61 Cars and Girl(前編)
日曜日。いよいよ細野先生の祖父である武蔵さん——通称じっちゃん——を訪問する約束の日だ。
駅前で待ち合わせて、先生が車で送ってくれるということになっている。
駅前ロータリーの自動車の乗降場付近で待っていると、ナンパ目的の野郎どもが煩わしい。
「ねえ、君。俺のスプラッシュマウンテンに乗ってみない?」
といきなり下品な下ネタでナンパしてきた野郎には流石にうんざりさせられたので、
「はぁ? It's a small worldでしょ?」
と迎撃してやったらあっけなく撃沈した。こっちは何せ元男だからな。迎撃するのもお手のものだぜ、ふふん。
そんな調子で細野先生が漸く到着するまでには、ナンパ師どもを四、五人ほども遇らう必要があっただろうか。
そうして到着した先生は、何だか見たことのない車に乗って現れた。左ハンドルだから外車なのか? きれいな山吹色のボディで、やけに角ばったフォルムをしている。ピカピカに磨き上げられてはいるようだが随分と古めかしい感じもする。それに何だか物凄い音を立てていて、この車大丈夫なのか? と不安になるような雰囲気を漂わせている。
「よぉ、待たせたか?」
わたしの不安とは対照的に、随分と軽い調子でそう言いながら、細野先生が車からひょいと降りてきた。
まぁ、わたしとしても少々早めに待ち合わせ場所には到着していたのだ。ところがそれでうるさいナンパ師どもに煩わされて若干の苛立ちを感じていたので、軽く先生に八つ当たりをしてしまう。
「遅いよ、先生。もぉ、危うくわたし怪しげなナンパ師にお持ち帰りされるところでしたよ!」
「な、なんだって? それはすまん! で、大丈夫だったんだよな?」
「見ての通りです。それよか先生、この車大丈夫なんですか? 何か物凄い音してるんですけど」
まったく。父のフェラーリの凄い音とは違った意味で凄い音をさせている。あれは父や叔父さんに言わせると芸術だそうだ。曰くその排気音はsoundではなく、noteなのだとか。
フェラーリの排気音がnoteなのだとしたら、先生の車のそれはnoiseだな。
「大丈夫なのかとは何だ、失礼な。これはれっきとしたフランス国営企業であるルノー謹製の名車だぞ」
胸を張って先生はそう語るが、えらく角ばっていてそんなに名車っぽい感じには見えない。少なくともうちのガレージにあるような名車たちとは似ても似つかぬ雰囲気だ。
「え〜、でも家のフェラーリと全然違うんだもん」
「くっ。そりゃこいつをフェラーリ様と一緒にはできんがな。だけどこれはこれでちょいとそこいらの車とはわけが違うんだよ、わけが」
まあルノーだかルソーだか知らんがフランス産ってことくらいは分かった。
そんな先生の愛車を蔑むような目で見ていたのがよほど気に障ったのか、先生は一層ムキになって口上を継ぐ。
「おい、何だよ。こいつは羊の皮を被った狼と呼ぶにふさわしい車でな」
「あ〜、はいはい。その話長くなりそうだから取り敢えず出発しましょうか、先生。車の中でお話は聞かせていただきますから」
「華名咲、お前な。学校と随分態度が違わないか?」
折角の熱弁をわたしが遮ってしまったものだから、先生が抗議してくる。
悪いが学校とプライベートはきっちり分ける方なんでな。なんていうのは冗談だけど面倒臭いのだ。
「先生、この車ルノーの何て言うんですか?」
「ん? おぉ、聞きたいか?」
「いえ、別に」
「おーいっ! お前なあ、訊いておいてそれはないだろうが。まったく、酷いやつだな。……まあいい、取り敢えず乗れよ。中でたっぷり聞かせてやる」
言われて車に乗り込むが、フェラーリみたいにシートが低くて乗り難い。しかも見た目ツーボックスセダンっぽいのに二人乗りだ。て言うかうわっ、何だこれ? シートの後ろ、エンジンむき出しじゃん。
これ、そこいらの車とはわけが違うという先生の言い分も、実は強ち大げさな話じゃないのかもしれない。
「この車はな、ルノー5ターボIIって言うんだよ。ルノーがWRCっていうラリーの世界選手権で勝つために、元々FFだったルノー5って言う車のエンジンを無理やり後ろに積んでミッドシップに作り変えたっていう、相当変わり種なんだけどな」
FF? ゲームか何かの話か? 今ひとつ、先生の熱量とは温度差を感じてしまわざるを得ない。
そんな車内には爆音が轟き渡り、猛烈にうるさかった。何しろ室内にエンジンむき出し。ホントにノイズとしか思えない。
お陰でお互いに話す声も怒鳴り声に近くなってしまう。
「やっぱり変な車なんですね」
「変って言うなよ。この車はじっちゃんから譲り受けたもんでな。それをフルレストアしてボディはスポット溶接増し。シートだってレカロだぞ。シートベルトはWILLANS製で四点式。足回りははオランダのKONI製に換えてある。極めつけにエンジンはN1レース仕様のB16Aエンジンに換装してあってな。オリジナルは二百十馬力のドッカンターボだったが、載せ替えたエンジンは、百九十馬力とは言えドライサンプ式だから低重心でな。それにN/AのVTECエンジンはドッカンターボとはレスポンスが段違いだからな。峠辺りならフェラーリだってかもれるんじゃないかと思うぞ。あ、ターボエンジンじゃなくなったから5ターボIIって名前も返上かな」
