第27話 悪意のキャンバス
感想、評価ポイントをもらいました。本当に嬉しいものです。というわけでやる気スイッチが入ったので早めの更新。よければ小目汚しを。
頬を伝い、口元まで流れ落ちる血を舌でぺろりとなめ上げる。
べッ、と吐き捨てながらエルクは、ふらつく体を必死に支えながらも口を開く。
「ああっと、ど、どこまで話したか? そう、だ。そなたの気持ちはよく分かる、といったところからか。だがな、ここでこのまま居ても、何の先も無かろうよ。
どうだ? 自分の家を持ってみたくはないか? うまい食事を腹いっぱいに食いたくはないか? 愛する者と結ばれ家庭を持ちたくはないか?」
痛みに震え、朦朧とする意識の中で懸命に声と微笑を絞り出すエルクの姿に、ギルはただただ恐怖を感じた。
――そんなことが自分たちに許されるはずがない。
――そんな人間みたいな生活できるわけない。
――こんな自分たちが幸福になっていいわけないじゃないかよぉっ!
自分の心に滑り落ちるようなエルクの言葉をギルは懸命に否定した。
もし信じて裏切られたら、自分はもう決して立ち直ることはできないだろう。
それだけはあってはならない。この子たちを守ることが二度とできなくなるのだから。
「な、何がわかるってんだよっ、俺たちがどんな思いで今まで生きてきたかっ、どれほど苦しい目にあってきたかっ、おめえみたいな奴に何が分かるってんだよ!?」
「分かるとも。余もかつて奴隷の身であったのだから、な」
口元を悲しげにゆがめ、自嘲気味につぶやいた。
「飢える辛さも、理不尽な暴力に晒される痛みも、仲間を守れぬ悔しさも。そなたの気持ちはよく分かる」
「騙されるもんかっ! お前みたいな奴が奴隷であったはずがねえっ! 奴隷になった奴がそんな夢みてえなこと言えるわけねえだろうがっ!」
そんな言葉にエルクははじめて微笑みを消した。
「……分かった」
代わりに浮かんだものはとても、とても悲壮な顔であった。
それはまるで己の身を今から切り落とす、それほどの苦渋の決断を下すかのような顔であった。
「ならば――――証を見せてやろう」
そう言うとエルクは己の上着に手をかけ、一気に脱ぎ放った。
ヒラリと宙を舞って落ちゆくシャツが、ファサリと軽い音を立てた瞬間、倉庫の中に子らの悲鳴が響き渡る。
「う、うわあああああああああああっ!!」
ギルもまた声にならぬ悲鳴を上げて、エルクの身体を凝視する。
胸元から下腹部にかけ剥がされた皮膚は、赤黒く膨隆し、異様なまだらの模様となっていた。
腹や肩口に刻まれた文字や図形の刻印は、きっと焼きごての跡だろう。焼き潰されたその傷は、皮下の肉まで焼き焦がし真っ黒に炭化していた。
身の内に幾匹ものヤスデが這っているのでないかと思えるほどの、多くの深い切り傷はエルクの身体を縛り付けるように覆っていた。
それは悪意という名の画家が、人の身体をキャンバスに、剣や炎を筆としてめちゃくちゃに書きなぐったかのようなものであった。
人とはこれほどの悪意を秘められるものなのか。
人とはこれほどの悪意を受けてなお、生きていられるものなのか。
子らの重なる悲鳴、胃の中を吐き出す音さえも聞こえくる中で、ギルはペタンと腰を落とした。
「な、なんだよそれは、なんなんだよそれは……」
叫ぶ気勢は、すでに残っていなかった。かろうじて絞り出した声に、エルクは答えた。
「言ったであろう、余は奴隷であったと。この剥がされた皮膚は奴隷時代、脱走に失敗した時に受けた罰だ。縄で吊るされ、他の奴隷たちの目の前で一枚一枚剥がされた。気を失っても無理やり起こされ悲鳴をあげさせられた、見せしめのためにな」
エルクは次に肩口に刻まれたいくつもの文字や図形の形に盛り上がった跡を差す。
「これは、罰でも何でもないな、ただ家畜用の焼きごてができた時に試し打ちされたものだ。字がきっちり反転しているかどうかを確かめるためにな。笑えるだろ? そんなものそこらの板切れで十分代用できるのにな」
