第22話 銀の牢獄 〈後編〉
家にこもりどれほどの時が経ったのか。
地下室へ運んだ冬の蓄えはすでに半分を消費していた。
食事は一日に二回。わずかな干し肉と野菜の切れ端が浮いた粗末な塩のスープ。
暖炉に燃える炭火に小さな鍋を温めながら、みなは火を見る。
「あの熊こねえかな」
肉を思い出してかランドがポツリとつぶやいた。
「頭が二つあったってやつ? ほんとにそんな熊いんの?」
レンツがスープをちびちびと飲みながら、訝し気な視線を向けてきた。
「ほんとだぜ? 俺とエルクの二人で追っ払たんだからな」
「けどそれくらいあってもおかしくないくらいすごい声上げてたよね」
「うむ、あれは今思い出しても震えがくるな。セリルのおかげで助かった。感謝している、フフ、そなたには頭が上がらぬなぁ」
「剃刀のことですかっ。全然嬉しくありませんよ……ええいっ、そんな爽やかな笑顔にごまかされたりしませんからねっ! いい加減にしないとまた追い出しますよ、てかまだ持ってたりしませんよねっ?」
「無論だ。そなたの気持ちも考えず無礼なことをした。反省している」
「ほんと、ですかぁ?」
セリルの疑惑と呆れに満ちた瞳は、エルクの言葉を微塵も信じてはいなかった。
「ああ。つまりこういうことだろう。この時期、坊主は頭が寒い、だから春まで待ってほしいと――」
プチっ。
何かが切れた音がした。
「ちっきしょうっ! 表でなさいこの唐変木がっ、乙女の命を誰が体感温度で断捨離しますか!」
「セ、セリル姉ちゃんっ、ダメだよ、素が出てる」
「や、やめろセリルっ、毛布を剥ぐな、さむいさむいさむいっ」
「私は怒りで煮えたぎってますよー!」
毛布を取り上げようとするセリルに、必死に抗うエルク。二人の姿を見ながらランドはズズ、とスープをすすった。
エルクが言ったあの言葉が思い浮かぶ。
『もし来ないのだとしたら、それは新たな狩場が見つかった時くらいだろう』
あんな怪物に襲われたら並みの奴では相手にならない。あの図体じゃ食べる量も生半可なものではない。
小さな村なら全滅もありうる。
それを考えるとエルクが何が何でも仕留めようとしたことは理解できる。
しかし、それでもあの時エルクを止めたことに悔いはない。
自分の直感が言っている。
あの熊には勝てない。
長年の旅の中で危険な猛獣とも何度も闘ってきた。亜人の差別意識が強い土地では、奴隷にしようと襲ってきた不逞の輩ともやりあってきた。
いくつもの修羅場をくぐってきたそんな自分でも、あの大熊には心底恐怖し、手の震えをおさえることができなかったのだ。
あの時のことを思い出したランドは、寒さではなく恐怖によってその身を震わせた。
それでも、と思う。
そんな相手にもエルクは不退の意志を貫き、一撃食らわせ追い払った。
――こいつ、何だかんだ言ってもすげえよな……。
そんなことを思うランドの視界に、毛布を剥ぎ取られたエルクが、涙目でセリルに謝っている姿が映っていたのだった。
***
十日に一度は吹雪がおさまる日があった。
そんな時は、エルクとランドは森へ行き、枯れ枝や獲物を取ってくる。
獲物といっても雪ウサギやネズミといった小さなものだ。この時期は動物たちも基本は穴倉の中で身を潜めているから、見つけるのも一苦労だ。
何も獲れない日もざらにあった。
それでも時折出される新鮮な肉は、子らにとっては貴重なご馳走となった。
地下室に蓄えられている食料と燃料を見て、エルクはため息をついた。
「もってあと一か月、といったところか」
「足りそうか?」
「難しいな、この冬がいつ終わるかわからん。厳雪期であれば三カ月、ギリギリもつが、銀獄期となれば春も遅くなるだろうからな」
後ろで尋ねるランドにエルクは、固い声で返す。
「食事の量を一日に一回に減らそう。晴れた日はなるべく外に出て薪と食料の調達を行う。何とかだましてやっていくしかないだろうな」
「わかった、まあしゃあねえわな」
そんなことを言うランドの腹からグゥと大きい腹の虫がないた。
成長期の子供もそうだが、人より大きな体躯の持ち主であるランドは誰よりも飢えているのだろう。
その頬はこけ、顔色も血の気が薄れているようであった。
「大丈夫か? ランド」
「バーカ、心配すんじゃねえよ。そんなヤワな旅は送っちゃ来なかったからな」
ランドはそんな言葉とともに、階段を上って行った。
気丈な言葉を吐きながらも、その足取りはふらついている。
エルクはすでにランドの限界は近いことを悟ったのだった。
***
――はらが、へった……。
食事は昼前に食べた透明のスープがお椀に一杯だけだった。わずかな采をいくども咀嚼し、少しでも食べた気になろうとしたが無理だった。
時刻は深夜、空腹はすでに痛みにすら感じられる。決して慣れることのない緩慢な痛みはランドの心を疲弊していく。
暖炉の中に炭を一つ入れた。
パチパチと弾けほのかな明かりが移っていくのを見て、おいしそうだな、と思った。
他の者は少しでも体力を消費しないよう深い眠りについている。
「…………ぅ」
