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猫の獣人  作者: 川野満美
3/6

狼の半獣

 とある旅籠屋の一室で一曲披露したお鈴と松は、客人のお相伴に預かっていた。と言っても、酒の相手をしてもてなすだけのこと。ただで酒を飲めるのはありがたい話ではある。そして何より、こういった席で情報を仕入れることが彼らにとっては大事な仕事の一つであった。

「物の怪に遭ったんですか? 物の怪紛いではなく。」

 お鈴は客の一人に酒を注ぎながら、聞き返した。客は団子っ鼻を真っ赤にして、つまみを口に放り込んだ。

「そうなんだ。あれはどうみても物の怪だったね。」

 客が、お鈴の杯に酒を注ごうとするので、お鈴は透かさず差し出した。酒は小さい杯をあっという間に満たし、溢れて滴を垂らした。お鈴はなるべく零さないよう、口から飲みに行く。

「物の怪なんて珍しいですねぇ。」

 この場合、恐ろしかったでしょうとか、大丈夫でしたかと安否を確認するのが筋なのだろうが、お鈴は正直な感想を漏らしてしまう。物の怪なんて、珍しい。滅多に遭うものではないのだ。物の怪紛いは沢山いるが、半獣は希少で、物の怪はそれよりさらに少ないと言われている。

 客はお鈴の発言に目くじらを立てることもなく、返って自慢げに喋った。

「いや、確かになぁ。俺も見間違いかと思って目を擦ったんだよ。だが、どう見てもいるのさ。」

「どうして物の怪だと?」

 お鈴はくいっと杯を飲み干した。飲みっぷりがいいので、たいていの客は気を良くする。

「人の形をしてなかったからねぇ。全身毛むくじゃらで、腕も足もないんだ。目も口もなくてよぉ。ものすごい勢いで向かってくるから、殺されると思って、逃げたのなんのって。どうやって逃げて来れたんだか分からねぇくらいよ。」

「無事でよかったですねぇ。ところでそいつはどこで見かけたんですか?」

「この町の西に川があるだろう? ちょいと上流へ行ったところに滝があるんだが、その辺りだったな。どうしてそんなこと聞くんだい?」

 お鈴は体を揺らしてから、客にしなだれかかった。

「いやですよぉ、旦那。間違って物の怪と遭ったりしないために決まってるじゃないですかぁ。」

 客は頬っぺたをほくほくさせて、お鈴の肩をぺたぺた触った。

「わははは! そん時ぁ、俺が退治してやらぁ。」

「頼みますよぉ。」

 猫なで声が堂に入って、清々しいくらいだ。お鈴は客の体から起き上がり、締めくくりとばかりに酒を煽った。今日のもてなしはこの辺でいいだろう。


 同じ旅籠屋にお鈴と松は部屋を取っていた。そこで互いの情報を交換する。

「物の怪か。そいつは珍しいな。」

 松も同じ感想である。物の怪は珍しいが、数が少ない分、対処のしようがある。もちろん、普通の人間ならどっちだって一溜りもないのだが、物の怪紛いは数が多く、人間の知恵を持っている分、質が悪い。

 お鈴は障子を開け放ち、茶を啜った。気持ちのいい夜風が入ってくる。

「で、そっちは何か面白い話はあったのかい?」

 黒斑の毛を靡かせて、松が答える。

「ああ。最近、この町じゃ物の怪紛いは出ないらしい。一人の半獣が町を守っているお陰なんだと。」

 お鈴は耳をぱたぱたと動かした。

「物の怪紛いが出なくなるくらい、やっつけたってことかい? その、一人で。」

「そういうことらしい。」

「へえ。そいつは一度、会ってみたいねぇ。」

 お鈴は夜空を見上げて、目を細めた。今宵はいい月が出ている。もうすぐ満月になりそうなくらい、膨らんでいた。こんな時に外を歩くのもいいものだ。物の怪紛いもいないというし。

「ちょいと、散歩に出てくるよ。酔い覚ましに。」

 松はあまりいい顔はしていないが、干渉しない主義でもあった。

「遠くへ行くんじゃねぇぞ。川へ行くなんてもってのほかだからな。」

「分かってるよ。」


 お鈴は旅籠屋を出て、夜の町をぶらぶら練り歩いた。深夜ということもあって、灯りがついている家は殆どなかったが、月明かりと夜行性の眼のお蔭で何の不自由もなかった。翠玉の瞳をきょろきょろさせて歩いていると、提灯をぶら下げた人間が前から歩いてくるのが見える。同心らしい。お鈴の目が光るのを見て、同心は提灯を揺らした。

「何だ、猫の半獣か。散歩かい?」

「はい。いい月が出ているから、つい出歩きたくなりましねぇ。」

 同心の顔が暗闇で緩む。

「猫は夜に散歩するものだしなぁ。だが、川の側にいっちゃあなんねぇぞ。あそこらは物の怪が出るって話だからなぁ。」

「ありがとうございます。気を付けますよ。」

 お鈴は次第とうずうずしてきた。行くなと言われると余計に行きたくなってしまう。それが人情というものだろう。大体、お鈴は物の怪なるものに遭遇したことが殆どなかった。物の怪紛いならば腐るほど出くわしているが。

「遠くから眺めるくらいなら、いいだろう。」

 お鈴は小さな声でそう呟いて、西へ西へと足を弾ませたのだった。


 やがて川へ辿り着き、上流を目指して川岸を歩く鈴。尻尾は好奇心で左右にゆらゆらと揺れた。川のせせらぎに轟々という音が混じり出し、次第と大きくなってゆく。滝が近いのだ。それにつられて、お鈴の胸も期待で膨らんでいくようだった。

 樹間に滝を見つけたお鈴は、しかしすぐに身を潜めた。何かの気配を感じ取ったからだ。早速、物の怪のお出ましだろうか。おかしな話だが、お鈴はこの時まで、物の怪が出たらどうするのか考えていなかった。襲いかかられたら、もちろん返り討ちにしてやるが、そうではなかったら? 黙って見過ごすのだろうか。直接遭遇してみないことには、何とも言えなかった。そして、お鈴の目に飛び込んできたのは……。

 滝の脇に現れた、異形の者。毛足の長い体には頭がなく、腕も足すらない。裾が少し広がった形をしている。一見すると、黒い毛の塊のようだったが、確かに動いていた。これが噂の物の怪か。感慨深げに息を殺して見守っていると、そこへ一つの影が近づいてくる。二足歩行をする、狼。あれは、半獣? この町を守っているという、たった一人の半獣だろうか。狼の半獣は半獣の中でも最強と謳われ、かつ数が少ない。お鈴も見るのは初めてだ。希少なものを一度に二つ見られるなんて! お鈴は内心興奮して、心躍らせた。

 月明かりに浮かび上がる、気高くも美しい銀の毛並み。空色の瞳が神秘的に光を湛えている。裾のすぼまった形をしている裁着たっつけ袴を穿き、大小の刀を帯びている姿がいかにも町の用心棒という感じで似合っていた。

 狼の半獣は、物の怪を退治しにきたのだ。そう思って見ているが、なんだか様子がおかしい。物の怪は身動ぎもせずぼーっと突っ立っているし、半獣は落ち着き払って近づいて行く。刀も抜かずに。

 とうとう、一歩踏み出せばぶつかるという距離まできたが、双方が争う素振りはない。半獣が立ち止まった、次の瞬間、信じられないことが起きた。物の怪の毛が、下から捲れ上がり、ずるりと剥けてしまった。そして中から現れ出たのは、若い女だ。白すぎる肌に赤い瞳。口元には牙が光っている。これは、物の怪紛いではないか!! 物の怪紛いが獣の皮を被って、物の怪に擬態していたのだ。

 口をぽかんと開けているお鈴の目の前で、半獣と物の怪紛いは感極まったような表情を浮かべ、見つめ合ったかと思うと、唐突に抱き合い出した。お鈴は叫び出したくなるのを両手で押え、必死で堪える。

