第23話 春が来たりて
ついに、食料が尽きた。
それでも、春はやってこなかった。
今は昼の最中であるはずなのに、閉め切った部屋の中にあるのは、暗闇と身体の芯まで突き刺すような冷気のみ。
いまだ吹雪は終わらない。
*
みなが暖炉の前で毛布をかぶり身を震わせていた。
誰もが起きている中で、それでも一言もしゃべる者はいなかった。
「……湯が沸いたぞ」
雪を溶かした鍋に匙を入れ、木のカップに注ぐ。
「無理にでも飲んでおけ、内から温めねば体に悪い」
セリルが毛布の中から腕だけを出して、カップを受け取った。
「ほら、ラナ。お湯ですよ。ゆっくり飲んでください」
胸に抱えたラナの口元に、ゆっくりとカップを近づけていく。
「ほんとに終わんのかね、この吹雪は」
同じように白湯を受け取るランドが、一口飲んだあとボヤくようにつぶやいた。
もう二十日近く外に出ていない。
すでに冬を迎え、百と十日を超えていた。
「もう少しで四カ月になりますし、すぐ終わりますよ」
セリルのそんな言葉にも、いつもの元気はとうにない。
「ああ。もうそろそろ――」
ロナにもカップを手渡した瞬間、ロナの手からカップが落ちた。
乾いた音を立て、こぼれたお湯が床にひろがり、白い湯気を放つ。
そして、エルクの言葉も終わらぬうちに、トサリとロナが倒れた。
「ロナっ!?」
「……は、ぁ……はっ……はぁ」
荒い息を吐くロナを慌ててエルクは抱きかかえた。すぐさま額に触れるとその表情が強張った。
「ひどい熱だな」
エルクは自身をまとっていた毛布と毛皮を床に敷きロナを横たえた。
「ランドっ、もっと炭をくべろ、部屋の温度を上げるんだ」
「お、おう!」
慌ててランドは炭を入れていく。ゆっくりとだが橙色の炭火は徐々に広がり、部屋の寒さがやわらいでいった。
「……もう、あと五日ももたねぇぞ」
ランドはエルクだけに聞こえるようにかすかな耳打ちをした。そんな声にセリルの耳もピクリと揺れる。
「ああ、分かってる」
エルクはそのままゆっくりと立ち上がると、一人二階へと上がっていった。
それほど時間を置かずに戻ってきたエルクの腕には小さな壺が抱えられていた。
「そなたらには少し滋養が必要なようだな」
「に、兄ちゃん、それなに?」
ロナを心配げに見つめていたレンツが、顔を上げる。
「――ハチミツだ。町に行ったときに少しばかり買ってきたのだ」
壺のまま鍋の中へとそれを入れる。
凍り付いた琥珀色の液体は、次第に溶け甘い香りを放つ黄金色の蜜へと姿を変えた。
薄暗い部屋の中に漂う芳醇な甘い香りは、みなの陰鬱な空気を一気に吹き飛ばすほどの魅力を帯びていた。
ハチミツが完全に溶けたところで、エルクはそれをカップに半分ほど入れ、そこにお湯を加えてかきまぜた。
取り出した匙にはトロリとしたハチミツが、糸を引くように垂れており、甘いものにはあまり興味のないランドでさえゴクリとのどを鳴らすほどであった。
「さあお飲み、ロナ」
ロナの口元まで持っていくと、ロナは力強くカップを手にはさみ、自らの口へと運んでいった。
「う、ふ、ふ。あま……いね。おいしぃ」
小さなのどを鳴らしながら、コクコクと飲み干すロナの頭をなでながらエルクは言う。
「そうか、もう一杯飲むか?」
「うん」
幾分か元気が出たのか、ロナは二杯目を勢いよく飲み干した。
「……なん、か元気でてきたよ」
「ああ。もうお眠り、起きたら少しは良くなっているさ」
「うん、ありがとお兄ちゃん」
ロナの安らかな寝息が聞こえてくる中、エルクは他のみなにも同じようにハチミツを与えた。
「なんか、お前まだ色々隠し持ってそうだな?」
エルクは不敵な笑みを浮かべ、自信ありげに答えてやった。
「さあどうであろうな。余も秘密が多い男でな。まあ心配するな、何かあったら何とでもしてやるさ」
