第26話 赤い微笑み
――明日など来なければいいのに。
いったい何度思ったことだろう。
腹の虫が鳴く度に、仲間の誰かが捕まったと聞く度に、人を襲って金品を強奪する度に。
いったい何度そう思ったことだろう。
汚泥に浸されたような疲労と飢えの中、倉庫の片隅でギルは、瞳を閉じて横たわっていた。
自分がまだ幼いうちに父は戦で亡くなったと聞いた。母は自分を養えないことが分かると、買い物に行ってくると言ってそのまま帰ってこなかった。
家は借金のかたに取られ、自分はその時になってようやく捨てられたのだと気づかされた。
――なんで、俺ばっかり。
もう何もかもどうでもいいと思う。このまま目覚めなければどれほど幸福なのだろう。
どうせ起きたところで何も良いことなんてあるはずないのに。
それでも起きないわけにはいかなかった。
自分を頼る、いや、自分しか頼る者がいない者たち。親を失い、捨てられ、かつての自分と同じ虚ろな瞳をした子供たちだ。
この子たちを見捨てることはどうしてもできなかった。あんな女と一緒になるのは死んでも嫌だった。
そんな自分でも、たまに夢に見るのだ。
街角で見かける自分と同じ年頃の少年が、親に頭を撫でられ嬉しそうにしている姿を。
そこに自分の姿を重ね合わせながら、よく頑張ったね、と褒められる姿を。
あり得るはずがないのに、こんなにも罪を重ねて褒めてくれる者などいるわけがない。
「……くそ」
瞳の奥にこみ上げる何かを、必死に抑え込むギルの耳に、少女の慌てた声が飛びこんできた。
「ギルっ起きて、大変よ!」
瞬間ギルは飛び起きる。眠気もすべてが吹き飛んだ。
目の前には血相を変えた一人の赤毛の少女、サリアがいた。
自分と同じようにこけた頬、十二歳という年の割にやや大人びた雰囲気があるのは悲壮な人生の体験ゆえか。
ギルにとって最も長い付き合いの少女であった。
「なんだっ、衛兵でもきたのかっ!?」
「ちがうっ、衛兵じゃない、前に襲ったことあったじゃん。黒いヤツ、あいつが来たの」
「ああ、あん兄ちゃんか。衛兵はいないのか?」
「う、うん。けど爺とおっきなやつと女の人を連れてきてる」
「……ちっ、仕返しか。うっとうしいな」
報復にしては妙な面子だとは思ったが、どの道やることに変わりない。ギルはそのまま立ち上がると、近くに置いてあった木剣を手に取った。
「全員武器を持って持ち場についてろ、俺が追い返す」
――叶わぬ夢を見たところで銅貨一枚にもなりゃしねえ、どんなことしたってこいつらを守んなきゃなんねえんだっ!
決意とともに手にした木剣を力強く握りしめると、扉の開く重い音が倉庫の中に響き渡ったのだった。
*
倉庫の中は以前見た時とは様子が一変していた。
閑散とした倉庫であったのだが、その中央付近に木箱やどこからか拾ってきた瓦礫が無造作に積み上げられており、バリケードが築かれていた。
人の影は見えないが、後ろに隠れているのだろう。気配と息遣いはそこら中からうかがえる。
「古びた空き倉庫がずいぶんと様変わりしたものだ、それだけ重要な拠点として使っていてくれたわけだな。嬉しいことよ」
エルクは振り返ると、扉の外に立っていた三人へと声をかけた。
「余に何があろうとそこから先に入ることは許さぬ、従う自信がないならば今のうちにここから立ち去っておけ」
「あいよ、できりゃ俺が奢ることを期待してるよ」
「フフ、そなたが破産するまで奢らせてやるとも」
「け、けどエルク」
不安げな顔を見せるオルガ、しかしエルクはオルガではなくラグアスを見据えた。
「シャイルーク様、先ほどの約束どうかお忘れなきよう」
「無論」
ラグアスはエルクの言葉にしっかりとうなずきを返す。
エルクは再び倉庫へと向き直り、口を開いた。