「ああ……会いたかった。」

「私もだ。」

 離れていても、猫の耳にはしっかり届いていた。半獣はそのふさふさの毛で物の怪紛いに頬ずりした。

「ねえ、どこか遠く、誰もいないところで一緒に暮らしましょう。」

 半獣の首が横に振れる。

「だめだ。逃げたところですぐに捕らえられるのが落ちだ。」

「口惜しや。この身が人間であれば何の問題もなかったというのに。物の怪の血が流れているというだけで、あたしは世間の爪弾き。あんたに殺される立場だなんて……。」

「言うな。お前を決して死なせはしない。死なせるものか。」

 抱擁が強くなり、物の怪紛いは吐息を漏らした。切ない眼差しが艶っぽく、月明かりを受けて輝く。

「もう、駄目かもしれない。人間に見つかっちまったんだよ。あたしは問答無用で退治されるんだ。どうせ殺されるのなら、あんたの手で……」

「諦めるな。今暫く、耐えてくれ。あと少しでお前を人間にする方法を編み出せそうなんだ。」

「どうやって?」

 狼の口元が綻び、目の端に笑みが浮かぶ。

「お前は心配せずともよい。私に任せるのだ。」

 物の怪紛いは潤んだ目で狼を見つめ、静かに頷いた。その瞳が閉じられ、唇と唇が重なり合う。物の怪紛いをその場に組み伏せた狼は、首筋を貪るように愛撫し始めた。物の怪紛いの口から迸る喘ぎ声。急に始まった睦み合いに、お鈴は悲鳴を上げそうになった。足を反転させ、物音を立てないよう慎重に立ち去る。その足取りはぎこちなく、危うい。金縛りにでもあったみたいだ。女の嬌声が耳をついて離れなかった。

 面妖なものを見てしまった……。お鈴はぼーっとする頭を抱えながら、月明かりの町を幽霊のようにゆらゆらと歩いた。


 昼近くに目を覚ますと、既に松の姿はなかった。先に情報収集へ出掛けたのであろう。昨夜の話はまだしていない。お鈴は眠気を払うように首をぶるぶる振った。寝床を出て、支度を整え、表へ出る。

 狼の半獣と物の怪紛いのことを反芻しながらぼんやりと歩いていたが、ふと昨夜から何も食べていないことを思い出し、丁度目に入った蕎麦屋へ立ち寄った。ところが入った途端、身を翻して店を出ようとするお鈴。そこには会いたくない人物がいた。

「よう、昼飯かい? 逃げるこたないだろう。ここに座んな。」

 そう言って目の前の席を指し示すのは、佐之助だ。余程縁があるのだろう。お鈴はむっとしながらも言われた席に腰を下ろした。

「何で行く先々にあんたがいるんだい。」

「ご挨拶だねぇ。後から来てんのは、あんたらの方だろう? 言い掛かりはよしとくれよ。そんな目くじら立ててないで、まずは注文しな。ここの蕎麦はうまいぜ。」

 佐之助が小気味好い音を立てて、蕎麦を啜る。お鈴は鼻息を漏らしながらも、蕎麦を注文した。

「あんた、ここで何をしているんだい?」

 お鈴の質問に、たいした感慨もなく答える佐之助。

「寺子屋の師匠さ。体を壊したのがいてね。しばらく代わりを頼まれたのさ。」

 お鈴は嘲るように噴き出した。

「あんたが寺子屋の師匠だって? 世も末だね。」

 佐之助はいつも通りにやりと笑って、お鈴を見た。笊の上に身を屈め、見上げるような格好をしている。とても不敵な笑い方だった。

「餓鬼どもの世話もたまにはいいもんだぜ。大人とはまた違った話が聞ける。」

 お鈴は喉を詰まらせ、佐之助を睨んだ。

「今度は何だい?」

「聞きたいのかい?」

 否定しようとするも、お鈴の好奇心がそれを許さない。にやけ面を睨みつつ、続きを待ってしまう。佐之助は歯を剥き出して、へっと笑った。

「この町にやってくる物の怪紛いは悉く半獣の用心棒が片付けてる。それは知ってるだろう?」

「あ、ああ。」

 昨夜のことを思い出してしまい、声が上ずる。佐之助はそんなお鈴を変に勘繰ることなく続けた。

「物の怪紛いを殺したら、骸が残る。物の怪紛いに墓はねぇ。山の中に埋めて処分されるだけだ。餓鬼どもが言うには、このところその場所に夜な夜な幽霊が現れるらしくてな。」

「……幽霊?」

 お鈴は馬鹿にしたように言ったが、佐之助は至って真面目に頷いた。

「ああ。幽霊だ。で、朝になってそこへ行ってみると、穴が開いていて、骸がなくなっているというんだ。物の怪紛いは死んだら魂だけになって消えてなくなるんじゃねぇかって話よ。」

 ははは、と声を上げて笑うお鈴。猫の手を振り振り言う。

「あんたまさか、本気にしてんじゃないだろうねぇ。」

「まあ、聞きなよ。大人は馬鹿にして真に受けねぇが、俺は餓鬼どもの言うこと全部が嘘だとは思えねぇのよ。」

「どういうことだい?」

 佐之助の目がぎらりと光る。

「忘れたわけじゃないだろう? 物の怪の血肉は、不老長寿の秘薬になるんだぜ。」

 お鈴は目を丸くして、猫の口をぽかんと開けた。その事件はまだ記憶に新しい。材木問屋の井原屋が永遠の命を得るために物の怪を買おうとし、返って寿命を縮めた事件。

「するってぇと、何かい? 幽霊に見えたのは、生きている人間で、そいつが物の怪紛いの骸を掘り起したって言うのかい?」

「おうよ。純粋な物の怪じゃあねぇが、物の怪紛いにも利用価値があると踏んだんだろう。この町にも命根性の汚ねぇ輩がいるってことよ。」

「一体、どこのどいつだい?」

 佐之助はつゆに蕎麦湯を注ぎ入れ、ぐいと飲み干した。

「ふう。目星はついてるが、まだ言えねぇな。俺の仕事が終わるまで、邪魔されちゃ困る。悪く思うなよ。」

「またろくでもないことを考えてるのかい?」

 全身が無性に痒くなったという風に、あちこちぽりぽり掻き始める佐之助。

「餓鬼どもにお師匠さんって呼ばれる度に虫唾が走る俺の気にもなってくれよ。全うな仕事なんざ性に合わねぇ。」

 お鈴が口元を歪めて皮肉っぽく笑う。

「いっそこのまま寺子屋の師匠として腰を据えたらどうだい?」

「冗談じゃねぇや。真水でなんか生きられるもんかい。」

 佐之助は茶を一口飲むと、立ち上がった。

「じゃ、またな。」

 いそいそと店を後にする佐之助の背中を目で追っていると、蕎麦が運ばれてきた。妙な奴と知り合いになったものだ。お鈴は気にしないふりをして、蕎麦を啜り始めた。


 蕎麦を食べ終わったお鈴は店を出て、佐之助が言っていた幽霊話のことでも聞こうかと、適当な人間を探してきょろきょろと歩いた。そこで、思わぬ人物と目が合ってしまった。正確には人物ではないが。あの、夜中に見た狼の半獣だ。見た途端、固まったお鈴を不審に思い、狼の方から近づいてきた。

「何だ? 私の顔に何か付いているか?」

 お鈴は慌てて笑顔を作り、手を横に振った。

「いや。違うんだよぉ。あんまりいい男だからびっくりして……。あんた、この町を守っているって評判の用心棒だろう? 狼の半獣なんて珍しいからすぐに分かるよ。」

 狼の顔から疑心が薄れ、柔らかい表情に変わる。

「大袈裟だ。私は本来、近江屋の用心棒であって、たまたま物の怪紛いを相手にすることが多かっただけだ。」

「近江屋?」

「口入屋だ。」

 口入屋とは人材を斡旋する店である。狼はこくりと頷いた。

「近江屋はこの町一番の大店だ。知らないか?」

「来たばかりなもんでね。何も知らないんだよ。」

 狼はお鈴の頭の先から爪先までを具に見た。厭らしい感じではない。

「そうか。お前、生業は?」

 お鈴は両手を広げてにこりと答えた。

「何てことはない旅芸人さ。」

 狼はその精悍な顔を緩ませて、しかし真面目に言った。

「もし、仕事に困ったら、近江屋に相談することだ。私が口を利いてやってもいい。私の名は与市。お前は?」

「鈴だよ。」

「お鈴か。ここで会ったのも何かの縁だ。半獣同士、助け合おう。」

「そうだねぇ。お座敷には是非、呼んでおくれよ。あたしは鳴海屋って旅籠屋にいるから。」

「ああ。分かった。では、またな。」

 そう言って、別れる。お鈴は逞しい背中を見送りながら、思う。いい奴じゃないか。どうして物の怪紛いと恋に堕ちたのかは知らないが、悪い奴には到底見えない。禁断の愛については、しらばっくれておいてやろう。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえって言うし。お鈴はそう心に決め、情報収集をするべく頭を切り替え、また歩き始めた。


 西の山に日が落ちる頃、お鈴と松は旅籠屋に戻り、お互いの情報を交換し合った。

「このところ、墓荒らしが増えてるんだってよ。」

 松のこの言葉で、お鈴は茶を噴き出しそうになった。堪えはしたものの、強かにむせ込んでしまう。墓荒らしと聞けば、自然と物の怪紛いの骸が消えた事件と重なってくる。松は片眉を上げて鈴を見た。

