退治合戦
そこは辺鄙な村で、村人たちは肥沃とは言えない土地を耕して細々と暮らしていた。昼間は皆、野良仕事に忙しく、見慣れぬ深編笠の武士が通り過ぎていくのを気に留める者はなかった。細面の男が遅れて現れたが、それも遠い日の出来事のように曖昧で、記憶の端にもかからない。二人の男は誰にも気付かれることなく、納屋の中へと消えていった。
納屋の中は木戸を閉めてしまうと、壁に開けられた小さな開口部から日が差し込む以外に光源はなく、薄暗かった。丁度日が当たっている場所に身を屈めたのは細面の男。深編笠の武士は暗がりに立って、闇に溶け込んでいる。
「佐之助。首尾はどうだ?」
細面の男、佐之助はいつもの人を小馬鹿にした笑みをその顔から削ぎ落とし、目を伏せ至って真面目に答える。
「はい。十二分とは申せませんが、上々でございます。里へ辿り着くのも時間の問題かと……。」
「そうか。頭が楽しみにされている。こちらの動きは悟られていまいな?」
「心配ございません。私のことはその辺のごろつき同様に思うております。」
暗闇で笑い声が聞こえる。
「ごろつきとは、お前も気の毒にな。」
「いいえ。大義のためならば、本望でございます。」
佐之助の睫毛の間からは確かな決意の色が滲み出ている。ふざけた様子は微塵も見られない。
「物の怪紛いと半獣の方はどうなっている?」
「阿片の一件で大分、数を減らしておりますが、依然として予断を許さぬ状況です。」
深編笠の武士は己の顎を一撫でして頷いた。
「発想としては面白かったのだがな。人間を巻き込むとあっては仕方があるまい。」
「周辺では二の舞を演じまいと警戒を強めております。」
「当然だな。少し仕事がしづらくなったか。」
「致し方ありません。虎穴に入らずんば虎子を得ずと申しますゆえ。」
「まさしくその通りだな。お前には苦労をかける。」
佐之助は畏まって頭を振った。労いの言葉が胸に染みる。
「今後もぬかるでないぞ。」
「肝に銘じましてございます。」
暗闇の相手に対して深々とお辞儀をする。引き締まった表情はまるで堅物の侍のようだ。深編笠の武士が出て行き、その場に一人留まっている時ですら、その表情が揺らぐことはなかった。
お鈴と松がその村に入ったのは夕刻のことであった。寂れた村に旅籠屋などありはしない。二人は宿を求めて一軒の民家を尋ねた。
「もし。すみませんがねぇ、あたしらは旅の芸人なんですが、一晩泊めてもらうわけにはいきませんかねぇ。」
煮炊きの準備をしていたおかみさんが、二人を見るなり「お前さん」と亭主を呼んだ。家主は部屋の奥からやってくると、高揚した様子で出迎えてくれた。
「おやまあ。これは半獣様でねぇか! 珍しいことだ。一晩と言わず、何日でも泊まって行ってくだせぇ。」
「半獣様?」
家主は笑顔で何度も頷いた。
「へえ。半獣様は村の恩人ですだ。神様仏様と一緒だ。呼び捨てになんてできやしねぇ。」
夕餉を馳走になりながら家主の甚兵衛に聞いたところによると、こうだ。
この村は昔、物の怪が度々現れ難儀していた。物の怪は田畑を荒らし、男を殺し、女を喰らう。最初の内は村人総出で退治していた。しかし、その度に、沢山の犠牲者が出て、村は壊滅の一途を辿っていた。色々な方法を試した末、女一人を貢げばそれで騒ぎが静まると分かり、以来、村の女を泣く泣く物の怪に差し出して一時の平和を得ていたのだそうだ。そんな折、どこからともなくやってきた、獣のような人間のような生き物。村人は新たな物の怪が現れたと恐れおののいたが、半分獣、即ち半獣は人語を介してこう言うのだった。「物の怪を退治する代わりに、自分をこの村に住まわせてほしい」と。半獣は見事物の怪を退治し、約束通りこの村に住み着いた。
「半獣様が村にいてくれたお蔭で、物の怪は寄り付かなくなったんでさぁ。ありがてぇ話で。」
寿命で死んだが、その後も物の怪が来ることはなく、村は平和を保っているのだという。村では物の怪避けの象徴として祠を建て、半獣を祀っている。
「この村にいた半獣はその一人だけですか?」
