物の怪紛い、半獣、阿片
次の町に着いた頃には、夕方になっていた。二人は宿賃を稼ぐために、いつも通り座敷に上がった。そして、例の美しい歌声と演奏を人々に聴かせる。遠い郷愁を匂わせる、甘美な旋律が、夜の闇へ溶けていった。
薄暗い朝だった。雨が降りしきる川縁に、土左衛門が打ち上げられた。土左衛門には筵がかけられ、役人たちが検分をしている。その周囲では雨にへこたれることもなく、野次馬が群がっていた。
「物の怪紛いだってよ。」
「川に溺れたのかい?」
「いや、切り傷が幾つもあるらしいぜ。」
「じゃあ、殺された後、川に放り込まれたってわけかい?」
「誰の仕業かね。」
「普通の人間じゃ無理だろうよ。」
「じゃあ、やっぱり、半獣かい?」
「仲間割れかもしれねぇ。」
「桑原、桑原。この町も物騒になったもんだよ。」
人々がそれぞれの憶測でああでもないこうでもないと囁き合っている後ろ、太鼓橋の上で、喧噪を冷やかに見守る人影があった。三度笠を被り、肩にかけた白い合羽を手繰り寄せる細い指先には桜色の爪が光っている。合羽からは藍色の着物が垣間見えた。三度笠から覗く、顔。その顔を見れば、野次馬どもも、土左衛門のことなど忘れて見惚れたことであろう。
艶めかしく潤んだ黒目がちの瞳。長く濃い睫毛。すっと通った鼻筋。茜色の唇。雪のように白い肌。頭の上で一つに結われた長く艶やかな髪は絹のようだ。嫋やかに咲く花の如きその立ち姿は、雨に霞むことなくほんのりと輝いているようにすら見える。
可憐な娘の眼差しは、土左衛門に向けられていた。筵に隠れているそれをもっと近くで見ようと足を踏み出した、その時、橋の袂から呼びかける声があった。
「鈴音? 鈴音じゃないか!」
懐かしくも、愛おしい声。しかし、娘は跳び上がるようにして後退り、来た道を駆け出した。呼びかけた男はその後を急いで追う。
娘はその姿に似合わず、足が速かった。町を縫うようにして走り、男を振り切ったところで、とあるあばら家の物陰に隠れる。娘を見失った男は、立ち止まって叫んだ。
「鈴音! どこだ! 何故逃げる?」
娘は身を縮こませたまま、口を閉ざしている。走ったためではなく、男の存在が胸を高鳴らせていた。その胸を掻き抱いて、荒くなる呼吸を必死で押しとどめる。
「逃がさない。必ず見つけ出す。待っていろ!」
男はまた走り出した。遠ざかっていく足音を聞いて、娘は肩の力を抜き、ふう、と溜息を吐いた。
どうしてあの人がここに? まさか、自分を追ってきたというのか。安穏とした生活を捨ててまで……。娘は未だ鳴り止まぬ鼓動に翻弄されながら、よろよろと立ち上がり、通りへ出た。
「隠れんぼかい? 俺も混ぜておくれよ。」
急に背後から、それも間近で話しかけられ、飛び退る。
「佐之助……!」
言ってから、はっとする。「この姿」では初対面なのに、名を呼んでしまった。しかし、相手の方は驚いた風もなく、平然と言ってのける。
「ま、こんないい女を捕まえようってんだから、鬼の方も必死だろうねぇ。」
佐之助の瞳が、娘の身体を撫でるように滑る。完全に厭らしい目つきだ。娘は汚らわしい真似をされたように、両手で体を隠した。
「あんた、つけてきたね!」
佐之助は両手を挙げて、おどけて見せる。
「人聞きの悪い。たまたまだよ。人死にが出たって言うから、ちょいと覗きに行ったところへ、たまたまあんたがいたんじゃないか。なあ、お鈴。おっと、鈴音と呼んだ方がいいのかい?」
娘、お鈴は白い肌を赤く染め、華奢な手を握りしめた。
「なっ……! やめとくれよ! その名を呼んでいいのはあの人だけだからね!」
へっ、と笑い声を吐き出す佐之助。相変わらず人を小馬鹿にしたような笑い方だ。
「なるほど。あんたのいい人ってわけか。何で逃げてんのか知らねぇが、その姿はやめておいたほうがいいぜ。猫の姿の方がよっぽど紛れる。美人過ぎて目立つってもんよ。」
自分の美しさは自覚しているが、面と向かって褒められると流石に照れる。お鈴は誤魔化すように腕を組み、その綺麗な鼻を鳴らした。
「しようがないだろう。あんなところへ半獣の身で近寄ったら、あたしが犯人にされちまうよ。」
「違うのかい?」
「違うよ。あたしらはこの町に昨夜来たばかりで、何も知らないんだから。物の怪紛いがやられるなんて、誰の仕業だろうね。あんた、知ってるんじゃないのかい?」
佐之助は肩を聳やかす。
「さあね。俺はあんたらより一足先にこの町へやってきたが、ちょいときな臭い話があるくらいで、物の怪紛いについてはまだ聞いてないのさ。」
「きな臭い話?」
「聞きたいかい?」
お鈴はぐっと喉を詰まらせた。聞いたら最後、巻き込まれるのが落ちだ。
「聞きたかないね。あんたの話なんか。それより、あんた、あたしのこの姿を見て、何とも思わないのかい?」
佐之助は舌なめずりしてお鈴をまた見回した。
「何とも思わねぇ男がどこにいるよ?」
お鈴の顔がまた赤くなる。
「そういうことを言ってんじゃないよ! 半獣が人の姿になるなんておかしいだろう?」
半獣は半獣のまま、人間と獣を足して二で割った姿でしかいられない。佐之助はにやりと笑った。
「まあ、珍しい現象ではあるがねぇ。俺はあんたらが思うより、裏に通じているってことさ。安心しな。このことは誰にも言わねぇから。それに、面白い話が手に入ったら、聞かせてやる。だから、たまにはあんたのその姿、拝ませてくれよな。錆びついてたもんが疼くぜ。」
「なっ……、馬鹿なこと言ってんじゃないよ!」
細腕を振り下ろすも、ひらりと躱される。人の姿では動きが鈍るようだ。佐之助は歯を剥き出して笑った。
「ははっ。じゃ、またな。」
引っ掻きたい衝動を抑え、後ろ手に振られた手を睨みつける。侮れない男だ。
佐之助が去り、誰もいなくなったのを見計らって、お鈴は思い切り伸びをした。全身から藤色の毛を噴き出し、尻尾を生やす。小さかった口が左右に裂け、目が吊り上がっていく。半獣へと変化したお鈴は、猫手で顔を撫で繰り回した。顔面を覆った無数の毛を自らに馴染ませようとするかのように。
旅籠屋へ戻って一人静かに座していると、松が帰ってきた。松は松で別の方向から事件の真相を探っていたのだ。松は襖を閉めるなり、お鈴に聞いた。
「よう。屍の方はどうだった? 半獣の仕業か? それとも物の怪の野郎が絡んでいるのか?」
お鈴は口をもごもごさせてから、小さく開いた。
「それを調べようとした矢先に、飛んだ邪魔が入ってね。こちらは収穫なしだよ。」
「邪魔?」
松はお鈴の目の前に座り込み、胡坐をかいた。黄金色の瞳をお鈴に向ける。お鈴は居心地悪そうに目を背けた。
「……修さんがいたんだよ。」
松の猫目が見開かれる。
「修二郎の奴が? どうして?」
「わからないよ。もしかしたら、あたしを追ってきたのかもしれない。」
松はなで肩を一層下げて、上を向く。
「あいつはお前にべた惚れだったからな。追ってきても不思議はねぇ。で、どうする?」
「どうするったって、まだ事の真相も掴まないうちにこの町を出られないよ。お座敷に上がるのは止めた方がいいね。すぐに居場所が知れてしまう。」
松は短く息を吐き出した。
「また赤字じゃねぇか。」
「こればかりは仕方ないよ。」
佐之助のことも話すかどうか悩んだが、考えた末、止めた。これ以上、松を余計なことで混乱させたくなかった。
しばしの沈黙を経て、お鈴が言う。
「ところで、そっちの方はどうだったんだい?」
松は思い出したように膝を叩いた。
「おう。物の怪紛いの話はなかったんだが、その代わり妙な噂が流れていてな。」
「妙な噂?」
松は声を引き絞って、黒斑の顔を鈴に近づけた。佐之助と違って、至って神妙な面持ちである。
「この町じゃ、阿片が出回っているらしい。」
「阿片だって?」
阿片と言えば、麻酔に使われる高価な薬。使い方を間違えると幻覚などの中毒症状に悩まされると聞くが、それが出回るという意味は、薬としての価値からではなさそうだ。
「薬種問屋の川上屋、それから藩主の金井伊周が絡んでいて、商人たちに売りさばいては私腹を肥やしているって話だ。」