「何だい、そそっかしいな。」

「ごほ、ごほ。そ、それで、どうしたんだい?」

 松は気を取り直して、話を続けた。

「何でも、埋めたばかりの新鮮な屍ばかりが狙われているらしいんだ。それも、若い女に限っているんだと。」

「そんなことして、どうするつもりなんだろうねぇ。」

「医者が薬を作るのに墓を暴くってのは聞いたことがあるぜ。」

「薬?」

 松の頭が縦に振れる。

「臓物が薬の原料になるらしい。この辺の話は佐之助辺りが詳しそうだがな。」

 お鈴は佐之助の名が出てきたことと、恐ろしい薬の存在に対して肩を震わせた。それにしても、佐之助が話していた内容と随分被っているではないか。人間と物の怪紛いの違いはあるが。

「あたしが聞いたのは、物の怪紛いの方だったよ。」

「何? 物の怪紛い?」

「物の怪紛いの骸が消えてるって話さ。」

 黄金色の瞳が細められる。

「ほう……こいつはこの町の医者を調べてみた方が良さそうだな。」

「そうだね。物の怪紛いが増えるようなことになっちゃ困るからねぇ。」

 お鈴は障子を開けて、空を見た。東に月が昇っている。明日は満月になりそうだ。


 次の日、お鈴と松は二人で揃って町医者を当たった。外で入り口を張っていると、駕籠が用意され、医者と思しき髭面の男が乗った。二人は顔を見合わせ頷き、駕籠の後をついて行った。

 二人は珍しい半獣なので、どうしても目立つ。秘かに後を付けるという行為は不向きである。しかし、人間に変化するという選択肢はなかった。身体能力が違いすぎるからだ。猫の姿の方が感覚が研ぎ澄まされているし、足も速く、忍び足に適している。それに、二人は人間としても見栄えが良いので、それはそれで目立ってしまうのである。

 道行く人々は、半獣二人を振り返りこそすれ、駕籠の方へはあまり注意を払っていなかった。だから、後を付けていることは何とか気付かれずに済んだ。

 駕籠は、ある店の前で止まった。お鈴と松は建物の影に隠れる。屋号は、近江屋。看板には「口入所」の文字が。

「口入屋じゃないか!」

 お鈴は小声で叫んだ。松が横目に鈴を見る。

「口入屋がどうした?」

「い、いや……」

 お鈴の顔を不思議そうに見ていた松だったが、ふと、黒斑の顔を緩ませる。

「丁度いいや。仕事を紹介してもらおうぜ。」

「え? あ、ちょいと!」

 止めようと差し出された手は届かず、松はさっさと行ってしまう。

「しようがないねぇ。」

 お鈴は松の後を追って、口入屋の中へと入って行った。


 口入屋の番頭は二人を疑いの眼差しで遠慮なくじろじろと見回した。あまり好意的な感じではない。松は怯むことなく、番頭台の横に腰かけて言った。

「俺たちは旅の芸人なんだが、いい仕事の口はないかねぇ。」

 番頭は眉間の皺をさらに寄せて、腕を組み、唸った。

「お前さんたちは、この町に住む気はないんでしょう? ここで紹介しているのは、続きのものが多いんです。日雇いもあるにはありますけどね。人足なんてやらないでしょう。」

「人足はやらんが、芸なら二、三日できるぜ。」

「いや、それでは困ります。」

「そこを何とかさぁ。」

 松が食い下がっていると、店の奥から顔を覗かせたものがあった。

「どうした?」

「ああ、与市さん。いいところへ。」

 お鈴の耳がぴくりと反応する。顔を上げると、狼の半獣、与市が立っていた。

「この方たちが、仕事をくれというんですよ。一日やそこらじゃ無理だって言ってるんですがね。」

 ここで、与市の視線がお鈴に移って、見開かれる。

「お鈴じゃないか。何だ、早速来たのか。」

「与市さん……。」

 松はお鈴と与市を交互に見やって、目を瞬かせた。

「何だ? 知り合いか?」

「まあね。ほら、この町を守っているって噂の半獣だよ。」

 与市は狼の顔で照れ臭そうに笑う。

「私が守っているのはこの近江屋だと言ったろう。」

 与市の表情は、番頭と違って温かく、優しかった。お鈴はつられるようにして顔を綻ばせた。

「仕事の話だな?」

「ええ、まあ。」

「丁度いい話がある。今宵、料亭で会合があってな。その後宴を催すことになっているのだ。そこへ来るといい。」

 願ってもない話だ。お鈴は嬉々として頭を下げた。

「恩に来るよ。あんたが困った時には助けるからね。」

 与市は愉快そうに笑った。

「そうだな。よろしく頼むぞ。」

 料亭の場所と時間を告げ、与市はその場を後にした。見回りに出掛けるのだろう。颯爽たる後姿を惚れ惚れと眺めるお鈴だった。


 夜になり、約束の時間より半刻早く料亭へやってきたお鈴と松。もちろん、会合の内容を盗み聞きするためだ。屋根裏に潜んで、耳を澄ましていると、早速怪しげなやり取りが行われている様子が窺い知れた。

「佐竹先生には、いつもお世話になっております。これはほんのお礼で……」

「おやおや、すみませんねぇ。」

 天井の板を少しだけずらして覗き見る。いわゆる「山吹色」の茶菓子を渡し、受け取っている。昼間後をつけた髭面の医者、佐竹が受取人だ。一方、渡しているのは、初めて見る顔である。顎の四角い目の端が垂れた男。どうやらこいつが近江屋の主であるようだ。

「どうですか。材料の方は足りていますかな?」

「ええ。お蔭様で大量に作ることができております。」

 佐竹のしたり顔を見て、近江屋はほくそ笑んだ。

「それは良かった。何しろ顧客は沢山おりますからな。」

「あなた様も待ち望んでおられる。」

「もちろんです。完成した薬を早く飲みたくて、喉から手が出ますぞ。」

 乾いた笑いが響き渡る。本気で笑っているのか、疑わしい笑い方だ。と、急に佐竹の表情が一変する。

「しかし、このままでは、思ったような効果は得られないかもしれません。」

「何と申される?」

「やはり、紛い物には紛い物なりの効果しかないのです。滋養強壮としては一級品ですが、その域を出ない。本物には敵わないということです。」

「ふむ……。不老長寿を望むなら、本物を狙うしかないか。」

 近江屋の目つきが鋭くなり、声も低くなる。

「与市。与市はいるか。」

 襖ががらりと音を立て、開かれる。しゃがんで顔を覗かせているのは狼の半獣、与市だ。

「はっ。」

「例の物の怪、まだ手に入らぬか。」

「は……。昼となく夜となく捜索しておりますが、一向に見つかりません。」

「お前は物の怪紛いを殺し過ぎた。その血が染み付いて、臭うのかもしれぬな。警戒されているのだろう。」

 佐竹が髭を弄りながら物申す。

「いや、しかし、与市さんがいなければ、この計画は端から成り立たなかったのですから……。」

「確かに、物の怪紛いを秘薬の原料とするには、まず退治せねばなりませんでしたからなぁ。世間では都合よく与市を正義の味方と見てくれていますが、実際は獲物を狩る獣と何ら変わりない。」

「その獣を操っているのは、どこのどなたですかな?」

 昏い笑い声が沸き起こる。与市は死人のように押し黙っている。

「とにかく、お前が見つけられない以上、誰か他の者を用立てるしかなさそうだな。」

 与市は目を剥いて、声を荒げた。

「いえ、他の者など、必要ありません! 私一人で十分……」

「私にこれ以上待てと申すか? 一人より二人、二人より三人だ。その方が確実であろう。」

「そのことでしたら、私に心当たりがございます。」

 ここで第三者が現れる。……聞いたことのある声に、毛を逆立てたお鈴と松。

「心当たりとな? 佐之助。」

 やはり、佐之助であった。どこにでも現れる奴である。座ったまま膝を進め、礼をする佐之助は、にやけるのを我慢しているみたいだった。

「ご期待に添える者をお連れ致します。」

「そうか。頼もしいな。良い人材を待っておるぞ。」

「はい。」

「ところで、顧客名簿はどうなっている?」

 佐之助の口元が隠しようもなくにやつく。佐之助は懐から名簿を取り出し、広げて見せた。

「御覧の通りで。住所まで全て揃えてございます。」

「おおお。」

「これは、これは。こんなに沢山いるのでは、ますます薬づくりに精を出さねばなりませんな。」

 再び天井を揺るがす笑い声に、お鈴たちはこれ以上ないほど顔を顰めた。

「与市も佐之助に負けず、頑張るのだぞ。何でも、物の怪紛いを人間に変える秘薬が欲しいと言うではないか。」

 近江屋の言葉を聞いて、思い出したように何度も頷く佐竹。

「ああ、そうでしたなぁ。与市さんが持って来た人間の娘の屍、役に立っておりますよ。あともう一息で完成しそうです。だが、しかし、いま一つ決め手に欠けておりましてな。」

