第2話 奴隷とエルフと軟膏薬
「今助けるっ」
扉を開き中へと飛び込むが、中が暗すぎてよく見えない。
目をこらし、ようやく一番奥に小さな檻があるのが分かった。
すでに水かさは木箱にのせられた檻を越えようとしている。
「た、たすけて、もう・・・ぅう、プハっ」
慌てて檻のもとまでたどり着き、手探りで鍵を外し少女を連れだした。
「ハア、ハァ・・・ハア・・・」
薄暗いため少女のシルエット位しか分からなかったが、エルクは構わず告げた。
「悪いが休ませる余裕はない。今すぐ甲板に向かう。泳げるか?」
「い、いえ。泳いだことはなくて」
「なら息だけしっかり止めておけ」
浸水速度があがったのか、もう天井に頭がぶつかるほどに浸水している。
船倉を抜けて甲板に上がるには、潜ったまま進む以外にない。
まったく泳げぬ人間と一緒では、手を握る程度では進むことはできないだろう。
エルクは名も知らぬ少女の体を思い切り抱きよせた。
「死にたくなければしがみついてろ」
「えっ!? ちょ、ぁっ・・・」
戸惑う少女の声に構わず、エルクは大きく息を吸い込んだ。
「行くぞ!」
***
甲板に上がった二人を、大粒の雨が弾幕となって襲う。
鼓膜を叩かんばかりの暴風、暴れ馬のような船の荒ぶれにエルクは必死に手すりをつかみ、状況を確認する。
もう船には誰も残っていないようだ。水夫たちはすでに小型のボートで逃げ出したのだろう。
陽はほぼ沈みかけており、海の先までは見通せない。
早くしなければ、完全に陽は沈み何も見えなくなってしまう。
「ケホ、コホ・・・あ、あそこにボートがあります。あれで・・・」
「ダメだ、あんなものでは乗り越えられない」
エルクの言葉を肯定するように海の方から悲鳴が聞こえた。
先に脱出した水夫たちの悲鳴である。高波にあおられ転覆でもしたのだろう。
「だ、だったら、どうす――キャアっ」
「しっかりつかまってろ」
バランスを崩す少女の手を取り、引き寄せる。
とうとう浸水部分の重みに耐え切れず、船体が傾き始めたのだ。
「船尾に向かうぞ」
少女の手を握り締め、エルクは手すりづたいに慎重に進む。
雨に濡れた甲板は滑りやすく、波に、風にあおられ幾度も海に投げ出されそうになる。
「目を閉じるなっ、もう少しだっ!」
少女をはげましながら、それでも決して手は放さなかった。
ようやく船尾にたどり着く。
すでに船体の傾きも限界に近い。
船尾の手すり付近までもう海面に沈みかけているのだから、いつ飲み込まれてもおかしくはない。
「あった!」
手すりにかろうじて引っかかっているそれを見つけた。
そこにあったのは水を入れるための大きなタルである。
「あの中に入るぞっ」
「キャアっ」
先に行かせようとするが、少女の目の前に木箱やタルが落ちるように転がってくる。
「走るぞ! もう時間がないっ」
エルクは少女の手を握り直し、斜めになった甲板を一気に走り何とかタルまでたどりつく。
タルの蓋を開け、少女を先に入れようと振り返った。
「――あぶないっ!」
船先の方から木箱が滑り落ちてくる。
「――え?」
振り返る少女の視界に大きな箱が飛び込んでくる。
エルクはなけなしの力を使って、少女と箱の間に飛び込んだ。
「――グァっ! グ、ギギ」
背中にめり込む箱をやっとの思いで押しのける。
「だ、大丈夫っ!?」
「だ、大丈夫だ。い、いいからさっさと入れ」
少女を押し込むようにタルに入れると、自分も入り蓋をしっかりとしめた。
次の瞬間――――大きな音とともにタルが海へと投げ出された。
体を打ち付ける衝撃と、海に飲み込まれたのだろう、痛いほどの耳鳴りがする。
エルクはそこで、完全に意識を失った。
***
・・・み、ず・・・みず、を・・・。