「へえ。後にも先にもその一人きりで。」
「どこから来なすったんでしょうねぇ。」
「親兄弟はいなかっただろうか。」
身を乗り出して聞いてくるお鈴と松に、甚兵衛は首を傾げて見せた。
「さあ。詳しいことは分かりませんねぇ。ひょっとしたら、弥吉の爺さんなら知ってるかもしれません。村一番の年寄りですから。明日案内しましょうか?」
お鈴と松は甚兵衛の申し出を喜んで受けることにした。度重なる事件のため停滞していたことをやっと進展させられるとあって、期待に胸を弾ませるのだった。
朝食を摂った後、甚兵衛に弥吉の家まで案内してもらう。弥吉の家は村の外れにあり、どの家よりも古めかしく粗末だった。あばら家とはこのことだ。
「半獣様ぁ、ようこそいらっしゃいましたなぁ。」
弥吉は土間に降り、額を擦りつけるようにして土下座した。お鈴と松は驚いて、慌てて手を振った。
「や、止めてくださいよ。弥吉さん。」
「顔を上げておくんなせぇ。」
弥吉は皺に埋もれた目に涙を溜めていた。感極まって、唇が震えている。
「長生きするもんじゃて。死ぬ前にこうして半獣様にお会いできるんじゃから。ささ、汚いところですいませんが、どうぞお上がりくだせぇまし。」
家の中には編笠が重ねて置いてあり、編みかけの笠もあった。どうやら弥吉の内職らしい。そういったものをきょろきょろ見回していると、弥吉が茶を淹れて持って来てくれた。
「わし一人なもんで、何のお構いもできませんが……」
「いや、どうぞお構いなく。」
正座しながら膝を摩る。つぎはぎだらけの着物は、彼の暮らしぶりが楽でないことを物語っていた。それでも、半獣を見た喜びのためか、その笑顔は幸せそうに見える。
お鈴は本題に入った。
「あの、弥吉さん。この村にいたという半獣のことで聞きたいんですけどね。」
「へえ。」
「名前は何と言いました?」
「田村新太郎様と仰いましたなぁ。」
お鈴は無言で頷き、質問を重ねる。
「新太郎さんは何の半獣で?」
「犬じゃったと聞いております。」
犬の半獣は数少ない半獣の中では大衆的であった。猫も多い部類だ。
「新太郎さんに身寄りはなかったんですかねぇ。」
顎髭を弄りながら、落ち窪んだ目を泳がせる。
「わしが子どもの頃、爺様に聞いた話では、そういうことは一切言わなかったそうですじゃ。ただ、何かの折に口を滑らせたことがあると……。」
年寄りが言葉を紡ぎ出すまで、じっと待つ。
「母親は普通の人で、父親は獣じゃと。そう言うておったそうです。どういうことか爺様にも分からんかったそうで……。」
お鈴と松は顔を見合わせた。半獣は同じ種類の半獣同士で子を成すことができると聞く。犬なら犬。鳥なら鳥。しかし、人と獣から半獣が生まれるとは、どういう仕組みなのか? 腑に落ちないが、お鈴は新しい質問をすることにした。
「新太郎さんはどこから来なすったんでしょうねぇ。」
「ずっと北の方かららしいですじゃ。山の奥のその奥からじゃと……。」
黙って聞いていた松が、口を開く。
「どうしてこの村に?」
「物の怪が出るからじゃと言うておったのぉ。」
「物の怪を退治するために来たと?」
「そういうことじゃろうなぁ。他の村人と同じく田畑も耕したそうじゃが、専らの仕事は村の用心棒と聞いておりますじゃ。」
半獣の仕事は大体が用心棒である。自分たちのように芸人などしているのは珍しいのだ。
「所帯は持たなかったんで?」
弥吉は手をばたばたさせて否定した。
「生き神様と所帯を持つなんぞとんでもねぇ! 罰が当たるってもんじゃ。ただ……」
「ただ?」
誰もいないというのに、辺りを気にしている。そして、小声で言った。
「生き神様とて、人の心をお持ちじゃ。浮いた話は幾つかあったそうな。」
「……それは、人、ですね?」
「……」
弥吉は神妙な面持ちで、一つ頷いた。
「そのうち一人だけ、姿を消してしまったらしくてのぉ。どこで何をしたものやら、さっぱりですじゃ。もしかしたら、北の方へ流れたんじゃないかと……」
「つまり、新太郎さんの生まれ故郷へ行ったと?」
「ふむ……。そんな話ですじゃ。」