「なるほど、そいつはろくでもないねぇ。だけど、それのどこが妙なんだい?」
松の声が余計に低くなる。お鈴は猫耳を欹てた。
「何。商人に売りつけるだけでは飽き足らず、半獣にも配り始めたって言うのさ。それも無償で。」
「何だって? 何のために。」
「さあな。そこから先は知らねぇ。だが、詳しく調べてみる価値はありそうだ。」
「この町にはあたしらの他にも半獣がいるってわけだね。」
「そいつらを当たってみようぜ。」
お鈴は頷いて、翠玉の瞳を光らせた。
半獣は、夜の方が活発に行動する。夜行性の者が多いのだ。お鈴と松は夜になるのを待って、外へ出た。すると、昼間は見かけなかった半獣たちが、漫ろ歩いているのが幾つも見える。お鈴は目を瞠った。こんなに多くの半獣を一つ所で見たことなど一度もない。
松もこれには驚いて、言葉を失っているようだ。昨夜はすぐ座敷に上がってしまったから気が付かなかった。帰りは遅かったし……。
「ねえ、旦那。この町は長いのかい?」
背の高い犬の半獣に声をかけた。猫は犬を恐れるというのが一般的な考えだが、獣人の場合、獣としての感情より人としての感情が先に立つので、獣人同士でいざこざが起きることはない。犬の獣人は舌をべろりと垂らして、はっははっはと息をしている。
「いや、それほどでもないが。お前さんたち、見かけない顔だな。」
お鈴は目を細めて笑顔を作る。屈託のない笑顔である。
「昨日来たばかりでね。何にも知らないんだよ。」
「そうかい。それは良かった。」
お鈴は猫目をくるりと回した。
「どうしてさ。」
「知らない方がいいってことさ。あまり嗅ぎまわらないことだな。俺の仲間なんか、首を突っ込み過ぎて姿を晦ましちまった。」
「首を突っ込むって何に……」
言いかける口を、犬の半獣に手で制される。
「それ以上、聞くんじゃねぇ。ここにいればそのうち嫌でも知ることになるんだから。じゃあな。」
犬の半獣はそそくさと立ち去った。
次は、鶏の半獣だ。鶏冠が炎のように立派な形をしている。
「何? この町の秘密だ? そんなことを知ってどうしようっていうんだ。」
鶏の半獣はきょろきょろと辺りを見廻した。肉髭が小刻みに震えている。
「早くこの町に馴染みたいのさ。半獣がこんなに沢山いるだろう? よっぽど住みやすいってことさ。あたしらは流れの芸人なんだけどね、ここいらで腰を据えようかって話しているんだよ。」
鶏の半獣はぶるぶると首を振った。何かに怯えた様子だ。
「いやいや、やめておきな。もっといい町があるさ。悪いことは言わねぇ。さっさと出て行くんだ。」
そう言うと、羽をばたつかせながら、逃げるようにして行ってしまった。
誰に聞いても、同じような反応だった。ならば、と二人は赤提灯の暖簾を潜る。酒の席であれば、固く結ばれた口も緩むというものであろう。
「俺たち半獣を手懐けようって腹だろう?」
狸の半獣が徳利を覗き込みながら言った。三本目ともなると、口が軽くなるものだ。松は財布の中身を気にしている。お鈴は駄目押しの四本目を注文した。
「それで?」
「半獣を集めて、やることっつったら、決まってるだろう。」
お鈴と松はごくりと喉を鳴らした。
「戦か……。」
「半獣一人で何人分、何十人分の働きをするだろうな。同じことを考えてる奴ぁ、伊周だけじゃなさそうだぜ。頭一つ抜きん出ているのは確かだが。」
「阿片のためだな?」
松の眉間に皺が寄る。狸は新しく来た酒を美しい猫に注がれて有頂天だ。
「あれは、一度味わうと病み付きになるからな。餌付けされたも同然よ。もう、逆らうこたぁできねぇ。しかも、高価すぎておいそれとは手が出ねぇときたもんだ。俺たちゃ、尻尾を振って服従するしかねぇのよ。」
お鈴は頬杖をついて、色っぽく溜息を吐いた。
「それじゃあ、戦国時代に逆戻りじゃないのさ。」
狸は机に置かれたお鈴の手にその手を重ね、熱っぽく言う。
「いや。そこまではいってねぇから大丈夫だ。何といっても俺たちは希少だからな。まだまだ数が足りねぇのよ。それに、いざって時は、俺が守ってやる。」
お鈴は狸の手を払い除けて、汚いものに触られたという風にひらひらと振った。実際、狸の手は汗ばんでいて、気持ち悪いったらありゃしなかった。狸はお鈴の様子を見て、不快になるどころか、一層顔を緩ませた。かと思いきや、急に顔を引き締め、難しい表情になる。
「とは言ったものの、戦になるのもそう遠くはなさそうなんだがな。」
お鈴と松の猫目が揃って瞬かれる。
「どういうことだい?」
「そうだなぁ、別嬪さんに酌をしてもらったんだ。取って置きのねたを明かしてやろうか。」
翠玉色の瞳が期待で煌めく。お鈴は頷き、耳を欹てた。狸がその口を寄せ、声を低くして囁く。
「半獣は少なすぎる。となれば、後は……?」
お鈴ははっとして身を起こし、毛を逆立てた。
「物の怪紛い……!」
狸が口の端を上げかけたが、慌ててお鈴の口を塞ぎ、辺りを見廻す。誰にも気付かれていないことを確認して、ほっと胸を撫で下ろす。
「声が高い。……そうよ。奴らも半分人間だからな。薬だってなんだって効くのさ。」
阿片を使って、思いのままに操る。物の怪紛いを戦の道具に仕立てて、人を襲わせるつもりなのだ。物の怪紛いの心は物の怪。無差別に破壊の限りを尽くすであろうことは目に見えている。戦は非道でなくては勝てないのかもしれないが、物事には道理があって然るべきではないのか。
「今朝死んだ物の怪紛い、もしかして……」
狸の小さな目が控えめに光る。
「大方、気が振れて表に飛び出そうとしたんだろうよ。それを半獣が始末した。」
「そいつら、どこかに集められているのかい?」
お鈴の質問に、狸は肩を聳やかした。
「さあな。そうだろうが、俺が知っているのはここまでだ。川上屋の人間に聞けば分かるかもしれねぇが、下手をすると、今朝の物の怪紛いの二の舞になるぜ。」
それきり、狸は黙り込み、お猪口を啜った。お鈴と松は互いの顔を見て、首を縦に振る。やることはもう、決まっていた。
翌朝、日が高くなった頃、お鈴と松は川上屋を訪れた。入口に立っていたのは熊の半獣だった。半獣の中でもかなり強い部類に属する。番人としては打って付けだ。
「何用かな。」
同じ半獣とあって、熊は穏やかに問うた。お鈴は細い体を捩り、科を作って言う。
「このところ、どうも調子がでなくって……。ここへ来れば、たちどころに元気になれる薬を分けてもらえるって聞いたんだけど?」
熊はまんざらでもなさそうに口元を緩めた。
「待ってろ。旦那様に相談して来るから。」
熊が店の奥へ引っ込み、暫くして出てきたのは見覚えのある顔だった。
「佐之助……!」
いつもは余裕で笑っている佐之助も、この訪問には予想外と面喰っているようだ。
「おやおや。もうここまで辿り着いたのかい? いずれ会うことになるだろうとは思っていたが、それにしても早いねぇ。」
「何だ、知り合いかい?」
店の中から暖簾を捲って熊の半獣が見ていた。佐之助が間髪入れず滑らかに口を利く。
「ああ。調子が悪いって言うから、この店を紹介してやったのさ。」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、お鈴は声を上ずらせる。
「あ、あんたが川上屋の旦那かい?」
佐之助は溜まらず噴き出した。
「まさか。俺はここで番頭をしているのさ。計算の高さを買われてねぇ。」
何たる大抜擢! 人に取り入る技の巧みさに舌を巻くしかない二人だった。
「さあ、旦那のところまで案内するよ。ついてきな。」
二人は佐之助の後を嫌々ついていった。彼の背中からは悪い予感しか漂って来ないのだ。
とある襖の前で膝をつき、「お連れしました」と声をかける佐之助。さすがの彼も緊張しているのだろうか、真顔で下に視線を落としている。
「入んなさい。」
その声を受けて、佐之助が襖を開けた。佐之助の瞳が横に振れて、中へ入るように促す。お鈴と松は畳を足で擦るようにして部屋の中へ入っていった。
部屋の奥に座る、四十路くらいのやや恰幅のいい男。白髪の混じり始めた髪は銀杏髷にきっちりと結わえられている。鋭い眼光は野心の表れか。二人は男の前に座って、固唾を飲んだ。
