仇討
とある一室に通された二人は、何をするでもなく時が満ちるのをひたすら待った。運ばれてきた食事に手を付ける。戸惑いはあったが、毒が入っているわけでもあるまいし、変な意地を張っても損をするだけと、あっさり口に入れ、咀嚼して飲み込んだ。
腹が満たされたところに、深編笠を被った武士がやってきた。半獣の始祖がいた村で佐之助と人知れず会っていた武士だ。二人はもちろん、そんなことは知らない。
「これより物の怪紛いの巣窟へ攻め入る。ついてこい。」
問答無用といった風情であったが、お鈴はむっとして噛みつく。
「ちょいと待ちな。顔くらい見せたらどうなんだい。」
武士は笠から見えている口を笑わせ、笠の紐を解いた。
「ならば、とくと見るがいい。」
深編笠から現れた顔は、眦がきゅっと上がった鋭い目つきも印象的であったが、何より顔の中央を斜めに走った傷跡が目を引いた。
「一度会っているが、一瞬であったからな。」
何を言っているのか分からず、眉を顰めたお鈴と松だったが、やがて思い至り、声を上げた。
「あの時の鷹……? あんただったのかい!!」
熊の獣人、勝伍を殺めた鷹である。当時は半獣と思っていたが、彼もまた獣人であったというわけだ。
「何で勝伍を殺したんだい!」
「理由など明らかではないか。金と女に目が眩んだ獣人の恥さらしだ。村を出た時点で大罪ではあったがな。」
掟破りは死でもって償わなければならない。それを彼は実行したのだ。
「あたしらは何で殺さないのさ。」
「お前たちは里の外で生まれた。抜け出したわけではない。それに、お頭が大層気に入っているのだ。あれ程の手練れを相手にしながらこうして生きている。その腕、放っておくには惜しい。我らが目的のために一肌脱いでもらう。」
お鈴と松は喉の奥をくっと鳴らして、立ち上がった。
「あんた、名は?」
「秀麿。」
秀麿は二人を誘って表へ出た。門の外は既に暗く、松明を持った村人で溢れ返っていた。老いも若きも男も女も関係ない。村で最初に会った爺さんまで混じっていた。
「これは、一体なんだい?」
「里の者は全員獣人で、忍び。戦える者総出で攻撃を仕掛ける。最終目標は勝利ではなく、殲滅だ。」
それにはこれだけの数が必要ということか。お鈴は事の大きさに改めて身震いした。
「さあ、行くぞ。」
秀麿の後を村人がまたぞろついて歩いていく。無駄口を叩く者はおらず、僅かな足音が響くのみであった。
道すがら、鈴は秀麿に尋ねた。
「物の怪紛いの巣窟が近くにありながら、今まで放っておいたのは何故だい?」
「もともとそこは、半獣の里だったのだ。それを物の怪紛いに襲わせた。相殺を狙っていたが、生憎と物の怪紛いの方が数が勝っていて、分があった。半獣の里は滅ぼせたが、代わりに物の怪紛いの巣窟ができてしまったというわけだ。」
「半獣の里?」
「お頭のご先祖様である田村新太郎様がお生まれになった村だ。人間の手によって半獣が次々と生み出され、いつしか村となった。それが半獣の里だ。」
お鈴はその顔に嫌悪感を露わにした。半獣はいわば獣人の祖先。それを人間の目障りだからと滅ぼしてしまうなど、何と情に欠けた仕打ちであろう。
「いつか、罰が当たるよ。」
お鈴は独り言のように呟いた。空には下弦の月が浮かんでいる。村人たちは人の姿で歩いているので、それだけでは明るさが足りず、松明などを灯している。お鈴はそれが不思議でならなかったのだが……。
「この大人数だ。半獣の姿で行ったらその匂いだけで悟られて逃げられてしまうからな。人の姿であればおびき寄せこそすれ、逃げられることはあるまい。松明も餌である人間が持つ者だと奴らは知っている。それを逆に利用してやるのだ。」
いつか佐之助が言った、人の姿になりな、という台詞が耳に聞こえてくるようだ。お鈴と松は猫の姿のまま歩いている。彼らの前で人間になりたくなかった。弱みを見せるようで気が引けたのだ。