小さな壺にためてあったハチミツ。あれがエルクにとって最期の食糧であった。
もともと厳雪期を想定して備えた食糧と燃料である。
しかし、この銀獄期の冬はあまりに厳しく、そしてあまりに長すぎた。
冬の異変を感じて用意できたものが、セリルの女の矜持を踏みにじって用意した地下畑だけだったのだから。
エルクにできた最後の仕事、それが節約につぐ節約であった。
部屋の中を生きるに足る最低限の温度のみ保つよう、意識がある限り火の番をした。
ランドが己の矜持を保てぬほどまで、限界の飢えを強いた。
それでも、それでもまだ足りなかった。
――もう、何も無かった。
食糧は完全に途絶え、燃料もあと五日ほど。
五日の内に冬が明けねば、自分たちはこの銀の牢獄の中で朽ち果てることとなる。
「フフフ。冬が明けたら、またそなたらに馳走を用意してやろうな」
それでもエルクは笑って見せた。
「い、いいのっ!?」
みなの不安を吹き飛ばすように、希望の灯を決して絶やさぬように。
「無論だ。起きたらロナにも言っておけ。またハンバーグがいいか? 他にも色々と知っておるぞ、ほっぺがとろけそうになるほど甘いお菓子の作り方までな」
「ど、どんなのがあるの?」
ラナは興味がわいたのか、食い入るようにエルクを真剣な瞳で見据えた。
「そうだな、プディングとかがいいかもな。ミルクと卵と砂糖を混ぜあわせて作るデザートでな。
それに匙を入れても当たったか当たってないか分らぬほどにやわらかくて、口に入れるとミルクの風味と卵の甘みが合わさって、それはもう……これ以上言葉では言い表せぬな」
ゴクリと生唾を飲み込む音が部屋へと響く。
「ハンバーグより美味しいものってどんなのがあるの?」
次にシドが訪ねてきた。
「ふむ。そんなものは山ほどあるがやはり肉料理がいいな。みなで食べるならバーベキューが良い」
「ば、ばーべきゅー?」
「ああ。鉄串に一切れずつ肉や野菜を突き刺していってな、自分の好きなものを焼いていく。もちろん肉だけでもいいしソーセージや魚の切り身などもうまいな。炭火でじっくりと焼き上げたあとは、それにソースをかけて、そこにガブリだ」
「ふ、ふーん、ふぅぅぅぅぅぅぅぅうううん!」
「やはり決め手はソースだな。果物や肉の油、香草などを煮詰めてな、さっきのハチミツよりもトロトロになったら出来頃よ。香ばしいほどに焼けた肉や野菜のうまさをさらに飛躍させる秘伝のソース。そうそう、酒にも合うのだそれが」
「ギ、ギョウザよりもか?」
続いてランドが会話に混ざる。
「さて、な。まあ余が言えるのは、そなたの中でギョウザ以上のものとなったとしても何ら不思議ではない、といったところだな」
グルルルルル、と獣の唸り声のような音がランドの腹から上がった。
「春が来たら食わせてくれんだなっ! そのバーベキューってやつをっ」
「おお、約束してやろう。そなたらの腹がはちきれるほど食わせてやろうではないか。我がランクロットの名にかけてな」
エルクは飢えた獣のような目をしたみなを見渡し、微笑みを浮かべた。
「――心配など、何もいらんさ。余には確かに聞こえるぞ。春の女神の足音がな」
「もう、すぐそこまでやってきている。春が来たらみなでピクニックに出かけよう。レンツ、この地できれいなところを知らないか?」
「きれいなところ?」
「眺めの良いところがいい、若草の生えるやわらかな緑の絨毯の上で、みんなで日向ぼっこをしよう。ランチボックスをもって」
「あ、あるよ、あるあるっ! 四人で遊びに行ったときすごくきれいな花畑の丘があった」
「うんっ、あそこ白くて可愛い花が咲いてるのっ、その丘を登っていくとね、遠くの山まで見渡せるの、下の方は大きな川が流れてて、近くにリンゴがなってる木が生えてるの! そのリンゴすっごく甘くておいしいんだよ」
