第十話
「……」
ヴァルヴァードが前を歩き、その後ろをカノとリーンが続く。 少し長い廊下は冷え込んでおり、三人の足音だけが響き渡る。
「……なぁリラ、ちょっと良いか?」
「……なんでしょう?」
カノからの提案は毎回、ろくでもないことばかり。 それを知っていたリーンは、疑いの眼差しをカノへと向ける。 こんなときに、自分にだけ聞こえる声で言うということは確実にそうであると、リーンは心底帰りたい気持ちで溢れていた。
「……神人族の翼に触るチャンスだよ」
「……そんなことしたら殺されますっ。 た、確かに興味はありますが」
神人族の翼は、天使の翼のように白く、年齢とその大きさが比例する。 目の前に居るヴァルヴァードの翼はヴァルキューレよりも一回りほど小さくあり、リーンが資料で知っていた大きさよりも小さい。 それは、ヴァルヴァードがまだ若い神人族だということを知らせている。 しかし同時に、それはヴァルヴァードが若くして神人族のトップ、その側近となっていることを表していた。
が、そうだとしたら触れた場合、尚更殺さね兼ねない。 いくら本国内で、攻撃が無効化されると言っても、殺せる方法があると先ほど見せられたばかりだ。 意図せぬことで、それこそ奇襲に近い真似をしたライルたちの自業自得だとリーンですら思うことであったが、それでも他に、何か方法がないとも言えない。
リーンは無視を決め込む。 これからカノになんと言われようと、絶対に無視をしようと。 だが、次に声を発したのは意外な人物だった。
「……興味があるのか? 私の翼に」
ヴァルヴァードだ。 彼女は一度立ち止まり、振り返ってカノとリーンの顔を見る。 その視線だけで殺されてしまうのではと思うほどの威圧感はあったが、それは普段よりも幾分、大人しい。
「俺じゃなくてこの子がね。 綺麗な翼だったってずっと言ってるんだ」
「ほう……ほう、貴様か。 昨日は随分とナメたことを言ってくれたが……そうか、綺麗か」
ヴァルヴァードは満更でもない顔付きとなる。 そして、その翼を広げ、リーンの目の前に来るように伸ばした。
「よいぞ、許可する。 この私の、ふふ……なんだ、綺麗な翼に触れることを許そう。 ふふふ」
当人としては威厳たっぷりに言ったものの、カノとリーンから見ると嬉しさを隠しきれていないように映っていた。 事実、ヴァルヴァードは内心、それこそ満面の笑みにもなり兼ねないほどに喜びを感じていたのだ。
ヴァルヴァードにとって、自身が褒められるということは経験をしたことがないものだった。 自身の行動、それが起こした結果について評価はされることは多々あったものの、自分自身を褒められたことなど、ただの一度もなかった。 神人族はあくまでも結果を重視する種族、その特性故、個々人が美しかろうと醜かろうと、それで評価をされることは決してない。 容姿などはただの経過に過ぎず、結果には伴わないからである。 そんな褒められ慣れてないヴァルヴァードが、生まれて数百年、初めて褒められたのだ。
「で、では……失礼します」
「うむ、ただし丁重に扱え。 我ら神人族の羽はその先まで繊細、かつ毛の一本一本に神経が通っている。 貴様が触れることで私が痛みを伴ったら、覚悟しておけ」
ただ羽に触れるだけで覚悟しておけと言われることはリーンの予想外で、同時に怯えながら触れることになる。 こんなことになるなら、最初から触りたくなかった。 ここまで怯えるくらいなら触りたくなかった。 そんなことを思いつつも、ここで「やっぱり大丈夫」と言えば、それこそ逆鱗に触れかねない。 リーンはそっと、羽へと触れる。
「……んぁ。 良いぞ、その調子だ」
「どんな調子なんですか……うう」
ヴァルヴァードは撫でられるような、包まれるような感覚を得る。 それは、親が子に与える愛情とどこか似通っていた。 そして、そんな愛情を親など持たない神人族が経験するのは、当然初めてのことであった。
そして同時に、ヴァルヴァードは心の奥底で想う。 このヒューマンという種族は、何か不思議なところがあると。 特にこの二人は、どこか普通とは違うと。
だが、そこで『和解』という言葉が出てくることはない。 ヴァルヴァードが望んだのは、支配だ。 今回の件が片付けば、カノを受け渡される約束をヴァルキューレと取り交わしている。 そうすれば、毎日毎日、未来永劫自分に尽くさせることができる。 少なくとも器用なヒューマンに翼を触れさせたのは、悪いことではなかった。 なら、奴隷とするのは少々勿体ない、せめてペットくらいにしてもいいかもしれない。 ヴァルヴァードの思考は、そんなことで埋め尽くされていた。
そしてどうしても、欲しくなった。 今回、神人族の翼に触れたことは些細なことだったかもしれない。 が、そんな些細なことが、ヴァルヴァードを本気にさせることになる。
