5 祐純くん、仲純くんの最期を知る女房・衛門を訪ねる
翌日。
そのまま仲忠の所で夜明かしした祐純は、身近な所から聞いてみることにした。
「おや祐純、どういう風の吹き回し? 珍しい」
仲忠と女一宮の住む「東の町」の北の大殿には父母が暮らしている。
祐純は父の用事で来ることはあっても、母の元へ真っ直ぐということは滅多に無い。
このひとも女一宮である。ただし先帝の。
そのせいだろうか。子を沢山為した後でも、どこかおっとりと姫君めいた所が多い。
現に今、彼女の膝の上には猫がのんびりと惰眠を貪っている。
その背をゆったりと白い指で撫でながら、母はほんのりと笑う。
「いやその、色々と忙しく。母上にはご機嫌麗しく」
「面倒なご挨拶なんていいのよ。どうかしたの?」
そう母が言う間にも、女房達が彼のために座を拵える。
母は宮中であったことを問いかける。女房から聞いた噂話で彼を軽くくすぐる。彼はその度に苦笑する。どうしてこうも屋敷の中でじっとしているのに、色々知っているのだ、と。
「そう言えば先日、東宮さまから急なお呼び出しとか。何かありましたの?」
「その件なのですが」
ようやく彼は本論にたどり着けた。
「貴宮のことかしら…?」
母はやや不安げな目を向ける。
「いえ、別のことです」
あえて祐純はそこは隠した。
「実は、仲純のことで」
「仲純… 今更何を」
母は猫に触れた手を止める。とろとろとまどろんでいた猫が、その拍子にぴく、と動く。
「その今更だ、と東宮さまもおっしゃいました。…亡くなる前の仲純の様子を調べて欲しいと」
にゃあ、と猫が鳴いた。
あ、と母は慌てて手を離す。
するり、としなやかな身体が逃げて行く。
「…また一体」
「さあその辺りは」
誤魔化しておこう、と彼は思う。
仲純のことは、彼女にとって悲しい記憶である。
それが貴宮絡みのことだと知れば、そこでまた頭を悩ますだろう。
それは避けたい。それだけは避けたい。
あくまで過去のこととして。
「仲純は寝込む様になってからは殆ど母上の方で看病なさってますね」
「…ええ」
母はうなづく。袖でそっと口元を隠す。
「その時主だって世話をしていた女房は、今もこちらに居ますか?」
「…ええ。中将、衛門は今日は居て?」
「あ、いえ…」
中将と呼ばれた母の側仕えの女房は軽く首を傾げる。
「先日から物忌みということで、宿下がりしておりますが」
「そう、残念ね。祐純、すぐには戻らない様よ」
それは困る、と彼は眉を寄せる。
当時の様子を一番良く知る者に、何を置いても当たりたいのだ。
「その衛門という女房の家は近いのかい?」
「六条のほうと聞いておりますが…」
「一度使いをやってくれないか。私が聞きたいことがあると」
「…祐純さまがですか」
「そうだ私だ。もしも今も物忌みで家から出られないというなら、私が直々に出向く、とそう伝えて欲しい」
はい、と中将の君はやや離れて控えていた女房を呼び寄せると小声で何事か囁く。黙って女房はその場を立ち去った。
「祐純」
母はやや咎める様な声を立てる。
「物忌みの家にわざわざ」
そこへ先程の猫がのっそりと戻って来る。
そのままゆっくりと祐純に近づき、すりすりと直衣に身体を寄せて来る。
「ずいぶんと人懐っこい猫ですね」
「そんなことは無いわ。珍しいことよ。きっとあなたのことが気に入ったのね」
母は苦笑する。
そしてそのまま猫と戯れる息子にため息をつく。
「…まあ、お仕事なのだから仕方が無いわね」
「え? …あ、はい。…すみません」
「あなたはいつだってそう。何かと物事をさくさくと進めちゃって。私は後でぶつぶつ言うだけだわ」
「母上、いえ、そんな」
「別にいいのよ。でも猫は返してちょうだいね」
さあ、と手を伸ばす。吸い寄せられる様に、猫は母の両手の中へと飛び込んで行った。
「仲純はねえ、祐純」
はい、と思わず彼は畏まる。
「いい子だったのよ、本当に…」
「はい。仲純は亡くすには本当に惜しい弟でした」
「跡目を継がすとかそういうことはどうでも良くて、ただもう、そう、楽人としてでもいいから、楽しく生きて欲しかった…」
「母上」
「何があの子をあんなに苦しめたんでしょうね」
苦しめた?