途中、物の怪紛いが幾度も現れたが、その度に村人が数人がかりで仕留めた。さすがは忍び。人の姿でもなかなかに強い。
一刻半も歩いただろうか。現れる物の怪紛いの数が尋常ではなくなってきていた。物の怪紛いの巣窟に入ったのだ。群がる物の怪紛いを前に、村人たちは松明を放り投げ、ついに変化を開始した。お鈴と松はその様子を固唾を飲んで見守る。体から噴き出す無数の毛。顔や手足が次第と形を変えていく。ある者は犬に、ある者は猪に。様々な獣へと変貌を遂げていった。そして変化を完了させると共に、物の怪紛いへと斬り込む。
お鈴と松も黙って見ているわけにはいかなかった。物の怪紛いが次々と襲いかかってくる。それを刀で、そして尺八で撃破していく。首を刎ね、心臓を突き、頭を砕く。その繰り返しにお鈴も松もおかしくなってきて、正気を保つのが難しくなってきていた。物の怪紛いが、普通の人間に見えてくるのだ。おゆきのような物の怪紛いに会ってしまったからだろうか。しかし、躊躇している場合ではなかった。相手は牙を剥き、よく砥がれた爪でもって肉を抉ろうとしてくる。中には刀を持つ者すらいた。情にほだされていてはこちらがやられてしまう。
それにしても、とお鈴は思った。
「まるで戦だね。」
「戦の方がまだましだ。大将を倒せばそれで終わるからな。」
松が尺八で敵を往なしながら言う。秀麿が言うように、最終目標は勝利ではなく殲滅である以上、敵を根絶やしにするまで戦わなくてはならない。その秀麿は鷹の姿に変化して、空を滑空し、縦横無尽に物の怪紛いを斬り倒している。敵に回したくない相手だとつくづく思わされる。
こうして武器を振り回しているうちに夜明けが近づいてきた。空が東から蒼くなっていく。どの村人も疲労の色を濃くしていたが、手を抜く者は一人もいなかった。そして、繰り広げられていた死闘が漸く終わりの時を迎える。倒す相手、即ち物の怪紛いがいなくなったのだ。
「終わったのか……?」
「や、やったぞー!!」
勝鬨がどこからともなく湧き起こり、大地に響き渡った。秀麿が空を飛び回り、偵察して降りてくる。
「皆、よくやった。物の怪紛いの巣窟は全滅だ。」
ある者は笑い、ある者は泣いて喜んだ。中にはその場に頽れる者もいた。怪我人も大勢いた。実際、物の怪紛いにやられて命を落としたものも少なくない。しかし、同胞の死を悼むより、敵を殲滅させた喜びの方が大きかった。そんな中でお鈴と松だけは複雑な心境で表情を曇らせているのだった。
村人たちは晴れやかな笑顔で村へ帰りかけたが、疲労困憊も甚だしく、皆、足が思うように動かなかった。そこで休憩がてら祝杯が挙げられることになる。村人たちは獣の皮を脱ぐみたいにして人間の姿に戻る。用意の良いことで、酒が皆に振舞われた。勝利の美酒に酔いしれるとはこのことで、最初歌を歌ったり騒いだりしていたのが、やがて眠り薬が入っていたのかと疑いたくなるくらいに、皆地べたに転がって眠り始めた。人間の姿になれば、夜行性ではなくなるので、この時間なら当たり前なのかもしれない。あの秀麿でさえも、胡坐をかいた状態でうとうとし始めている。
「ちょっと、いいのかい? こんなところで寝ちまって。」
お鈴が呆れて秀麿に言った。お鈴と松は相変わらず猫の姿のままである。秀麿はとろんとした声で答えた。
「休憩も必要だ。物の怪紛いもいなくなったのだから、心配はいらぬ。」
「そりゃ、そうだけどさぁ。」
お鈴が言い終える前に、秀麿は寝息を立てていた。お鈴と松は、ため息をついて、彼らの寝顔を見回していたが、ふと、真顔になって、顔を見合わせた。そして無言で頷き、地べたに這いつくばって、一旦寝るふりをしつつ、音を立てないよう慎重に体を進めた。この機に乗じて、抜け出してやるのだ。
