第8話 王者の一喝
意識を失ったエルクを背負い、急ぎ宿へと駆け戻る。
「おいっ! こいつの手当てをしたいっ、お湯と布を用意してくれ!」
宿の娘――メイファへと声をかけた。
「ちょ、ちょっとどうしたの。ってエルク!?」
「いいから早くしてくれっ、頼む」
言い終えるやいなや、客室へと戻りエルクをベッドに寝かせてやった。
「……ぅ、ぐ、ぁ」
寝かせるだけでも傷が痛むのだろう。顔をしかめ、わずかなうめき声をもらす。
「……クソっ」
「ランド、持ってきたわ。早く手当てをっ」
「ああ、悪い」
桶に入れられた湯気の沸き立つ綺麗なお湯と白い布を手に、ランドはエルクの服へと手をかけた。
――まずは傷口を洗わなきゃぁな。
エルクの服には血がこびりつき、どこからどこまで傷を負っているのか見当もつかない。
一度服を脱がせる必要があった。
「う、ぁ……あ、ラ、ンドか……?」
「気が付いたか、ここは宿だ。今すぐ手当てすっから服脱がすぞ」
そんな言葉にエルクが怯えたように身体を震わせた。服にかけていたランドの手首を握り、自身から遠ざける。
「おい?」
「ま、まて。待ってくれ。治療なら自分でできる。湯と布だけ置いて行ってもらえれば、そ、それでよい」
包帯を抱えながらメイファはエルクへ詰め寄った。
「そんなわけないでしょっ! いいから早く脱いでっ、背中からも血が出てるんだから」
二人の様子にエルクは何かを覚悟したように、瞳を閉じて深く息をついた。
「分かった、ランドは出て行ってくれ」
「……ああ。お前がそれで手当てを受けるんならな」
理由を問うことなく、ランドはわずかな沈黙ののちに小さくうなずき、部屋を出ていく。
扉を閉めてそこに背中を預けた瞬間――
「――ㇶっ!」
メイファの押し殺したような悲鳴が聞こえてきた。
「お、おい?」
「来るなランドっ!」
慌てて振り返りノブに手をかけるが、エルクの声に動きが止まる。
扉を開けることも許されずランドは必死に声をかけた。
「おい、そんなひでえのか、医者を呼んでくるかっ?」
「……だ、だいじょうぶ、だか、ら。傷は、そこまで深く、は……」
鼻をすすり、くぐもった声。それでもメイファの言葉は続く。
「骨は、おれて……ゥ、ないみたい。打ち身と、少し切り傷あるだけ、だから――」
それでも最後の言葉だけは一息で言い終える。
「――だから、入ってこないで」
どれほど時が経ったのか。
部屋から出てきたメイファはひどく憔悴したような顔つきだ。瞳は赤く泣きはらし、その頬にはいまだ乾かぬ涙のあとがあった。
「ごめん……」
何を説明するともなく、メイファはそのままランドの顔を一瞥するだけで、逃げるように階段を降りていった。
部屋へと入ると、沈痛な面持ちのエルクがこちらを見ることなく、じっとうつむいていた。
服の隙間から見える胸元には幾重にも巻かれた包帯が見える。手当てはきちんと受けたようだ。
色々と聞きたいことはあったが、それらをすべて押し殺してランドは一言だけ訊ねた。
「誰にやられた?」
「……聞いてどうする?」
質問に質問で返すエルクにランドはまなじりを吊り上げる。
「町で色々聞いたんだが、この町の浮浪児どもは随分とタチが悪いらしいな?」
「…………」
エルクは何も言わず、辛そうに表情をゆがめて沈黙を返す。
その態度で確信を得たランドは、スッと立ち上がる。
「ま、待て。どこへいく」
「あぁ? 取り返すに決まってんだろ、てめえは寝てろ」
「やめろ、待て。ランド――」
もちろん取り戻すだけで終わるつもりは無かった。
自分にとっての命の恩人をここまで傷つけ、セリルや村の子供たちが懸命に働き、身内の遺品まで売り払って稼いだお金なのだ。
孤児であろうが、知らなかったことであろうが許す気はなかった。
「ま、まつんだ」
エルクの制止の声を背にしてもランドは止まらず、扉へ向かう。
ベッドから立ち上がるエルクが必死にランドの肩へと追いすがる。
「やめろランド、相手は子供だ、食うに困ってのことだ、余がその分働く、だから――」
「――ざっけんじゃねええっ!」
耐えかねたランドは振り向くやいなや、エルクの胸倉をつかみあげ、壁へと叩き付けた。
「カハっ」
部屋が震えるほどに強い衝撃は、エルクに苦悶の声を上げさせた。