エルクが次に出したのは左手であった。そこにはすでに指が四本しかない。小指が根元から欠損していたのだ。
「この指は……いや、このなくなった指と言ったほうが正しいか。鉱山で働いているときに落石につぶされた。何の補強もしていない坑道だったからな。潰れたときに悲鳴を我慢できたのはある意味奇跡だな、唇を血が出るまで噛み締めて何とか我慢できた」
大声を上げていたら、きっとそのまま生き埋めだったろうな? と、エルクはわずかに目を閉じ、何かに堪えるかのように唇をかみしめた。
「棒で打たれて折られた骨は歪んだままに癒合した、刃に刻まれた痕を思うと今でも恐怖が沸き上がる、気が狂いそうになるほどに。腹を蹴られ続け、血の小便が止まらぬ夜が幾日も続いたこともあった。本当に辛かった、幾度死のうと思ったか分からぬほどだ」
エルクは悲し気な瞳で、己の体に手を当てそっと撫でおろした。
「もはやこの身は二度と元には戻らない。今でも悪夢にうなされる、当時のことを思い出すだけで胸が張り裂けそうなほど苦しくなる」
今までずっと目を逸らしていた、気づかないふりをしていた。もしかしたら捕まった子供たちは優しい人の所へもらわれたのかもしれない。
そんな甘い希望を捨てきれずにいたギルの淡い思いは、エルクによって粉みじんに打ち砕かれた。
決して見たくなかった自分たちの未来。死よりも苦しい明日が、とうとう形をもって目の前に現れたのだ。
ギルは、必死に首を巡らせエルクの身から視線を外そうとするが――。
「目を逸らすなっ!!」
エルクの一喝によって、止められた。
「奴隷の命は、灰より軽い」
こちらをただまっすぐに見つめてくるエルクの瞳から、ギルは視線を外すことができなかった。
「貴様は……貴様はずっと、ずっと恐怖に苛まれる一生を過ごしたいのかぁっ!」
そんなエルクの激情が噴出するかのような叫びに、ギルの身体はビクリと震えた。
「答えよギル。これがそなたらに示された道だ。本当にそれで良いのか?」
いやだ、いやだ、こんなのいやだ、とただ首を横に振り続けるギルにエルクは一歩ずつ近寄った。
「それでも余は未来を諦めたくはない。うまい飯を食べ綺麗な家で暮らしたい。友と酒を酌み交わし、愛する者と結ばれたい。そう思うことは許されぬことなのか?」
そしてまた一歩ギルへと近づいていく。
「――――国を興すぞ」
「く、くに……?」
「ああ。出自も種族も関係ない。その地を愛し、未来を望み、優しき心を持った者たちだけが暮らせるような、そこに住む者みなが笑い合って暮らせるような、そんな楽土をこの手で築くっ!」
どこまでも尊大に、真っすぐに己の夢を叩きつけてくるエルクの姿に、ギルは恐怖では無い何かにその身を震わせた。
「余がそなたらに違う未来を見せてやる。そなたらの望む明日へと導いてやる。だから――――ともに来いギルっ!」
近寄るエルクから少しでも遠ざかろうと腰を落としたまま後ずさるギルの背に、バリケードが当たった。
「な、なんで俺なんかにいうんだよ、俺、お、俺あんな酷いことしたじゃねえか、他にも悪いこといっぱいしたんだ、俺は優しさなんてもってねぇ。そんな俺にどうしてそんなこと言うんだよぉ」
――信じてはダメだ。きっと最後は騙される。そうなったら誰があいつらを守るっていうんだ。
そんな思いが体を突き動かしたのか、嗚咽の混じる声で懸命に立ち上がりながら、声を絞り出した。
もうこれ以上近づいてほしくなかった。これ以上聞いていたら自分でも夢をもってしまいそうだ。
そんな叶うはずのない夢をもっても苦しいだけだ、何よりこんな自分に夢を持つ資格なんてあるはずないのに。
――しかし。
「そなたに罪など何もない」
突如かけられた言葉は、今までで一番優し気な声音。
細めた瞳はまっすぐに、この身をいたわってくれていることがストンと心に落ちるように理解できるような、そんな眼差しであった。
「……え?」
思わずきょとんとするギルの顔が面白かったのか、小さく笑いエルクは告げる。
「守りたかったのだろう、己と同じ境遇の者たちを」
