3 祐純くん、愛妻家仲忠くんのもとを訪ねる
風に乗って、ふっと。
「あれは… 箏の音ではないか?」
祐純は誰とも無しに口にする。
側仕えの女房の一人は、肴を盛った高坏を置き、ふっと軽く目を伏せる。
「…ああ… 微かに。左様でございますね。中の大殿の方からですわ」
「中の大殿?」
「女一宮さまです」
彼女はそう言いながら、杯に酒を注ぐ。
一日が終わる。自分だけの時間だ。
東宮も、妻や子供も、何も関係が無い自分だけの。
女房達は「居る」部類に含まれない。
彼の中では生まれた時から自分の世話をするために居る、空気の様な存在だ。
ただ空気とは言え、何気ない会話くらいはある。
「ほぉ… あの方も結婚するまでは時々弾いてらした様だが、どちらかと言うと琵琶の方がお好きではなかったかな。それとも最近また練習する様になったのかい」
すると別の女房がくす、と笑った。
「いえいえそういう訳ではないのですよ。ほら、殿、…仲忠さまがずっといらっしゃるでしょう?」
「仲忠が」
ええ、と彼女は大きくうなづく。
「ああ… あれは本当にまめ人だね」
「あら、殿がそうでは無かっただけのことではありませんの?」
黙って祐純は杯をあおる。いちいち戯れ言に構ってはいられない。
「ずっと、か…」
「ええずっと」
女達は話に乗って来る。
「宮さまが妊じられてからこのかた、ずっとお側でお世話をせっせせっせと」
「おお、そう言えばそうだったね」
「本当にまあ、あの美しい方にあんなに大切にされたなら、女冥利に尽きるというものでしょう」
はぁ、と女房達は頬に両手を当て、ため息をつく。
「まあどうせ、私はあれの腹に宮はたや弟君が居た時も、色々と忙しかったがね」
いえいえ、と女房は頭を振りながら、空になった杯に酒を注いで行く。
「殿はごくごく普通に優れた御方。あの方が少々変わってらっしゃるのです」
「ほぉ? そなた仲忠のことをそう思っているのかい?」
やや皮肉げな祐純の言葉にも、女房達は動じない。
「良くも悪くも、ずっと妻につきっきりというのは、殿方としては、何処か変わってらっしゃるでしょう?」
「まあ確かにな」
仲忠。
仲純と「兄弟の契り」を結んだ藤原仲忠は、現在この三条殿、祐純と同じ屋根の下で暮らしていた。
昨年夏、仲忠は帝の宣旨により、女御腹の女一宮の婿となった。
当時、娘を持つ者は皆が皆、仲忠を婿にと望んでいた。
正頼もその例外では無かった。
だが結局は帝の鶴の一声。
仲忠は祐純の妹の誰かとではなく、姪の元に婿入りすることとなった。
いずれにせよ、三条殿の婿であるのは変わらないのだが。
ただ格はまるで違う。
仲忠は正頼同様に、帝の後見を受けることを約束されたのだ。
帝は琴の琴の名手の仲忠が欲しかったのだろう、と皆が推測した。自分の血統に名手のそれを残したいのだ、と。
彼の鳴らす音は、人のものでは無いと祐純も聞いている。三年前、神泉苑で行われた宴の際には、天変地異まで起こしたとか。
自分ならそんな血は欲しくは無いな、と祐純は思う。
やがてそんな帝の願いが天に聞き届けられたのか、年が明けてすぐ、宮の懐妊が知らされた。
それからというもの、仲忠は妻につきっきりだと言う。
女房達は口々に言う。
「何でも、宮さまがつわりで苦しんでいる時期には、喉ごしの良いものを、と手づから滑らかな口当たりのものを御用意なさったとか」
「包丁を自らお使いになったと言うことですのよ」
「そうそう、夏の暑い盛りには、削り氷も、それにかける甘葛の蜜もずいぶん用意なさったとか」
「何よりも、何処にも遊びに出掛けることもないのが凄いですわね」
「ええ全く。おかげで中の大殿の女房達は、他の局の女房から恨まれているらしいですのよ」
「ああそれから、胎教にいいからと昔物語をあのいい声でゆったりとお聴かせなさるとか」
「美しい女の子が出来たらいいね、とご先祖の蔵から渡来の書を色々と調べなさったとか」
「ああもう、女として本当に羨ましい!」
一つ話が切り出されると、後はもう姦しいばかりである。
「けどそうそう楽器を手にする彼ではあるまい?」
祐純は問いかける。
「でも宮さまのためなら」
ねえ、と女達は皆顔を見合わせる。
「そうか。では一度確かめなくてはな」
祐純は杯を飲み干すと、ふっと笑う。
「今からそちらへ伺う、と伝えてくれ」
きゃあ、と再び女房達の声が揃った。
*
直衣を換えて、中の大殿へと祐純は向かった。
「やあ祐純さん。突然こちらへ来たい、なんて、びっくりしました」
仲忠はそう言いながらも、既に廂に酒と肴の用意をし、待ち構えていた。