臓腑に業火を宿したかのような苦しみ、火かき棒にのどを抉られる程の渇きに、もう身も心も耐えられそうになかった。
身体を動かそうとしても、縛り付けられているかのように指一本動かせそうにない。
船にいる時点で、いつ死んでもおかしくはなかった。
エルクはすでに、すべての力を使い果たしていたのだ。
――もう、本当に、空っ欠だ、な・・・。
瞳を開くことさえもうできそうにない。
――せっかく、逃げ出せたのになぁ。
目を閉じているにも関わらず、視界の中に闇が生まれた。
この闇に覆われたとき、自分は息絶えるのだろうと思った。
――結局、ぜんぶ・・・無駄だったかぁ。
――ちちう、え・・・いま、おそば、に・・・。
ふと、唇にやわらかいものが押し付けられ、ひんやりとした感触が口の中に流し込まれた。
それが何かと疑問に思うことすらなく、本能のままにそれを嚥下した。
一瞬、のどの痛みがやわらいだ。
そして、もう一度。
ゴクリとのどを鳴らし、それの正体にようやく気付く。
――み、ずか? み、ず・・・水だ!
目を見開いたエルクは一気に跳ね起きた。
視界を灼くのはまばゆい光。
肌を撫ぜるは新緑の風。
そして――耳に届くは小川のせせらぎであった。
「水だぁっ!!!」
そばで流れるのは水面輝くきれいな小川。そこにエルクは頭を突っ込んだ。
息をするのを忘れるほどに、大口を開けて冷たい水を飲み続けた。
――ゴクリゴクゴク・・・グビリっ!
口を潤しのどを通って胃に到達する冷たい感触に、エルクはしばし時を忘れた。
途中で息つぎを二回ほどはさみ、顔をあげる。
そのまま仰向けに転がり、ようやく気付いた。
自分はやっとあの地獄から、逃げ出せたのだと。
「は、はは・・・」
「逃げれ、たんだ・・・」
「やったぞおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉおっ!」
両手を突き上げ、エルクは叫ぶ。
心を満たすは解放感、足枷も首輪も、もう自分には身を縛るものなど何もついていない。
自分を虐げる者もどこにもいやしない。
これでようやく自分は自由だ。
もう二度と捕まってやるものか。
幸いここは森の中、隠れる場所には困らない。
そして、ふと気づいた。
「・・・森の中?」
自分は海に逃げたはずなのに、目を覚ますならタルの中が正しいはずである。
「だ、だいじょうぶですか?」
「うわっ」
突如声をかけられ、エルクは身を起こした。
そこにいたのは一人の少女であった。
森の命を凝縮して内包したかのような、腰まで届くツヤのある緑色の髪。
横に突き出た細長い耳。
そして、熟練の名工が丹念に作り出したかのような精緻に整えられたその美貌。
泉に溶かし込んだヒスイのような瞳はぱっちりと開かれ、エルクをうつす。
葉から零れ落ちる木漏れ日を浴びるその姿は、まるで天の寵愛を受けた女神のような神秘的な雰囲気まとっていた。
「・・・・・・」
「あ、あの?」
「え? あ、ああ。すまぬ。そなたがここまで運んでくれたのか。礼をいう」
少女の姿に見とれていたとはとても口には出せず、取り繕うように早口でまくしたてた。
そして、ようやくあの船で一人の少女を助け出したことを思い出した。
「そんな、助けられたのはこちらの方です」
「その、余も見るのは初めてなのだが、そなたはエルフか?」
その言葉にエルフの少女はびくりと身を震わせた。
「だ、だったら何ですか」
「待て。別に捕えようなどとは思っておらん。そこまで怯えるな」
「・・・うぅ」
その瞳はいまだ懐疑的な光が宿っている。
それも仕方ないことだとエルクは思った。
百年ほど前に人が大陸を支配してから、エルフや獣人といった亜人種は差別や迫害を受け続けている。