「決め手とは?」

 与市が哀願するような眼差しで医者を見る。佐竹の小さな目がぎらりと光った。

「生きた娘の血が大量に必要です。物の怪紛いに屍から作った薬を飲ませた上で、血を生きながらに入れ替えるのです。」

「生きた娘だと?」

 愕然とする与市を近江屋がふん、と嘲笑する。

「そんなもの、いくらでも用立てられる。私の店を何だと思っている。口入屋だぞ。身寄りのない娘、金に困っている娘など、腐るほどいるわ。金に物を言わせば思いのままよ。だから、物の怪を早く討ち取ってこい。生きた娘と交換してやる。」

「は、はあ……」

 気の浮かない返事しかできない与市。その理由は、鈴には痛い程よく分かっていた。「例の物の怪」とは、つまり、獣の皮を被った、物の怪紛いの女のことである。物の怪はいないし、その女を見つけられては元も子もないのである。だって、物の怪紛いなのだから。物の怪紛いは彼らにとって薬の原料以外の何物でもないのだから。しかも、生きた娘の血を入れ替えるだなんて、あまりに酷い話だ。はい、そうですか、なんて意気揚々と言えるわけがない。

 話の筋が大体見えてきたところで、お鈴と松はそうっとその場を後にした。


 宴が開始されると共にお鈴と松は呼ばれ、さっきまで上から覗いていた場所に今度は正面から入って行く。そこにいると分かっていても、佐之助の顔を見ると、条件反射で体が力んだ。それこそ幽霊でも見たような顔つきになってしまう。佐之助は二人を見て、少しは驚き眉を上げたが、すぐにいつものにやけ顔を見せる。いや、したり顔の方が表現としてはぴったりか。

 お鈴と松はお座敷に上がって、芸を披露した。哀愁の漂う尺八の音色。しっとりと馴染む三味線の音。そして伸びやかだが、どこか切ないお鈴の歌声。三位一体となって人々の心に染み渡る。悪人たちもこの時ばかりは悪事を忘れ、胸を焦がすような調和に耳を傾けた。

「いや、素晴らしい。すっかり酔わされたぞ。」

 近江屋たちは挙って拍手し、称賛の声を浴びせた。お鈴と松は正座して深々と礼をする。そこへ佐之助がやってきて、二人の側に座り、近江屋に言った。

「旦那。実は、ご紹介したかったのはこの二人にございます。」

「何と。それは奇遇だなぁ。」

 お鈴と松は、意外な展開に下げていた頭を上げた。与市の空色の瞳が不吉に歪められ、二人を射抜く。佐之助はなおも言った。

「腕は保証いたします。物の怪を見つけ出し、必ずやその骸を先生の元へお届けすることでしょう。」

「物の怪を見つけ出す?」

 お鈴は演技するわけでもなく、初めて聞いたことのようにその目を丸くした。まさかその役目を自分たちが負うことになるとは思ってもみなかったのである。佐之助が不敵に笑う。

「そう。滝の周辺で物の怪を見たという話があるのさ。そいつを殺して骸を運んできて来てくんな。」

 お鈴は歯ぎしりして、佐之助を睨んだ。子どもに使いを頼んでいるように気楽な言い草である。近江屋が透かさず付け加える。

「もちろん、それなりのお礼はさせてもらうよ。いいね。」

 断るという選択肢はないようだ。考えてみたら、断る理由もなかった。人間の敵である物の怪を退治して来いと言われているに過ぎないのだから。たとえここで物の怪の骸を不老長寿の秘薬に使うと聞かされたとしても、それだけでは悪事の証拠にはならない。問題はその薬が人間の身体に有害である危険を孕んでいるということ。それだって確かなこととは言えないのだ。お鈴と松は渋々首を縦に振った。

 お鈴は近江屋たちに酒を注いで回り、その流れで嫌々ながら佐之助にも注いだ。佐之助は悪びれもせずその酒を煽り、もう一杯要求する。お鈴はむっとして呟いた。

「あんたって男は、臭い話にしか寄りつかないのかい?」

 どんなに謗られてもびくともしないのが佐之助である。

「何。悪い話じゃないだろう? 物の怪を退治する上に、長寿の秘薬が作れるんだ。世のため人のためになるなるじゃねぇか。」

「そんなこと、少しも思ってない癖に。川上屋の一件、忘れたわけじゃないだろう?」

 佐之助が面白そうに鼻を鳴らす。

「あんなのと一緒にしてもらっちゃ困るね。こっちは、歴とした薬なのさ。物の怪紛いになんかならねぇよ。」

 それからお鈴の耳元で小さく囁く。

「ただし、毎日飲み続けなきゃいけねぇがな。」

 お鈴も小声で聞く。

「飲まないとどうなるのさ。」

「身を焼かれるような苦しみを味わって、二、三日で死ぬ。」

 お鈴は牙を剥いて佐之助の耳を引っ張った。

「馬鹿! 阿片より質が悪いじゃないか!」

「痛てて。その代り飲み続ければ年を取らずにいられるんだ。もう、予約は入ってるんだぜ。ぼろ儲け間違いなしだ。ま、本当に悪いのは、口入屋に仕事をもらいにきた奴に仕事だと言って薬の試し飲みをさせたことだろうな。そのせいで何人も死んでる。死んだ原因は分からず、お咎めなしよ。」

 お鈴は腹立ちのあまり佐之助を引っ掻いてやろうと爪を出したが、近江屋に呼ばれて何とか引っ込めた。

「ひそひそ話なんぞしてないで、こっちへおいで。」

 お鈴は燻る腹を宥めつつ、近江屋の側に座り、お酌をした。近江屋は赤い顔をしてお鈴の頭を撫で、顎の下を掻いた。お鈴は思わず目を細め、ごろごろと喉を鳴らしてしまう。

「こんな可愛い顔して、物の怪がやっつけられるのかねぇ。」

「顔は関係ありませんから……」

 近江屋の手が、お鈴の顎を掴んで持ち上げる。お鈴は強制的に近江屋の四角い顔へ向けさせられた。

「佐之助が何を言ったか知らないが、ここで見聞きしたことは他言無用だ。いいね?」

 顎を掴まれたまま、お鈴はこくこくと頷いた。近江屋は途端にだらしなく笑い、お鈴の耳に唇を寄せた。鈴はぞわっと逆毛を立てる。

「与市に最近元気がなくてね。景気づけてやっておくれ。」

 普通に言えばいいものを。お鈴は耳を猫手で摩りながら、与市の元へ行った。与市は部屋の隅に酒も飲まず座っていた。

「あんたも一杯やりなよ。」

「いや、仕事中だ。」

「堅いこと言わずにさ。あんたのご主人もそう言ってるんだから。」

 与市に無理矢理盃を持たせ、酒を注ぐ。与市は仕方なしに盃を口に含んだ。二杯目を注がれながら、空色の瞳を伏せる与市はどこか寂しげだ。

「私は、お前が思っているような男ではない。」

「何だい? 藪から棒に。」

「物の怪紛いを退治しているのは、他意があってのこと。良からぬことと知りながら、悪事にこの手を染めているのだ。」

「……」

 お鈴は口を噤んで視線をさまよわせた。近江屋に身を置いて半獣の力を利用されていることは、確かに褒められたことではない。しかし、お鈴は与市の誠実な人柄は本物であると信じている。実直で優しく、頼もしく、そして気高い狼なのだ。

「あんた、何か困っていることがあるんだろう? それで、仕方なく近江屋の肩を持っているのさ。そうとしか考えられないね。」

「何のことだ。」

「隠すんじゃないよ。半獣同士助け合おうって言ったのはあんたじゃないか。」

 与市は凛とした瞳を真っ直ぐに鈴へ向けた。暫くそうして見つめていたが、ふと目を伏せて、哀しそうに笑い首を振った。

「気持ちはありがたいが、心配無用だ。」

「でも……」

「お前たちは私と同じ獲物を追う立場。負けはせぬ。物の怪は私が先に見つけだす。覚悟するのだな。」

 そう言うと与市は立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。いもしない物の怪を探しに出かけたのだろうか。それとも、物の怪紛いの女のところへ? お鈴は障子をそっと開けた。空には大きな満月が目に痛い程輝いている。そして夜の町を行く銀の狼を青く照らし出しているのだった。