頭の中によぎるのは地下室にある食糧のことだった。
干し肉や燻製、乾物といった保存食。保存性を高めるために味を濃くしたそれらはランドの口内にあふれるほどの唾液を生んだ。
「はぁ……はぁ……」
息遣いが自然と荒くなる。ランドはいくつかの炭を入れながらおもむろに立ち上がった。
みなが寝ている中、ランドは足音を忍ばせ部屋から出ていった。
地下室に降りると、いくつも積まれた木箱があった。いくつかはすでにみなで空にしてしまった。
残りは、あと二箱。自分たちの命を握る木箱の蓋を開けた。
保存食とはいえ、様々な食物が長期間入れられていた箱である。こもっていたその香りは、どんな芳醇な酒よりもランドを狂わせた。
少しだけ、そんなことを心の中でつぶやいてみた。
冬を越せるよう家の補修もやった、子供たちのために大きなベッドも作ってやった。
この食糧だって自分が働いて手に入れたものだ。
少し食べたところで、誰にも文句は言わせない。
片手につかんだ干し肉を口元までもっていく。
『ランド兄ちゃん、見てくれよっ! この魚俺が釣ったんだぜ、すげえだろ。兄ちゃんに食わせてやっからな』
『このベッド大きいね、セリルお姉ちゃんと寝るとき落ちなくてすみそう、ありがと、ランドお兄ちゃん』
思い浮かぶはレンツたちの声であった。
半亜という人でもドワーフでもない、ロクに仕事もつけない半端者。そんな自分にもあの子たちはなつき、何の偏見もなく接してくれた。
「……ぐ、ぅうっ」
どれだけ他人から疎まれようと蔑まれようと、自身に恥じる真似は決してしてこなかった。
自分が自分を嫌いになったら、もう誰もこんな半端な男を好きにはなってはくれないだろう。
いつしか瞳からは涙が零れ落ちていた。
「うああ、ぁぁ、ああっ」
泣き声が響く。そして目の前にしたソレを早く食わせろとばかりに腹が鳴る。
空いた片手を振り上げて、自身の腹を思いきり殴りつけた。
「……グフっ、オ、オゥエ……ェ」
嗚咽をこぼし、うずくまる。
しばらくそのままの姿勢で息を整えたランドは、力なく起き上がり、震える右手に握った干し肉を袋へと戻した。
「……てめえらなんぞより、ガキの泣き声のほうがすきっ腹にはこたえるからな」
ランドは大きなため息をつき、振り返る。
「――――っ!?」
振り返る先、階段の扉のところにはエルクが腕を組んで、立っていた。
戸口に背を預け、こちらを眺める表情からは何を思っているかはつかめない。
「……人がわりぃなエルク。見てたなら止めろよ、危うく食い散らかすところだったぜ」
「フッ、そなたはそれほどやわな男ではないからな、心配など微塵もしておらんよ」
「買いかぶりだ、俺はそんなできたヤツじゃねえ。情けねぇ姿見せちまったな」
その時、はじめてエルクの顔に怒りが浮かんだ。
「撤回せよ」
「あん?」
「余が目にしたのは、極限の飢えに苦しみながらも、それに打ち勝つ気高き男の姿のみ。情けないなどと例えそなたであろうと言うことは許さぬ」
「現に見てたろうが、盗み食いしようとしてたところをよ」
「うむ、しかと見た。それでも思いとどまったそなたの姿をな」
「…………」
返す言葉は見つからず、ランドはまっすぐに見つめるエルクの視線から顔を背けた。
「怒ってねえなら忘れてくれ。俺はもう寝るからよ、火の番は任せたぜ」
「まあ待て。そなたに少し手伝ってほしいことがあるのでな」
エルクは部屋の中へと歩み寄り、その場にしゃがみ石畳に手をかけた。
「話は変わるがランド、この大陸に存在する最上の肥やしとは何だと思う?」
「ほんとに唐突に変わんだな」
そんなことをつぶやきながらも、ランドは答えた。
「そりゃエルフの血肉だろ? 数人埋めれば砂漠も森に変えることができたとか聞いたことがあるからな」
「ああ、正解だ。ではエルフ以外では?」
ランドは少し悩んでから答える。
「クソだな。人でも獣でも食うもん食って出したやつは良い肥料になる」
「そうだ。生物の排泄物は作物を育てるための最良の肥料。ではそれがエルフ族のものであればどれほどの効力を発揮するのか、考えたことはあるか?」
「まさか……」
「答えはこの下にある」
そう言ってエルクは手にかけた石畳をゆくりと持ち上げる。
ズズ、と重い音を立てて持ち上がる石床の下には、黒々と光を放ち、まるで日の光と上質な水をたっぷりと吸い込んだような土が顔をのぞかせた。
「村に帰ってラナに聞いた。セリルがいつもどこで花を摘んでいるかをな」
「……うわぁ」
ドン引きしているランドには構わずエルクは得意げに続け、そのやわらかそうな土の中に手を突っ込んだ。
「何カ月もの間、エルフ族たるセリルの排泄物をしみ込ませた最上の土。それをこの地下室の床下に混ぜ込んだ。根菜類の種などと一緒にな」
取り出したエルクの手に握られていたのはランドの拳ほどもある丸々としたジャガイモであった。
「光も水もやることはできなかったがこれほどまでに育つとは……エルフの異能とは恐ろしいものよ」
「俺はおめえが一番恐ろしいよ?」
――――セリルが知ったらマジ殺されるんじゃないかな?