次の行き先は決まった。二人は弥吉に礼を言い、あばら家を後にした。村を出る前に新太郎の墓参りをしたいと思った二人は、道端で花を摘み、甚兵衛から聞いていた場所へ足を向けた。
新太郎の墓はすぐに分かった。既に花が手向けられていたし、墓前に人の影があったからだ。立ち昇る線香の煙に誤魔化されることもない。それは佐之助であった。言葉をうしなって呆然と突っ立っているお鈴と松に気が付き、口の端をにやりと持ち上げる。
「来ると思っていたぜ。」
待ち構えていたという口ぶりだ。
「一体、何なんだい、あんたは……。」
「何でもないさ。ただ、ここに来ればあんたたちに会えるような気はしていた。」
お鈴の翠玉色の瞳が光る。
「あたしたちに何の用だい?」
佐之助は二人を流し見て、ふっと笑った。
「別に。」
含み笑いである。いちいち癇に障る男だ。
「俺たちに何か吹き込もうってんだろう?」
「ほう。吹き込んでほしいのかい?」
余裕の笑みを睨み返す。そして、結局いつも根負けしてしまうのは何故なのだろう。
「早く言いなよ。」
「そう慌てなさんなって。俺が今、どこに身を置いているか分かるかい?」
知るわけがない。大きな町であれば、悪さを働いている大店を狙って取り入っていたりするのだろうが、こんな辺鄙な村で彼が目当てとする金の動きなどあるはずもない。
「知るもんか。あんたみたいなのが、こんな長閑な村に来る意味も分からないね。場違いというものさ。」
佐之助は眉を上げ、肩を聳やかした。
「長閑ねぇ。まあ、そうかもしれねぇな。見かけはな。」
お鈴と松は猫耳をぴんと立てて、佐之助を見つめた。佐之助は腕組みしながら、墓の周りをゆっくりと歩き始める。
「俺は今、名主の正蔵さんのところにいる。ちょいと相談に乗ってやっているのさ。」
「何の相談だい?」
「……この村から半獣様がいなくなって数十年経つ。その間何も起こらないなんて、つきが良すぎやしねぇか。祠を建てたにしろ、ご利益がありすぎるぜ。」
お鈴は佐之助の後を追いかけ、袖を引っ張った。佐之助が足を止め、得意げに振り返る。
「物の怪に襲われている?」
「ああ。物の怪紛いにもなぁ。」
「そんな……! それじゃあ、また女を生贄に差し出しているっていうのかい?」
佐之助は歯を剥き出して声もなく笑う。
「いいや。そんな必要はないのさ。用心棒がいるからねぇ。」
「用心棒?」
そんな都合の良い存在が今もなおいるなど、甚兵衛にも弥吉にも聞いていない。どうして言わなかったのか?
「その用心棒が、ちょいと厄介な奴でねぇ。腕は立つんだが、半獣様と違って、貰うもんはきっちり貰わねぇと気が済まねぇのよ。つまり、金と女ってわけさ。」
「金と……」
「女……」
沸々と怒りが沸き起こってくる。お鈴と松は尻尾を逆立てた。
「それじゃあ、物の怪より質が悪いじゃないか!」
「おっと。俺に怒らねぇでくれよ。ま、用心棒も命懸けだ。ただじゃあできねぇ。村を滅ぼすか、金と女を差し出すか。そりゃあ、後者に決まってる。女はとっかえひっかえ、一晩限りでいいらしいぜ。命を取られるよりかいいだろうってことさ。」
「何がいいもんかい! この人でなし!!」
唾が容赦なく飛んでくるが、佐之助の笑みは止まることがない。
「俺に言うなって。村としちゃあ、金はともかく女を犠牲にしているのがどうにも恥ずかしくて、心苦しくて、物の怪や物の怪紛いに襲われていることも、用心棒のことも、隠しているんだってよ。村ぐるみでな。」
甚兵衛や弥吉が黙っていた理由は何となく分かった。納得はいかないが……。
「それで、ついに正蔵さんの娘が次の相手に選ばれたんだが、どうしてもいやだと言うのさ。虫のいい話よ。自分たちの時だけ、拒もうというんだからねぇ。金の要求も鰻登りになっていく一方だし、ここらでいっそけりをつけたいんだとさ。」
「けりをつけるって?」
猫の目が丸くなる。
「用心棒はもはや村を守る英雄じゃあない。邪魔者だ。となれば、するこたぁ一つ。」
「殺すってことかい……?」
「端的に言えば、そうなるな。」
息巻いていたのが嘘のようにしゅんとなる。