「いい加減にしろよテメェッ。ガキどもに同情すんのはてめえの勝手だ、お前の金なら恵むも捨てるも好きにすりゃいい、けどな、あの金はお前のもんじゃねえ。レンツたちの家族と村のやつらの思い出が詰まった遺品を売った金なんだぞっ、俺たち全員が冬を越すために、あいつらが必死にかき集めた金なんだぞっ!」
――話にならねえな、コイツ。
ランドはエルクに失望したように手を放した。それでも、そんな優しさに救われた身としてはエルクの思いも無下にはできなかった。
「約束してやる。ガキをむやみに傷つけるような真似はしねえ、金さえ戻ればそれでいい」
ランドにとってはそれが最大限できる譲歩であった。
これならこいつも納得するだろうと、へたりこむエルクを背に部屋を出ようとするが――
「――余がやめろといっておるのだっ!!」
宿を震わす大音声であった。
先ほどのランドの激昂さえもさざ波に感じるほどの激情が、言葉と同時に噴出する。
怒気ではない。殺気とも違う。
それでも決して抗うことのできない絶対の意思を持った声にランドは立ち止まざるを得なかった。
部屋から、出ることはできなかった。
自然、足が前に進むことを止めてしまったのだ。
「お、おまえ」
振り返る先にあった姿はあまりにも弱々しい。
エルクは息も絶え絶えに壁に手をつきながら立ち上がる。
「ランド。そなたの言葉、まったく正しい。余がどれほど傲慢で勝手なことを言っているかも理解しているつもりだ。それでも頼む。許してやってくれ、金なら必ず何とかする、どうか、頼むから。許してほし――」
立ち上がったエルクは膝をわずかに曲げながら床につこうとするが、肩をおさえられることによって止められた。
ランドの舌打ちが忌々し気に部屋に響いた。
「わかった、わかったよ、だからそれは止めろ」
苦虫をまとめて噛み潰したような顔であった。
「本当か?」
「ここまできて疑ってんじゃねえよ、バカ。約束してやっからお前は寝ろ」
「そうか、感謝する」
エルクはようやく肩の力を抜くことができたようだった。
ベッドに身を横たえるのを見て、ランドは近くの椅子に腰かけた。
「なんでそこまでする? 相手は見ず知らずのガキどもじゃねえか」
「見ず知らずではないよ」
エルクは悲し気に微笑を浮かべた。
「実際に見た、そして知ったよ。今宵の休める床もなく明日をも知れない身でありながら、助けてくれる大人は一人もいない。余を襲っている時も喜んでいる者など決して一人もいなかった。みな一様に辛そうな目をしておったのだ。生きるために、みなを守るために、やりたくないこともやらざるを得なかった、強く優しく、そして哀しい幼子たちだ」
もはや処置なしといった顔でランドは深いため息をついた。
「その甘さ、いつかお前を殺すぜ」
「肝に銘じておくよ」
長い沈黙が二人の間を満たした。
そんな空気に耐えかねたようにランドは再び立ち上がる。
「さってと! 金も大幅に減ったわけだし、気合入れて仕事探さねえとな」
「ああ、余も一緒に――」
起き上がろうとした頭をはたき、エルクの頭をボフンと枕に沈めた。
「怪我が治るまでじっとしてろ」
「し、しかし余のせいで――」
それでも起き上がろうとするエルクをランドは睨み付けた。
「てめえのでけぇ勝手を聞いてやったんだ。少しはこっちの言うこともきけ。いいな?」
「いや怪我はそれほどでも――」
「い・い・なっ!」
有無をいわせぬランドの言葉に、今度はエルクの動きが止められる番であった。
「わかった、怪我が治るまで休んでいる。約束しよう」
「おう。そんじゃな」
部屋を出ようとするランドの背にエルクの言葉がかけられた。
「ランド」
「あん?」
「――――ありがとう」
返事は、しなかった。
エルクもきっとそれは望んでいないだろう。
ランドはそのまま手を振りながら部屋を出ていき、扉はパタンと閉じられた。
***
それから数日後。
「エルクエルクっ、ようやく仕事見つかったぜ!」
喜色満面のランドが部屋へと飛び込んできた。
「おおっ! それはめでたい。よくやった」
エルクも同じように笑みを浮かべ、ランドの就職を心から喜んだ。
「船着き場のすみの方のちっせえ造船所でな。まあ荷運び兼修理屋ってとこだな、明日から働きに出かけるよ。いやあ危なかったぜぇ、メイファの見る目が日ごとにきつくなってったからな。こんままじゃ数日以内に追い出されるとこだったぜぇ」