「よく来たね。私は川上吉右衛門。この川上屋の四代目だ。」
「す、鈴と申します。」
「松です。」
二人はなで肩を思わず突っ張り、三つ指ついて最敬礼をした。吉右衛門は口元を上品に上げた。
「そう緊張することはない。私は半獣に理解があることで定評があるんだよ。自分で言うのも何だがね。お前さんたちもそれを聞きつけてやってきたんだろう?」
吉右衛門の声は腹から鳴り響くような低音で、お鈴はその耳をぴくぴくさせた。
「そ、その、佐之助さんの紹介で……」
お鈴は膝の前に手をついたまま、震える声をどうにか発した。何なのだろうか、この威圧感は。吉右衛門は地鳴りみたいな声で笑う。
「佐之助の紹介ならますます安心だ。あいつは有用なものと無用なものを見分ける能力が極めて高い。……顔を上げてごらん。」
お鈴と松は恐る恐る顔を上げて、吉右衛門の顔を見た。半獣より獣らしい目つきだ。
「ふむ……なかなか美しい半獣だな。」
お鈴は背筋を凍らせた。人間に、この姿を褒められるなんてぞっとする。
「お殿様が喜ぶかもしれないね。半獣に興味をお持ちなのだよ。」
言わんとすることは分かっている。世の中には半獣に懸想する人間がいて、実際所帯を持つ者すらいるのだ。但し、子を成すことはできない。作りが根本的に違うのだろう。そんなことはお構いなしに、関係を持ちたがる輩がこのところ増えてきているのだ。
お鈴は吐き気を催しながら、やっとのことで口を利いた。
「お会いしとうございます。是非。」
吉右衛門は穏やかに微笑む。
「よし。会わせてあげよう。少し時間をおくれ。それまで、ここでゆっくりと待つがいい。」
それから、ふと思い出して言う。
「調子が悪いと言っていたね。薬を用意してあげよう。佐之助。」
「はい。」
襖の外に控えていたらしく、佐之助はすぐに返事をして襖を開けた。
「この二人に薬をやりなさい。とびきりの上物をな。」
「はい。畏まりました。」
佐之助がまた目で合図し、二人は廊下へ出た。襖が閉ざされ、歩きだした佐之助の後を再びついていく。佐之助の無言が、少し怖い。
やがて、店までやってくると、佐之助は壁一面の小さな引き出しから、一か所を選んで開け、紙包みを二つ取り出して鈴の目の前に差し出した。人を小馬鹿にした笑みが途端に浮かべられて、お鈴は妙にほっとしてしまう。これでこそ、佐之助だ。
「どうせ使わないのに、もったいないねぇ。」
お鈴は紙包みを受け取って、一つをそっと開けてみた。褐色の粉末がほんの僅か、入っている。
「使い方は分かってるかい? 火で炙って煙を吸うか、簡単なのは、茶に混ぜて飲むんだよ。大怪我をしたり病気で苦しい時のためにとっておくんだね。」
「あんたは使ったのかい?」
お鈴の問いに佐之助は面白そうに顔を歪めた。
「まさか。快楽と引き換えに人生を棒に振るなんて御免だね。まあ、人を操る道具として魅力を感じるのは確かだが。」
やはり、これは紛れもなく阿片というわけか。匂いを嗅ぐまでもなく、独特な臭いが漂ってくる。しかし、これが万病に効く薬だとか言われると、信じて飲んでしまいそうだった。なにせ、阿片を阿片と見分けるだけの知識も根拠もないのだから。飲んでみて初めて分かるのだろう。これが阿片なのだと。
お鈴はそれを袖の袂に忍ばせ、上目遣いに佐之助を見た。佐之助は見られて悪い気はしていないらしい。彼はお鈴を通して、人間としての絶世の美女、鈴音を見ているのだ。
「何だい?」
「こいつを飲んだら、どういう風になるんだい?」
佐之助は意味深に微笑む。
「……飲んだ奴を見てみたいと?」
「見たいね。」
佐之助は微笑みを絶やさず顎に手をやった。
「あまり気持ちのいいもんじゃないがね。ここには一人しかいないよ。女中が興味本位でつい、飲んじまったのさ。蔵に閉じ込められてる。夜中にでもこっそり覗いてみな。」
そこまで言うと、佐之助は番頭台に腰を据え、帳簿に目を通し、算盤を弾き始めた。そのままの姿勢で声を上げる。
「誰かいるかい? お客さんだよ。客間にお通ししておくれ。暫く泊まっていくからそのつもりでね。」
はい、ただいま、と女の声が聞こえた。
風呂に入り、晩飯を馳走になった二人は、客間に敷かれた二組の布団にそれぞれ入って、寝たふりをしていた。月が障子を滑って西へと流れていく。草木も眠る丑三つ時、奇妙な物音が耳に届き、二人はそっと布団から出た。障子を開けて、廊下を窺う。誰もいないことを認めると、物音がする方へと足を忍ばせた。物音は屋敷の外から聞こえてくる。縁側から庭へ下り、身を屈めながらそろそろと歩く。蔵の前へやってくると、物音は扉を叩く音と女のすすり泣く声に変わった。
「助けて、お願い。何でも言うこと聞くから。ねえ!」
扉の覗き穴から中を見ようと、目を穴に近づけると、女の指が突き出てきて、危うく目を刺されるところだった。
「誰かいるの? 薬を、薬を頂戴!!」
がんがん叩かれる扉。あまり激しく叩くので、手が壊れるのではないかと心配してしまう。お鈴と松は、息を潜めて黙っている。やがて、扉を叩く手は止まり、一切の物音が消え失せる。お鈴と松は左右二つある穴を同時に覗き込んだ。
女はあられもない格好でだらりと座り呆けていた。着物ははだけて乳房が片方見えそうになっていたし、足は太腿まで露わとなって白い肌が暗闇に浮き上がって見えた。女は目を見開いたまま、手をもじもじさせて何やら呟いていたが、いきなり解けていた髪を鷲掴み、引き千切るような仕草をした。
「ああ……ああ……ぐすっ、くっ、うふふふふ……」
呆けていたかと思うと、急に泣き、急に笑う。忙しなく表情を変える女は、狂気の最中でまさしく己を見失っていた。挙句の果てには、失禁して尿を垂れ流す。お鈴と松はもう見ていられないと、穴から目を離した。
月が、西の山に差し掛かり、夜の闇がその深みを増していく。冷たい風が、二人の髭を靡かせた。
「解毒剤はないのかい?」
朝一番、挨拶抜きでお鈴は佐之助に言った。番頭としての仕事を真面目にこなしていた佐之助は、寝ぼけたような笑みを浮かべてお鈴を見上げた。
「大きな声を出すんじゃないよ。そんなものあるかい。治療方法はただ一つ。薬を絶って放っておくことだ。つまり、時間というわけさ。ま、いくら時間が経っても、一度味わってしまうと忘れられないものらしいけどな。旦那が言うことにゃ、恋しさと似てるんだとよ。旦那はどうも情緒でものを仰るから敵わねぇや。」
松が仏頂面でお鈴の隣に立つ。まだ眠いのだろう。機嫌が悪そうだ。
「こんな奴の言うこと、いちいち真に受けるんじゃねぇ。」
佐之助はにやりと黒斑の猫を見る。
「俺の言ってることは皆、本当さ。疑うなんて、心外だねぇ。男の嫉妬なんざみっともないぜ?」
松は、にゃっ!と毛を逆立てた。お鈴はぱちくり目を瞬かせる。
「何、馬鹿なこと言ってやがる!」
「ま、こんないい女と四六時中一緒にいて、平気なわきゃないわな。だが、よく我慢できるねぇ。感服するよ。俺ならもうとっくに……」
「何だい、朝から元気じゃないか。」
店の奥から姿を現した吉右衛門。爽やかな朝にそぐわない太い声だ。
「これから、お殿様のお屋敷へ行ってくるからね。店のことは頼んだよ。客人のこともね。」
「はい。駕籠の用意もできています。」
「ご苦労さん。」
吉右衛門がいなくなるのを見計らって、松がぼそりと言った。
「行ってくる。」
「あっ、あたしも……」
「二人ともここからいなくなるのは拙い。修二郎のこともあるしな。お前は残っているんだ。」
佐之助が呆れたように首を振る。厭味ったらしい笑顔付きで。
「やれやれ。偵察かい? 俺の前でよくそんな話ができるねぇ。」
松は、ふん、と顔を背けた。
「誰が言ったよ? 俺はただ町を見物しに行くだけさ。」
佐之助は、はっ、と短く笑う。
「そういうことにしておいてやるよ。」
二人の男のやり取りを交互に見ていたお鈴は、小首を傾げた。牽制し合っているのは分かるが、どうもそればかりではないような気がした。