 次の日、お鈴と松は物の怪捜索のため、町の外、森の中をひたすら歩いていた。松には与市の隠し事について話してある。

「全く、無意味じゃねぇか。こんなことして歩いていてもよ。噂の物の怪は与市の『これ』だったんだろう?」

 松は小指を立てて見せた。お鈴は息をついて、肩を落とす。

「そうだけど、万が一ってこともあるだろう? 物の怪は、どこかにいるんだよ。そいつを探し出すのが、あたしたちの仕事さ。」

「日が暮れるぜ。」

「日が暮れた方が見つかりやすいよ。今夜は徹夜だね。」

 松は草叢を腹いせに爪で刈った。

「やれやれ。勘弁してくれよ。別にいいじゃねぇか。物の怪なんか見つけなくたって。あいつらが非道な真似をしていることに間違いはねぇんだ。奉行所に届け出ちまおうぜ。」

 刈り取った草を手に乗せ、ふっと吹いて飛ばす。

「駄目だよ。確たる証拠もなしに取り合ってなんかもらえないよ。あの藪医者が薬を作って人の身体で試そうとしているところをとっ捕まえてもらわないと。その時は毒だと言うんだ。実際、毒なんだからさ。」

「物の怪紛いで作った薬があるだろう。そいつを盗んじゃどうだい?」

「あたしがあいつらなら、盗めるようなしまいかたはしないね。見張りもいるだろうし。下手をすると、あたしらただの盗人にされちまうよ。」

「面倒なことに首を突っ込んじまったもんだなぁ。」

「これが、あたしらの星さ。さ、諦めて耳と鼻を動かしな。」

 言われた通り、松が耳を澄まし、鼻を利かせていると、不意に気配を感じて後ろを振り返った。

「どうしたんだい?」

 松は首を伸ばして、遠くを見やる。

「誰かにつけられてるような気がしたんだが。」

 お鈴も息を殺して辺りに気を配った。風が木の葉を揺らし、草叢を靡かせる音だけがし、草いきれと樹木の匂いしかしない。そして目に映るのは黒い森の景色だけ。

「気のせいじゃないのかい?」

「だといいがな。」

 お鈴と松は再び歩き始めた。背後に忍び寄る影を知ることもなく。


 ついに夜となり、本腰を据えて物の怪探しに当たっていたお鈴と松は、しかし腹が減っては戦はできぬと一旦町へ引き返した。

 酒をちびちび飲みつつ、腹ごしらえをしている二人の横に、いきなりどかっと腰を下ろした奴がいた。佐之助だ。

「あんたって奴は……神出鬼没とはあんたのためにある言葉だね。」

 佐之助は松の酒を奪って、一息に飲み干し、二杯目を手酌した。

「あんまりきついこと言いなさんな。いいねたを持って来てやったんだから。」

「いいねた?」

「お前さんたち半獣は、物の怪の捕食対象じゃねぇ。どっちかってぇと逃げる対象だ。」

 物の怪が食らうのは生きた人間に限る。余程飢えている時でないと獣には見向きもしないのである。半獣ともなると、食料ではなく戦う相手になる。物の怪は人間の敵だが、半獣は物の怪の敵なのだ。

「それがどうしたのさ。」

「半獣の匂いを振り撒きながら探し出せると思うのかい?」

「それは……」

 お鈴は手首を鼻に持って来て、嗅いだ。猫の体臭は他の獣に比べて極めて少ない。むしろいい匂いがするくらいだ。待ち伏せ型の狩猟動物ゆえのことらしい。しかし、猫の匂いは猫の匂い。洗って消せるものでもない。

「手っ取り早い方法は、餌の匂いでおびき寄せることだ。」

「餌?」

「つまり、人間よ。」

 人の姿になりな、と佐之助はお鈴の耳に囁きかける。お鈴は耳を押さえて、のけぞった。佐之助の口元がにやりと上がる。

「そうすりゃ、向こうからやってくるってもんよ。」

「だ、だけど、その時に襲いかかって来られたら……敵は待ってくれないだろう?」

 変化には時間が掛かる。動きの素早い物の怪だったら一溜りもないではないか。

「なぁに。どっちか片一方がやりゃあいい話じゃねぇか。」

 松が怪訝に眉を顰める。

「どういうことだ? 何でお前、俺たちの秘密を知ってる?」

 得意そうな佐之助の顔。やはり引っ掻いてやりたくなる。

「いいじゃねぇか。別に、知ってたって。」

「良かねぇよ! 何なんだ、てめぇは?」

 申し訳なさそうに俯いていたお鈴だったが、松が佐之助に掴みかかりそうなので肩を押さえにかかった。

「ま、まあ。とにかく、試せることはやってみようじゃないか。」

 松の黄金色の瞳がぎらりと光る。

「お前を囮にすりゃあいいんじゃねぇか?」

 言われた佐之助は乙女のように体を抱いて震えて見せた。

「ううう。とんでもねぇや。そんな危ねぇことしてられるかい。じゃあな。遠い空から無事を祈ってやるぜ。」

「そんなものいるか、外道が!」

 松の握り拳をひらりと躱し、佐之助はあっという間に去っていった。役に立つ情報ではあったが、自分の手は汚さず危ない橋をかけて渡すことしかしない。お鈴と松は腹立たしげに彼が出て行った戸口を睨んだ。


 食事を済ませたお鈴と松は、再び森の中を分け入った。そして誰もいないことを確認しつつ、お鈴だけ人間の姿に変化する。闇夜に浮かび上がる美しい娘に、松は目の毒とばかりに目を細めた。

「よし。あたしが先を歩くから、あんたは少し離れておいでよ。」

「ああ。気を付けろよ。」

 人間の姿になると、夜目が利かなくなる。耳も鼻も当然人並みである。今宵は天気も良く、昨夜満ちたばかりの月が夜空に煌々と光り輝いているが、鬱蒼と茂った森の中までは届かない。お鈴にとっては目隠しをして綱渡りをしているような状態であった。提灯くらい持ってくれば良かったと思っていた矢先、側の草叢が大きな音を立てて揺れた。

 何者かと確認する余裕もなく、お鈴は飛びかかられ、仰向けに転がされた。鋭い爪で袖を縫い留められ、動けない。牙らしきものが剥きだしとなり、暗闇で僅かに光る。涎が首筋にかかった。噛みつかれる! そう思って目を閉じた瞬間、がん、と鈍い音がして、敵の姿は見えなくなった。松が尺八で殴り飛ばしたのだ。

「ぐああああああ!!」

 目標を松に変えた敵は、怯むことなく襲いかかる。高く跳躍したところを、下から針で刺され、落下する。地べたに這いつくばったその頭へ尺八が振り下ろされる。脳天の砕ける音がして、敵は動かなくなった。

 お鈴はしゃがみ込んで、敵の姿に目を凝らした。醜く歪んではいるが、人の形をしている。

「こいつは……物の怪紛いだね。」

「ああ。町の外にはまだいやがったんだな。危ねぇところだ。」

 お鈴は首についた涎を手で拭い、草に擦り付けた。気持ち悪い。そして、臭い。きれい好きの猫としては許せないことだった。

「ちょいと、川で洗ってくるよ。川はどっちだい?」

「来た道を少し戻って、左の方だ。」

 猫の耳は確かである。言った通りの方角からせせらぎが聞こえる。そして樹間にちらちらと揺れる光の筋。川が見えてきた。お鈴は川に誤って落ちないよう、慎重に川縁へ降りて行った。 

 手を洗って、手ぬぐいを川に浸し、首を洗うお鈴を、松は見ていられずあちらを向いた。色香を纏ったその艶やかな姿。露わになったうなじの白さ。何とも思わないわけがない。松の葛藤など露知らず、お鈴は呑気に首を洗っていた。

 お鈴に対して葛藤していたのは松だけではなかった。

「また何か来やがった!」

 松の声にお鈴は慌てて身構える。松はお鈴の前に立ちはだかった。近づいてきたのは、毛むくじゃらの黒い物の怪……?