「その用心棒とやらも決して褒められた奴じゃないが、何も殺さなくても……。」
「第一そいつを殺しちまったら、村は誰が守るんだい?」
お鈴と松の疑問を、風のように軽く吹き飛ばす。
「なあに。代わりならいるさ。ほれ、ここに。」
ここに、と言われて、跳び上がる。
「なっ……冗談じゃないよ! あたしらにずっとここにいろっていうのかい?」
「そんなに暇じゃねぇ!」
佐之助はお鈴と松の背中をぽんぽんと叩いた。
「まあまあ。例えばの話さ。例えばの。何もあんたたちに限ったことじゃねぇ。他にもいるだろう。半獣なんてのは。適当に見繕ってくりゃあいい。そんなに世話を焼きたいんならな。正蔵さんが求めているのは、新しい用心棒じゃねぇ。今いる奴の首を刎ねることよ。」
「まさか、それをあたしらにやれっていうんじゃないだろうね。」
佐之助が意地悪く笑う。
「俺は物騒なことは苦手でね。だから、こうするのはどうだい? 新しい用心棒になったと嘘をついて、この村から出て行ってもらうのよ。」
「そんなんで納得するかい!」
「だったら、実力行使すればいい。あんたたちの得意分野だろう?」
「……」
佐之助の口車に乗せられたくはないが、村の窮状を知った以上、放っておくわけにもいかなかった。お鈴は歯ぎしりして言った。
「その用心棒ってのは、どこにいるんだい?」
用心棒は正蔵の家の離れに住まわっていた。母屋の方へまず案内され、正蔵と一人娘のお富に会った。お富はまだ十四になったばかり。幼さの残るその姿を見て、お鈴は腸が煮えくり返るようだった。こんな若い娘を手籠めにしようだなんて、許せない! 一体どんな奴なのだろうか。用心棒とは。
「では、勝伍の元へ参りましょう。勝伍というのが、用心棒の名でして。」
お富を除く全員が離れへ向かった。
「ここがそうです。」
離れは人ひとりが住むには十分な広さがあるようだった。住居というより、蔵のような雰囲気がある。
「勝伍や、入るよ。」
木戸を開けて目に飛び込んできたのは、右と左に女をはべらす若い男。伸ばしっぱなしの髪を結いもせず、胡坐をかいて昼間っから酒を煽っている。ただし、思っていたより顔立ちが良い。目が大きく、鼻が高い。どことなく野性的で、意志の弱い女なら、ころっと騙されてしまいそうである。女たちも嫌々側に仕えているのではなく、自ら進んでしなだれかかっているのは明白である。
「おや、これは。半獣様じゃあねぇか。」
勝伍は盃でお鈴たちを指し、目をとろりとさせた。お鈴は何だかおかしな気分になりながらも、眉間に皺寄せて言った。
「あんたがこの村の用心棒かい?」
「ああ。そうだとも。」
「今日でお役御免だよ。この村はあたしらが守る。だから安心して出て行きな。」
突然解雇を告げられても驚くことなく、色っぽい目つきでお鈴を見、せせら笑う。
「人間一人より、半獣二人の方が役に立つと言うのかい? そいつはどうかな。猫の半獣さん。」
勝伍が女の間からぬらりと立ち上がり、お鈴に近寄る。そして、顎の下を指先で撫で始めた。反射的に目を閉じ、喉をごろごろ鳴らしてしまう。松の目が尖った。
「止めろ!」
猫の爪で勝伍を引っ掻こうとしたが、寸前で避けられた。
「短気は損気だ。それと、俺をただの人間と思い込まない方がいいぜ。」
どういうことかと顔を顰めるお鈴と松に、佐之助がぽつりと呟いた。
「こいつも、あんたたちと同じなのさ。」
頭の中で思考を巡らす二人。やがて、一つの答えに辿り着き、ほぼ同時に目を瞠り、伸び上がった。
こいつ、「獣人」なのか……! ますます殺すわけにはいかなくなった。
勝伍に引く気がない以上、どちらの実力が上か、それで決着をつけようということになった。勝伍は余程自信があるらしく、一人対二人の対決に何の文句も言わなかった。
あたしら、もう負けているのかもね、とお鈴は弱音を吐きたくなった。本当は一対一で勝って見せたかったが……。