店を出て行った松の足音も聞こえなくなって、取り残されたお鈴は暫く呆然と突っ立っていた。佐之助は帳簿とにらめっこしては、算盤を弾いたり、何やらさらさらと書きつけている。手持無沙汰のお鈴は畳の上に座り込み、佐之助の仕事風景をぼんやりと眺めた。
「ねえ。あの女中はどうなるんだい?」
「ううん? どうもならねぇさ。飯は三度三度与えられてるし、死にゃあしねぇよ。薬が完全に切れたら出してやるんだ。最初の一口がちょいと大きかったのさ。ほんの少しにしておけば、あそこまで酷くはならなかっただろうよ。」
「吉右衛門たちに操られている半獣や物の怪紛いはあそこまでじゃないってことかい?」
「個人差はあるだろうがな。薬の量が上手いこと調整されているからね。薬が欲しくなるぎりぎりの線でやってるのさ。」
「なるほどね。」
会話の最中も佐之助の手は休むことがなかった。邪魔をしたいわけではないのだが、少しだけ気になってさらに話しかけてしまう。
「番頭の仕事は楽しいかい?」
「んー? 楽しいね。ここのは特に。金の流れが芸術的にあざといんだ。裏取引が多くて計算のし甲斐があるよ。帳簿を見ているだけで飽きないね。勉強になる。」
何の勉強だと、お鈴は眉間に皺寄せた。
「あんたは一体何がしたいんだい? 目的は何なのさ。」
佐之助は帳簿に向かって鼻で笑う。
「目的か……。そうだなぁ。金、といってしまえば話は早いが、ちょいと違う。強いて言うなら自由かな?」
「自由?」
「そう。自由に暮らすには金が必要だろう? それから時間。今の俺にはどれも足りてないのさ。」
と、佐之助の手が急に止まる。さっさと筆を片付け、帳簿を閉じてしまった。そうしてお鈴に真っ直ぐ向き直る。腹の立つ笑みが幾分押さえられている。何事だろうか。お鈴は膝の上の手を軽く握って、佐之助の唇が動くのを待った。
「そこに女がいれば、言うことなしだ。そうは思わねぇか。鈴音。」
そうは思わないかと問いかけられたことも驚きだったが、正式な名をまたも呼ばれて、お鈴は毛を逆立てずにいられない。
「なっ、何だい、いきなり。」
「その姿も悪かねぇが、あっちの方も拝ませてくんな。」
妙に熱っぽい語り口に、お鈴はくらくらした。
「こ、こんなところで? 無理だよ。」
動揺するあまり、つい、おかしな返答をしてしまう。佐之助が番頭台から出てきて、お鈴の膝先すれすれに座り出す。間近で見下ろされて、困惑したお鈴は、間合いを取ろうと後ろへ下がった。顔を逸らし、耳を畳んで、何かに耐えるような姿勢になった。
「ここが嫌なら、人目の付かない所へ移動したっていい。手籠めにしようってんじゃない。ただ、ちょいと見たいだけさ。あんたらの協力もしたし、いろいろと話してやったろう? 少しくらいこっちの言うことを聞いてくれたっていいじゃねぇか。」
お鈴は髭を萎らせて、口をぎゅっと結んだ。男に言い寄られるのは慣れているが、突っぱねる時はいつも側に誰かいてくれた。昔なら修二郎、今は松だ。男がいることを理由にそれはそれは手酷く、完膚なきまでに跳ね除けて来たものである。しかし、こうして二人きりで差し向かいに、文字通り膝を突き合わせて迫られると、途端に弱くなってしまうのは何故なのだろう。こんな男相手に。悔しいが、佐之助の言うことにも一理あった。ただ、自分の姿をちらりと見せるだけ。それで情報料を賄えるのなら、安いものではないか。
「分かった。少しだけだよ。」
ついに、お鈴は折れた。客間へ移動して、襖や障子をしっかりと閉めると、佐之助と向かい合わせに立って、変化を開始する。
耳が縮み、目に睫毛が生えて形を変えていく。鼻筋がくっきりと浮かび上がり、裂けていた口が閉じる。肉球を吸収した手は指が細く長く伸びていき、爪は鋭さを失って、代わりに宝石のように艶めいていく。全身を覆っていた毛は体の中へ吸い込まれ、白い肌が現れる。尻尾はいつの間にか根元へ消えていった。頭の上から腰まで一気に伸びた艶やかな髪は烏の濡れ羽色。こうして、鈴音という一人の女性が姿を現した。
変化してから気付く。人前でやったのはこれで二回目。一回目は修二郎であった。何もわざわざ目の前でやらなくても良かったのに。お鈴は急に恥ずかしくなって下を俯いた。
佐之助は軽口を叩くでも、にやにやするでもなく、神妙な面持ちでゆっくりとお鈴に近づき、両肩をそっと手で挟んだ。お鈴は毛を逆立たせる代わりに身を震わせ、頬を赤らめた。
「ちょ、ちょいと……! 話が違う……」
「しっ。顔をよく見せておくれ。」
佐之助は舐め回すように顔と目を動かし、お鈴の美しすぎる顔をじっくり観察した。そこに笑顔はなく、ただ、恍惚とした表情を浮かべている。男のそんな顔を、こんな近くでみるのは修二郎以来だ。お鈴は目を合わせられなくて、俯き加減で目を伏せ、視線を泳がせるばかりだった。
「顔を上げて、俺を見て……。」
指先で顎を上げられ、目を真面に見てしまう。熱のこもった、色気すら発する目。蛇に睨まれた蛙のように、動けなくなる。目を離せなくなる。薄く開いた唇から洩れる吐息。荒々しく胸を突き上げる鼓動。お鈴は全身が痺れたような感覚に襲われ、頭の中が真っ白になった。佐之助の顔が、近づいてくるのを、止められない。
「佐之助さん。お客様が見えましたよ。」
襖の向こうで女中が声をかけてきた。鼻先が当たったところで、佐之助の動きが止まる。暫くそのままでいたが、佐之助は舌打ちして、お鈴から離れた。
「今行くよ。」
佐之助は着物の襟を掴んで引っ張り、襟元を正すと、例の厭味な笑みを浮かべてちらりとお鈴を見た。
「いいところだったのに……」
その一言で正気に戻ったお鈴は指の先まで真っ赤になって熱り立った。
「なっ、何がいいところだい!」
振り上げられた拳を容易く避けて、佐之助は手を振った。
「続きはまた、今度な。」
佐之助が襖を閉めて行ってしまうと、お鈴は瞬く間に元の姿へと戻った。
あんな奴の言うことを真に受けた自分が馬鹿だった……。
お鈴は反省するとともに、全身の力が抜けて、その場にへたり込んだ。
夕方前には、松が戻って来た。お鈴の前に胡坐をかいて、何か言いかけ、ふと松の口が止まる。
「何かあったか?」
お鈴は松を目の前にして他のことを考えているようにあらぬ方角を見ており、そしてどういうわけかいつにも増して、しっとりと色っぽく感じられた。毛並みが違うのだ。お鈴は慌てて頭を振り、無理矢理笑みを作って見せる。
「何にもないよ。暇で暇で、黴が生えちまいそうだったよ。それより、そっちはどうだったのさ。」
松は口の端を片方だけ上げた。目は鋭く前を向いている。
「屋敷は外も内も半獣だらけだ。どいつもこいつも刀をぶら下げてやがる。物々しいことだぜ。物の怪紛いは地下牢に閉じ込められていた。獣や罪人を餌にしてるらしい。薬で抑えられているんだろう、俺が見た時は大人しかったな。川上屋と伊周の野郎は、物の怪紛いの数も大方揃ってきたから、もうそろそろ戦の準備に取り掛かろうかって話をしてた。急がねぇと、とんでもねぇことが起きるぜ。」
血で血を洗う大惨事が起きることは容易に想像できた。これからのことを相談しようと口を開きかけたその時、人の気配がして、二人は息を潜めた。
「旦那様がお呼びです。」
襖の向こうで女中が言うので、二人とも出て行こうとすると、松が呼び止められた。
「お鈴さんだけとのことでしたので。」
松はむすっとして客間に引き返し、腕を組んで座り込んだ。お鈴は小さく溜息を吐いて女中の後をついていった。
吉右衛門の部屋に通され、緊張しながら正座し、礼をするお鈴。吉右衛門は地鳴りみたいな笑い声を上げた。
「お殿様にお前さんの話をしたら、とても乗り気でねぇ。すぐにでも会いたいと仰るんだよ。明日の夜、三味線を持っておゆき。私もついていくからね。」
「は、はい。」
すると、明日の夜が絶好の機会というわけか。良い考えも浮かばぬうちに……。吉右衛門の目の端が、とろりと下がる。
「お前さんを見ていると、私まで妙な気持ちにさせられるよ。」
そんなことを言われて、どう返せばいいのやら。耳を伏せるお鈴に、また笑い出す吉右衛門。
