妖精令嬢の里帰り
フィアネットは取り替え子だった。
産まれて間もなく、彼女は妖精に攫われてしまったことがある。
乳母がベッドから忽然と消えたフィアネットに気づいて、酷く取り乱しながらも懸命に探したそうだ。娘が行方不明だと報告を受けて、慌てた両親は親族も頼って大勢で必死に捜索したが、見つかることなく。
そのまま数年が経ち、ある日何の前触れもなくフィアネットは帰ってきたのだ。
彼女自身、消えてしまっていた時の記憶はない。両親はそれでも無事でよかったと、涙を流しながら抱きしめてくれたことだけは覚えている。
それがフィアネットの中に残る最初の記憶――
『――いつでも帰っておいで』
……そのはずだ。
♢♢♢
「フィアネット……君とは、もう関わりたくない」
自分を拒絶する言葉を聞いても、フィアネットの心はどこか凪いだような静けさをしていた。
彼の家に呼び出され、そして唐突に告げられた別れ。
「君には悪いとは思うけれど、この気持ちに嘘は吐けない。君の前では正直にありたいと思っている……だから、本当のことを言おう。俺は、君のことが怖くてたまらない。君が何を考えているのかさっぱり分からないんだ……」
目の前の青年は、意を決した表情でフィアネットに語りかけてくる。
その眼に浮かぶ感情は彼自身の言葉通り『恐怖』であった。
「お願いだ、フィアネット。君とは……もうこれっきりにしたい」
彼の悲痛な声音。本心からの言葉。彼は――フィアネットの婚約者は、心の底から怯えていた。
「……如何あっても、俺は君を愛せない。婚約はなかったことにしてくれ」
そこまで言い切ると、彼はフィアネットの顔色を窺うように覗き込む。その姿はあまりにも情けなくて、頼りなくて、初めて会った時の面影は微塵も残っていない。
『君のことを愛すると誓う』
そう告げられて、嬉しかったのは今でも覚えている。けれど――
分かっている。ここまで彼を追い詰めたのは、フィアネット自身。彼は何も悪くない。
くいくいと何かが、スカートの裾を引く。意識をそちらに向ければ、ちらりと小さな影が見え、恥ずかしそうに隠れてしまった。優しい子だ、心配してくれているのだろう。フィアネットは、大丈夫と呟いてその影を安心させる。
再び彼を見れば、顔を引き攣らせていた。それに加え、恐ろしいものを見たと後ずさる。恐怖に彩られたその顔は今にも悲鳴を上げそうだ。
――彼とは最早これまで、なのだろう。
これ以上彼の苦しむ姿を見たくない。フィアネットは溜息を吐いた。
「……分かりました。両親にお伝えしておきます」
彼が話を切り出して、初めて口を開く。返答はそれだけで、十分だった。
♢♢♢
馬車で屋敷に帰り、事の顛末を両親に話すと、
「……そうか、仕方ないが悲しいことだ」
「そうね。でも、あなたの好きにしていいのよ」
二人とも、フィアネットを優しく抱きしめて、涙を流してくれる。
「ごめんなさい……お父様、お母様」
「いいんだよ、私たちの愛しい娘」
「あなたがいいなら別にいいのよ。私たちの可愛い子」
「……ありがとう。お父様、お母様」
そう言って、彼らは悲しんでくれた。けれど、フィアネットの心は、相も変わらず凪いだまま。彼女の中で感情という名の風が吹くことはない。
彼らの声が遠い場所から聴こえるように、ぼんやりとした感覚で耳に届く。
『本当に大丈夫かい?』
『とても辛かったでしょう?』
両親の表情と声音から、フィアネットの身を案じているように聞こえる。でも――嘘だ。
『悲しければ、いつ泣いたっていいんだ』
『あなたが傷付くことが、私達にとっての不幸なのよ』
――それも嘘。フィアネットがいくら傷付こうと、彼らは心配なんてしない。いつも口と態度だけで、心は真逆。
『とにかくお前が無事なら、私達は何もいらない』
『だって、私達は家族なのだから』
――あれもこれも全部、嘘だった。フィアネットには分かっている。分からないはずがない。
常に、他人が嘘をついているかついていないかの区別がその顔と声ですぐに分かってしまうのだから。
それで、いつも気味悪がられてきた。幼い頃のフィアネットはどうして嘘の判別がつくと疎まれるのか知らなかった。
フィアネットにとって、「どうやって嘘を見分けるの」と訊かれれば、思わず首を傾げてしまう。それは「どうやって呼吸をするの」と聞かれているに等しい事柄だったからだ。
そのように返答すれば、相手の目には恐怖が籠もる。いつものことだ。
それでも他人はフィアネットに嘘を吐き続ける。本当のことを言えばいいのに、とそう思っても。
婚約者だった彼にもかつてはそう伝えたことがある。彼は頷いて言った。
『約束しよう。俺は君に嘘は吐かない』