「!」

 松が尺八片手に飛びかかろうとするのを見て、お鈴は叫んだ。

「待っておくれ! それは物の怪じゃないよ!」

「何?」

 一瞬躊躇した松に体当たりしてくる、毛の塊。松は川へ吹っ飛ばされた。

「松!!」

 幸い、川は深くなく、足がつく。松は川から這い上がり、身を震わせて、水気を切った。すると、敵の毛がずるりと剥けて地面に落ち、中から女が現れる。

「な、何だ、こいつ。」

「与市の想い人だよ。」

「こいつが!?」

 物の怪紛いにしては整った顔立ちをしている。目の色が黒く、牙が生えてさえいなかったら人間の女と思ってもいいくらいだ。しかし実際、赤い瞳は毒々しく二人を捉えているし、牙は剥き出されて涎が垂れていた。物の怪紛いと言うより他にない。

「人間だ……人間のいい匂いがする……。」

 半ば恍惚としながら、お鈴に近づいてくる、女。まさに獲物を前にした獣である。お鈴は首を振り振り後退った。

「止めておくれ。あんたとは戦いたくないよ。」

「あ、あたしだって、人間を食いたくない。だけど、この体が言うことを聞いてくれないのさ。」

 女がお鈴目がけて突進してくる。お鈴は撥を構えて、女の腕を斬った。女の腕から青い血が迸る。女は構わず鈴の首を絞めにかかる。鋭い爪が柔肌に食い込み、足が宙に浮いた。

「この野郎!」

 松が女の脇腹に尺八を食らわす。女の手が離れ、お鈴はその場にしゃがみ込むと頻りにむせ込んだ。女の爪が松に振り下ろされる。すんでで躱した松は、すぐに反撃に出た。横っ面を尺八で殴りつける。女は川縁を転がった。次いで、脳天に尺八をお見舞いしてやろうと振りかぶったが、お鈴の声でその動きが止まった。

「殺しちゃ駄目だよ、松!!」

 松は舌打ちをして、尺八で空を薙いだ。

「何言ってんだ! こいつは俺らの敵だぞ!」

「敵じゃない!!」

突如として別の声が響いて、お鈴と松は跳び上がった。川原の石を蹴散らしながら女に近づき、その体を抱き上げたのは、見紛うことなき狼の半獣、与市だった。

「敵じゃない。人間の肉は食わせていないんだ。信じてくれ。」

 物の怪紛いの女が、呻き声と共に目を覚ます。

「う……う……。食いたい、食いたいよ。人間を食いたい……。」

 手が獲物を求め彷徨っている。

「これで我慢するんだ。」

 与市は自分の手首を噛み切ると、滴る血を女に飲ませた。夢中でしゃぶりつく女。その目から攻撃性が薄れ、牙も引っ込んでいく。やがて落ち着いた様子の女は与市の手首から口を離し、その胸に縋りついたかと思うと、急に泣き出した。

「もう、無理だよ。あたしを殺しておくれ。」

「駄目だ。諦めるな。」

 与市は女を抱きしめながら二人に言った。

「見逃してくれないか? 悪い女ではないんだ。人の心を持っている。頼む。」

 頭を下げる姿があまりにも似合わず、お鈴は手を振った。

「止めておくれよ。初めから殺すつもりなんかなかったよ。さあ、顔を上げて。」

 与市の狼の顔が上がり、お鈴を真っ直ぐに見つめる。その口が、徐に開いた。

「お前、鈴だな? どうして人間の姿に?」

「……」

「羨ましい。その力があれば、こいつだって……」

 黒髪を撫でつける手つきが優しい。女は泣き顔を上げて、お鈴を見た。悔しそうにも、恨めしそうにも見える表情をして。

「すまなかったね。人間を見ると、我慢できなくなるんだよ。普段は魚を食べて生きているんだけど、それだけでは足りなくて……ときどきこうして与市から血を分けてもらっているのさ。」

 濡れた顔を拭って、女は言った。

「さ、もう行っておくれ。あんたを見ていると胸がもやもやしてくる。」

 お鈴と松は頷いて、その場を後にした。

 

 再び森の奥へと足を進める。途中、野犬や兎がいた他は、何もいない。人の足で歩き疲れた鈴は、獣道の脇に座り込み、休憩を取ることにした。

「やっぱり物の怪なんていなんじゃないのかね。」

 着物の裾をはだけてふくらはぎを摩る。透き通るような生足が丸見えだ。

「……おい。ちったぁ気を付けろよ。俺はその辺の棒切れと一緒か?」

 鼻息も荒く抗議する松を、横目に見て口を尖らせる。

「だから、いつでも好きにしていいって言ってるじゃないか。」

「俺にそのつもりはねぇんだよ。」

「つれない男だねぇ。」

「何とでも言え。」

 松は欲求不満をぶつけるように立木で爪を砥ぎ出した。木の幹が深く抉られていく音を耳にしながら、お鈴は嘆息した。松の気持ちは分かっていた。自分に想いを寄せていることくらい、ずっと前から。本気だからこそ、手を出して来ないのだということも。松はいつだって自分を一番に考えてくれていた。大事にしてくれている。その思いに報いてやりたいが、彼が欲しているのは肌の温もりなどではない。心というわけだった。

 佐之助の図々しさがほんの少しでもあれば、もっと楽に生きられるのにねぇ、とお鈴は思う。松があと十年、いや百年生きたところでそんなものは身に付きそうになかった。


 さっと立ち上がって尻についた土埃を払い、着衣を整える。墨を垂らしたような黒い森を歩き出す。松明も提灯もない今、闇を斜めに貫く月の光芒だけが頼りだ。神秘的な光景であった。神聖な場所を穢しているかのような背徳感が、足下からひたひたと這い上がってくる。

 どのくらい歩いただろうか。暗闇の連続に時間の感覚も薄れゆく中、お鈴はある異変に気が付く。松はとっくに気付いていた。静かだ。静か過ぎる。虫の声も、梟の鳴き声も消えた。風の音すらしない。するのは、地面を踏む自分の足音だけ。何だか、おかしい。お鈴は足を止めて、目を閉じ、全神経を周囲に向けて研ぎ澄ませた。そして、かっと目を見開く。

「来る!」

 体を反転させ、松に向かって走る。その刹那、脇から木をなぎ倒す轟音とともに踊り出る、巨大な影。

「物の怪だ!」

 身の丈はお鈴の二倍を超える。蜥蜴の顔には赤い眼が光る。三つに枝分かれした角はどれも鋭く、砥がれたみたいだ。顎の奥まで裂けた口には牙が隙間なく生えている。節のある胴体から伸びる六本の脚は鶏のような具合である。全身が硬質で黒光りしていた。

 松はお鈴を背後に押しやるようにして逃がすと、助走をつけて跳躍した。物の怪は鋭い爪の付いた前脚でもって、飛んでくる松を斬って落とそうと斜めに振り下ろす。松の頭上で尺八がきぃんと甲高い音を立てる。松は弾き飛ばされて危うく地べたに叩きつけられそうになったが、受け身を取って何とか着地した。透かさず落ちてくる前脚を躱し、横へ飛ぶ。

 松が凌いでいる間に、お鈴は猫の姿へと変化した。三味線から細身の刀を抜き放ち、物の怪に向かって突進する。懐に飛び込んで刀を斬り上げるも、硬くて歯が立たない。そこで突き刺しにかかったが、寸前で前脚に捉えられてしまう。細い体がぎりぎりと締め上げられていく。

「くそっ!!」

 松はお鈴を捉えている前脚を尺八で思い切りぶん殴った。ぼす、と鈍い音がして、一応凹んだが、あまり効いてないようである。物の怪の大きく開けられた口の中へお鈴が運ばれていく。もう少しで頭が食い千切られる、という時、空を裂くような音がした。物の怪の脚が切断され、お鈴は自分を掴む脚ごと落下した。それを下で受け止めた者がいる。

「与市……!」

 与市はお鈴を地面に立たせると、食い込んでいる物の怪の爪を剥いで脚を取り除いた。そしてお鈴を横抱きにして跳ぶ。立っていた地面に二列目の脚がめり込んだ。与市はお鈴を放すや、地面に突き刺さっている脚に素早く斬り込んだ。右の脚から左の脚へと真一文字に切断する。物の怪は六本の内四本の脚を失った。

「ごぉおおおおおお!!」

 物の怪の咆哮が猫の耳を劈く。怯んでなどいられるものか! お鈴は四つん這いで跳び上がり、物の怪の赤い眼を刀で突いた。

「ぎぃいいいいいい!!」

 刀を抜くと、くるくると宙返りしながら物の怪の後方へ降り立った。物の怪は地べたをのたうち回り、木をなぎ倒していく。松が倒れてくる木を躱しながら、物の怪に近づき、牙を数本叩き折った。怒り狂った物の怪は、角を振り回して松を突き刺そうとした。その角を途轍もない気迫で斬って落とす与市。まさしく野獣の形相である。

 お鈴が跳ぶ。刀を物の怪の眉間に突き立てる。凄まじい叫び声があがり、蜥蜴の頭が地面に突っ伏した。それきり、動かなくなる。

「勝負あったな。」

 与市は刀に付いた物の怪の体液を振り落とし、鞘に納めた。お鈴と松は喜び勇んで与市に駆け寄る。

「与市!」

「助かったよ。」

 与市は口の端を少しだけ上げて二人を振り返り、それから物の怪に視線を落とした。二人もそれに倣う。

「これが、本物か。」

「とんでもない奴だったね。」

「こんなでかいの、どうやって運ぶ?」

 縄で縛って引き摺って行こうか、それとも三つに切り分けて運ぼうか。そんなことを話し合っている時、お鈴は何やら背筋がぞくりとするのを感じた。それは松も同じで、原因を確かめようと辺りを見廻した。

「何だろう……」

 すぐ近くで、どん、という音がした。

「う……。」

 呻き声と共に、松が後頭部を抱えて頽れ、前のめりに倒れる。何事が起きたのか、理解できないお鈴。松の側に屈み込もうとして、止めた。きらりと光るものが見えたから。顔を上げたお鈴の目の前に差し向けられたもの。さっき鞘に収められたはずの、与市の刀だ。

「与市……?」

 悪寒の正体は、与市だった。空色の瞳はあくまでも真剣で、冗談ではないことを物語っている。お鈴は信じられなくて、首を振った。

「どうして?」

「最初からこうするつもりだった。」

 お鈴は大きな目を潤ませながら、なおも首を振った。

「嘘……。」

「私には後がない。もう限界なんだ。」

 物の怪紛いの女が頭の隅にちらつく。彼女を人間にするために?