「四人だけの秘密の場所だったけど、春が来たら兄ちゃんたちも教えてやんよ」
「そうか。それは実に楽しみだな」
エルクは安らかな寝息をたてるロナを優しく抱き寄せた。
少しでもロナにぬくもりを与えようと、己の胸に抱きかかえ優しく髪を梳いてやる。
「全員で春を迎えるんだ。一人も絶対に死なせない、断じて死なせやするものか」
吹雪の音は、どこか遠い。
***
そして、四日後。
数日前に口にしたハチミツの味はすでに彼方のものとなっていた。
飢えと寒さと、忍び寄る死の恐怖は時をも刻み、一秒たりとも無為なる時間を許さなかった。
たった四日、されど四日。
ただひたすらに耐え続けるだけの時間は、恐ろしいほどに長い。
エルクの唇は渇きいくつもの裂傷が生まれていた、口を開くたびにどこかが裂けた。
手足は重く、他人の手足かと思うほどに感覚が鈍い。
震える手を伸ばし、つかみ取ったのは最後に残ったたった一つの炭の塊。それを暖炉の中へと投げ入れた。
ランドも、セリルも、レンツたちも、誰もが床へと臥していた。
もう身を起こす体力も気力もすでに尽きてしまっていたのだ。
最後の一つは湿気っていたのか、火はつかず、そのまま暖炉の火は完全に消え、完全な暗闇が生まれた。
「……ふざ、けるなっ」
エルクはただ一人、つぶやいた。口が裂けるのも構わず声を張り上げた。
「死んで、たまるかっ! 死なせてたまるか!! おい起きろっ、全員で春を迎えるといったであろうがっ、目を覚ませ!」
エルクはふらつきながらも立ち上がり、ランドの胸元をつかみ上げた。
「ランドっ、起きぬか! こんなところでそなたを死なせはせんぞ」
「……ぁ、う。エル、クか。もう、ぅ、うごけねえ、んだ。最期に、バーべキューっての……食ってみたかった、な」
「情けないことを言うなっ! 食わせてやるっ、食わせてやるぞ! だから目をあけ――――ァゥっ!」
エルクもすでに限界を超えていた。ランドを持ち上げる力などとうになく、そのまま二人で床へと倒れこんだ。
倒れた衝撃でパラパラと壁の隙間に埋めた泥が落ちてきた。
「グ、ぅう……諦めぬぞ」
力の入らぬ細い腕、震える指で、それでも床を噛みしめた。
「セリルっ、目を開けろ。さもなければそなたをモヒカンにしてやるぞっ、スネ毛も胸毛もワキ毛もいわんや人には言えないところの毛まで刈り上げ、見るも麗しきバラ園を作ってやるからな! 誰もが一度は目にしたいと思わせる荘厳華麗なバラ園をっ! 入り口には大陸中の言語で、どこの毛で育てたか書いてやるっ、みなに知らしめるためになぁっ!」
「ぶち殺しますよっ!?」
たまらずセリルも立ち上がり、エルクを叩こうと腕を振り上げた。
――――パチン。
「……ふ、ふふ。それだけできれば十分だ、しっかり目を開けておけ」
頬に残ったあまりに軽い叱咤の感触。
「け、けど、もう……私も」
怒りにまかせて立ち上がった脚から力がふっと抜ける。
そのままエルクの胸の中へと倒れこんだ。
――ドスン。
セリルを抱き留めながらも支えることはできもせず、エルクはそのまま後ろへと倒れこんだ。
エルクの顔に、剥がれた泥がパラパラと落ちた。
セリルのあまりに軽くなった体を抱きしめながらも、エルクはかすれる意識をつなぎとめる。
「だ、ダメだ。許さんぞ……絶対に認めぬぞ」
手を伸ばす。
神に救いを求めるように。自身の命と引き換えにしてでもみなが助かるようにと涙をこらえて心で祈る。
不意に、天へと向けた手のひらに、奇妙な感覚が生まれた。
それはほんのわずかな違和感だった。
寒さと飢えにさらされ、ジンジンとしびれる手の中に、何かあたたかなものを感じたのだ。
「…………え?」
そっと手をずらす。
そこにあったのは白い糸のようなものであった。
エルクは身を起こし、天から垂れるその糸をすくうように、手のひらを差し出した。