勝敗は、物の怪や物の怪紛いを退治した数で決する。期日は三日間。双方ともに同じ数であった場合、物の怪の割合が多い方、また、物の怪の割合も同じ場合は延長して先に敵を仕留めた方が勝ちとする。敵の骸に墨で手形をつけて誰が倒したか判別できるようにし、三日後にまとめて集計。集計するのは佐之助の仕事になった。
獣人というのが、何を意味するのか、一体何なのか、正直、お鈴と松にも良く分からなかった。半獣と違うのは、人間になれるということ。いや。正確には、半獣になれるということだ。人間でいる方がはるかに楽で、自然だ。それくらいしか知らない。獣人と半獣。物の怪と物の怪紛い。これらの謎を解き明かすことが、彼らの使命の一つでもあった。だから、獣人であるこの男には情報をもらいのだ。どこから来て、どこへ行くのか。勝負に勝っても負けても、聞きたい。
かくして、退治合戦が始まった。お鈴と松は早速村の外へ出かけて行った。癪ではあるが、佐之助に助言された方法、即ち、お鈴が人間の姿になって敵をおびき寄せるという方法をとることにした。一刻ほど歩き回っていると、物の怪紛いが牙を剥いて現れた。お鈴は逃げ、松が攻撃を仕掛ける。物の怪紛いの目に毒針が刺さり、次いで脳天がかち割られる。まず、一匹目を仕留めた。二匹目、三匹目……と順調に数を増やしていく。
「何だか、多いね。」
「ああ。」
物の怪より物の怪紛いの方が圧倒的に数が多いのだが、それにしてもよく出くわす。こんなに頻繁に遭うことなど普通はない。この村は悪鬼どもを引き寄せているんじゃないかと疑ってしまうくらいだ。
物の怪も出た。とんでもなく大きい奴だ。長い毛足だと思っていたら、そいつがうねうねと動く大蛇で、全身大蛇で覆われた化け物であった。お鈴は急いで変化し、松と二人掛かりで戦った。向かってくる蛇の頭を悉く斬り落とし、松は尺八で殴りまくる。そのうち物の怪はだらりと力をなくし、動かなくなった。
「はぁ。疲れるねぇ。」
一日目でこれだ。先が思いやられた。相手の方はどんな塩梅だろうか。
夕方、お鈴と松はひとまず甚兵衛の家に戻って休憩を取ることにした。夜の戦いに向けて英気を養うのだ。
「昔からこんなに物の怪や物の怪紛いが出るんですか?」
夕餉にありつきながら、お鈴は尋ねた。
「いいえ。ここ最近、酷いんです。それで、勝伍の要求もきつくなってきたんだと思います。」
一応、理由はあったのか。それにしても、勝伍が去ってしまっては、やはりこの村は立ち行かなくなると思わざる負えない。娘の身を案じる父親の気持ちは分かるが、その代償はあまりにも大きすぎる。こんなに沢山の物の怪、物の怪紛いを人間たちでどうにかできるなんて思えないのだ。もはや生贄などという手段も取れまい。かといって、自分たちがここに残るという選択肢はなかった。どうしても、すべきことがある。それが終わるまでは、一つ所に留まっているわけにはいかないのだ。
できれば、勝伍を改心させて、村を守っていって欲しいものだが……。それは佐之助に真人間になれと言うくらい難しいことであるように思えた。
食事を終え、一眠りした後、二人は再び村の外へと戦いを求めに行った。昼間と同じ段取りでお鈴が人の姿で歩き、松がその後ろを離れて歩く。すると物の怪紛い三匹が同時に現れて、変化する暇のなかったお鈴は人の姿のまま戦うことになった。と言っても、敵の攻撃を凌ぐくらいのことしかできない。その合間に松が確実に仕留めていく。二匹やっつけて、あと一匹という時、脇から巨大な物の怪が乱入してきて、二人は一瞬狼狽した。物の怪は手負いだった。刀傷を随所に受けており、どうやら逃げて来たようである。誰からと考える間もなく、それが踊り出る。黒い毛に覆われ、牙を剥いた獰猛な獣。熊の半獣である。熊の半獣は背中を向けて逃げ惑う物の怪を刀とその鋭い爪でもって切り裂いた。物の怪はどう、と倒れた。呆気にとられていると、こちらが相手していた物の怪紛いをものの次いでとばかりに頭の先から一刀両断してしまった。横取りするな、と文句を言うのも忘れて、お鈴と松は熊の半獣をただただ見つめた。
「勝伍?」
試しに呼びかけてみる。熊の半獣は口元をきゅっと引き上げた。
「そういうお前は、お鈴か?」