向かうは獣人の里。修二郎を助けるなら、村人の少ない今しかない! 眠れる獣人たちが見えなくなったところで、お鈴と松は一気に駆け出した。
お鈴と松だってそれはそれは疲れていた。それでも疲弊した身体に鞭打つようにして走る。これ以上、大切な人を失うわけにはいかない。熱い思いが、悲鳴を上げる全身を動かしていた。
村に着いた時には、日が高くなりつつあった。呼吸を整えてから、清太郎の屋敷の裏手へ回り、塀を飛び越えた。屋敷の中は静まり返っている。皆まだ眠っているのか……? 猫足で廊下をそろそろと歩く。修二郎はどこに閉じ込められているのだろう。鼻と耳の感覚を研ぎ澄ます。と、嗅いだことのある匂いが近くから漂ってくるではないか。思わず振り向いて、叫びそうになる。性懲りもなく、佐之助なのであった。
佐之助は腕組みし、白けた様子で二人を見つめていた。お鈴と松は冷や汗を垂らしながら口をぱくぱく動かす。なんでこんなところに、とか、どうしていつもお前なんだ、とかそういう風に。佐之助は下唇を親指でなぞり、しばらく考え込んでいたが、急に背中を向けて無言で歩き出した。お鈴と松は、ついてこいと言われているような気がして、その背中を追った。
ある部屋の前で止まり、襖を開けて、中へ入るように目で促す。中を覗くと、そこには縄で縛られたままの修二郎が横たわっていた。口には猿轡を噛まされている。お鈴は修二郎の側に跪き、肩を揺らした。美しい目が薄っすらと開かれる。
「!」
修二郎はがばっと起き上がり、目を見開いた。お鈴が口の前に指を立て、猿轡を外す。鈴音、と口を動かす修二郎の顔は途端に笑顔で輝きだす。お鈴が猫の顔ではにかんでいるうちに、松が縄を解いた。思い出したように、戸口に立っている佐之助を見やる。修二郎の首に匕首を突きつけていた時と同じ、への字口で面白くなさそうな顔をしている。
「どうして?」
修二郎は小さな声で問うた。どうして自分たちを助ける気になったのか、不思議でならない。佐之助は肩を聳やかした。
「さあね。気が変わらないうちに、行きな。」
せっつかれて、お鈴と松、それに修二郎は廊下へ出た。そして裏口から抜け出そうと庭に降りた時だった。
「何だ、お前たちは?」
使用人の一人にすぐさま見つかってしまう。慌てて口を封じようとしたが、遅かった。
「客人と人質が逃げようとしているぞ!! 誰か、お頭に知らせるんだ!」
襖という襖がすらりと音を立てて開かれ、黒装束を身に纏った忍びたちがぞろぞろと現れる。
「くっ! 皆物の怪紛いの巣窟へ行ったんじゃなかったのかい?」
「最低限の警備は残しておくものだ、鈴音殿。」
その声に振り返る。頭領の清太郎だ。
「里を抜けることは許されないと言ったはずだが。」
「あたしらはそうなんだろうね。だけど、修さんは関係ないだろう?」
お鈴は三味線から刀を抜き取り、修二郎を庇うように立った。
「その男は陰でこそこそと嗅ぎまわっていたのだ。我々の計画を知ってしまったからには、生かしてはおけぬ。」
「約束が違うじゃないか!」
清太郎の口元が陰湿に歪む。闇の底から拾い上げたような笑みだ。
「約束とは破るためにあるようなものだ。掟と違ってな。」
「あんたらの掟なんか知るもんか! 一家が皆殺しにされた方の身になってごらん!」
「個人の恨みなどにいちいち構っていられるか。」
それが大義というものだと、清太郎は諭す。
「けっ! 大義が聞いて呆れるぜ! 人の道を何だと思ってやがる。悪さも働いていない半獣を殺そうなんざ、全うな奴の考えるこっちゃねぇ。今までいろんな奴を見てきたがな、人間の方が余程悪どいことをしてらぁ。」
寡黙な松が珍しく捲くし立てた。清太郎の目つきが険しくなる。
「黙れ。人間の脅威になってからでは遅いのだ。未然に防ぐのは当然であろう。我らが趣意に背くとあらば、致し方あるまい。お前たちも処分する。斬れ!」