「そなたはマシな方だぞ。余などずっと宿にいるからな、針のむしろとはこういうことを言うのだな。何にせよこれでメイファに顔を見せられる」
二人はそろって安堵の息を吐き出した。
「ならばそろそろ余も働かねばならないな」
「体の調子は?」
「もう良い。本当だ、嘘ではない」
あれからメイファには何も聞いていない。エルクにも聞けなかった。
何となく察しはついていたからだ。奴隷であった過去にどんなことがあったかは知らないし知りたくもない。
エルクが知られたくないのであれば、それでいいと思っていたからだ。
「そういや聞きそびれてたんだが、お前何の仕事につくつもりだったんだ?」
エルクは不敵な笑みを浮かべる。
「フッフッフ。説明する前に買ってきてほしいものがある」
「なんだよ」
「紙と筆だ。なるべく上質のな」
ランドは言われるがままに、紙と筆を買ってきた。
店の場所がどこにあるか分からないので事情を説明しメイファに訊ねると、なぜかメイファまでついてきた。
なんでもエルクが何をするか気になったらしい。昼間の宿はヒマだからという理由もあったようだが。
おそらくプータロー二人の懐事情を探るためとランドは思っている。
話していると時折目が商人のそれとなっていたからだ。
――頼むぜエルク。
ランドの思いを知ってか知らずか、メイファも一緒に来るのを見て、エルクはむしろ都合が良いと顔をほころばせた。
「ちょうど良い。メイファ、よく見ててくれ」
エルクは買ってきた紙を広げる。やや茶色いながらも破けたところがなく凹凸も少ない皮紙は、商談などにも使えるレベルのものであった。
真っ白な羽ペンを手に取り、小さなインク壺にひたす。
そして。
スラスラと皮紙へと書き込んでいく。迷いもためらいも全くないペンさばきであった。
あっという間に書き込んだそれを机のわきへとどかし、再びもう一枚の皮紙をひろげた。
そして再び、同じように書き込んでいく。
先ほどと違うのは一点のみ。そこに書かれている文字のみである。
「え?」「は?」
二人は呆気にとられた顔をする。
書かれている文章が違うわけではない。書かれている言語が違ったのだ。
一枚目は一本の線が波のように曲線や円を描いた流麗なものであったが、二枚目はいくつもの図形を組み合わせた雄々しい形であったからだ。
二人の目が点となる中で、エルクはそれを五回繰り返した。
何が書かれているかは分からないが、それでもそれが凄いことだというのは分かる。
文字を学べる者は貴族や商人、裕福な家庭の子供などが挙げられるが、それも大抵が自国のものだけだ。
他国の言語を知る者など、それこそこんな大商都お抱えの訳士かどこかの王宮の文官くらいだ。
それを五か国も……。
「さて、メイファ」
「は、はいっ」
「この五枚の書状を大陸間貿易をしている商会に渡してきてくれないか?」
「え、っとこれは?」
「ヒスパリア、アートリ、ロクス、メロザーヌ、ペルトロッカの五か国で使われている言語で書いた紹介状だ。訳士として雇ってほしいと書いてある」
「えっと、ほんとに五か国語も話せるの?」
エルクの言葉が本当ならば、どんな商会でものどから手が出るほどの逸材であろう。
この町で一番大きな商会が抱えている訳士でも三か国語が話せるだけで、文字までは書くことはできないのだから。
「ああ。といってもメイファの紹介で入れば何かあったときに迷惑をかけるな、余が行くから商会の名前だけでも教えてくれるか?」
「いや、いい、いいからエルクは休んでて。確かに書いてたのは見てたし嘘じゃないのは分かってるから」
「そうか、なら甘えさせてもらおうか」
「じゃあ私はいってくるから。あ、っと、何か希望はあるかしら?」
「そうだな、なるべく金払いが良いところがいい。礼を言う、メイファ」
「気にしないで。あたしもあなた達の身ぐるみはぐ必要がなくなって安心したから」
予定では明日だったのよ、と微笑みながら告げてくる。
二人の表情がこわばった。
追い出されると思っていたのは、どうやら考えが甘すぎたらしい。
「ま、まさかこんな安宿の金くらいうなるほどあんぜっ! なあエルク」
「そ、そうとも。こんな貧乏宿で路銀が底をつくほど困窮しておらぬわ」
メイファの瞳に炎が宿る。
「へえ。なら物持ち様の二人には宿代上げても問題ないわねぇ」
そんな言葉に二人は身を伏して謝ったのだった。