「我が名はエルク・ランクロット。フィオーク村が長である。代表となる者あらばお目通りを願いたい」
*
「来るんじゃねえっ!!」
バリケードの後ろから様子をうかがうギルは、エルクと名乗る男が瓦礫の前まで来るのを待ってから叫んだ。
他の子供たちが手にしているのは拳大の石や、瓦礫の破片であった。この距離まで近づけば小さな子供でも投げ当てることは可能だろう。
痛い目にあわせて追い返す、そんなギルの思いはエルクの言葉によって止められた。
「ほう、その声覚えておるぞ。余を襲った子らのリーダー格の少年の声だ。確か名は――――ギルだったな?」
「っ!?」
あの時確かに名前は呼ばれたかもしれない、しかし自分はまだ顔を見せてもいない。
たった一言叫んだだけで、その声音のみで自身の名を当てられたことに驚愕を禁じえなかった。
――半年以上も、前のことだぞ。
エルクはそんなギルを見透かすように、薄い笑みを浮かべた。
「どうした、随分と驚いているようだが。まあそんなことはどうでもいい。今日はそなたらに用があってきたのだ、顔ぐらい見せてはくれぬか?」
「うるせぇっ! もうあんときの金なんて銅貨一枚残っちゃいねえぞ」
「構わぬよ。余が欲しいのはもっと価値あるものだからな」
「ここにそんなもんねえよっ! 俺たちは何も持ってねえ、持ってるわけねえだろうがっ!」
「いやいやあるとも。値千金、余が何よりも欲するものをそなたらは持っておる、ぜひともそれを貰いたいのだ」
「――――そなたら自身を、な」
「クソっ! てめえ人買いか、誰が売られるか、誰一人てめえなんかに渡さねえぞっ」
たまらずギルは瓦礫の後ろから飛び出した。
「ようやく姿を見せたな。久しぶりだなギル、元気……そうではないな。食事は取れてるわけもない、か」
もう二日も何も食べていない、空腹でふらつく身体を必死に怒りでつなぎとめギルは真っすぐにエルクを睨みつけた。
黒目、黒髪、褐色の肌。中性的な整った顔立ちには不釣り合いなほど強い眼差しがあった。
「なれなれしく呼んでんじゃねえ、こんな体でもてめえをぶちのめすことぐらいできんだからなっ」
「てめえではないし人買いでもない。エルクだ。こっちはなれなれしく呼んでもらっても構わぬよ、敬意をこめて村長と呼んでもらっても一向にかまわんがな」
なりたての新米村長だがな、と小さく笑うと何も持っていないことを証明するように両手を広げた。
「争う気はない、話を聞いてはもらえぬか?」
「話? 俺たちが欲しいって言われてほいほいついてくわけねえだろうが、どうせ奴隷市にでも売っ払うつもりなんだろうが」
ギルは剣を握りしめた。
「ふむ、言い方が悪かったな。そなたらを欲しいと言ったのは我が村へと移住してもらいたいからだ。村は以前賊共に襲われてな、今は生き残った数人の子供たちがいるだけなのだ。家も畑もあるのだが人手が全く足りておらん。だからこそそなたらの力を貸してもらいたい」
そんな言葉にギルの頭は沸騰しそうなほどに怒りが沸き上がった。
子供を欲しがっている家庭がある、新しい孤児院ができた、そんな言葉にいったい何度騙され、仲間が連れていかれたことか。
その仲間が路地裏でボコボコに殴られ、事切れた姿を見たのは一度や二度ではない。
「……ふざけんな」
「こちらは大真面目だ。フフ、まあ信じられぬのも無理はないが――」
こちらに向けて、好意的な微笑みを浮かべながら話しかけてくるエルクの姿に、かつて自分たちを騙した連中の姿が重なった。
ギリリ、ときしむ音が鳴るほどに木剣を握りしめた。
「ふざけんなぁっ!!」
振りかぶる木剣とともに一気に踏み込み、立ちすくむエルクへと全力で振り下ろした。
――ゴキィっ!