「……翼撫で、足舐め、指もいいか……? 私の美しさを言葉にさせるのもよし、か。 ふふ」
「大丈夫? なんかぶつぶつ言ってるけど」
「なんだ!? 貴様、この私に無断で近寄るなッ!! おいそこの雌! 貴様もいつまで私の翼に触れている!? さっさと離れろ、不愉快だッ!!」
「ひぇええ!! や、やっぱり怒ったじゃないですかぁ!!」
ヴァルヴァードは怒鳴りつつ言うも、その顔にはやはり笑みが少しだけ残っている。 カノはそんな慌てたようなヴァルヴァードを見て、ひと言尋ねることにした。 神人族に関する情報を引き出す目的で、そのことを口にする。
「申し訳ない、俺の連れが無礼者で」
「はっ!? 何を言ってるんですか!? だって第一カノが……んー!! んー!」
リーンの口を塞ぎ、身動きできないようにしながら、カノは続ける。
「それより、君たち神人族ってその綺麗な翼もそうだけど、体の構造自体がヒューマンと違うんだっけ?」
「ふん、当たり前だ。 我ら神人族は、神にも等しい種族であり、崇高で崇拝されるべき種族なのだ。 あらゆる物事に置いて、常に最善策が用意されている」
その言葉に、嘘偽りはない。 神人族は全ての者が、自らこそ神の子だと認識をしている。 そう思うのも無理はないことで、たった今ヴァルヴァードが言ったように、神人族はありとあらゆる物事に耐性を持っている。 そのことについて、カノはリーンに用意させた資料によって認識をしていた。
「でも、麻酔薬とか撃たれたら駄目なんじゃない?」
「マスイヤク? それはあれか、対象を昏睡させる魔法か何かか?」
ヴァルヴァードは歩きつつ、横に並んだカノに視線だけを向け、尋ねる。 それを聞いたカノは、この世界には麻酔薬が存在しないことを確認した。
「物理的なものだよ。 銃……んー、砲弾的なやつかな。 先端に針があって、刺さったら全身の自由と意識を奪われる」
「そんなものがあるのか。 だが、私たちにそんな無粋な武器は無力だ。 超速で放たれ、針によってそれが注入されたとしても、そもそも麻酔薬とやら自体、私たちの体が自動で毒と認識するだろう」
その答えを聞いたカノは、一瞬だけ驚いた。 この神人族、ヴァルヴァードは麻酔薬も麻酔銃も存在を知らなかった。 それがそもそもどういう物なのかを知らなかったのだ。 だというのに、カノが発した短い言葉だけで、その形状や効果をおおよそではあったものの、的中させてみせた。 洞察力、思考力、そして想像力は、ずば抜けている。
「自動で?」
「ああ、そうだ。 私たちに毒は効かない。 肌に触れた毒は効果が出る前に分解され、口鼻から摂取をすれば、喉元を通り過ぎるときに分解される。 この世界のありとあらゆる毒は、神人たる我々には無力だ」
「そりゃすごい! さすがは最強種族様だ。 というわけで、最弱な俺からの差し入れをあげよう」
カノはリーンからようやく手を話す。 リーンはどうやら息ができなかったらしく、その場に両手を着き、肩で息をしながら、そんなわざとらしい演技をするカノを睨みつけていた。
「……」
カノが取り出したのは、小袋に入った豆だった。 それは、神人族がヒューマンに渡している食物の種。 そのいくつかをロッドから受け取り、今この場でヴァルヴァードへと差し出した。
「万が一毒が入っていても、問題はないんだよね。 だったら、食べてみてよ」
「問題はない。 貴様らが仕掛けるものは全てが無意味で、全てが無駄だ。 が」
ヴァルヴァードは小袋を奪い取るように取り上げる。 そして、左手に持ったそれを天へと投げ、右手からは炎を出した。 その直撃を受けた小袋は、一瞬の内に燃えカスへと変わり果てる。
「図に乗るなよ、ゴミが。 例えそれに毒が入っていようと入っていまいと、この私がヒューマンの餌を口にすると思ったか? 自分たちの汚物くらい、自分たちで始末したらどうだ」
ヴァルヴァードは、他の神人族よりも頭一つ抜け、誇り高く、プライド高い神人族だ。 そんな彼女が見下し、家畜としか思っていないヒューマンが食べるべきものを口にするわけもなく、カノの狙いは外れる。
カノが種に仕込んでいたのは、とても単純かつ効果が現れる下剤だった。 これはカノが僅かな時間で練り込んだ物であったが、その策は失敗を見ることとなる。 しかし、カノは知らない。 例えその毒が神人族の知らぬ物だったとしても、その一切がヴァルヴァードの口から告げられた事実同様、無効化されるということを。 知識ではなく体が、そうあるようになっている。 言わば、これは神人族の仕様だ。
「戯れも程々に、身分の差を弁えろ。 到着だ」
ヴァルヴァードは言い放ち、巨大な扉を片手で触れ、開ける。 その扉自体、カノもリーンも両手を使い、全力をかけても一人で開けられるかは定かではないほどに、必要筋力値は高い。 が、そんな扉を軽々しく開けるヴァルヴァードは、やはり最強の種族なのだった。