「大丈夫。お殿様より先に手を付けるわけにはいかないからね。」
先でなければいいのか。お鈴は牙を剥きたい衝動をどうにか堪えた。
次の日の朝。お鈴と松は密やかに作戦を練っていた。松は呼ばれていないので、後から忍び込む必要がある。半獣の力をもってすれば、容易なことであるが、しかし伊周に操られている半獣がいることを考えると、油断はできない。そして何より、牢に閉じ込められている物の怪紛いをどうするか。開放すると町が混乱をきたすであろうことは明白だ。かと言って、そのまま放置しておくのも問題があるし……。
「阿片に毒を混ぜて全滅させちゃあどうだい?」
悪戯っぽく笑って、佐之助がしゃしゃり出てくる。いつの間に部屋に入って来ていたのだろう。やはりこいつはただの人間と思っていては駄目なようだ。
「よくもそんな極悪非道なことを思い付くもんだねぇ。」
「大体、お前が言っていいことじゃねぇだろう。味方を裏切るような話を平気でしやがって。」
佐之助は鼻で笑い、肩を上げて見せた。
「俺に味方なんていないさ。ただ、二人が頭を突き合わせて、うんうん唸って悩んでいるようだから、助け舟を出してみたまでのことよ。どうだい? 全て丸く収まるいい考えだろう?」
「とんでもないね! 論外だよ。」
「義理人情ってもんはねぇのか、人間のくせに。」
佐之助はどこ吹く風で天井に向けて口笛を吹いた。全く頭に来る仕草である。
「あれだけの人数、餌を用意するのだって大変だぜ? 現に、戦が済んだら全部処分するつもりだって旦那方は言ってたしな。餌も与えずじわじわと真綿で首を締めるよりか、ずっと人道的だと俺は思うがね。」
お鈴と松はそれこそうんうん唸った。佐之助は襟足に両手を組んで、くるりと背を向けた。
「ま、どうでもいいが、俺の仕事の邪魔だけはしなさんなよ。」
「あんたの仕事?」
「そう。何のために必死こいて帳簿とにらめっこしてると思ってるんだい? 計算して浮いた金をちょろまかすために決まってるじゃないか。規模がでかいから、大した金になるんだぜ。」
悪党の金を掠め取るとは、恐るべし、守銭奴め! こんな男に一瞬でも胸を焦がし、あまつさえ唇を奪われそうになってしまったことを、お鈴は心底恥じた。
そして、夜が来る。お鈴は半ば押し込まれるようにして駕籠に乗せられた。伊周の屋敷へ向かうのだ。松は後から来るとして、吉右衛門に佐之助も一緒だった。佐之助は伊周にまだ会ってないらしく、挨拶を兼ねて接待しに行くのだという。つまり、これから宴が催されるというわけだ。宴の席には慣れているお鈴も、大名屋敷となると話は別である。否が応でも不安は高まってくる。
屋敷に着いて、駕籠を降ろされ、同じく駕籠を降りた吉右衛門と目が合い、反射的にお辞儀をした。その三歩後ろに立っている佐之助と目が合った時は、睨みつけてから、ふん、とあちらを向いた。吉右衛門の後ろでにやにやしてこちらを見ていたからである。
屋敷は思った以上に大きくて広い。そして松が探った通り、半獣がうろついていた。吉右衛門や佐之助の後をついて歩くお鈴を、通りすがる半獣の誰もが振り返った。その嫋やかな姿に、つい見惚れてしまうのだ。
宴会場に通され、お鈴は伊周の顔もろくに見ることなく正座して最敬礼した。吉右衛門が透かさず紹介をする。
「お殿様、これが番頭の佐之助で、こちらが昨日お話した……」
「おお、お前がお鈴か。これは美しい。」
吉右衛門とは対照的に声が高めである。二人揃うと不協和音だ。
「さ、お側について、お酌をしなさい。」
「はい」
重低音で囁かれ、お鈴は平常心を装いながら伊周の側へ行って座った。俯いたままのお鈴に伊周は言う。
「面を上げよ。怖がらずとも良いではないか。」
お鈴は上目遣いでそうっと顔を上げた。目に入ってきたのは、声に似合わぬいかつい顔。歳は、五十路になるかならないか、といったところだ。まだ酒も入っていないその目は既に充血してぎらぎらしており、顔面は脂ぎっていて、生理的に受け付けない感じであった。思わず顔を顰めてしまい、慌てて笑顔を作る。気付かれてなければ良いが。
吉右衛門がははは、と笑う。
「お殿様、それは無理というものです。お殿様のお顔は不動明王ですからな。」
伊周が片眉をぴくりと上げる。
「何、私の顔が不動明王なら、お前の顔は閻魔大王だ。」
重低音と高音の笑い声がちぐはぐに鳴り響いた。
宴は主に芸者たちが盛り上げていたが、皆、半獣だった。お鈴は伊周に酌をしながら、半獣の芸者が歌や舞を披露するのを不思議な面持ちで見守っていた。
佐之助も何かやるように言われ、即興でひょっとこ踊りをして見せた。なかなかに上手い。芸者たちまで大うけである。
「さ、お鈴。お前の番だよ。」
吉右衛門に促され、お鈴は愛用の三味線を手に座敷へ上がった。十八番の曲を歌と共に披露する。途端に静まり返る場内。佐之助も目を閉じて聴き惚れている。美しい猫が紡ぎ出す、情緒豊かな旋律に、一同は暫し酔いしれた。
演奏が終わり、皆、ほう、と溜息を吐く。
「まこと、素晴らしかったぞ、お鈴。」
伊周はご満悦である。お鈴が伊周の側に戻った直後、吉右衛門が手を叩いた。
「さあ、そろそろお開きにしましょう。お殿様、私どもは失礼させていただきますよ。」
女中たちが入って来て、お膳を瞬く間にさげていく。吉右衛門と佐之助が部屋を出て行こうとするので、後に続こうとお鈴が腰を上げたが、「お前はここに残りなさい」と吉右衛門に告げられて、力なく再び正座した。後に残されたのは、お鈴と、不動明王の如き伊周ただ二人。片付けられてがらんとした部屋をお鈴は不安気に見回した。
伊周は鼻の下を伸ばして、お鈴の細腕に手をかけた。
「お鈴、これからもっと楽しいことをしようぞ。」
ここまでは、計算通りだ、とお鈴は思った。二人きりになって、迫られたその時が機会なのだ。
あれ、お殿様、ご無体を……とかなんとか言いつつ、手首を握り返して背中に捩じり上げ、喉元に撥を当て、伊周を人質に取り、地下牢まで案内させる。そして牢屋へ入れて、奉行所へ事の顛末を届け出てやるのだ。
お鈴と松が考え出したのはそこまでだった。話が大きすぎて、自分たちの力だけではどうにもならない。お上の沙汰に任せるべきだと思い至ったのだ。別に、丸投げとも言うが。
さて、お鈴は計画に沿って、伊周の手首を掴み返してやろうとした。が、伊周は急に手を引っ込めて、袖の袂をごそごそやりだした。
「お鈴、お前にいいものをやろう。」
そう言って取り出したのは、拳大の油紙の包み。お鈴の鼻が無意識に動く。もう既に、匂っている。しまった! どうして今まで気が付かなったんだろう! お鈴は身をのけ反らせて、後ろへ下がろうとした。しかし。
「ほーれ、ほれ。」
包みの中身をばら撒かれて、お鈴はもんどりうった。お鈴の周りにばら撒かれたもの、それは……。
「お前の大好物、またたびだよ。さあ、たっぷりと味わえ。」
床を転げまわり、のたうち回る。しなやかな肢体を投げ出して、身もだえする姿は妖艶としかいいようがない。お鈴は完璧に酔っぱらっていた。
「かわいいねぇ。こんなに酔って……。私が介抱してやるからな。」
「い、いや……!」
伊周が上にのしかかってくる。抵抗しようにも手に力が入らない。襟に刺していた撥を取ろうとするも、素早く取り上げられて、遠くへ投げられてしまった。
男の厚い胸板を両手でぽかぽか殴るが、全く効いていない。返って煽っているかのように、伊周の強面を陰惨に笑わせるばかりだった。
「おやめください!」
もはやできることは大声を出すことくらいだ。伊周はますます口の端を吊り上げる。
「大声を上げたって、誰も来やしないよ。」
そうだ。ここは伊周の屋敷。使用人は伊周の言いなりだ。自分の声を聞いたところで聞かぬふりをするに決まっている。絶望的な状況にお鈴は目を閉じ、顔を覆った。
と、そこへ、とす、と何かが落ちる音がして、その方角に目をやった伊周。
「なっ、何だ、これは!?」