「だからって……」

「秘薬づくりの邪魔立てをする者を放ってはおけない。」

 お鈴は驚いて目を瞠った。

「どうしてそれを?」

「ずっとお前たちをつけていた。」

 会話を聞かれていたわけだ。迂闊だった。べらべらと喋り過ぎたのだ。

「あたしらをどうするつもりだい?」

「……」

 後ろへ下がるが、物の怪の骸に背中がつく。もう後がない。

「すまない。」

 その一言を聞いた途端、お鈴は気を失った。鳩尾を拳で突かれたのだ。


 小鳥の囀りで目を覚ます。いつの間にか朝になっている。そして体は立った状態で、縄でもって木に括りつけられていた。横にはまだ気を失っている松が首をだらりと垂れていた。

「松、松!!」

 名を呼ぶと、小さな呻き声を上げて松は目を開けた。頭を起こして、顔を顰める。打たれた頭が痛むのだろう。

「ちっくしょう。やられたな、お鈴。」

「どうしたもんかね。」

 爪を伸ばしてみたが、届く範囲に縄はない。牙も届かない。いたずらに時間だけが過ぎていく。

 そう言えば、物の怪の骸はどうなったのだろう。あんな大きなものを一人で運んだのだろうか。地面にあるのは物の怪の青黒い体液の染みだけだった。

 縄を何とかして緩めようと、もがきにもがく。が、縄は緩むどころかますますきつく締めあげてくる。このままでは、秘薬が完成して人の手に渡ってしまう。そして与市の想い人のために生きている人間が犠牲になってしまうのだ。与市は立派な犯罪者となる。そんなことさせるものか。

 歯を食いしばり、渾身の力を込めて縄を解きにかかっているところへ、不意にその力が抜けるような声が投げかけられる。

「これはこれは、良い眺めだねぇ。」

 どこからともなくぶらりと現れた、細面の男。

「佐之助!」

「お前、何しに来やがった?」

 いつものにやけ顔は健在だ。

「お前さんたちがどんな顔してるのかと思って見に来たんだよ。仲間だと思っていた奴に裏切られ、出し抜かれた感想はどうだい?」

 憎たらしい口を利くこの男をどうにか蹴ってやりたくて、猫の足をばたばたさせる。

「この、悪趣味! どうせこうなるって分かってたんだろう!」

 縄を解けとは言わない。解く気があるのなら、既にやっているはずだ。佐之助は見世物小屋の珍獣よろしくお鈴と松を見て、にやける口元を一層吊り上げた。

「そう、かっかしなさんなって。これから面白い話をしてやるんだから。」

「面白い話?」

「おもしれぇぜ。近江屋で試し薬の仕事をもらって死んだ奴がいるって言ったろう? 人死にが出たってのに、お咎めがない本当の理由。何だと思う?」

 お鈴は猫の顔で可愛いくらいきょとんとする。

「えっ? だってそれは、証拠がないからなんだろう? 原因が分からないからって……」

「お調べがなけりゃ、証拠も出ないわな。」

 お鈴と松の丸い目が尖る。

「何だって!?」

「つまり、奉行も金を握らされているってわけさ。お前さんたちの味方はいねぇってことだ。」

 お鈴と松は絶句して、手足を力なく下げた。八方塞がりではないか。叩きつけられた現実はあまりに絶望的で、残酷だった。佐之助は涼しい顔で容赦なく話を続ける。

「それから、あの与市って半獣は地獄を見ることになるだろうねぇ。」

「どういうことだい?」

「人間を物の怪紛いにするのは簡単だ。血肉が体に入りゃ、うつるからね。だが、逆はそうはいかねぇ。物の怪紛いの身体に人間の血を流したところで、変わりゃしねぇよ。返って拒絶反応が出て死んじまうだけさ。人間に猫の血を流したって猫になるかい。」

「そんな……!」

「医者がそれを知らないわけがない。与市はいいように騙されて操れているのさ。与市が連れて来た物の怪紛いの女は、望み通り人間の女の生血を身体に流されて死に、用済みの与市は消される。なぁに、物の怪を退治して来た褒美だと言って、毒を飲ませりゃいいことさ。どうせ強壮剤と毒の区別もつかないんだろうから。」

「この悪党が!」

「何てこったい!」

 唾と共に悪態を吐かれた与市は、顔を一拭いして、なおもにやりと笑った。

「どうしたんだい? 自分たちを裏切った奴の末路だぜ。仕返しをする手間も省けて良かっただろう。」

「何言ってんだい! あたしらがそんなこと望むもんか!」

「もう、与市も女も殺められちまったのか?」

 松の問いに、佐之助は腕を組み鼻で息をし、蔑むような眼差しを向ける。

「全く、お人好しだねぇ。助けてやりたいのかい?」

 助けてやりたい!! お鈴と松は千切れんばかりに瞠目して、佐之助に訴えかけた。佐之助は、視線を横にずらし、指先で顎を撫でて考えるふりをする。彼の中でも、答えは決まっているのだ。ただ、可愛い猫たちを焦らして遊びたいのだった。自分の話にすぐ飛びついてくる。猫じゃらし要らずだ。

 佐之助はお鈴の後ろに回り、縄をぐいと引っ張り、お鈴の手に握らせた。これを爪で引っ掻けば、縄を断ち切ることができるだろう。

「後は好きにしな。」

 立ち去ろうとする背中に、お鈴は言葉を投げかける。

「あんた、どこに行く気だい?」

「次の町さ。貰うもんは貰ったし、そろそろ潮時だからね。生きてりゃ、また会うだろう。」

 そう言って、佐之助は森の奥へと消えていった。敵だか味方だか良く分からない奴である。助けているようで、最後まで手を貸すわけではない。そう言えば、危ない橋を渡すのが仕事だと言っていた。大人しく寺子屋の師匠をしていればいいものを。お鈴は縄を引っ掻きながらつくづくそう思った。


 縄を解いたお鈴と松は、町へと走った。佐竹の診療所へ辿り着くと、脇目も振らず中へづかづかと入って行く。家人が止めに入るのなど、もちろん気にも留めない。

 襖を乱暴に開くと、そこには布団に寝かされた物の怪紛いの女と見たこともない人間の若い女、それに佐竹と与市の姿があった。与市は今まさに薬の包みを開き、口の中へ入れようとしている。

「駄目だ!!」

 松は与市の手から薬を叩き落とした。薬が畳の上に散る。

「何をする!」

「こいつは毒だ!」

 佐竹はあからさまに狼狽える。

「な、何を馬鹿なことを……!」

 お鈴がしゃがんで、薬の散った畳の上を指先でなぞる。

「嘘だというなら、ほら、舐めてみな。」

「くっ……!」

 与市が佐竹に詰め寄る。

「どういうことだ?」

 後ろへ下がり、逃げようとする佐竹を、松が素早く捉え、縄でふん縛る。

「なっ……何をする!!」

「それはこっちの台詞だ。与市に毒を飲ませて、その後どうするつもりだったんだい。」

「そ、それは……。」

「この物の怪紛いの女を殺すつもりだったんだろう!」

 与市は愕然として突っ立っていたが、はたとして物の怪紛いの女の元へ跪いた。

「まさか、さっき飲ませたのは、毒か?」

 佐竹は慌てふためいて自由の利く首を振った。

「ち、違う! 眠り薬だ。」

 与市は立ち上がり、佐竹の胸ぐらを掴んで、自分に引き寄せた。憤怒の形相は、もはや獲物を前にした獣のそれである。佐竹はぶるぶる震えて弁明した。

「わ、私はあんたの望み通りにしてやろうとしているだけだ。その女に人間の血を入れてやろうとしているんじゃないか!」

 松の縄を掴む手に力が入る。

「そうやって殺すつもりなんだろう! 極悪非道もいいところだ!」

「与市、騙されんじゃないよ! 物の怪紛いに人間の血を入れたところで人間になんかならないんだ。返って死んでしまうんだよ!」

「……!」

 狼の顔が、獰猛に歪む。口を開いて牙を剥き出し、唸りをあげて佐竹の首に噛みつこうとしている。お鈴の手が与市の襟首を掴んで引っ張った。

「止めな! こんな奴、殺す価値もないよ。」

「しかし……!」

「まず、やることがある。物の怪の骸はどうしたんだい? もう薬になったわけじゃないんだろう?」

 ぐいっと揺すられて、観念し、首を垂れる。

「そっちの部屋に置いてある。」

 佐竹の案内で、物の怪の骸が置いてある部屋へ行く。近づくにつれ、異様な臭気が漂ってくる。襖を開けると、その臭気はもはや暴力的で、お鈴たちは鼻をつまみ、梅干しでも食べたみたいに顔を顰めた。

