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ランクロットの一族  作者: ふじたけ
第一章 エルク編
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第1話 奴隷船

「――ぐ、ぅあ」

 

 苦しげな声をあげながら、一人の少年が目を覚ます。

 黒目、黒髪、褐色の肌。齢の頃は十半ば。 

 彫りの深い中性的な顔をあげる。

 少年の名はエルクといった。


 異臭がただよう闇の中で、床に手をつき身を起こそうとするが、


 ――ズルっ。

 

「あぅっ!」


 顔をしたたかに打ち付けた。

 海水と排泄物にまみれた船倉は、同じような苦悶と怨嗟の声にあふれている。

 

 それでも数日前に比べれば静かになった。

 前日まで呻きながら横たわっていた男は、すでに身じろぎ一つしていない。

 ロウソクの灯が、フッと消えるように人の命が途切れていく。

 二十人近くいた奴隷たちが今、どれほど生きているのかエルクにも分からなかった。

 

 ――トン、トン、トン。


 船倉の扉から足音が聞こえてきた。

 この足音が聞こえるのは日に一度、陽が落ちてからのみだ。


「くあぁ、日に日に臭ってくるなこりゃ」

 扉をくぐってきたのは顔をしかめた大柄な水夫。その手にはトレイがのせられていた。


「あ・・・」

 奴隷の一人が物ほしそうな声をあげた。

 トレイにのっているのは一切れのパンとコップ一杯の水であった。


「お、おねがい、なにか、なにかのませて。もう、のどが――」

 足元にすがりつく少女の奴隷に、嫌そうに視線を向ける。


「な、なんでもしますから、どうか少しだけでも・・・」


「わかったわかった」

 そう言いつつ、腰からサーベルを何の気もなく抜き放つ。


「――キャアアああああああ嗚呼ああああっ」


 少女の手首を切り落とした。


「ほらよ、好きなだけ飲みな」


 酷薄な笑みさえ浮かべ、水夫は奴隷たちの前を通り過ぎていく。

 誰も行く道を遮ろうとはしなかった。


 奥の扉の前まで来ると、腰の後ろにつけた鍵束を取り出した。

 頑丈そうな錠を開けると、奥の小部屋へと入っていく。


『おらよ、今日の飯だ。さっさとしろ』


 扉越しに声が聞こえてくる。

 何を話しているかは分からないが、捕えられているのは声からして女の子のようだった。時々夜中にあの部屋からすすり泣く声が聞こえてきていたのだ。

 

 出てきた水夫のトレイにはもう何も残っていなかった。

「うぅう、たまんねぇなぁ・・・、俺がボスなら絶対売ったりしねえんだが」

 下卑た笑みを浮かべながら、船倉から出ていく水夫。

 

「ダメえっ! あたしの手を盗らないでっ、その血はあたしのものなんだからぁああっ」

「うるせえ! こっちだって限界なんだよ!」


 ――ここは、地獄だ・・・。


 殴られ、手首を盗られた少女は嗚咽をこぼしながら、斬られた手首から血をすすっていく。

 そんな餓鬼地獄のような光景から視線をそむけながら、うつむいた。

 

 足首に巻き付くのは錆びの浮いた鎖。

 最後に水を飲んだのは二日前。

 のどはすでに渇きを通り越し、火で炙られているような激痛を訴えている。

 今にも朽ちゆく身ではあったが、その瞳だけは決して屈してはいなかった。

 

 薄れゆく意識を懸命につなぎとめる。

 ここで眠れば、きっと二度と目を覚まさない。

 そんな確信めいた予感がエルクにはあった。

 

 左手を持ち上げる。

 エルクの左手には指が四本しか残っていない。

 以前つぶされた小指の根元に犬歯をあてる。


 ――ツプっ。


 わずかな痛みと鉄臭い臭い、そして、生温い感触がひびわれた唇をかすかに潤した。


「・・・あと、二日」


 エルクは雌伏し、時を待つ。

 これがきっと最後のチャンスだ。


「父上、どうか御加護を」

 



 ***



――そして、二日後。


「ハア・・・っ、ハっ、ハァ・・・」


 すでにエルクの身も限界をとうに超えていた。

 のどが、灼ける。

 視界が、かすむ。

 このまま意識を手放すことができればどれほど楽だろうか。


「まだ、だ・・・もう少しで・・・」


 エルクはただ一点だけをじっと見つめていた。

 船倉の天井付近にある小さな丸い窓であった。

 ガラス越しに見えるうすく伸び行く灰色の雲。それはどんどん色を濃くしていった。


 ――ポツ。


 突如、窓に斜線が描かれた。

 透明の細い糸のようなそれは、エルクが待ちに待ったものである。

 

 エルクは目を見開き、床から体を引きはがす。


「――来たっ!」



***



 窓には大粒の水滴が張り付き、船の揺れもだんだんと激しくなってきた。

 手近にあった柱にしがみつくが、それでも何度も壁や床へと叩き付けられる。


「ガっ! グぅ」

 

 エルクの予想ではこの船では嵐を乗り越えられない。

 船は完全に沈没する。その時こそ脱出する唯一の好機なのだ。

 無論、自分たちのような奴隷に救命ボートが与えられることはないだろう。

 嵐の海にこの身一つで投げ出されるのは、実質死ねと言われているのと変わらない。

 

 船が大きく傾いた。

 壁と床が反転し、エルクの体は一瞬だけ宙へと飛ばされる。

  

 ――ジャリンっ!