狼狽して、お鈴の身体から身を起こす。お鈴は、薄れゆく意識の中で、瞼をうっすらと開けてみた。畳に突き刺さるそれは、小刀だった。上から降ってきた? 天井を見ると、板が一枚なくなっていて、そこから黒斑の猫が顔を覗かせていた。顔の下半分は手ぬぐいが巻き付けられている。またたび対策であろう。
「松……!」
「わりぃ、遅くなった。」
松は、天井裏で、暫く思案していたが、やがて思いついたらしく、顔を一旦引っ込めた。伊周に待ってやる謂れはない。
「であえ! であえーっ!! 曲者だ!」
襖がすらりと音を立てて開かれ、現れ出たのは刀を構えた半獣数人。お鈴はなす術もなく、彼らを仰向けのままぼんやりと見ていた。半獣たちは、お鈴の様子を見て、戸惑う。
「殿、これは……?」
伊周は逆上して怒鳴った。
「ええい! お鈴は関係ないわ。曲者は上だ、上!!」
すると、天井の穴から、一人の若者が降り立った。背中まで伸びた髪を襟足で縛っただけの髪型。長身の体は細いが、筋肉はしっかりとついている。切れ長の目に整った目鼻立ちをした、なかなかの色男だ。その男は手に尺八を持っている。
伊周は、予想したのと違う人物が現れて、少し困惑気味である。
「だ、誰だ、お前は?」
「お前こそ何なんだよ。大名だかなんだか知らねぇが、酔った女を手籠めにしようとするなんざ、武士の風上にも置けねぇ。」
半獣たちはぽかんとして若者の話を聞き、それから主の方を見やった。疑いの眼差しで。伊周は手を振って否定する。
「い、いや、これは違う。私は介抱してやろうとしただけで……」
そこで、はたと思い出し、目を吊り上げる。
「そんなことより、お前だ、この曲者めが! さっさと始末せぬか!」
半獣は腑に落ちないまでも、主の命とあって、刀を構えた。若者はちっと舌打ちをする。
「半獣相手にこの姿じゃ、分が悪すぎる。」
「何をぶつぶつと……?」
若者はさっと身を翻して伊周を捉え、喉笛に針を突きつけた。
「動くな。こいつには毒が仕込んである。人間なら即死だ。」
「なっ……!」
若者は伊周を引きずって廊下へと出た。半獣たちを睨みながら、後退する。そして、猫の耳にしか聞こえないくらいの小声で囁いた。
「計画は変更だ。牢破りが起きた。物の怪紛いが薬欲しさに町へ飛び出して行っちまった。俺はこいつをどこかに縛りつけてから、町へ行く。お前も後から来い。酔いを醒ましてからな。」
若者は伊周と共に廊下の向こうへ消えていった。半獣たちも後を追う。
「松……。」
一人取り残されたお鈴はそう呟いて、目を閉じた。人間の姿へと変化を開始する。耳を縮ませ、手を細長くし、体を覆っている毛を体内に閉じ込め……上手く集中できなくて、いつもより時間がかかった。変化が完了したお鈴は、重い体を持ち上げるようにして身を起こした。頭をぶんぶん振る。まだふらふらしている。どうやらただ人間に姿を変えただけでは、受けてしまったまたたびの効果を打ち消すことにはならないようだ。
「はあ……とりあえず、このまたたびを捨ててしまわないと……」
お鈴は床に散らばっているまたたびを拾い集め、渾身の力で庭へ放り投げた。そしてそのまま倒れ伏す。力が入らない。これでは松を追いかけることなんかできないではないか。畳に這いつくばって体を起こそうとした、その時。
「猫にまたたび、俺には小判。」
頭上から降り注ぐ声には嫌という程聞き覚えがある。
「佐之助、あんたまだいたのかい?」
お鈴は体を横に転がして仰向けになった。見たい顔ではないが、話をするのに不便だから、仕方なく。佐之助は相も変らぬにやけ顔であった。
「ごあいさつだねぇ。お殿様のお戯れを止めに来てやったってのに。」
「……もういないよ。」
「そのようだね。お前さんの相棒に先を越されたのさ。」
どうせ止める気なんかなかったくせに。どの口が言うのだろう。お鈴は起き上がろうともせず話し続ける。
「牢破りが起きたよ。どうせ知ってんだろうけどさ。」
佐之助がしゃがみ込んでお鈴の美しい顔を覗く。とびきりのにやけ顔で。
「まあね。あの店はもうおしまいだ。仕事が片付いた後で良かったよ。これで心置きなくこの町からおさらばできる。」
「吉右衛門は?」
乾いた笑い声が上がる。
「俺は止めたんだよ。だけど、店に戻るんだって聞かなくてねぇ。今頃、物の怪紛いに囲まれて、せっせと阿片を処方してるんじゃないのかい?」
佐之助は有用なものと無用なものを見分ける能力が極めて高い。そう吉右衛門は言った。すると、彼は後者に分けられたということか。自分はどちらなんだろう。
「これからどうするつもりなんだい?」
同じ質問をしようと思っていたところだ。お鈴は目を一つ瞬かせて答える。
「町へ行って、物の怪紛いを止める。」
佐之助が鼻を鳴らす。
「この身体で?」
二つの意味が込められている。人間の身体で、そして酔っぱらった状態で、と。
佐之助はお鈴の袖の裾から手を挿し入れて、細く滑らかな腕をつるりと撫でた。お鈴は身をくねらせて、「ああっ」と変な声を上げてしまい、恥じ入って頬を赤く染めた。
「何するんだい!」
佐之助は哀れっぽく首を振った。わざとらしく、芝居がかっていて、腹が立つ。
「このまま行ったら、物の怪紛いによってたかって弄ばれた挙句、食われちまうよ。」
「分かってるよ! そんなことは!」
お鈴はいらいらして、思い切り声を荒げた。殴ってやりたいが、どうしても力が出ない。そんな様子を見て、ますます面白そうに顔を歪ませる佐之助だったが、不意に真顔となる。その目が横にくっと動いて、またお鈴に戻る。何か思いついたらしい。
「そうだ。いいもの持ってるんだよ。餞別代りにあげよう。」
「餞別?」
佐之助が袖の袂に手を突っ込んで探る。取り出したのは、青い色の小さな瓶だった。
「何だい、それ。」
「気付け薬さ。店を出る時、いろんな薬をくすねてきたんだけど、そのうちの一つでね。酔い醒ましに丁度いいよ。」
お鈴は小瓶を受け取って目の前に翳してみたが、思い切り眉間に皺を寄せて、佐之助に突き返した。
「変な臭いがする。嫌だね。あんたが寄こした薬なんて、何が入ってるんだか分からないよ。」
佐之助の口がきゅっと尖る。
「大丈夫だって。俺、薬には詳しいんだ。薬種問屋で番頭ができるくらいだぜ?」
「あんたが信用できないって言ってるんだよ。」
佐之助は、珍しく憮然として、押し黙ったかと思うと、小瓶の蓋を開けて、一気に呷った。お鈴が唖然として見ていると、佐之助は真面目な顔をして四つん這いで近づいてきて、そして……。
「……!」
抵抗する間もなく、横から口をつけられ、液体を流し込まれる。仰向けであったことも手伝って、液体は喉をあっさりと通過していった。口移しで薬を飲まされたのだ。何をする!と叫ぼうとして、できなかった。薬が苦すぎて、脳天を突き破るような衝撃が走る。それは口に含んだ佐之助も同じのようで、舌をべろんと出して声もなく苦さに耐えているのだった。先に声を出せたのは佐之助だった。
「全く、素直じゃないねぇ。お蔭でこっちまで苦い思いをしたじゃないか。」
それからすぐに、いつもの厭味たっぷりな笑顔に戻って手を振った。
「今度会った時は薬抜きで同じことをさせてもらうからね。」
去ってゆく背中に小瓶を投げつけたが当たらなかった。
「この、ろくでなしっ!!」
鼻息も荒く、肩を上下させるお鈴だったが、やがて自分の身に起きた異変に気付いて目を見開いた。いつの間にか身を起こしているし、さっきまでの眩暈がない。体も軽い。力も入る。
立ち上がって体の具合を改めて確かめ、何ともないことを知ると、静かに目を閉じた。もう一度変化するのだ。今度は猫の姿に……。
伊周を人質とした松は、人の姿のまま屋敷の奥へと向かった。半獣たちは松を刺激しないよう間合いをとりながら後を追う。とある部屋のところで襖を乱暴に開き、中へ入った松だったが、結局追い詰められる形となってしまった。
「お前たち、いい加減に目を覚ませ。こいつのやろうとしていることは分かっているんだろう?」
半獣たちは痛いところを突かれたように、顔を顰めた。しかしすぐに開き直る。
「それがどうした。主の窮地を救うは当然であろう。」
松はじりじりと後退る。もう後はない。
「そんなに薬が欲しいか?」
