ様、くれぐれも、よろしくお願いします」
そう言ってキャッサンドラに頭を下げた。
キャッサンドラは慌てて立ち上がろうとしたが、イザベラに止められた。
「それでは、失礼するわ。ご機嫌よう」
最後にもう一度、イザベラはコンサバートリに視線を巡らせる。
目の端に、池のほとりの東屋が目に入る。
イザベラは目を伏せると、姿勢を正しコンサバートリを後にした。
そして振り返ることなく2度と足を踏み入れることのない王太子宮から出て行った。