清太郎の号令で、忍びたちが動いた。黒装束の中身は獣。その獣たちが、続々と襲いかかってくる。
鹿が角で突き刺そうと突進してきた。お鈴は刀でその角を受け、跳ね返して、根元を一気に斬り落とす。鹿は残されたもう一本の角をなおも突き刺そうと振り回す。身を翻してそれを避け、背後に回って後ろから心臓を一突きする。倒れた鹿から大小の刀を抜き取る。
「修さん!」
投げられた刀を修二郎は受け取り、両方とも抜き放った。と、同時に、刀で弧を描き、周りに群がる獣人たちを薙いだ。鮮血が迸る。
その後ろで松が猪と対峙していた。まさしく猪突猛進で突っ込んでくるのを、何度も尺八で殴りつけるが、怯む様子がない。
「何て野郎だ。」
不死身を相手にしているようだ。松は渾身の力で猪の横っ面をぶん殴った。猪はよろけながらもさらに突っ込んでくる。その鼻先をひらりと躱し、首の後ろを打つ。それで漸く動かなくなった。
犬の獣人がお鈴に刀を向けている。お鈴は刀を横に払い除け、面を取りに行ったが紙一重で躱された。すぐさま袈裟に斬りかかってくる。即座に刀で応じ、互いに押しやりながら睨み合う。力では相手の方に分があった。刀が次第と顔に近づいてくる。お鈴は刀を滑らせ、相手の刀を受け流し、逆袈裟に斬り上げた。刀の切っ先が犬の獣人の胸を斜めに走り、血が噴き出す。
修二郎は寄ってたかってくる者共を二刀で往なし、斬り捨てていく。右の刀、左の刀両方で攻撃を受け止め、跳ね返すや二人を同時に斬る。正面から来た者は胸を十字に斬り裂き、体を反転させたかと思うと二刀を横に引き、後ろに立っていた敵を二の字に斬る。
鶏の獣人が嘴に刀を挟み、空中から首を掻こうと飛んでくる。松は素早く飛び退いて、鶏が再び跳び上がったところに毒針を吹く。鶏は羽を散らしながら落下した。それを踏みつけるようにして牛が角を向け飛び込んでくる。松の尺八が角をへし折り、頭蓋骨を砕く。
最初、三人の戦いぶりを傍で窺っていた清太郎だったが、みるみるうちに犬へと変化して、忍びたちを跳ね除けながら突進して来た。振りかぶられた刀をお鈴は必死で受け止めた。
「くうっ……!」
強烈な打撃に腕が軋む。お鈴は間合いを取ろうと後方へ飛び退いたが、すぐに追い詰められてしまう。刀が右に左に、上に下にと変幻自在に動き、お鈴を翻弄する。受け止めるだけで精一杯になる。さすがは忍びの頭領。強い。
修二郎が助太刀しようとするが、手裏剣が飛んできて阻まれる。木の上から投げ込まれるそれを刀で跳ね除ける。松が毒針で仕留めようとするも、弾かれてしまう。
清太郎の刀がお鈴の足を薙ぎ払おうとする。お鈴は慌てて飛び退ったが、着地の際、よろけてしまった。清太郎が昏く笑うのを、背筋を凍り付かせて見るお鈴。清太郎の刀がお鈴の頭を目がけて振り下ろされた、その時。横からその刀を跳ね除ける者があった。
「何……!」
見ると、それは狐の獣人。黄色い毛並みが朝日に輝いている。清太郎の前に立ちはだかり、刀を構える。お鈴は大きな目を瞬かせて、その後ろ姿を見つめた。
「こういうのは性に合わねぇんだがな。」
聞き覚えのある声に、お鈴は思わず叫んだ。
「佐之助!? あんた佐之助かい!?」
清太郎が喉の奥で唸り声を上げる。
「佐之助……何故?」
佐之助は狐の顔でにやりと笑ったが、目は真剣そのものだった。
「半獣は我らが祖先。その事実を蔑ろにして命を奪わんとする非道、許しがたい。」
佐之助の刀が清太郎に襲いかかる。清太郎が即座に応じる。刀を交えながら、佐之助は清太郎を睨みつけ、続けて言った。
「個人的なことを言えば、俺の母親は半獣だった。俺を産み落とした後、すぐに殺されたことは聞き及んでいる。この機会をずっと待っていた。母の恨みだ。受け取れ!!」
刀を跳ね除け、一気に斬りかかる。気迫のこもった一太刀に清太郎は避けきれず、腹を斬った。