「まあここにはセリルの血もかなり混じっているがな」
「どういうことだ? セリルが血をくれたのか」
「いや、違う。セリルが女であってくれて助かった」
そんな言葉でランドは瞬時に答えにたどりついた。
「――――そうかっ、生理かっ!」
「その通り。村に戻ってから家にこもるまでの間に月のモノがきてくれて助かった」
ドヤ顔で言いながらもエルクは次々にイモ、ゴボウ、ニンジンといった数種の作物を取り出していく。
「ランド、そこの床石も剥いでくれ。そこには自然薯を植えたからな、折らぬように掘り出そう」
「任せとけっ!」
二人は嬉々として床石を剥ぎ、その下に埋まった野菜を掘り出した。気分はまさにゴールドラッシュだ。
ほのかな温もりすら感じるしっとりとした土に手を入れていると、今まであった飢えさえあまり感じない。
感じないったら感じない。それは決してちょっとアレな臭いが食欲を奪っているわけではない。ないったらない。
しばらくして、地下室の一角に新鮮な野菜の山が積みあがった。
「今日ぐらいは腹いっぱいに食おうではないか。みなの気力も随分萎えた、たらふく食えば少しは気も持ち直すであろうからな」
「ああ、楽しみだ」
ランドは食事への期待と後ろめたさと、そして深い感謝を込めつつエルクへと告げた。
「……あんがとな」
「さて、何のことだか、な」
この件はエルクの胸の内にしまっておく。いや無かったこととして処理するつもりなのだろう。そんなエルクの思いに不覚にも涙が出そうになった。
そんなランドを背にエルクはカゴに野菜を多めに入れて、部屋から出ようと振り返り、ピタリとその動きを止めた。
「あ、あわわわわ」
カゴは傾き、ドサドサと野菜が零れ落ちていく。
驚愕と恐怖に染まるエルクの視線をランドはおそるおそると追いかけた。
開けられた扉のわきから覗いているのは、セリルの顔の半分だ。完全に真円を描いた瞳にあるのはまさに虚無。
怒りも憎しみも絶望も、すべてを超越した者のみが浮かべられる一切の感情を排したその昏い眼差しは、見るものすべてを畏怖たらしめた。
――――カリカリ。
戸口に伸ばした手は何を思うか、爪をたててひっかいている。爪の先がひび割れ、欠けてもその所作はさらに勢いを増していく。
――――カリカリカリカリカリ。
「……ゆ、許せセリル、そなたに黙ってこんなことをした我らのことを」
「ちょっと待てっ! 何が『我ら』だっ、完全にお前の単独犯だろうが!」
――――カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリっ。
「馬鹿なっ! 我が計画の最も美味しいところに深く関わっておきながら何を言う、そなたも立派な共犯者ではないかっ!?」
「ち、違うっ! 俺は何も知らなかった、知ってりゃ止めてたっ、ぜってーだ!」
「戯言を! みなの目を盗んで盗み食いしようとしていたのはどいつだっ。セリルっ、この者が我らの食料を勝手に食べようとしていたのだっ! もし罰するならこの者から先に――――」
「てめえっ! それは言っちゃなんねえだろがっ、クっソォ、感動して損したぁぁぁーー!」
――――ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ。
「セリル、その爪をひっかくのは止めてくれ……ほ、ほんとに怖いから、本気で怒ってるっぽいから。な、なあセリル?」
「そ、そうだぜ。取り合えずあいつら起こして飯にしようぜ。あいつらだって腹空かしてるし、おめえもそうだろう?」
――――ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリィっ!
「「せめてなんかしゃべれよぉぉぉぉーーーーーーーーーーっ」」
期せずハモった二人の叫びは、狭い地下室に響き渡ったのだった。