「見捨てられなかったのだろう、自分以外に頼るものなき幼子たちを」
「そなたは守るべきを守らんとしただけではないか。そんなそなたを責める言葉を余は持たぬ」
「――そなたはただ、誰よりも優しかった。それだけのことではないか」
「……っ!」
エルクはすでにギルの目の前まで迫ってきていた。その黒き瞳に映るのは慈悲なる光。
あれだけの暴行を受けてなお、その瞳には怒りも憎しみも、何の影をも映してはいなかったのだ。
「もう、良いのだギル、そんな小さな身でどれほどの荷を背負えるというのだ?」
ギルの方へと両手を伸ばし、そっとその身を己の胸へと抱き寄せた。
抵抗することはできなかった。
「よくぞ耐え抜いた。よくぞ生き抜いた。よくぞ守り抜いた」
頬に当たるはいびつな感触。
「よく、今まで頑張ったな」
正視に堪えぬ醜き身体。
「――――大儀であった。褒めてつかわす」
それでも。
それでもその胸は温かかった。
優しさという名のぬくもりが、確かにそこにあったのだ。
ギルの手から木剣が滑り落ち、床へとあたり小さな音をたてた。
「……っ、ぅ、うぇえ……っうあアァあアァァっ」
ずっと堪えていたものが、ため込んできた何かが、ついにギルの中で決壊した。
うわんうわんと泣き声が満ちる倉庫の中に、カランカランと多くの音が響き渡った。
バリケードに隠れていた子供たちが、手にした石や棒を放り捨てながらその姿を見せたのだ。
赤毛の少女はおそるおそるといった表情でエルクへと尋ねた。
「あ、あたしたちもその村に行ってもいいの?」
「ああ。一人残らず来るがよい。歓迎しよう」
「もう誰もぶたれたりしない?」
「無論だ。そなたらに仇をなすもの、たとえ神とて許さぬよ」
「おうちに住んでもいいの?」
「ああ。ただし綺麗に使うのだぞ。そなたらの家なのだから」
出てきた子供たちの問いにエルクは一つずつ答えていく。
そのたびに子供たちの顔には笑顔が満ちていった。
エルクはそんな子らの笑顔を愛おし気に眺めてから、振り返った。
振りかざしたその手をラグアスへと向ける。
「ラグアス・シャイルークっ!」
ラグアスは双眸からあふれ出る涙を拭うこともなく、頬をしとどに濡らしながらも、胸に手をあてひざまずいた。
「控えて、おります」
「ランクロットの名において命ずる! 衛士たちに伝えよ。この町の孤児たちは七日後村へ連れ帰る、それまで決して手を出すなと」
威厳に満ちたその声音、絶対たる格を有した、自信と風格に満ちたそれは、まさに王者の姿であった。
「はっ!」
「そして、もう一つ」
エルクは周囲の子らに微笑みを向けながらこう告げた。
「――今すぐこの子らに、あたたかい食事を」
「はい……っ、はいっ! 御下命、謹んでっ」
言うが早いか倉庫から飛び出していくラグアスの姿を満足げに見やると、エルクは子らへと顔を向けた。
「よし、ここでそなたらは待っておけ。今聞いたように食事を用意しているからな。今日はたっぷり食べて身を休ませよ。余は少し席を外さねばならんようだが、すぐに戻ってくるから心配するな」
子らの歓声が沸き上がる中、ランドはエルクの方へと歩み寄っていく。そんな気配に気づいたかエルクはランドの方へと振り返った。
「賭けは、余の勝ちだな?」
「ああ、俺の完敗だ。おめえにゃかなわねえよ」
「う、む……あとは、まかせた、ぞ……」
エルクは少しだけ自慢げな笑みを浮かべると、声もなくそのままランドの方へと倒れていった。
「お、おいエルクッ、しっかりしろ! まさか席を外すってこれかぁ!? よくそんなこと言える余裕あったなおめえはよぉっ!」
「ランド、エルクを私の家まで運んでちょうだいっ! 私はお医者さまを呼んでくるからっ。ほんとに『何がすぐ戻ってくるから心配するな』よ、もっと自分の心配をしなさいよね!」
叫びながらも突っ込みだけは忘れることない二人は、慌ただしくエルクを担ぎ上げそのまま子供たちの残る倉庫を後にしたのだった。
ここまでお読みいただいたみなさまに心よりの感謝を。
まだ続きます。