言われて自身を見回す。人間としか表現のしようがない姿だ。
「お前も獣人か。それにしても美しい。」
露骨に褒められて居心地が悪く、身体に腕を巻き付けてその身を何となく隠した。しかしその美貌は隠しきれるものではなく、色香で溢れ返っている。
「勝負の条件を変えないか?」
意外な申し出に困惑する二人。
「変えるって何を?」
「お前たちが勝ったら、俺はこの村を無償で守る。金も女もいらない。その代り、俺が勝ったら、お前は俺の女になるんだ。一夜限りじゃなく。」
お鈴は鳥肌を立てた。猫であれば毛を逆立てていたことであろう。
「悪い話じゃないと思うぜ。村にとってしてみれば、いいことずくめだ。」
確かに、そうだが……。お鈴はささやかな抵抗を試みる。
「それだとあたしらの仕事がなくなるじゃないか。どうしてくれるんだい?」
勝伍はふん、と鼻を鳴らした。
「どうせ、俺を追い出すための口実だったんだろう? 村に居着く気なんかないくせに。」
図星を指されてぐうの音も出ない。お鈴は冷や汗を滲ませながら考えた。負けた時は最悪だが、勝った時の条件がひどくいい。願ったり叶ったりではないか。
「よし。分かった。それでいいよ。」
「お鈴!」
止め立てしようとする松を指先で制する。
「あたしらが勝ったら、あんたは無償で村を守る。この言葉、忘れるんじゃないよ。」
「おまえこそ、忘れるんじゃないぞ。俺が勝ったら、お前は俺の女になるんだからな。」
お鈴は頬をぷっと膨らませ、そっぽを向いた。
「松、行くよ。」
「あ、ああ……。」
勝伍の厭らしい視線を背に受けながら、お鈴はずんずん歩いていった。
結局この夜、敵は昼間の二倍現れた。何と十匹だ。この日は昼間と合わせて十五匹やっつけたことになる。お鈴と松は流石にうんざりした。明け方に甚兵衛の家に戻り、また眠った。
お鈴が目覚めた時、そこには屈み込んで自分を見下ろす佐之助の姿があった。
「朝から何なんだい!」
お鈴は飛び起きて抗議した。
「あどけない顔して眠っているねぇ。」
「そんなことをわざわざ言いに来たのかい!」
佐之助は笑いながら、懐に手を入れ、何やら取り出してお鈴の目の前に持ってきた。小さな紙包みだ。
「これをやろうと思ってね。」
「……何だい、これは。」
お鈴は受け取って、紙包みを広げてみた。小さな黒い丸薬が三粒入っていた。変わった匂いがする。
「強壮剤だよ。」
そう聞いた途端、思い出すのは物の怪紛いから作った秘薬だった。眼光を鋭くしたお鈴に佐之助は悪戯っぽく笑って、一粒口に含んで見せた。そして桶から柄杓で水を掬い、喉の奥へ流し込んだ。
「疑り深いねぇ。俺が嘘を吐いたことがあったかい? あんたたちに勝ってもらわないと困るんだよ。賭けているようなものなんだから。猫は体力がない。これを飲んで元気になっておくれ。飲まないと、また口移しするぜ?」
お鈴は薬を一粒口に放り込み、水を飲んだ。猫手で口を拭う。佐之助は満足そうに笑い、松を顎で指し示した。
「起きたら飲ませてやんな。」
立ち上がり、去って行こうとする佐之助に、お鈴が呼びかける。
「ちょいと、お待ち。」
佐之助はにやけ顔で振り返る。その顔しか知らないという風に。
「あんたは何がしたいんだい?」
「……前にも言ったろう? 忘れたのかい。自由になりたいんだ。」
去ってゆく足音を耳にしながら、お鈴は目を瞬かせる。訳が分からない。敵なのか味方なのかと考えても仕方のないことに思いを馳せる。どちらであっても構わないと思っているのに……。
二日目、三日目と戦いに明け暮れて、倒した物の怪は五匹、物の怪紛いは四十匹に上った。対する勝伍はというと、物の怪五匹、物の怪紛い四十匹。全くの互角であった。従って、最初の取決め通り、勝負を延長して先に敵を仕留めた者が勝ちとなる。
「こうなると、後は運だね。」
草叢を掻き分けながら人の姿のお鈴が言う。殆ど自棄になって無闇やたらに歩き回っている。
「運で片づけられるかい!」
背後から聞こえる松の声は尖っている。当然だ。心寄せている女がどこの馬の骨とも知れぬ男のものになってしまうかもしれないのだ。焦燥感に駆られておかしくなりそうだった。