「グゥ……っ」
エルクの肩に振り下ろされたそれは、骨をきしませ鈍い音を響かせる。
思わず膝をつくエルクに、それでもギルは止まらない。
「誰がっ、そんな言葉をっ、信じるかよぉっ、どいつも、こいつも、俺たちを、みんなをっ、よってたかって……クソがぁっ、クソッタレがアアアアアアアアアアッ!!」
言葉とともに怒りにまかせ、木剣を振るい続けた。
エルクの肩に、背中に、頭に振り下ろされ続けるそれは、止まることはない。
「ぅ、がァ……うっ」
エルクは小さな悲鳴を上げながらも、決してそれを避けようとはしなかった。
うずくまるエルクは、それでも手をつき立ち上がろうとする。
「……ぐう、あぁ。ギ、ギル。そなたの気持ちはよく分かる、だが――」
「うるせぇってんだよ!!」
「――っゥ!?」
こちらを見上げるエルクの額に、全力で叩きつけた。
――カラン。
折れた切っ先が、乾いた音を立てて転がった。
決して細くないそれが折れるほどの勢いで頭部に打ち付けられたエルクは、ドサリと悲鳴も上げず倒れ伏す。
今の一撃で額が割れたのだろう、倉庫のひび割れた石床に、あふれ出す血が流れこんでいった。
「……ちっ」
手に残る嫌な感触に舌打ちを一つ。完全に沈黙したエルクを一瞥し、ギルは扉を見やった。
「おいっ、てめえらこいつの仲間だろっ! さっさと連れてけ。そして二度と戻ってくんなっ」
そこにいたのは、初老の男と若い娘、そして半亜の大男。
「エルクっ!」
エルクの名を叫び、倉庫に入ろうとする娘の首に、ピタリと剣先が突き付けられた。
「っ!?」
一瞬ギルも目を見開き、驚愕をあらわにした。
「と、父さん……?」
剣を突き付けているのはその娘の父であるらしい。
「殿下とは約束をかわしておってな。一つ『何があっても邪魔するな』、そしてもう一つ『何があっても邪魔はさせるな』とな」
「で、殿下ってなに言ってるの……、ううん、そんなことどうでもいいわ、早くエルクを助けなきゃっ!」
それでもオルガと呼ばれた娘の首筋に突き付けた剣を引こうとする気はないらしい。
「オルガ。そこより先に入ることはまかりならん、何があろうとな。そういう約束でついてきたのではなかったか?」
「そんなこと言ってる場合じゃ無いじゃないっ、エルクが、エルクが……っ! ねえランドっ、あなたエルクの友人でしょう、何とか言ってよっ!」
腕を組みつつ、事態を静観していたランドは、そんな言葉にポリポリと頬をかきながら告げた。
「うーん、まあそうだな。じゃあ言わせてもらうか。ギルって言ったな? おめえも運が悪ぃ、とんだ奴に目をつけられたな。同情すんぜ」
「はあ? 何言ってんだお前」
「俺らもほとほと手を焼いてんだよ。そいつの頑固さにはな。まあ簡単に言うとだな――――そいつ死ぬまで諦めねえから」
ランドの言葉に応えるかのように、ギルの足元から声が上がった。
「……気は、す、んだか? ギ、ル」
「――っ!?」
ギルは慌てて飛びすさる。
両手で地面をかきむしるように、打ち据えられた身体を懸命に起こすエルク。持ち上げた顔は出血で真っ赤に染まり、それでも、ただ起き上がるだけで逃げようとも抵抗しようともせずにこちらを見据えるエルクの姿は、ギルの理解をはるかに超えていた。
「な、なんだよ……何だってんだよ?」
先ほど幾度も打ち据えた中で、何本かは骨が折れるほどの手ごたえがあったはずだ。それでもエルクは荒い息をつきながら、激痛に顔をしかめながらも必死に立ち上がろうとしていた。
「ふ、ふふ、ふ。さすがは、わが友ランド。余のことを、よく分かってる」
「まあ一緒に死線を何度かくぐった仲だしなぁ」
エルクはそんな言葉に同意を示すように小さくうなずき、ギルへと再び顔を向けた。
「す、すまぬなギル。少し気を失っていたようだ」
気絶するまで殴った当人へ言う言葉ではない。
「あ、頭いかれてんじゃねえか、お前」
若干上ずった声でせめてもの強がりを言うギル。
「そうだな。血が止まらぬ位にはいかれているようだ、まあそんなことはどうでもよい」
あふれ出す血はエルクの頬から顎へと滴り落ちて、地面に赤い血だまりができていた。
「――――さあ、話し合いを続けよう」
そんな血に濡れた顔でエルクは、先ほどと全く変わらない優し気な微笑みを浮かべたのだった。