第21話 銀の牢獄 〈中編〉
「――ええ、外に何かいます」
ゴウゴウとうなる吹雪の中、セリルのそんな言葉にエルクの顔が強張った。
こんな凍てつく世界の中で、動くものなどいはしない。
少なくとも人ではない。
「余が見てくる。セリルは皆を起こしておけ」
「ランドも一緒に連れていった方が……」
「心配いらん。おそらく獣だ、少し見てくるだけだからな」
コクリとうなずくセリルを見て、エルクは壁に立てかけてあった剣を手に取り、二階へ上がる。
木窓を開けるやいなや大粒の雪が吹き込んでくる。身を切り裂くほどの烈風にこもった熱が一瞬で奪われた。
「あまり、長くは保ちそうにないな」
そう毒づきながら、エルクは窓から身を乗り出した。
風は幾分か弱まり、何とか目を開けられる程度までおさまっていく。
頼りない月の光が周囲の銀色の世界を、わずかに照らした。
「こんなに積もっておったか」
雪はすでに一階の玄関の扉を半ばほどまで埋め尽くしていた。
エルクが屋根を伝って音の出た方へ回り込む。
「――っ!?」
気配を感じエルクは振り返る。
あまりに澄んだ漆黒の空を彩る星空の中、横一列に並んだその四つのきらめきは、明らかに意思を持っていた。
それは禍々しいほどに紅く、雄々しいほどに強烈な意思を。
それが、瞳の光だと気づくのに一瞬遅れた。
「グァっ!」
咄嗟に構えた剣に鋭い何かが叩きつけられた。
ガギン、という音とともにエルクの身体が吹き飛ばされる。
凍てついた雪面を幾度もバウンドしながらも、何とか剣を雪面へ突き刺し体勢を整える。
エルクは見上げる。
その異様なまでの威容を。
その異常なまでの異形を。
月の光を浴びた白銀色の毛皮は雪の女神が如く輝いて、黄昏よりもなお紅き四つの瞳は狂えるほどに美しい。
腰まで埋まっているにも関わらず、その身の丈は二階の屋根すら超えている。
肩にある異常なまでに発達したコブは、肥大した筋肉の証。
手から生えた鋭き真っ白な爪はエルクの持つ剣と同じ長さを持っていた。
振り下ろす一撃はいかなものとて両断、破壊されるであろうことが嫌でも想像できる。
しかし、最も目をひくのはそれらではなかった。
「かつて蛇なら見たことはあったが――」
その巨体は胸元のあたりから二つに分かれ、それぞれが独立した頭部をもっていた。
「――まさか双頭の大熊とはなっ!」
「「――グウウゥッォッォォッォオオオオオオオオオオオオ!」」
吹雪の音さえかき消す大音声が、夜闇の静寂を引き裂いた。
「セリル聞こえるな?」
「情けない話だが早々に前言を撤回させてもらう。ランドに伝えろ。屋根に待機。敵は双頭の大熊。覚悟ができたら外に出よ。チャンスがきたら迷わず殺せ、とな」
言いながらもエルクは剣を握り構えをとった。大熊はうなりをあげてこちらへと突進してくる。
凍った雪面をかきわけ白い粉塵をまき散らし、それでも血に染まる四つの瞳はまっすぐにこちらを見据えていた。
エルクはわずかに踏み込み、確かめる。
「いくら凍っていても新雪だと、大した踏み込みはできんか」
エルクは身に迫るその巨体を前に剣を一閃。雪の飛礫で視界を奪い一気に跳躍する。
エルクを見失ったその背に落下の勢いを伴い一息に剣を叩きつけるが、剣身に白銀色の毛がまとわりつく。
剣速は著しく殺され、その身に届く前にからめとられる。わずかに切れた銀色の毛が、羽のように散った。
「やっかいな毛並みだな」
巨体を蹴って距離をとるエルクに大熊は牙をむき出しに、振り返る。
「――っ!」
赤い瞳はわずかに歪む。
それは確かに愉悦であった。
獲物をいたぶる猫の笑みではなく、狩りの成果を確信した狼のものでもなかった。
エルクはその笑みにはじめて戦慄を覚えた。
「……貴様は、ここで確実に殺さねばならんようだな」
剣を振り上げ、足場を固める。踏みしめる足元でギュッと音が上がる。
「来るがよい」
噴出するエルクの殺気に、大熊もまた威嚇を返す。
グルルルと低いうなりを上げながら、二つの口から双牙がのぞく。
「「グアアアアアアアアゥオオオオオオオオオオオっ!!」」
再びうなりをあげて迫りくる。
エルクは叫ぶ。
「今だランドっ!」
「おうよっ」
屋根から飛び降りながら、蒼き斧を振り下ろす。
しかし、ランドは目にした。
右の頭はエルクから目を離さずにいたが、左の頭だけはこちらを見上げていたことに。
――ガキンっ!