特にエルフ族は迫害などといった次元ではない。
その美貌と種族ゆえの特性のため、乱獲され続けていたのだ。
いまや絶滅したとまでいわれている超希少種族、それがエルフ族であった。
普段は森の奥深くに隠遁しているおり、そこから出ることはほとんどない。
そんなエルフが奴隷船に捕えられていたのだから、故郷で何があったのかは想像に難くない。
「・・・どうして」
少女はつぶやく。
「どうして人間は私たちを傷つけるのですか、森で静かに暮らしたいだけなのにっ、誰にも迷惑なんてかけてないのにっ、
どうしてっ! どうして!」
エルクに詰め寄る少女の瞳は、怒りと憎しみと――――そして、深い悲しみに満ちていた。
「・・・すまぬ」
そんな言葉しか返せなかった。
しょせん人間である自分が何をいったところで慰めにはなるまい。
ハッと気づくように少女はエルクから離れた。
「ご、ごめんなさい。あなたがやったわけじゃないのに」
コホン、と気を取り直すように咳を一つしてから、少女は正座して向き直る。
「えっと、改めて。私はセリル、あなたの言った通りエルフ族です」
「そうか、余はエルク・ランクロット。
まあ知ってるとは思うが奴隷だ、いや今は脱走奴隷だがな」
「・・・人間は同じ人間でも奴隷にするのですね」
「ああ、そうだな。種族主義の亜人の者たちと違って個人主義が多いからな」
「愚かですね」
エルクはそんな少女――セリルの言葉に「そうだな」と小さくつぶやき力なく笑った。
言葉はとまり気まずい空気が生まれる中、うつむくエルクは違和感を感じた。
自分の背中に何かネチャリとしたものがくっついている。
服の上からそれを触ろうとすると、セリルがとめた。
「あ。ダメです。さっき薬を塗りましたのであまり触らないほうが――」
「見たのかっ!?」
セリルが言い終える前に、きついまなざしでエルクは叫んだ。
何を、とは問わなかった。
それでもセリルには分かったようだった。
沈痛な面持ちで、瞳に涙を浮かべながらもそれでも小さくうなずいた。
「・・・見ま、した。服を脱がせなければなりませんでしたから。そこはかなり酷い痣になってたので」
ここは木箱があたった場所だ。おそらく責任を感じて薬を塗ってくれたのだろう。
ここでセリルを責めるのは好意に対し仇で返すようなものだろう。
「そうか、怒鳴って悪かった」
「ヒッ、ゥ・・・ひど、い。どうして、こんなっ・・・こと」
両手で顔を覆い嗚咽をもらすセリル。
涙を流す理由は一つしかない。
他人の痛みに涙することができる、とても優しい心をもった子なのだろう。
「いや、エルフの手ずから薬を使ってくれるとはありがたい。確かに打ったところの痛みはあまり感じぬな」
少しでも空気を軽くしようとつとめて明るい声を出した。
これは薬草をすりつぶした軟膏のようなものなのだろう。
肩甲骨のあたりにピリピリとした痺れはあったが、痛みは確かに感じない。
「ええ、ちょうど近くに材料がありましたので」
「そうか。エルフは薬学に詳しいと聞くが、真であったか」
「フフ、捕まえるのに苦労したんですよ」
涙を拭いて、小さく笑う。
――ん? ちょっと待て、今おかしな単語が聞こえたぞ。
「川原の石の下とかによくいるんですよ。石をめくったら一目散に――」
「まて、その先はいい。言うな! 頼むから言うなっ」
片手を上げ制するエルクに、セリルは小首を傾げきょとんとしている。
とても愛らしい仕草であったが、自分の身体にはっつけられているものの正体を考えると、見とれる気分にはとてもなれない。
ただせっかく持ち直した空気を悪くするのも嫌だったので、このことについては考えないことにした。
そのほうが幸せだ。