「ぬぅっ……!!」
しかし、致命傷ではない。清太郎は刀を振りかぶり、佐之助に斬りかかる。刀を横にして受け、跳ね除けると、清太郎の脇をすり抜けざま、腹を一文字に切り裂いた。口から血を吐いて、立ち尽くす清太郎。佐之助は刀を構えたまま大声を張り上げる。
「鈴音!!」
名を呼ばれはっとしたお鈴は、やーっ!!と叫びながら走り込み、清太郎の脳天から顎の下までを一気に斬った。立ったまま息絶えた清太郎は、ゆっくりと頽れ、地面に転がる。
「見事!」
修二郎が他の忍びを相手にしながらも褒め称える。
「お頭がやられた!!」
「くそっ……!」
残党がむきになって武器を振り回してくる。そこへ物の怪紛いの巣窟へ出掛けていた村人たちがとうとう帰って来て、雪崩れ込んで来、その場は騒然となった。
「あんたら、いい加減におし!!」
「目を覚ましやがれ!!」
お鈴と松の怒号は騒ぎの中かき消された。
空から勢いよく舞い込んでくる影をぎりぎりで躱す。秀麿だ。秀麿は地に降り立って、刀を嘴から取り、お鈴たちに向かってきた。
「いつの間にかいなくなったと思ったら……。よくもお頭をやってくれたな!」
刀が振り下ろされ、お鈴の刀と合わさり、火花を散らす。
「仇を討ったまでさ。」
「何が仇だ! 掟破りの子孫めが!」
「あんたらの掟が間違っているんだよ!」
「黙れ!! 掟は絶対だ!」
妄信するものに何を言っても無駄と、お鈴は相手の刀を跳ね除け、斬りかかった。秀麿は翼を広げて後ろへ飛び、それを躱す。お鈴は手首の裏側に刀を当て、切っ先を秀麿に向けて走った。が、頭上を高々と飛び越えられてしまう。素早く背後を振り返り、刀を横一線に引く。それも難なく躱される。秀麿の笑い声が響く。
「どうした? 猫の力はそんなものか。」
「くっ……!」
お鈴は眉間に皺を寄せ、歯噛みした。秀麿がふわりと宙に浮き、刀を振り下ろしてくる。咄嗟に受けるも豪胆な太刀筋に押され、目の前に刃が迫ってくる。足が地面を滑り、じりじりと後退させられる。お鈴は渾身の力で跳ねつけ、秀麿の胸を爪でもって引っ掻いた。鷹の羽が舞い散る。
「つうっ!!」
一瞬の隙を見逃さなかった。秀麿の懐に飛び込み、首筋を下から斬り上げる。朱が空に向かって噴き出し、雨のように降り注ぐ。秀麿は悲鳴を上げる間もなく、倒れ伏し、事切れた。
秀麿が死んだからといって、敵の攻撃が止むものではなかった。次から次へと襲いかかってくる村人たち。迎え討たないわけにはいかない。これでは物の怪紛いどもにしたことと同じ。単なる殺戮ではないか。
「止めにしないか! 殺し合いをしに来たんじゃないよ!」
お鈴の声は届かない。仕方なく、向かって来る者を斬り捨てていく。お鈴に松、修二郎、それに佐之助はいつの間にか寄り集まっていた。
「どうするんだい?」
「これじゃあ、きりがないぜ。」
「屋敷の外も、どうせ村人で溢れ返っているのだろう?」
「逃げるわけにもいかないんじゃあ、死ぬまでやるしかないのかねぇ。」
村人たちの攻撃を受け流しながらぼやいていると、一人佐之助だけは馴染みのあるにやけ顔を狐の顔に張り付けてこう言った。
「なぁに。もう少しの辛抱さ。無闇やたらに殺すこともないぜ。」
「何だって?」
三人が首を傾げていると、何やら屋敷の外が一際騒がしくなった。表から、裏手から、ぞろぞろと踏み込んできた獣たち。村人と格闘している様子から、こちらの味方ではあるようだが……。どちらも獣で、判別がつかない。混沌とした戦況に面喰った一同は、刀を振るうのも忘れ、唖然としてその様子を見やった。
「何だい、これは?」
「半獣さ。」
佐之助の短い答えに、三人は驚いて振り返った。
「半獣?」
「どうしてこんなところに?」
佐之助は口の両端を吊り上げた。