 硬質な音をたてた鎖が足首に食い込んだ。

 痛みに負けぬよう歯を食いしばるエルク。

 嵐をどう乗り切るかの策はあったが、この足枷については賭けに出るしかなかった。

 

 ――ギシイイイイイイイイイイっ!

 

 大波に飲まれたのか、船体が悲鳴をあげた。

 次の瞬間、大きく裂けた壁から海水が流れ込んできた。



 ***

 

 突如扉が開かれ、水夫が駆け込んできた。


「クソ! もうダメだ、あいつだけでも連れてかねえと」


 流れ込む海水に足をとられながらも、奥の小部屋を目指して走っていく。

 自分たちには一切目もくれず、エルクの前を通り過ぎようとした瞬間――


「うわああああああああああああっ!」


 エルクはすべての力をこめて、枯れ木のような身体を水夫へとぶつけた。


「ぬぉっ! な、何しやがるてめぇっ!」 


 腰にしがみつくエルクを蹴り飛ばし、サーベルを抜こうとするが、そんな場合ではないと思い直したのか舌打ちをしつつ、小部屋へと向き直る。

 そして、小部屋の前、鍵を取り出そうとしてようやく気付く。


 ――鍵束がなくなっていたことに。


 ***

 

 振り返る水夫の目に映ったのは、足枷を外してこちらを見る一人の奴隷であった。

 その奴隷の手には鍵束が握られている。

「返しやがれえええええええええええっ!」

 自分へと向かってくる水夫とは反対の方向に、何かを投げる。

 つられて目をやる、宙を舞うそれが見えたのは一瞬だ。


 ――ジャポン


「てめえええええっ!」

 激昂した声をあげて振り返るが、鍵を持っていない以上追ったところで意味はない。

 そう考えることを予想しているのか、奴隷はこちらに背を向け、壁際の方へと逃げていく。

 出口の方へ逃げれば、こちらも出るついでに追いかけていけるが、あの奴隷が逃げていくのは鍵束と出口から最も離れている場所である。

 すでに腰のあたりまで水がきている。残り時間はあとわずか。

 自分が選択できるのは奴隷か鍵束のどちらかである。

 

 水夫の逡巡は一瞬。

 

「てめえみたいなゴミになめられてたまっかよぉっ」


 そして、サーベルを抜き放つ。

 薄暗い中で、禍々しい鈍い光を放つ。

「うわあ、うわあああああああああああっ!」

 悲鳴をあげ、逃げ行く奴隷。

 しかし弱り切った足腰では水をかきわけ進むのは難しく、いくらも逃げれはしなかった。

 水夫はその背に追いつき、サーベルを振りかざす。


「あうっ!?」


 何かにつまずいたのか、奴隷はこける。全身を海水に沈め、再び起き上がった背中に剣を突き立てた。

 肉を貫く感触が、サーベルを通じて伝わってくる。

 剣を抜くと、うめき声もたてず奴隷は沈んでいった。

 それを見て満足そうな笑みを浮かべると、


「ケッ、バカが。もう時間もねえな、急いで脱出しねえと」


 水夫は船倉から出ていった。


 ***


「ぶはぁっ、はあ・・・はあ・・・」

 水面から顔を出したエルクは、荒い息をついた。

 そばで浮かんだ名も知らぬ奴隷の死体に目を向ける。


「本当にすまぬ、すぐにも会うかもしれんが、その時は改めて謝罪する」

 

 もう胸元まで水がきている。さっさとあそこに行かないと――

 

「あ、あんたっ! 助けてくれっ!」


 すぐ隣で声が聞こえた。

 自分と同じくらいの年齢の少年奴隷だ。

「ああ、すぐに枷を外す」

 エルクは服の下に隠していた鍵束を取り出した。

 

 あの時放り投げたものは、適当な大きさの木片であった。

 薄暗い中では判別は困難であったし、鍵が見つからなければそれだけ時間を稼ぐことができると判断してのことである。まさかこっちを選ぶとは思わなかったが。

 何にせよ鍵は手放さなくて良かったようだ。

 

 水に潜り枷を外すと、少年は涙を流し「ありがとうっ! ありがとうっ!」と礼を言った。

「早くいけっ、長くはもたん」

「な、名前だけでも教えてくれ」

「エルク。エルク・ランクロットだ。これ以上助けてはやれんが、幸運を祈るっ」

「エルク、あんたの名前は忘れねえ」

 そう言って船倉の出口へと泳いで行った。


「他に誰かいないかっ、生き残っているものは!?」

 返事は、ない。あれだけいたのにたった一人しか生き残れなかったのか。

 プカリと浮かんだ少女の死体。

 その死体には――手首がなかった。

 エルクは潜り、枷を外した。

 今さら何にもならないというのは分かっていたが、そうせずにはいられなかったのだ。


「・・・せめて、自由に」


 もうタイムリミットだ。

 傾きだした船体、いつ沈没してもおかしくはない。

 エルクは出口に体を向けるが、その瞬間――


『ここですっ、ここにいます!』

 

 奥の小部屋から悲痛な声が聞こえてきた。








 









 


 


 


 
















 

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