「どうする?」

 佐竹を逃がさないよう注意しつつ松が聞く。お鈴は目に涙を溜めながら言った。

「使い物にならないようにしてやるんだ。あたしは台所から油を取ってくるよ。与市はこいつを庭まで運んでおくれ。」

「な、何をするつもりだ!」

 佐竹の叫びに、お鈴はふふんとせせら笑った。

「臭いものを始末してやるんだ。感謝しなよ。」


 庭に運んだ物の怪の骸を薪で覆い、油をかけて火を点けた。瞬く間に炎が巻き起こる。佐竹は嘆息して呟いた。

「ああ、何ともったいないことを……」

「煩いよ。さて、物の怪紛いで作った秘薬とやらも出してもらおうか。」

 細身の刀の切っ先を佐竹の目に近づけた。佐竹の頭が勢いよく横に振れる。

「ここにはない。近江屋の旦那に皆渡してある。」

「本当だろうね!」

「本当だとも!」

 佐竹は堰を切ったように泣き出した。いい年をして情けない。馬鹿馬鹿しくなって、刀を三味線に納めた。

「あたしらは近江屋へ行く。あんたはどうする?」

 与市は目を背けながら悲しそうに言った。

「私のことを許してくれるのか?」

「許すも何もないさ。あんただって騙されていたんだから。」

 松は黙ってお鈴の意見に賛同している。物の怪から立ち上る炎を空色の瞳に映し、背筋を伸ばす与市。凛々しく、気高い狼に戻っている。

「私も行こう。あいつを……おゆきを連れて行っていいか? ここに置いて行くわけにもいかない。」

 お鈴は笑った。

「おゆきさんというのかい? いいけど、ちゃんと見張ってておくれよ。食われちゃ堪らないからね。」

「分かった。」

 お鈴たちは近江屋へ向かった。佐竹はそのまま放っておいた。物の怪も物の怪紛いも失った以上、彼はただの医者に過ぎない。悪事のしようがないのだ。

  

 裏口から近江屋へ乗り込む。与市は担いでいた物の怪紛いの女、おゆきを戸口に座らせるようにして寝かせた。眠り薬は効いたまま、まだぐっすりと眠っている。

「何だ、お前たち。勝手に入って来て。」

 近江屋が縁側に降りてくる。四人を見て、明らかに動揺している。彼の中では四人とも死んでいる計算だったのか。

「あんたの大事な物の怪は燃えたよ。」

「何だと!!」

 熱り立って握りしめられた手は、隠しようもなく震えている。

「物の怪紛いの秘薬を出しな。序でにくべてやる。」

「馬鹿な。ここにあるのはただの強壮薬だ。」

 あくまでも白を切るつもりらしい。往生際の悪い男だ。

「人に害をなすものは毒だ。毒を売って金にするなんて、とんでもないよ。」

 近江屋の四角い顔が醜く歪む。

「ふん。証拠もなしによくもそのようなことを。」

「証拠なんかいらないね! どうしてもっていうんなら、あんたが飲みな! 三日放っておいて生きていられるか、あんたの身体で試すんだ。」

 与市が嘲笑って、ぼそりと言う。

「いや、もう飲んでいるのかもしれないぞ。」

 それを聞いた松が楽しそうに笑う。

「へえ。じゃあ、丁度いいや。どっかに閉じ込めてやろうぜ。何日もつか、見ものだな。」

 近江屋は耳まで真っ赤になって怒鳴った。

「何を言うか、この痴れ者め! 皆出て来い! この者どもをやっつけてしまえ!」

 あちらこちらから馳せ参じる用心棒たち。その手には刀が握られている。お鈴たちも各々の武器を手に構えた。

「いいかい? 殺すんじゃないよ。」

「分かっている。」

 気合いと共に襲いかかってくる用心棒に、みねうちを食らわすお鈴と与市。松は尺八で鳩尾を突いたり、首筋を殴ったりしている。

「この、裏切者が!」

 そう叫んで刀を振り下ろすが、与市は平然と刀で受け止め、面を取る。どっと倒れて、あっさり片が付いてしまう。

「お前たちに裏切者呼ばわりされる筋合いはない。」

 与市は次なる相手の胴を打った。敢え無く頽れてがら空きとなった首を叩く。お鈴は舞うように敵の攻撃を避けながら打撃を幾つも与えていく。松の尺八は唸りをあげて、一撃のもとに気を失わせた。

 こうして用心棒を一人残らず倒した三人は、しかし次の瞬間固まった。

「動くな! 動くとこの女を殺すぞ!」

 いつの間にか戸口の方へ降りていた近江屋は、眠っているおゆきを後ろから抱え上げて、喉元に匕首を突きつけていた。与市は半狂乱で叫ぶ。

「止めろ! 止めるんだ!!」

「ならば、まず、武器を捨てろ!」

 唸り声とともに、与市の手から、刀が落ちる。それを見たお鈴と松も渋々ながら倣って捨てた。近江屋がにやりと笑う。

「ようし。与市、その二人を殺せ。刀がなくともできるだろう。その牙で食い殺せ!」

「くっ……!」

 わなわなと震えながらも、お鈴と松の方へ向き直る与市。お鈴と松は、身じろぎもできず、与市の空色の瞳を見つめるばかりだ。与市が一歩踏み出した、その時。

「ぎゃーっ!!」

 悲鳴が聞こえて、三人とも振り返った。眠っていたはずのおゆきが目を覚まし、近江屋の匕首を持つ手を掴んで噛みついている。匕首は手から離れて、地面に突き刺さった。次いで、おゆきは体をくるりと回し、近江屋に抱き付いて、その首に喰らいつく。

「おゆき!!」

 与市が叫ぶと同時に、おゆきは近江屋を突き放した。近江屋は声もなく地面に転がり、動かなくなった。よろよろと歩み寄り、与市はその大きな胸におゆきの小さな体を埋め、頬ずりした。

「おゆき……。」

「与市さん……。」

 お鈴はそんな二人を羨ましそうに眺めていたが、ふと正気に戻って、近江屋の横に屈んだ。

「殺したのかい?」

 おゆきは与市の腕から顔を出して、けろっとして言う。

「ううん。気を失ってるだけさ。まずい血だよ。殺すほど飲みたくない。」

 近江屋は確かに息をしていた。お鈴の口から呆れたような、安堵したようなため息が漏れる。立ち上がって、もう一度ため息を吐く。

「さて、秘薬を見つけて、根こそぎ燃やしちまうよ。」


 秘薬は蔵の中に保管されていた。大変な量である。

「棺桶三つ分くらいだね。」

お鈴の例えは縁起でもないが、分量を示すには丁度良かった。台車に乗せて持ち出し、川原で火を点けて燃やす。油がなくてもよく燃えた。時に青白くなる炎を見つめながら、物の怪紛いのおゆきは与市に寄り添って泣いた。

「あたし、やっぱり人間になれないんだねぇ。」

 与市の手が、おゆきの頭を引き寄せ、優しく撫でる。

「ああ。そうだな。だが、いい。そのままで。私が好きになったのは、物の怪紛いのお前だ。どこか遠くで、一緒に暮らそう。」

「え……だって……」

「この町に居場所はないし、いる意味がない。二人で協力し合えば、何とかやっていけるさ。」

「……うん。」

 お鈴と松は、静かに二人から離れた。邪魔をしては悪い。しかし幾らも歩かないうちに、呼び止められた。

「おおい、待ってくれ!」

 全く、無粋な男だと思って振り返る。

「もう行くよ!」

「幸せにな!」

 それだけ言って行こうとする二人を、追いかけてくる与市。牙の間から舌が出て、びろびろ揺れている。

「何だよ、大事な女房を置いて来やがって。」

「待てと言っている。お前たち、何かわけありなんだろう?」

「……」

 下を俯き、押し黙る二人に、声を低める。

「西の村には半獣の始祖の墓があると聞く。関係あるかどうか分からないが、行ってみて損はないはずだ。」

 目を見合わせて、顔を綻ばす。

「恩に着るよ、与市。」

「こちらこそだ。」

 手を振り合って、別れる。いい天気だ。今日も良く膨らんだ月が出ることだろう。そしてちょっと風変わりな夫婦の門出を祝福するのだ。月夜が良く似合う、一組の夫婦を。


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