「行く先々で俺が声をかけておいたのよ。近場に待機してもらって、あんたたちが物の怪紛いの巣窟を襲撃しに行ってる間、呼びに行ったのさ。騒ぎが起きたら乗り込むよう言ってあった。」
「そういうことなら、もっと早くに来て欲しかったよ。」
「仇討の邪魔をしちゃあ悪いからな。」
半獣たちは村人を殺さず、手足を斬るかみねうちで気絶させ、縄でふん縛っていった。お鈴たちも刀の向きを変え、みねうちを食らわせていく。村人たちはこちらに殺意がないのを知ると、戦う気力を失い、その場にへたり込んで観念した。
村人たち全員を縄にかけ、一つ所に集める。獣人は半獣よりも断然少ない。こうしてみると、ほんの百人程度。屋敷の庭にすっぽりと収まる有り様だ。対する半獣はここに集まっただけでも二百人はいる。束になってかかられたら一溜りもない。
「半獣を脅威と見做す気持ちも分からんでもないが、それは半獣が犯罪に手を染めた時に考えること。」
「責任は生み出した人間にある。我々人間に任せておいてはくれまいか。」
佐之助と修二郎が村人に向かって言う。村人は項垂れてしばらく黙していたが、一人が意を決して口を開いた。
「しかし、半獣の力、見たじゃろう? 反乱を起こしてからでは遅いんじゃよ。」
同調して他の村人も口々に言う。
「そうだ、そうだ。やられる前にやらなくては意味がない。」
「半獣に立ち向かえるのは我々獣人だけだ。」
「わしらは、人間様のためを思ってやっているんじゃ。」
人間にとっては殊勝な考えである。人間のために組織された忍びの集団。穢れた考えなど微塵もない。修二郎はふと、己が身を顧みて、申し訳なく思った。
「その気持ちはありがたいが、獣人たちに守ってもらう程、人間とは尊い生き物ではない。松宗が言った通りだ。醜い争いをしでかすのは決まって人間だ。もちろん、良い人間も大勢いる。これからはその者たちのために生きてくれまいか? 半獣を殺すことに拘らず、掟に縛られず……。」
村人の一人が、ぽつり呟く。
「掟はおらたちの全てだ。今更、忘れろったって……。」
お鈴は村人たちを元気づけるようににこりと笑って見せた。
「そんな、難しく考えることはないよ。あたしも松も、掟がなくたってこうして生きているじゃないか。掟のいい部分は残して、駄目な部分は捨てることさ。」
「そう簡単にいくもんかね。」
村人の言葉に、修二郎が答える。
「少しずつ、慣れていけばいい。」
「少しずつ……。」
しばしの間、重い沈黙が訪れたが、やがて若者が顔を上げ、目を輝かせた。
「これからは村を出てもいいのか?」
「人間や半獣と所帯を持っても?」
修二郎は秀麗な顔を綻ばせた。
「ああ。これからは自由にやるといい。」
村人たちの間から、嘆息と歓声が漏れる。それを受けて、半獣たちは村人の縄を解いた。もう、掟という枷はなくなったのだ。ここは穏やかな良い村になることだろう。お鈴たちは顔を見合わせて笑った。
村を出る時がやってきた。深い青に染め上げられた空が美しい朝だった。半獣の何人かはこの村が気に入り、住み着くことになった。先の戦いのために少し人数を減らした村にとって、良い働き手となるはずだ。他の半獣はもといた地方へ、或は知らない土地へと旅立って行った。
それを見送るお鈴と松は、もう猫の姿をしていなかった。目的を果たし、晴れて人間に戻ることができた。この方が気が楽だし、馴染んでいるのだ。同じく人の姿が性に合っている佐之助も、人間の顔でにやにや笑って立っていた。悪い顔ではないが、修二郎とは対照的な笑い方である。
「あんたはこれからどうするんだい? この村で暮らすのかい?」
お鈴の問いに、にやけ顔を崩すことなく佐之助は言った。
「まさか。貰うものは貰ったんだ。こんな小さな村で縮こまっていられるかい。これからは好きな所で好きに生きていくのさ。」
お鈴は眉根を寄せて佐之助を見た。