こういう時に限って、敵はなかなか現れなかった。もしかしてこの三日間で周辺の物の怪、物の怪紛いを全て殺しきってしまったのではないだろうか。そんな考えが頭を過ぎる。
草叢を分け入り奥へ奥へと進んでいった先に、こんもりとした木立があった。目を凝らすと、何やら蠢く影が見える。人のものではない。
「いた! 物の怪だ!」
お鈴は猫の姿に変化して、松とともに走った。
樹間に見え隠れするその姿を捉えるや、武器を抜き放つ。獅子の身体に鳥のような顔。大きな丸い目は一つしかなく血のように赤い色をしている。馬鹿げてでかい。物の怪は突進してくる二人を認めて、吠え猛った。鉤爪がお鈴に襲いかかる。紙一重で避け、跳び上がり様、刀を薙ぐ。物の怪の肩に一筋傷が入る。松は毒針を何本も撃つ。目を狙ったが、動きが早く避けられてしまう。物の怪は巨体で飛び跳ね、唸りを上げながら嘴を繰り出してくる。お鈴と松は攻撃を躱すので精一杯になってしまう。
苦戦を強いられる中、別の種類の敵が踊り込んできた。勝伍だ。
「何だ、何しに来やがった!」
尺八を振り回す松を、勝伍が一瞥する。
「助太刀に、と言いたいところだが、生憎今日は獲物が少ないもんでね。かっさらいに来たぜ。」
「そうはいくか!」
松の尺八が物の怪の前脚に炸裂する。物の怪は脚を痛めて咆哮した。勝伍は刀で首を斬りにかかる。刀は深く入ったが、致命傷まではいっていない。止めとばかりに振り下ろした第二刃は、何と松が尺八で受けて止めた。あまりの衝撃に火花が散る。
「邪魔するな!」
「邪魔をしているのはお前だ!」
かくして、松と勝伍の戦いが始まった。壮絶な打ち合いである。
「何やってるんだい!」
お鈴は物の怪に刀を振るいながら、呆れて叫んだ。二人にお鈴の声は届いていないらしく、急に始まった果し合いは留まることを知らなかった。結果、物の怪はお鈴一人で対処しなければならなくなった。
「冗談じゃないよ、全く!」
お鈴は喚いて、物の怪の首筋、先程勝伍が斬った場所をもう一度切り裂いた。迸る血飛沫に、物の怪は一瞬くらりと揺らいだ。その隙を見逃さず、お鈴は物の怪の頭に飛び乗り、一つ目を思い切り貫いた。
「ぎぃいいいいいいい!」
断末魔の叫びと共に、どう、と横倒しになる物の怪。勝った。軍配はお鈴と松に上がったのだ。しかし、その喜びに浸るどころではなかった。松と勝伍は相変わらず互いの武器を交えていた。両者一歩も引かないといった感じである。
「ちょいと。もう、いい加減におしよ。勝負は終わったよ。」
お鈴は三味線に刀を納め、絃を指で弾いた。
「こっちの勝負がついてないんだ。」
「もう少し、黙って見てろ。」
刀が振り下ろされては尺八が弾き返し、尺八が横に引かれては刀が受け流す。その繰り返しが永遠と続くかと思われた、次の瞬間、信じられないことが起きた。空からなのか、枝からなのか。何かが飛来して、勝伍の背中を掠めた。
「!?」
何かと確認する間もなかった。勝伍は背中から血を噴き出し、頽れ、地面に突っ伏してしまった。
「なっ……?」
呆然と見下ろす松。その足元に血が広がっていく。お鈴は駆け寄りながら、上空、斜め上を飛んで行くものを見た。鷹だ。鷹の半獣だ。大きく広げた翼の先に、刀の冷たい光が閃いている。
うつ伏せに倒れている身体を仰向けた。生気を失った目。首筋に手をやる。脈がない。既に事切れていた。開いたままの瞼をそっと閉じる。
「何なんだ、ありゃあ一体……。」
「鷹の半獣だったよ。勝伍一人を殺す気だったみたいだね。」
「刺客か?」
「たぶんね。」
二人はそれきり押し黙った。本当の敵に近づいていることを実感して、身震いする。次に殺されるのは自分たちだろうか……。
名主の正蔵の元へ行くと、佐之助の姿は既になかった。
「あなた方の勝負の行方を見届けに行くと言っていましたが、会いませんでしたか?」
正蔵の言葉に二人は首を振るばかりだ。貰うものを貰って出て行ったのだろう。そう考えるのが自然であるように思われた。