重さと速さを伴った一撃を苦も無く、左の頭はその牙で受け止めた。
「クソがっ!」
「十分だっ」
エルクは注意のそれたすきに、クマの腕を蹴りつけ、斧に噛みついている方へと飛び上がる。
「ゥオオオオォォッォ!」
腰から抜き出す剃刀を、動かぬ頭に突き立てた。
「「グギャアアアアアアオオオオオオオオオオッッ」」
全身を震わすほどの絶叫が響く。
片目に突き刺さった剃刀ごと頭を振り乱しながら、大熊は後ずさった。
二人も飛びずさり、互いに並んで距離をとる。ランドは不敵に口角を吊り上げた。
「退屈しねえなこの村は」
「同感だ」
エルクも剣を拾い上げ、二人はともに武器を構える。
もう不意打ちはできない。あとはガチンコでやりあうだけだ。
「ランド、あの毛皮には刃がたたん。注意しろ」
「あいよ大将」
大熊はブルンと激しく顔を振り、剃刀は遠くへ飛んでいく。
つぶれた眼球からは透明の液体がダラダラとこぼれ、その怒りに満ちた顔を覆う。
警戒をとかず、二人は握る拳に力をこめる。
――ゥルルルルルルルル。
低くうなると熊は途端に、背を向け逃げ出した。
雪をかきわけながらも速度はいささかも衰えていない。
「追うぞランド!」
「待てバカっ」
襟首を捕まえ走り出そうとするエルクを止める。
「手負いの獣を深追いするな、もう指の動きもかなり鈍くなってる。お前ぇもそうだろが!」
「くっ…」
ランドの怒声にエルクは悔し気にうめく。
数秒の遅れではあるが、すでに闇夜の中へと走り去ったあの獣を追うことはできそうにない。
「どうしたよ? そんな顔して、追い払うことには成功したろ」
「殺すことには失敗したからだ」
「まあ確かに食いでのある獲物だったからな、逃がしたのは惜しいな」
そんなランドの言葉を聞きながらも、エルクは苦々し気に唇をかみしめる。
「いや逆だ」
「逆?」
「ああ、目を見て分かった」
「あの熊はすでに――――人の味を覚えておるよ」
どこで食ったかは知らないが、あの喜悦に歪む瞳は、獲物を見る目というよりは、好物を見る目であったと感じたからだ。
餌に対して異常なまでの執着を見せる熊の習性を知っているエルクとしては、このまま追い払えたとは思っていない。
「また来るってか?」
「それならばまだマシな方だ。最悪なのはこちらに警戒して来なくなることだ」
「どういうことだよ?」
「人肉の味を覚えた熊がこちらに来なくなったということは、それは新たな狩場を見つけたということだからだ」
エルクの言葉に、ランドの表情が緊張に強張った。
「まあ今考えても仕方ない、な。さっさと戻ろう、これ以上の外気は身に悪い」
「そうだな」
ふと気づいたようにランドは尋ねた。
「そういやお前よく剃刀なんて持ってたな」
「ん? ああ、セリルがいつでも『刈り上げていいですよ♡』と言ってもいいようにな。常日ごろから持ち歩いておったのよ」
「……未来永劫ないと思うよ?」
「そんなことはない。現にさっきも私をあげると言われたばかりだ。早速刈り上げようとした瞬間に邪魔が入ってな」
「……それそういう意味じゃねえと思うんだ俺」
二人はそんなことを話しながら、屋根へと上り木窓を開けた。
「おかえりなさい、ランド」
そこには微笑みを浮かべるセリルの顔があった。
決して笑顔ではない笑顔。こめかみのあたりがピクピクとひくついているのをランドは見逃さなかった。
「あ、ああ。その入ってもいいか?」
大熊と対峙した時と同じかそれ以上の戦慄を感じつつも、ランドは言った。
「もちろんです、お疲れさまでした。早く入ってあったまってください、白湯ですが用意してますからね」
ランドがびくつきながらも家へと入り、エルクもまた窓枠に足をかけようとした途端、パタンと木窓は閉じられた。
「あ、あれセリル? 余がまだ入っておらんぞ。余もあったかいものが――」
――ガチャリ。
鍵をかけられた音がした。
「お、おいセリル。冗談はよせ、汗が乾くというよりすでに凍って、なあセリルっ! 開けてくれっ! 寒いのだ、やばい吹雪いてきたっ! 雪があたって寒いわ痛いわっ」
トントントンと階段を下りていく音がする。
「セリルっ! どうしたのだっ、何故こんな無体をするっ、余が一体何をしたというのだ、無礼があったら謝罪する、頼む、入れてくれえええっ!」
エルクが家に入れてもらったのは、それからごめんなさいと五十八回謝った後のことであった。