彼はフィアネットと『約束』を交わしたのだ。そして、彼は嘘を吐かなくなった。だって、『約束』は絶対だから、破ることは出来ない。もし破るようなことがあれば――
彼はそれを聞いて、顔を蒼白にしていた。なぜ、「取り返しのつかないことをした」と言うのだろう。約束を破らなければ、それでいいのに。
彼との婚約は取り消されたが、これはフィアネットとの『約束』ではない。彼と交わした約束は「嘘を吐かない」というものの一つだけだ。彼は、フィアネットを愛することはなかった。彼女自身、彼のことを好きだったのだろうか、それは今でもどうなのか分からない。だが、彼の怯える顔を見ることがとても辛かったのは確かだ。
フィアネットは、自分の存在を他者から快く思われたことは一度もない。しかし何度か、好奇の目線に晒されたことはある。
その理由は『嘘を見分けることが出来る』ことと、もう一つ。――取替え子ゆえに『妖精を見ることが出来る』だった。
これも彼女からしてみれば、おかしなことである。妖精が見えることに何故驚かれなければならないのか。物心ついた時から、妖精とは身近な存在であり、自分の友達であった。家の中や外。果ては行く先々で彼らと出会う。フィアネットにとって彼らはごくありふれた隣人のような存在。
むしろ何故、自分以外の人は見えていないのか疑問で仕方なかった。
――あなた達は、こんなに近くにいる彼らに気付いていないのですか?
そう訊けば、渋面を作られてこう言われる。
『君にとっては当たり前だが、私達にとってそれはおかしいのだ』と。
納得のいかない話であると、その時は憤ったフィアネットだったが、年を経る毎に考えは変わっていく。
いや、物事に分別がついたと言うべきか。
成長し、物事を客観視できるようになればなるほど、自分の存在は他者にとって異常そのものだと理解出来るようになった。
なるほど、おかしいのは自分以外の他人ではなく、自分の方なのか。
少女から大人の女性になったフィアネットは、分別を弁えることにした。
もう他者に何を言われても、怒りは沸いて来ない。ただ、少ししんみりとするだけ。
月日は自分の意思に反して無情にも流れていく。けれども、相変わらず他人とは相容れることは出来なかった。
婚約者だった彼とも、そして――両親とも。
彼らは、長きに渡ってフィアネットを見てきた。彼女のおかしさを目の前で体験してきたのだ。次第に彼らの中で嘘が増えていく。
婚約者だった彼から拒絶され、フィアネットの中で何かが弾けた。
今まで、フィアネットは目を逸らしてきた。でも、もう耐えられない。これ以上嘘を重ねていく両親を見るのは――
「……お父様、お母様。一つだけ訊いてもいいですか?」
消えたフィアネットが戻ってきてくれた時、本当の涙を流してくれた両親に向かって、彼女は問う。
「ああ、どうしたんだフィアネット。何でも訊いてごらん」
「そうよ、私達に答えることが出来るならいくらでも」
今も――
「……私を――愛していますか?」
怖くて一度も訊けなかった問いの答えを聞いて、フィアネットは静かに微笑んだ。
♢♢♢
ガタゴトと不規則に体が揺れる。
フィアネットは、馬車の中で流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
『心の整理が出来るまで、しばらく体を休めるといい』
その申し出をフィアネットは粛々と受け入れたのだ。今は、両親が持つ別荘に向かって馬車を走らせている際中。フィアネットは大人しく座っていた。
「お嬢様、あと少しで到着になります」
御者が声をかけてきた。同乗する侍女も口を開く。
「どのようなところなのでしょう、お嬢様。湖のほとりに建てられているそうですし、きっと素晴らしいところなのでしょうね」
話しかけられて返答する以外、道中一度も口を開くことがなかったフィアネットを気遣うような声音だ。
「……そうに違いないのでしょうね、きっと」
彼女は景色を見たまま上の空で、言葉を返す。
心ここに在らずのフィアネットを見て、侍女は言葉を詰まらせる。「何も話しかけないで」と彼女の態度が如実に表している。
到頭、侍女は黙る他無かった。馬車はガタゴトと目的地へ向かってひたすらに進んでいく。
「――停めてください」
到着まであと僅かというところで、フィアネットが唐突に噤んでいた口を開いた。
言われるがまで御者は馬の足を止めさせる。そばには不気味な深い森がある。それを見て、侍女は早く通り過ぎたいと思った矢先だった。
「お嬢様……どうなされたのですか? もう湖が見えてきていますよ」
「私はここでお別れです。今までありがとうございました。お父様とお母様にもさようならとお伝えください」
そして一方的に別れを告げる。
侍女は動転した。慌ててフィアネットに言葉を返す。
「一体どういう……お嬢様!」