と非常に熱く語られてしまったが、正直なところ、先生が言ってることのほぼすべてが理解できなかった。だけど何かうちのフェラーリをディスられた気はする。さっきこの車を馬鹿にしたから根に持っているのだろうか。そんなところから先生の器の小ささが滲み出ている気がした。
車のわりに先生の運転は決して荒っぽいものではなかったが、道中兎に角騒音と振動が酷かった。
何はともあれ、無事に先生のじっちゃん邸には到着したので良しとするが、これでは先生の助手席に奥さんが座る日が来るのはまだまだ遠いだろうな。当分は独身生活を続けるがいい。
それはさておき、高い板塀に囲まれた敷地の入口は、屋根付きの門のある昔風だが立派な造りだった。
門を潜って中に入ると、よく手入れされた庭と数寄屋造りのお手本のような佇まいの家屋が目に入ってきた。
「じっちゃ〜ん、来たよ〜」
きゃらきゃらと小気味良い音を立てて滑る、手入れの良い格子戸を開けて先生が声を掛けると、奥からじっちゃんこと武蔵さんの声に出迎えられた。
「おお、上がってこーい」
「お邪魔しまーす」
これだけの、至って軽い調子の簡単なやり取りが交わされると、先生が靴を脱いでまるで女性のように楚々とした所作で上がり框を上がる。
「どうぞ」
そう言ってスリッパを出してわたしにも上がるよう促した。
「お邪魔します」
わたしも上がらせてもらい、靴を揃えてから先生の後に続いて奥の部屋へ向かった。
「やあ、いらっしゃい。よく来たね」
そう言って迎えてくれた武蔵さんは、立派な白髭を鼻の下に蓄えた恰幅のいい老人だった。先生も背が高いが武蔵さんも大柄だ。
「じっちゃん、こちらが前に話した例の生徒」
先生に紹介されて自己紹介をする。
「はじめまして。お招きありがとうございます。華名咲夏葉と申します」
「これはこれは、美しいお嬢さんだ。ん? 今、華名咲と言ったかね?」
「はい、華名咲です」
「ほぉ、そうかね。さあさあお座りなさい。生憎今日は妻が出かけていてね。そうだ。洋輔、お茶を淹れてきてもらえるか。台所の戸棚にとらやの羊羹もあるから一緒にな」
「了解、了解」
先生が台所の方へと捌けていくのを見届けて、武蔵さんが再び話し始めた。
「華名咲さんというと、もしかして華名咲晴朗のところのお嬢さんかね」
「え、ご存知なんですか? 晴朗は祖父です」
「やっぱりそうだったかね。この辺りで華名咲と言ったら、旧華名咲財閥しか思い当たらんからの。そうかそうか。儂が探偵業を始める前に教員をやっていてね。華名咲晴朗は実はその頃の教え子じゃよ。まさかその孫が洋輔の受け持ちだとはなぁ。奇遇奇遇、はっはっは」
先生のじっちゃんがうちのお祖父ちゃんの先生だったとは何という偶然。そんなこともあるものなのか。事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもんだ。……ね。
「さてと。洋輔から話は聞かせてもらっておるが、洋輔には話してないことがあるじゃろう? ほっほっほ」
何だと。当てずっぽうか? それともお見通しか? どっちだ?
返答に窮していると武蔵さんが安心させるように言葉を続けた。
「心配せんでいい。どれ、洋輔は適当に追い出してから話を聞かせてもらうかの。大丈夫、探偵業にも守秘義務というもんがあっての。聞いた話は一切漏らさんから安心せい」
……もしかしてきな臭くなってきたか? 勘弁してくれよ、まったくよ〜。
「お待たせ〜。はい、どうぞ〜」
何も知らずに呑気にお茶を注いでくれている先生は、きっともうすぐ追い出されるのだろう。そうなったらわたしはどうなるのだろうか。怖いなぁ、恐ろしいなぁ。不安しかないわ。
「おお、ご苦労さん。洋輔、悪いんだが羊羹食ってからでいいからよ、すみれを迎えに行ってもらえるか。歌舞伎を見に行ってるんだよ」
「え、今から? いいけど、華名咲はどうするんだよ……」
「心配いらん。儂がお嬢さんからちゃんと話を聞いておくから、安心して行って来い。ああ、ルノーじゃなくてうちのジャグアで行けよ。あ、すみれっていうのは儂の妻で、こいつにとっちゃ祖母さんでね」
そう言ってじっちゃんはおちゃめにウィンクをしてみせた。
「しょうがねえな〜。どら、それじゃさっさと行ってくるか。歌舞伎座でいいんだよね? 華名咲、悪いけどじっちゃんの相手頼むわ」
マジか……。
それから本当に先生はさっさと出て行ってしまったので、わたしはじっちゃんの前で一人取り残されてしまった。得体の知れないこの爺さんと二人きりにされるのはかなり心細さを感じるのだけどなぁ。
「さてと。始めるとするかいのお、華名咲のお嬢ちゃん」
にこやかな顔でそう言っているが、こういう顔のことを知っているぞ。そうだ、こういうのを顔は笑っているが目が笑っていないと言うんだ……。
Subtitle from Prefab Sprout - Cars and Girl (1988)
Written by Paddy McAloon