「先程、箏を弾いてらしたのは?」
「宮です。もうお休みになりましたよ」
そう言って仲忠は母屋の方をそっと示す。
「おやおや、恋しい奥方に独り寝の淋しさを味わわせてもいいのかい?」
祐純は笑いながら、用意された円座に付き、ふと辺りを見渡す。
「何やらここは、実に良い香りがするね。しかもあまり私も知らないものだ」
「ええ、祖父が遺してくれた蔵の中に、渡来の香の材料があったものですから」
「蔵! 何でも君はそこに入っていた書物であれこれと宮のお世話をしてあげたとか!」
「ああ、女房達ですね。彼女達の口は本当に働き者だ」
そう言って仲忠はふふ、と笑う。
確かに、男にしておくには本当に勿体ない様な笑みだ。
祐純は顎に手を当て、うーんとうなる。
「まあ… そうですね。何か僕は、宮のために色々してあげられるのが、今、凄く嬉しいんですよ」
言いながら仲忠はさぁ、と酒を勧める。その手つきもまた実に甲斐甲斐しいものに、祐純には映る。
「珍しい奴だなあ、君は」
「そうですか? …そうかもしれない。昔、貧しかった頃は、母の食事の世話とか、色々やったんですよ」
「それは初耳だ。いいことを聞いたな」
「別に大したことでは。格別言い触らしたりする様なことでも無いですからね」
だがそんなにあっさりと言ってしまう様なことでも無いはずだが。
「そう、だから包丁もまな板も、僕にとっては懐かしい物。それほど特別なことをしているという気はしないんですけど…」
それでも何か違うんでしょうね、と彼はふっと目を細め、口元を歪めた。
「でも女房達は噂していたぞ。君程の男にそこまでされるなど、宮は女冥利に尽きると」
ふふ、とそれには仲忠は笑って答えない。
「『産経』って言うのがちょうどあったんですよ。まるで僕を待っていたかの様に。その中には妊婦にいい食べ物とか、可愛らしい女の子が生まれるためには、とか色々あったんですけど」
「そんなことまで書かれているのかい!」
女の子には恵まれない祐純は、思わず身を乗り出した。
「外つ国の知識には本当に叶わないですね。ただ、身体にいい薬草も、宮にとっては結構匂いが強くって、なかなか気分が悪くなることもあって…」
「それで匂い消しに、か」
そうやって使うには勿体ない様なものだな、と祐純は思いながら見上げる。
柱と柱の間にある御簾に、練絹で作った袋があちこち掛けられている。
また、彼らが向き合っている廂の間には、大きな燻炉が置かれていた。
香りの大本はどうやらこれらしい。
「本当に、宮のことを大切にしてくれるんだな… いや、すまん。てっきり皇女だから大切にしているのじゃないか、と思ったりもしたんだ」
「そういうのは、本人の前で言うことじゃないですよ」
ふふ、と仲忠は笑い、自らも杯を取る。
「僕は、僕を本当に大好きになってくれる人が大好きなんです」
「皆、君のことは大好きだと思うけど」
「琴の名手のことはね。でもこういう女々しい仲忠くんを好きにはならないと思うんですよね」
彼は視線を空に移す。
「ああ、月が綺麗ですね。それでもやはりもう秋だということでしょうか」
「夏のあの重い、湿ったものとはひと味違うからね」
そう言いながら祐純は仲忠の杯に酒を注ぐ。
仲忠はいただきます、と言うとくっ、と一息に呑む。
高坏の上に盛られた唐菓子に手を伸ばす。ぽりぽり、と乾いた音が辺りに響く。
「何かね、祐純さん」
ぽつんと仲忠はつぶやいた。
「今こうやって僕は結婚して幸せなんだけど… する前は、特に期待も何もしてなかったんですよ」
「まあそういうものさ。特に我々みたいな家の者はね」
結婚の当時、祐純は左大将の、仲忠は右大将の息子だった。
「道のそこらで見初めたからって正式な妻にできるという訳でもない。気に入った女房が居て、ものにしても、召人扱いしかできない。どれだけ好きでも、だ」
「それに好きって気持ちは結構儚いですからね」
「儚い?」
祐純は思わず問い返す。ええ、と仲純はうなづく。
「何と言っても、一応僕もあの貴宮に求婚した一人だし」
「…まあな」
言われてみればそうである。
今現在、女一宮に比類無い愛情を注いでいると言っても、一昨年までは彼もまた貴宮の懸想人の一人に過ぎなかった。
「君だけじゃないさ」
「そう、僕だけじゃない。そして僕以外にも、この家の婿となった懸想人も居るしね」
ふふ、と形の良い唇が再び歪められた。
「いいんですよ、それはそれで。皆今幸せで。今が大切ですから。だけど」
だけど? 黙って祐純は仲忠の顔をのぞき込む。
「幸せでなく終わった人達のことが時々、重く胸にわだかまるんです」