――――それは、光であった。
「……あ、ぁああっ! ぅあああああああっ!!」
エルクはセリルの身を起こして、立ち上がる。
「おいっ! 起きろ。早く……外に、外に出るんだ」
うす暗い闇に浮かぶ数条の光の道に、エルクはようやく理解した。
ドン、と扉にその身を打ち据える。
風よけに詰めていた泥が、さらに落ちていく。そこからさらに光が漏れだした。
「あ、ま、まさか」
遅れて気づくセリルも、声を上げた。
ドン、とエルクは痛みも気にせず、扉に身体をぶつけ続けた。補強した扉はそれでも中々開かない。
しかし白き光は量を増し、部屋の中へと漏れ出してその輪郭を浮きだたせる。
扉の形に、くっきりと浮かぶ光と闇の残影に、起きたみなは理解した。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
叫びとともにエルクは最後に残った力で、扉を突き破った。
瞳を灼きつくさんばかりの陽光が、みなを襲った。
誰もが痛みすら感じる光の奔流に目をつぶった。
まぶたの向こう側に感じる数カ月ぶりのぬくもり。数秒、数十秒、目を閉じ、そして開いた。
輝く白き光に包まれたエルクの姿は、逆光に隠れよく見えない。
「――さあ出てこい、春の女神がお待ちかねだぞ」
それでも、あたたかな陽射しの中に立つエルクの影だけが、はっきりと瞳に映る。
その神々しいまでの姿は、春の光より何よりもみなの心に深く焼き付いたのだった。
***
いまだ雪は残っていたが、日に溶かされ表れた黒き土。そこには気の早い雑草が点々と生え始めている。
雪に照らされ反射した、春の女神の微笑みは、出てきたみなの身体を存分に抱きしめてくれた。
ドウドウと川から聞こえてくる水音、せせらぎというにはあまりにも重いそれは、遠くの山々の雪解けの証でもあった。
灰色だった空は、どこまでも高く、澄んだ青色を映す。
むき出した土色、芽吹き始めた新緑。そして晴れ渡る青空。
白一色だった季節はようやく終わりを告げ、色とりどりの命が芽吹く季節がやってきたのだ。
セリルは双子の姉妹を背中から力一杯に抱きしめた。
「お、お姉ちゃん、やったよ、春だよ!」「うん、すごいあったかい」
「ええ、ええっ。そうですよ、ようやく春を迎えることができたんですよ」
レンツとシドはたまらずランドに抱き着いた。
「やったぜランド兄ちゃん!」「すっげー綺麗な空だよ兄ちゃん」
「ああ、最高の空だ。感動すんな」
「あは、兄ちゃん泣いてんぞ、かっこわり」
「ば、バカ、泣いてねぇ、変なこと言うな」
そんな言葉を背に受けながら、エルクは膝を地につき、その身を震わせ胸いっぱいに春の空気を吸い込んだ。
そして、
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッッッ!!!!!!」
天地を破らんばかりの大音声が、高き空へと吸い込まれていった。
解き放たれた獣のような、ただ意志のみが込められた咆哮は、彼方の山まで飛んでいき木霊となってこの地を覆う。
いつまでも、いつまでも鳴りやまぬ鐘の音の如きそれは、不思議な響きとなって、山を、大地を、川を、森を包んでいった。
レンツたちもエルクの横まで駆け寄って、思い思いに大声を張り上げた。
ひとしきり叫んだあと、エルクは振り向き、ケホ、と小さな咳を漏らした。
「さあ、馳走の用意だ。手伝ってくれるな、皆のもの」
子供たちは元気な声でうなずき、笑顔を返す。
ただセリルとランドだけは唖然とした面持ちで、エルクを見つめていた。
驚愕を顔に張り付けたまま、春の感動さえも忘れたように、エルクを異様なものでも見るかのように。
「エルク。あなた、いったい……?」
そんなセリルのつぶやきが聞こえたのは、そして、その意味を正しく理解したのは、隣にたたずむランドだけであった。