「ほざけ、曲者めが。お前に何がわかる。」
松は、ふん、と鼻を鳴らす。
「ああ、わからないね。こんな屑の言いなりになるなんてな。だが、その理由もじきになくなるさ。」
「どういう意味だ?」
「知らねぇのか? 牢破りが起きた。今頃薬は全部、物の怪紛いの手に渡ってるさ。」
半獣たちは狼狽して目を瞠り、刀を握る手を震わせた。
「この期に及んで下らぬ嘘を……!」
「嘘だと思うなら、確かめに行きな。」
半獣たちは顔を見合わせ、一人が頷き、その場を後にした。一人は減ったと松は思った。
「街に向かった奴もいる。こんなことをしている場合じゃないんだ。」
半獣たちの表情に迷いが生じるのを見て、伊周は震える声を張り上げた。
「か、かような者の言うことを真に受けてはならぬぞ! 苦し紛れに嘘を並べ立てているだけだ!」
松は端正な人間の顔を思い切り顰めた。
「うるせぇ! 耳元ででかい声を出すんじゃねぇ!」
すると、屋敷の奥から何やら叫び声が聞こえてくる。
「牢破りだ! 牢破りが起きた! 薬が奪われているぞ!」
半獣たちはその声を聞いて、あからさまに動揺した。松の切れ長な目が細められる。
「どうだい? 俺の言ってることは本当だったろう。序でに、もう一つ、本当のことを教えてやるぜ。」
刀を構えることも忘れて、半獣たちは松を見た。どうも、様子がおかしい。松の瞳孔が縦に裂け、笑う口からは牙が覗いているのだ。
「俺も、半獣だ。」
そう言うや否や、松の体は瞬く間に黒斑の毛で覆われ、口が裂け、目は大きく黄金色に変わった。驚きのあまり身体を硬直させた伊周の首筋に手刀を入れ、気絶させた松は、猫の口をにいっと上げた。
「大人しく見ていてくれて、ありがとうよ。」
礼を言うと、呆気にとられてこちらを見ている半獣たちに、猛然と尺八を見舞った。刀を叩き落とし、横っ面や鳩尾に次々と打撃を与えていく。
「お、お前、何で、人間……」
半獣たちは反撃をする間も与えられず、敢え無く倒れ伏していった。
「へっ。何でぇ。大したことなかったな。」
松は鼻を猫手で擦り、倒れた半獣たちを冷やかに見下ろした。次いで、帯に尺八を突っ込むと、伊周を抱え上げ、柱に紐で縛りつける。
「さてさて、目を覚ましたこいつらが、薬を失った伊周をまだ主と慕い、紐を解いてやるのか、それとも無視して物の怪紛いどもから薬を奪い取りに行くのか、見ものだな。」
後者であることは間違いないだろう。結果を待つことなく、町へと駆け出す松。夜行性の眼を黄金色に光らせて、夜の闇へと消えていった。
町の喧噪が遠くからでも良く聞こえる。物の怪紛いが暴れまわっているのだ。お鈴は騒ぎの渦中へ飛び込むべく、着物の裾をたくし上げ、四本脚で駆けて行く。はしたない格好ではあるが、この際仕方がない。
最初に出くわしたのは、町人の家で女に狼藉を働こうとしている物の怪紛いどもだった。女は着物を引き千切られ、胸を覆って顔を涙で濡らし、ただ恐怖に耐えていた。床に倒れている男たちは既に事切れている。首や腹を切り裂かれた、無残な死に様に、お鈴は憤りを隠せない。しかも、今の今まで自分が置かれていた状況を鑑みるにつけ、鬼畜どもがとろうしている行動は万死に値するのだ。お鈴は目を尖らせ、しゃーっと牙を剥いた。
「何をするつもりだい!! こんなところに薬はないって分かってるだろう!」
物の怪紛いは口の端を吊り上げ、陰惨に笑った。
「薬も要るが、俺たちは女にも飢えてんのさ。」
「薬だけで満足できるかい。」
お鈴は三味線から細身の刀を抜き放ち、身構えた。
「来な。あたしが相手だよ!!」
物の怪紛いが涎を垂らして、徐に近づいてくる。
「あんたが相手してくれるのかい? そりゃあいいや。」
「寝ぼけたこと言ってんじゃないよ!!」
お鈴が刀を薙ぐと、物の怪紛いは一斉に飛び退いた。そして鋭い爪を振り翳してくる。お鈴はその爪が届く寸前で躱し、体を反転させると首に刀を宛がい、横一線に引いた。迸る青い血が障子を染める。
「こいつはとんだじゃじゃ馬だ。」
「あたしは猫だよ!!」
まだまだ余裕の物の怪紛いたちに、次の攻撃を仕掛ける。下から刀を振り上げ、物の怪紛いの股間から腹にかけてを切り裂いた。
「ぎゃあああああ!!」
醜い顔をさらに歪めて、床に転がり、もんどりうつ。いい気味とばかりに口元を綻ばせるお鈴。
「これで悪さもできないだろうよ。」
物の怪紛いの顔から笑みが削げ落ちる。
「ふざけた真似しやがって!!」
「ふざけてんのはお前たちだよ!!」
お鈴は襲いかかってくる物の怪紛いを次々と屠っていった。心臓を一突きし、首を跳ねる。鮮やかな刀使いは敵に怯む間すら与えない。多勢に無勢であったが、負ける気はしなかった。もしかしたら、さっきの気付け薬のせいかもしれない。最後の一人を倒したお鈴は、肩で息をして、暗闇に光る眼をまだ震えが収まらない女に向けた。
「奴ら、そこらじゅうにうようよしてる。部屋の奥に隠れてな。」
「は、はい。ありがとうございました。」
女は鼻をぐずぐず言わせながら、部屋の奥へ消えた。それを見届けて、お鈴は次の現場へと急いだ。
焼け石に水、という言葉が頭を掠める。物の怪紛いは何百といる。いや、千は下らないだろう。それを相手に自分たちがどこまでできるのか。それでも、やらないわけにはいかない。こうしている間にも、犠牲者が出ていると思うと居ても立っても居られないのである。お鈴は溢れ出る正義感を糧に、足を進めた。
と、そこへ刀を手にした人間の男が通りかかる。男はお鈴を見ると、たっと向き直って刀を構えだした。
「あんたは、敵か、味方か!!」
そう叫ばれて、お鈴は眉を顰めた。何を言っているんだろう。半獣は人間の味方に決まっているではないか。
「味方だよ。一体どうしたって言うんだい?」
お鈴の言葉を聞いて、男は刀が急に重くなったように下へ下ろし、ふう、と息をついた。
「そうかい。すまないね。今、そこいらじゅうで争いが起きているんだが……」
「だろうね。」
「物の怪紛いと半獣が、薬を奪い合って戦っているんだ。それはもう、酷え有り様で、人間なんか一溜りもねぇよ。物の怪紛いに先を越されまいと、半獣まで薬屋や診療所に押し入る始末さ。もう、物の怪も半獣もあったもんじゃねぇ!」
「何だって!!」
人間の味方であるべき半獣が、阿片のために強盗を働くだなんて……! お鈴はよろけながらも足を動かした。
「お、おい。どこへ行く気だ?」
「川上屋のところだよ。」
「なっ!! 馬鹿言うんじゃねぇ! あそこが争いの火種だぞ! 奴ら、大挙して押し寄せてるんだ。まるで戦だぜ?」
「だから行くんだよ。何とかして止めないと!」
「止められるもんかよ! あっ、おい、待てったら!!」
お鈴は男が止めるのも聞かず、走り出した。
川上屋の周辺は騒然としており、近づくのは容易ではなかった。男が戦と称した通り、血を血で洗う惨劇が繰り広げられていた。物の怪紛いと半獣が入り乱れて大義名分もなく私利私欲のために命を削り合っている様は、あまりに醜く、憐れであった。双方の死体が累々と積み上げられいるところを、念仏を唱えながら歩くお鈴。その存在に気付いた物の怪紛いと半獣が、吠え猛りながら襲いかかってくる。完全に正気を失った顔は、どちらが物の怪紛いで、どちらが半獣か咄嗟に判別できないほどだった。
「いい加減におしよ、あんたたち!!」
お鈴は爪やら刀やらを必死で躱しながら言った。どいつもこいつも聞く耳を持たない。分かっていることだが、言わずにはいられなかった。
「薬を狙う者は皆敵だ!!」
「死ね!!」
どうやらお鈴も薬を狙ってやってきたと思われているらしい。お鈴は反論する暇もなく集中的に攻撃された。弱そうに見えるから、取り敢えず先にやってしまえということなのだろう。さすがに、きつい。体力も限界に来ている。防戦一方のお鈴は、段々と後ろへ追い立てられ、壁に背中がついてしまった。もう、逃れられない。銀色の刃が目の前に迫る。お鈴の翠玉の目が、もう駄目だ、と閉じられた。すると、どこからともなく小刀が飛んできて、刀を持つ手に突き刺さる。刀が地面に落ちる音で目を開けたお鈴。その横にぴったりと身を寄せてきたのは、忘れたくても忘れられない、懐かしい顔。