「さて、これからどうするかな」
自己紹介も終え渇きも癒えたが、行くあてもなければ戻る故郷もすでにない。
そんなことを考えていると、グウウゥぅっ! と意外と大きな腹の虫が鳴いた。
「フフっ、そうですね、とりあえず食事にしましょっか」
「し、仕方ないではないか、食事などろくにしてないのだから」
「ええ。エルクは少し待っててもらえますか、何か取ってきましょう」
そう言ってセリルは立ち上がる。
「ならば余も――」
エルクもついていこうとしたが、止められた。
「ダメです、ここで休んでてください」
確かにいまだ自分は栄養失調の衰弱状態だ。立ち上がろうとしただけでめまいがする。
「む、わかった。待っている」
セリルは「はい」と頷くと森の中へと入っていった。
***
しばらくして――
「お待たせしました」
「おおー・・・お?」
大きな葉の上にのせられた色とりどりの果実にキノコ、野草に感嘆の声を漏らし、その後、下でうごめく小さな物体に疑問の声が漏れた。
「なんだこれは?」
エルクがつまむのは黄色のぶよぶよした親指大の幼虫である。エルクの指にはさまれモゾモゾと動いている。
「コモロゾ虫の幼虫です、こっちの赤いのがベルテントウ虫、これはミズバッタですね」
みんな美味しいですよ、と微笑みかけるセリルにエルクは頬をひきつらせた。
なぜか腹の虫が突然沈黙する。
人類の起源より昆虫を食す文化は至るところにみられる。それは何もおかしなことではないのだろう。
ましてやセリルはエルフ族。森の中を住処とする種族である。
森から出ることもなければ、広い農地を確保できない以上森にあるものを食糧とする以外にない。
昆虫食も当然の文化といえた。
「その、セリルは虫に詳しいのだな」
腹は空いていたがなぜか食欲が湧いてこないエルクは、そんなどうでもいいことを言ってみたりした。
「エルフ族の文化は昆虫によって作られたと言っても過言ではありません!」
突如張りのある声を出すセリル。
――む。何かやばいところに触れてしまったらしい。
「私たちは森に棲んでいます、色々な植物の栽培をしながら生活をしていますが、昆虫の生態についても詳しくなければならないのですよ。それはなぜか。昆虫は主に木の実や葉っぱを糧として、一方草木はそんな昆虫を受粉――つまり繁殖のための大事な仲間として共生しているのです。嗚呼、共生・・・なんて素敵な関係なのでしょう。互いが互いを必要とし、お互いなくしては生きてはいけない。まさに理想的な夫婦のような。私もいつか・・・」
いきなり詰め寄りつつもまくしたてるセリルは、頬を赤らめ言葉をとめる。
「さあ、食べてください」
「う、うむ。そなたは食わぬのか?」
こんな少女が虫をバリバリ食べる姿は見たくないが、一人で食べるのも悪い気がした。
セリルは虫が好物のようだし、ここは分担して――
「私はさっき食べましたからいいですよ」
ここにあるのは全部自分用らしい。
上にある果実はともかく、下の方でうごめいているのは勘弁してもらいたい。
チラリとセリルを見ると「さあさあさあ!」とすすめてくる。
これが・・・カルチャーギャップというものか。
つまんだ芋虫、じゃなくコモロゾ虫の幼虫をおそるおそる食べてみる。
噛み潰した瞬間、どろりとした何かがあふれ出してきた。
「・・・っ!? ぅうっ!」
濃厚なチーズのような味がした。
「うまい・・・?」
「でしょ」
「何だろう、この問答無用の敗北感は・・・」
「何かいいましたか」
「いや、なにも」
とりあえず、エルクもセリルも森を歩き回れるほどには回復はしていない。
ここには水もあれば、食べるものもある。
二人で話し合った結果、体調が戻るまで森の中で生活することにしたのであった。