「母上はそう思ってらっしゃるのですか? 仲純は」
それ以上は笑って答えなかった。
*
六条にあるという衛門という女房の家を祐純が訪ねたのは翌々日のことだった。
物忌みは前日までであり、この日は出仕する予定である、という返しの文を彼は貰っていた。
だがあえてそこでもう一日留まらせた。
仲純の詳しい当時の話を聞くなら外の方がいいかもしれない、とその時祐純は思った。
そしてそれは正解だったと―――
「それはそれは」
言いながら既に女は袖を目に当て、喉を詰まらせている。
「壮絶な―――」
壮絶。
死に様にその言葉が当てはまるのか、と彼は驚いた。
少なくとも、屋敷で親兄弟に護られて寝込んでいた者に使うには、とても合わない様な―――
いや。彼は頭を振る。
「教えてくれ。その壮絶だった、という仲純の最期を。そなたは全て見ていたと言うではないか」
「…はい」
衛門はようやく涙を収めると、話し出した。
「仲純さまがお倒れになり、大宮さまが手元で看病を、ということになり、私がその役目に付きました。
若くも美しくも無い私ですが、身体だけは丈夫です。病人の世話には一番だろう、と大宮さまは仰られました。
しかし看病も空しく、仲純さまは日に日にに窶れていかれる一方でした。
私達、看病に付いている者達が当時最も大変だったのは、あの方にお食事をして頂くことでした。
何しろ、本当に強く強くこちらが勧めない限り、何にも手を付けようとなさらないのです。
私達は大宮さまから仲純さまがお好きなものも聞いていました。ひめ飯でも喉には辛いのかも、と汁粥を作り、その中にできるだけ身体に良いとされる薬草を混ぜ込んだりもしました。
大宮さまが院さまから賜った、と酪を用意なさったこともございました。
季節でちょうど手に入る時には、李やいちご、桃や柑子の様なものも用意致しました。
…ですが駄目でした。
どれだけ私達が手を尽くそうと、仲純さまご自身に、何かを進んで口にしようという気持ちが感じられないのです。
そう、完全に寝込まれてしまわれたのが夏の頃でしたから、特に身体に障ったのかもしれません。
削り氷に甘葛の蜜をかけたものや、柑子の汁を絞って器を川の水で冷やしたものをお出ししたこともありました。そういう時には、ほんの少しだけ召し上がりました。
ですが。
日に日にお体は弱っていかれました。
大宮さまには、自分はもう駄目だ、という気弱な言葉をお漏らしになり、母君を嘆かせ… そう、祐純さまに後をお願いしたい、ということも仰ってました。
毎日毎日うとうとと微睡み、時々目をお覚ましになっては、…そう、貴宮さまのことをお訊ねになることが多かったです」
「貴宮の?」
祐純は思わず大声で問い返していた。
「はい。ちょうどあの頃、貴宮さまの御入内がお決まりになった頃でしたから。貴宮さまが御入内の折りには、雑役でも何でも、と仰るそのお言葉が、もう脇で聞いている私達も辛くて辛くて…」
そう言えばそうだ、と彼も思う。
皆彼に期待していたのだ。三男の自分は有能だが貴宮に対して仲純ほどには親身にはならないだろう、だから、と。
自分も期待していた。きっとあの細やかな心配りのできる弟なら、後宮という場所でも妹を何かと支えてくれるだろうと。
そう、確か入内と人事不省が同じ日に起こって―――
そこまで思い出した時、祐純ははっとし、衛門の両肩を不意に掴むとやや乱暴に揺さぶった。
手の中の衛門の身体が硬くなるのを祐純は感じた。
「思い出してくれないか」
「は、はい」
「貴宮が入内した日のことを」
「ああ!」
衛門は目を閉じた。
「あの日―――あの日は恐ろしい日でございました。
仲純さまが、とうとう私達誰の顔も見分けられなくなってしまわれたのです! 熱に浮かされたのか、それとも全ての身体の熱が引いてしまわれたのか、ぼおっとした眼差しで私達の方を向くのですが、誰? とか何処に居るの? とか仰るのです!
私達は慌てて、入内準備に忙しい大殿さま達の所へ駆け込みました。普段は決してそんなことは致しません。ええ、決して!