「もらうものって、何さ。まさか、金かい?」
この期に及んで、と呆れ返る。佐之助はそんなお鈴を見て、声を上げて笑った。
「この村に金はねぇよ。俺が一番に欲しかったものさ。」
お鈴は黒目を上に向けて考えていたが、はっとして佐之助へと視線を戻した。佐之助の笑みが、少し真面になる。誇らしげで、懐かしいような笑みだ。
「そう。ちょいと気恥ずかしいが、自由というわけだ。もう、俺を縛るものはねぇ。掟も、母親を殺された恨みも一切合切忘れたね。あんたも、忘れな。すっきりするぜ。」
「うん……。」
お鈴は美しい顔を頷かせた。花が咲いたような笑顔を。佐之助はその瞬間、悪戯っぽく笑い、お鈴に顔を近づけたかと思うと、耳元に口を寄せて、囁いた。
「今度会った時は、必ずあんたの唇を奪ってみせるぜ。」
お鈴は頬を膨らませ、佐之助の胸を押した。佐之助はからからと笑って、くるりと踵を返した。
「じゃあな。皆、達者で!」
後ろ手に手を振り去っていく背中に何度物と罵声を投げつけたことか。今は、感謝の気持ちが胸をついて出てくる。
「ありがとよ! 佐之助。」
「あんたも達者でね!」
「またどこかで会おう!」
佐之助はちらと三人を振り返り、腕をさすって見せた。
「止めてくんな! 鳥肌が立つぜ!」
憎まれ口が彼には合っている。三人は微笑みながらその後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
「じゃあ、俺たちもそろそろ行こうか。」
「うん。」
お鈴と修二郎は目を見合わせて、どちらからともなく歩き出した。が、後に続くはずの松の足音が聞こえてこない。不思議に思って二人は振り返った。
「どうしたんだい?」
「俺たちの郷に帰ろう。」
松は小さく、しかしはっきりと首を横に振った。後ろに束ねた髪が風に靡く。お鈴と修二郎は呆然と松の笑顔を見つめた。
「俺は、旅を続ける。今度は武者修行の旅だ。もっと強くなって、帰る。そして季心館を立て直すんだ。猫目一刀流を復活させる。それが俺の目的で、夢だ。」
「松……。」
「松宗……。」
尺八にしか興味がなかった男が、変われば変わるものだ。一回りも二回りも大きくなったように思える。幼馴染の逞しい変貌ぶりに、お鈴と修二郎は目を細めた。
「それじゃあな。帰っても、あんまり見せつけるんじゃねぇぞ!」
「な、何言ってんだい!」
「はは。無茶をするんじゃないぞ、松宗。」
松は何度も振り返って、手を振った。お鈴も振り返し続けた。自分一人ではこの旅を乗り切ることはできなかった。大切な幼馴染であり、かけがえのない相棒だ。それが、去っていく。お鈴の胸に冷たくて暗くて静かな空気が押し寄せ、揺さぶる。これを人は、寂しいと言うのだろう。
松が見えなくった道を見つめながら、立ち尽くしているお鈴の肩を、修二郎が突然掴んだ。びっくりする間に、正面を向かされ、目と目がかち合った。頬を赤らめて、目を瞬かせる。
「な、何だい、急に……。」
もうすっかり乙女の表情をしているお鈴の顔に、修二郎は自分の顔を近づける。熱い眼差しが、お鈴の空っぽになったばかりの胸を満たす。
「鈴音。これからはずっと一緒だ。何があっても離れない。」
「うん……。」
「一緒に暮らそう。」
「うん。」
修二郎の逞しい腕がお鈴の細い体を包み込む。お鈴は修二郎の胸に頬を埋め、広い背中にそっと手を回した。もう、拒む必要はないのだ。嬉しくて、涙が出そうだった。お鈴は目を閉じ、愛おしい男の感触をその身に染み込ませた。
深まりゆく秋。郷へ帰る頃には、雪がちらつくかもしれない。でも、憂えることはない。二人一緒なら、風が吹いたって、雪が降ったって……。枯葉が一片、二人の横を舞い落ちた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。