フィアネットはもう侍女のことを見ていなかった。「行きましょう、みんな」と呟くや否や馬車の扉を開けると、外へ勢いよく飛び出す。
『――湖が見えてきたら、森にお入りなさい。そうすれば後は彼らが、道を教えてくれる』
フィアネットは湖の近くにある深く生い茂った森の中へ駆け行ってしまった。
慌てて侍女と御者もその背中を追いかける。だが、彼女の姿はすぐに木々に隠れて見えなくなる。薄暗い森の中だ。下手をすれば、自分達も彼女のように見えなくなってしまう可能性が高い。侍女と御者は諦めて引き返すしか無かった。
彼女達は急いで近くにある村へ馬車を飛ばして、村の者達に事情を話して人手を集めるとすぐさまフィアネットの捜索を開始した。
しかし、いくら森の中を大勢で探しても彼女は見つからない。まるで、霧の中に溶けてしまったかのように、彼女の痕跡すら一つも見つかることはなかった。
捜索は短い期間で打ち切られる。
なおも食い下がろうとする侍女に、手を貸してくれた村長は苦々しい口調で言ったのだった。
――『昔からこの森は、道になっていると言われている。……フィアネット様は、妖精の世界に行ってしまわれたのだ』、と。
こうして赤子の時と同じように、フィアネットの姿は再び忽然と消えてしまったのだった。
♢♢♢
彼らの後を、フィアネットはついていく。
薄暗い森でも、彼らの歩いた道を歩けば、何も危険はなかった。
森を抜けると、そこには湖が目の前には広がっている。
陽の光が水面に反射し、眩しくてフィアネットは目を細めた。
徐々に光に目が慣れて周囲を見れば、見渡す限りに人とは異なる容姿をした者達がいた。
「――おかえり、フィアネット」
誰かが言う。声の主は、大きな黒猫だ。
黒猫は、フィアネットに近寄ると尻尾を揺らす。
「――あらあら、少し見ない間に立派になったわね」
フィアネットの周りを人の子供よりも遥かに小さな羽の生えた少女がぐるりと飛び回る。
「ただいま――お父さん、お母さん」
ここに訪れて思い出した、こちらの世界で暮らしていた記憶。まだ朧げながらも、次第にはっきりとしてくる自分の中にある二人の姿を、目の前にいる今の姿と見比べる。彼らはどれほど時が経とうと、変わることはなかった。
♢♢♢
『――私は人間なの?』
『そうとも言えるし、そうでないとも言えるね』
『――どうして?』
『あなたの体は確かに人間だけど、心は私達妖精と同じだからよ』
『――私、人間の世界へ行ってみたいわ。私も人間だというのなら、人の世界で生きなければならないと思うの』
『……そうか、君はそう思うのか。今までここで暮らしてきた以上、人間達と君はおそらく分かり合えることは難しいと思う。それでも、彼らの世界に興味があるのなら、止めはしないよ。ただ、私達は家族だ。遠く離れていてもいつでも繋がっている』
『フィアネット、ここを出れば、そのことのほとんどをあなたは忘れてしまうでしょうけど、いつまでも私達は一緒よ』
『――うん』
『なら、行きなさい。道案内は彼らに頼むといい。帰りも連れてきてくれるだろう』
『我慢はしては駄目よ、辛いことがあったら……』
『……いつでも帰っておいで。約束だ。帰りたいと願えば、記憶は帰り道についてだけほんの少し戻ってくる』
『――うん、約束。それじゃあ……いってきます。お父さん、お母さん』
『いってらっしゃい。ずっと愛してる、私達のフィアネット』
♢♢♢
心に一陣の風が吹いた。
「お父さん……お母さん……」
フィアネットの目から涙が溢れ落ちる。
「おや、どうしたんだい、そんなに泣いて」
「あら、体は大きくなって帰ってきたというのに、中身は変わらないのね。相変わらず、仕方のない子」
ふたりは、フィアネットのすぐそばでついに泣き崩れた彼女を慰める。
彼らは、昔の彼らのままでちっとも変わっていなかった。
彼らは決して嘘を吐かない。それが嬉しくて、フィアネットは何も言わずただ泣き続けた。
スカートの裾に隠れていた小人達が、ひょっこりと顔を出す。
湖に集まった妖精達も、彼女の帰りを歓迎する。
人の世界で暮らすことこそが自分の幸せだと、幼いフィアネットは思った。しかし、それは彼女自身が望む本当の幸せではなかった。結局、フィアネットは人の世界には溶け込めなかった。それが只々悲しかったけれど、妖精達は彼女を受け入れてくれる。
それがとても嬉しくて、でも悔しくてフィアネットは大粒の涙を流すばかりだった。
涙で濡れた顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼女はもう一度言う。
「……ただいま、みんな」
彼らが浮かべる心からの微笑みを見て、フィアネットは泫然としながら傷心を引きずって、故郷に帰ってきたのだと実感するのだった。