しかしそんな場合ではございませんでした。
大殿さまは喧しい、何だと仰りました。私達は事の次第をしどろもどろになりながらも伝えました。
するとそれまでの私達の様に―――いえ、それ以上の勢いで、あの大宮さまが即座に立って行かれたのです。
私達もその後をすぐに追いました。
戻った時には、既に大宮さまは仲純さまのお側で手を取り、涙くんでいらっしゃいました。
そして何より、これから入内ということで付き添わなくてはならない身を嘆いておいででした」
衛門は続ける。
「すると仲純さまは、その大宮さまのお言葉の中に、貴宮さまのお名前があるのに気付かれたのか、うっすらと目を開かれました。
そして自分はもう駄目だ、せめてもう一度貴宮に会いたい、と仰いました。
とても仲が良いお二人でしたから、無理も無いと思われたのでしょうか。大宮さまは既に装束を身につけられた貴宮さまへと使いをお出しになりました。
やがて貴宮さまがお出でになりました。ええ、本当にお美しいお姿でした。天女がその場に舞い降りたかと思った程でした。
お供には兵衛さんと孫王さんの二人だけでした。兵衛さんはご存知でしょうが、貴宮さまの乳姉妹です。
そして仲純さまは弱々しいお声で、せめて見送りだけでも、と伝えられたのですが…」
「その時、貴宮は仲純に何と言ったのだ?」
祐純は問いかける。
「…内容までは良くは覚えていませんが… 驚いた、何故そんなに、という感じでした。私はそれより、仲純さまが、…おそらくは力づけようとなさったのだと思いますが… その貴宮さまのお言葉に、ただもううっすらと微笑まれるだけのことに驚きました」
それ程もう生きる力を失っていたのだろうか。そう思うと祐純は胸が痛む。
「…ただ」
衛門は口の中で「確か…」「いや…」「でもあれは…」などと言葉を繰り返す。
祐純はその様子に業を煮やしたか、やや口調を荒げる。
「言いたいことがあるなら口にするがいい。私は少しのことでも知りたいのだ」
はい、と彼女は少しびく、とすると、やがて決心した様に大きくうなづく。
「…実は、あの時、仲純さまは何かを手にされていた様に見えました」
「何か?」
「何か、です。手をずっと握ってらしたのでよくは判りません」
「それがどうしたのだ?」
祐純はやや苛立って来る自分に気付く。いかん、ここは冷静にならねば。自分を叱咤する。女房の情報を求めに来たのだ。ここは一つ苛立ちなどは―――
そう思った時だった。
「何やら白い塊が、ふっと」
「ふっと?」
「貴宮さまの懐に吸い込まれる様に」
白い塊。何だろう。考える。考えられるのは―――
「文?」
「…そこまでは。紙の色と言えばそうだったかもしれませんし…」
確かにそうだ。紙の色など様々だ。
「ただ、その直後でした。貴宮さまが退出なさってすぐ、仲純さまが人事不省に陥ったのです…」
くっ、と衛門は顔をしかめる。その時のことを思い出したのだろう。
ちなみに祐純はその時のことは入内の全てが終わってから聞いて驚いた。
正頼は入内が取りやめになることを何よりも恐れていた。
後で聞いた話であるが、大宮にすら「今は見るな聞くな静かに静かに」と言い諭したらしい。
実に父らしい、と祐純は思う。そしておそらく、自分が父の立場でもそうしたのではないか、と思う。
「だが人事不省では」
「殆どお亡くなりになってしまわれたかと… もう息をしていらっしゃらない様でした」
「それが良く持ち直したな」
「そこが不思議なのです」
衛門は頬に手を当て、首を傾げる。
「正直、あの日は何かと邸内がざわついていました」
確かにな、と当時のことを彼は思い出す。
「色んな方が貴宮さま御入内の御祝いに駆けつけたのですが、源宰相さまなど、その中で倒れておしまいになり…」
「ああ…」
苦々しく祐純は思い出す。
仲忠がその態度に反感を持っていた源宰相は、とうとう入内だ、と伝え聞いた途端に気を失ってしまったらしい。
あの場で冷静だったのは、仲忠など、ほんの数人だったと。
「ところが、御門出の時刻となりました時、突然仲純さまは起きあがったのです」
「起きあがった?」
「はい。何処にそんな力があったのだろう、と思うくらい、こう… ぱっ、と…」
衛門は手で示す。
「もうお顔など、百済藍の色で… 生きていらっしゃるのが不思議なくらいでしたのに、立ち上がって、両手をこう、前へ出す様にして…」
手を差し出す。
「『行かないで』」
「え」
思わず祐純は声を上げていた。
「行かないで?」
「そう仰ったのでございます」
「仲純が?」
はい、と衛門はうなづいた。
「行かないで、か?」
「はい」
「本当にそう言ったのか?」
「私の耳がおかしくなったのでなければ」
判った、と祐純はうなづいた。
「でも一瞬のことでした。すぐに仲純さまはまた倒れられ、このまま還らぬ人となってしまう、とその場に居た者皆が慌てました。その慌て様は、どうやら貴宮さまの方にも伝わってしまった様で、兵衛さんまでが顔を出して、仲純さまのご様子を伺っていた様な」