「修さん……!」
修二郎が刀を二本構えて、真っ直ぐに前を向く。頭の高いところで結った黒髪。細い顎に形の良い唇。情熱的に輝く瞳。高い鼻。見紛うことなき色男。その横顔を思わず見つめてしまうお鈴は、すっかり女の顔だ。修二郎は前を見据えたまま、口を開く。
「話は後だ。まずは、こいつらを片付ける。」
「……分かったよ。」
お鈴は気持ちを奮い立たせて、細身の刀を構え直した。敵は牙を剥いて、憤怒の形相で飛びかかってくる。
「人間如きが、のこのこと出てきやがって!!」
修二郎の二つの刀が、閃く。物の怪の腕が飛び、首が転がった。それはまさしく、瞬く間の出来事。
「がぁあああああ!!」
獣の叫びそのもので、半獣が襲いかかる。空に光の弧が幾重も描かれ、新たな生首がごろごろと生まれる。
「な、何だ、この人間はっ!?」
修二郎の力に恐れをなしつつも、薬が切れた半獣たち、物の怪紛いたちは攻撃を止めようとは決してしない。返って闘争心を掻き立てられたように、牙を残酷に光らせる。
間合いをじりじりと詰めて、一気に斬りかかってくるのを、修二郎は悉く受け流し、跳ね返した。あまりに簡単そうな素振りで、遊んでいるみたいだ。二つの刀は縦横無尽に振られ、何十本も同時に操っているかのようだった。それは阿修羅を彷彿とさせた。一方のお鈴も負けてはいない。敵の首筋を斬りつけ、急所を次々と突き刺していく。しかし、斬っても斬ってもきりがない。敵の数が多すぎるのだ。
「取り敢えず、川上屋へ向かおう。松宗もいるんだろう?」
「いるはずだよ。」
「よし、急ごう。」
お鈴は修二郎と共に、川上屋へ向かった。途中襲いかかってくる連中は容赦なく斬り捨てた。もう、半獣だの物の怪紛いだの言っていられない。
川上屋は木戸を閉ざし、中で荷物を積み上げ、敵の襲撃を押さえているようだったが、破られるのは時間の問題であった。お鈴と修二郎はひとまず木陰に身を隠した。木の上で事態を見守っていた松が、お鈴と修二郎に気付いて、二人の元へ降り立った。
「よう、修二郎も一緒とはな。」
「ああ、松宗。久しぶりだな。」
「その名はもう捨てたんだ。松と呼びな。」
修二郎は首を振った。
「いや、誰が何と言おうと、お前は松宗だ。それに、鈴音なんだ。」
お鈴は尻尾をくねらせて、一瞬俯いたが、すぐに顔を上げた。
「そんなことより、今は川上屋だよ。このままじゃ、強行突破されちまう。止めに入らないと。」
修二郎は腕を組み、顎に手をやった。瞳を横に流し、思案する。
「しかし、この数ではな……。川上屋の奴、どうして薬を大人しく差し出さないんだろう。」
「さあ。欲の深い人間の考えることなんて分からないね。」
「命より金が惜しいってことか?」
「いや、薬自体が惜しいのかもな。」
修二郎の言葉に、お鈴と松の大きな目が丸くなる。
「自分でも薬をやってしまっているってことかい?」
「あり得ない話ではないと思うが……。」
三人が頭を寄せ合って話し合っていると、不意に焦げ臭い匂いが漂ってきた。猫の二人は鼻をひくひくさせる。
「? 何だい?」
「川上屋の方からするぞ。」
修二郎は人間故に二人の言わんとするところが分からず、ぽかんとしている。お鈴は修二郎に分かるように説明した。
「火だよ。何か燃やしているんだろうね。焦げ臭い匂いが……」
修二郎は弾かれたように顔を川上屋へ向けた。
「店に火を点けたんだ! 自害するつもりだぞ!!」
「何だって!?」
その途端、木戸が破られ、中から火の手が上がった。濛々と噴き出す炎と煙。物の怪紛いたちは怯んで後退っている。お鈴と松は涙目になって、鼻をつまんだ。
「うっ、何だこの臭いは?」
「変な臭いがするねぇ。」
「……たぶん、薬品の類が燃えているからだろう。阿片も、何もかも一緒に……」
涙目を修二郎に向けるお鈴。佐之助から聞いた、阿片の使い方を思い出す。火で炙って煙を吸うのだと彼は言っていた。店には大量の阿片があるはず。このままでは町中が中毒になってしまう!
「なっ? じゃあ、早く水をかけて消さないと!!」
「もう、遅い。あそこまで火が回っていては……。それより、ここにいては危険だ。煙に巻かれて死んでしまうぞ!!」
修二郎に掴まれた手を、お鈴は突っ張った。
「せめて、あいつらに逃げるよう言わなくちゃ!!」
修二郎は険しい顔で首を横に振った。
「無駄だ。見ろ。」
それは、驚くべき光景であった。巻き起こる炎に向かって、飛び込んでゆく物の怪紛いと半獣たち。薬欲しさにそうしているのか、それとも、煙を吸って気持ち良くなりそうしてしまうのか。佐之助ならここで、「飛んで火にいる夏の虫」とかなんとかいって揶揄することであろう。
「正気ではないんだ。俺たちがこれからするべきことは、人間たちをなるべく遠くへ避難させることだ。」
お鈴はうん、と頷き、修二郎や松と一緒に走り出した。
行く先々で人々に逃げるよう声をかけてゆく。人間たちは泣きながらお鈴たちの後をついていった。物の怪紛いや半獣たちは煙の匂いに誘われて、火事の現場へと吸い寄せられていく。逃げ惑う人間たちにはもはや見向きもしなかった。
やがて、町の高台にある寺へやってきた二人の半獣と人間たち。町に充満する煙と、広がってゆく炎を呆然と眺めた。
「こ、これでこの町も終わりだ。」
「こんな日が来ると思っていた。」
頽れ、泣き叫ぶ人間たちにかける言葉が見つからない。修二郎が気を取り直して、重い顔を上げた。
「命があっただけでも良かったと思おう。町には暫く近づかない方がいいが、そのうち建て直すんだ。新しい主君を迎え入れてな。」
町人の一人が、すっくと立ち上がる。
「そ、そうだな。やり直そう。今度は俺たち人間の力で頑張るんだ。」
その言葉は、半獣であるお鈴の胸を突いた。いくら人間の世界に溶け込もうとしても、半獣は半獣。人間にはなれないのだ。己の宿命を再確認して、軽い眩暈を起こす。お鈴は人々から少し離れたところへ行き、一人で深く息をついた。すると、お鈴の肩に人間の手がかかる。
「どうした? 鈴音。」
すぐ横に、修二郎の優しい笑顔があった。お鈴は目を潤ませつつも、その視線を避ける。その目を見ていたら、泣いてしまいそうだった。修二郎は戸惑うお鈴の身体を自分の胸に引き寄せ、抱きしめる。細い体は逞しい腕の中にすっぽりと納まってしまう。
「あ……」
「会いたかった。鈴音。」
修二郎の腕に力が入る。猫耳に吐息がかかって、ぴくぴく動く。
「あ、あたし、獣だよ。」
「獣だっていいと言ったじゃないか。」
耳に直接注ぎ込まれる甘い声。お鈴は体の芯が熱くなるのを感じた。
「帰ろう、鈴音。一緒に暮らすんだ。」
温かい胸に、身体が溶けてしまいそうだ。お鈴はつい、修二郎の広い背中に手を這わせてしまう。愛おしい人に、触れていたい。そして柔らかくも香しい匂い。この人が持つ空気の中で暮らせたら、どんなに幸せなことか……。何度、夢見たことだろう。しかし、お鈴の運命はそれを許さない。
「でも、あたしにはやることが……」
「なら、俺にも手伝わせてくれ。少しは役に立つだろう? な?」
少しどころではないことくらい、分かっている。今回だってどれだけ救われたことか。お鈴は耳を伏せて、目を閉じ、頼もしい感触をその身に焼き付けるようにした。
「ありがとう、修さん。でも……ごめん。」
その刹那、修二郎の首筋に音も立てず針が突き刺さる。修二郎は全身の力が抜けて、頽れた。お鈴が慌てて首を支え、座り込んでその頭を膝の上に乗せる。
「ごめんねぇ。修さん。」
松が尺八を片手に近づいてくる。
「これで良かったのか?」
「仕方ないよ。修さんを巻き込むわけにはいかないからね。」
そう言いながら、膝の上に乗る顔を愛おしそうに見下ろす。解れた髪を肉球で撫でて整えてやる。ずっとこうしていたいが、お鈴にはやるべきことがあった。頭をそっと草の上に下ろし、立ち上がる。
「さあ、行くよ。」
「ああ。」
次の町へ向けて歩き出す。二人の半獣の行く道は、遠く、険しく、切ない。