勝負の結果をどう表現すれば良いのか悩んだ。何より、勝伍の死を伝えるのは気が重かった。鷹の半獣に殺されたと正直に話して良いものか、判断できない。この村では半獣は神仏に等しい。
「物の怪にやられました。」
そういうことにしておいた方が無難だと思った。見る者が見れば、刀傷であることは明白だが、素朴な村人のこと、詳しく調べるようなことはしまい。
「そうですか……。」
正蔵は残念そうにもほっととしたようにも見える複雑な表情で俯いた。彼の要求は行き過ぎであったのかもしれないが、村を長いこと守ってきた立役者には変わりない。その彼が死んだ今、この村は砦を失ったも同然。代わりの者が必要となってくる。
「この村に残ってもらえませんか? できる限りのことはしますから……。」
正蔵の懇願に、戸惑いを隠せない。実感としてわかる。物の怪や物の怪紛いの数が半端ではなかった。確かにこの村には用心棒が必要だ。放っておいたら一溜りもないだろう。考えあぐねた挙句、弾き出した答えは一つ。
「あたしたちはここにいられませんよ。けど、心当たりがあります。ちょいと待っていてください。」
お鈴と松は一旦村を出て東へ戻り、心当たりを探した。場所は何の変哲もないただの森。見つけられるかどうか、自信はなかったが、耳と鼻を駆使して捜索に当たった。探し始めて半日。辺りはもう薄暗くなってきている。見つけてきたのは、相手の方だった。
「お鈴に松ではないか。どうしたんだ、こんなところで。」
「与市!」
夕日の残照に赤く彩られている銀の毛並みが美しい狼の半獣。尋ね人は与市だったのだ。
「久しぶり……でもないね。新しい生活はどうだい?」
与市は狼の顔で苦笑いをしてみせる。
「楽な暮らしぶりではないが、文句を言っては罰が当たる。おゆきといられるだけで私は幸せだ。」
お鈴も松も嬉しそうに笑った。
「それは、ご馳走様。ところで、ちょいと話があるんだけど、いいかい?」
場所を移動して、与市の隠れ家で話をする。掘立小屋ではあるが、中はきれいに整頓されている。単に物がないだけかもしれない。囲炉裏の傍に座っていると、おゆきが茶を淹れてくれた。爪も牙もかなり引っ込んでいる。こうしていると、彼女が物の怪紛いであることをうっかり忘れてしまいそうだった。
与市は二人の話を聞いて、うーんと唸った。
「悪い話ではないが、しかし……。」
「おゆきさんのことだろう? 心配いらないよ。半獣はあそこじゃ神仏だ。その奥さんなんだから、大目に見てくれるさ。それに村の存続がかかっているんだ。贅沢を言っていられる状況じゃないんだよ。どうだい? 行ってみちゃくれないかね?」
「うむ……おゆきを受け入れてくれるところなら、どこへでも。」
話が決まり、早速村へと案内する。普通の人間であったなら明朝出直すところだが、お互い夜行性である。いつ物の怪どもに襲われるともしれない村を放置するわけにもいかなかった。村まであと少しというところで、物の怪紛いに遭遇する。おゆきと違って物の怪の本能が剥き出しで、あからさまに凶暴であった。与市は躊躇なく斬って捨てた。彼にとっておゆき以外の物の怪紛いは敵以外の何者でもないようだ。
村に辿り着くと、灯りの消えた正蔵の家を訪ねた。正蔵は与市を見るなり、おお、と感嘆の声を上げた。
「狼の半獣様とは。ありがてぇことだ。」
正蔵は手を合わせて拝みだした。与市は面喰って舌をべろりと垂らした。
「いや、その……ここで働きたいと思ってはいるのだが、実は、妻が……」
正蔵はおゆきをちらりと見て、神妙な面持ちで首を振った。
「何も言わねぇでください。村の者にはちゃんと言い聞かせておきますから。お鈴さんたちが連れて来てくれたお方だ。信用します。この村にはお前様が必要なんですよ。」
住居は正蔵の家の離れ、つまり勝伍が住んでいたところが当てられた。与市とおゆきは至れり尽くせりだと喜んだ。こうして、与市とおゆきの夫婦は村に受け入れられた。村人から要らぬ誹りを受けることもあるだろうが、おゆきの穏やかな性質はいずれ理解されるに違いない。