第18話 それぞれの帰還
天高く日は昇る。
二カ月ほど前にそこにあった光景が、その桟橋の上に再び現れていた。
船工廠から出された大型船の隣で、オルガとエルク、そしてビルドゲートたちが笑顔で向かい合う。
ただ二人の笑顔は当初あったものとは違い、とても自然な気を許したものとなっていた。
交渉や生活をともにしたことで、オルガはビルドゲートに商人としての敬意を感じ、ビルドゲートもまた彼女を認めることができたのだろう。
『今回はとてもよい体験をさせてもらった。感謝するよオルガ君。さすがはラグアス殿の娘だ』
「いえ。こちらもビルドゲート様のような方とお話しできて良い経験を積ませていただきました。航海お気をつけて」
二人は互いに握手を交わし、強く強く握りしめた。
次にビルドゲートはエルクを見やる。
『エルク君、君にはなんと言ってよいかは分からぬが、本当に感謝する』
『元はこちらのいざこざですゆえ』
『一応聞いておくが我が商会に来る気はないかい?』
『ありがたきお言葉ですが』
悩むそぶりも見せずにエルクは答えた。
『ふふ。確かに君は儂の商会などでおさまる器ではないからね、残念だが致し方ない』
『だがもしあちらに来ることがあればぜひ顔を見せてくれないか?』
『はい。それはもちろん。必ずやうかがわせていただきます』
次にナタリアがエルクへと話しかける。
最初にあった警戒の色はみじんも見せず、憧憬の色をそこに浮かばせていた。
『エルク、どの。私も、私でも、あなたのように強くなれるだろうか?』
もちろんです、というのは簡単なことであったが、あの晩の戦いを見てなお強くなりたいと思う彼女にはそんな言葉は失礼だと思った。
『ナタリア様にはいまだ覚悟が足りてないように見受けられました。
命を捨てる覚悟は、覚悟ではない。石にかじりついてでも生き抜き、敵を食い殺してでも勝利を奪い取る。そんな覚悟あるならば、きっとナタリア様は強くなる。自らの命をも簡単に諦めるものは、きっと強さも諦めますから』
『ふふ、手厳しいな』
ナタリアは言葉を反芻するかのように少しだけ瞳を閉じた。
『金言感謝する、再び会えた時もう一度手合わせ願いたい』
『約束しましょう』
二人もまた手を強く握りしめた。
『ではラグアス殿によろしく言っておいてくれ』
「はい。ビルドゲート様もお達者で」
名残を惜しみながらも二人は船の上へと消えていく。
桟橋の上に残った二人は、船が水平線の向こう側に行くまで見送っていた。
そして数日後、エルクもまた帰還の日を迎えたのであった。
*
「エルク、本当にありがとうございました」
「かまいません、雇われた身として当然のことをしたまでですから」
執務室のデスクに、オルガは金貨の入った袋を置く。
置かれた袋はエルクの予想以上に重そうな音を立てた。
「少しだけど色をつけておいたわ。あなたの働きにはそれ以上の価値があったからね」
エルクは袋を開き、中を確認する。エルクの顔が強張った。
「っ! こ、こんなには頂けませんっ、オルガ様」
そんなエルクの顔に少しだけ胸が空く思いがした。エルクと出会ってからずっと驚かされてきたのだ。
この顔が見れただけでも価値はあったと思う。
オルガは優しく微笑みながらも、エルクの瞳を真っすぐに見つめた。
「いいのよ、本当にあなたには感謝しているの、訳士としての働きだけじゃない。あなたがそばにいてくれたからこそ私も安心して働くことができたと思うから。雇い主としての最後のお願いよ、何も言わず受け取ってちょうだい」
「……オルガ様」
エルクはしばしの間考えるように目を閉じ、そして、取り出した金貨を10枚ほど机に置いた。
「エルク、過度な遠慮は相手にとって失礼になるわよ」
「ええ。分かっております。オルガ様にこのお金でお願いがあるのです」
「お願い?」
「はい。波止場のはずれにある商会所有の廃倉庫。あそこを春が来るまで借り受けたいのです」
あそこは父が商会を作った折に建てた倉庫だ。潮風にさらされすでに老朽化も進んでおり、近いうちにつぶす予定のがらんどうの倉庫。
――あんなところを借りて何をするのだろう?
「それは構わないけど。あなたは明日にでもフィオークに帰るのよね?」
「はい。その予定です」
「借りてどうするの?」
「何もいたしません。ですからオルガ様も何もしないで頂きたいのです」
そんなこと言うエルクの瞳は、どこまでも深い知性の輝きがあった。決して酔狂で言っているわけではない。
何か、確固たる考えがあってそう言っているのだ。
「わかったわ。後で部下に鍵を届けさせます」
「ありがとうございます、オルガ様」
これでエルクとはお別れだ。たった二カ月程度の付き合いではあったが、それ以上の長さに感じられるのはなぜだろうか。
「できることなら父にあなたを紹介したかったところだけど、残念ね」
きっと父もこの少年のことを気に入るだろう、二人がどんな話をするのか興味があったが、仕方ない。
「自分もオルガ様がそこまで尊敬しているお父君のこと、一目お会いしたかった」
「うふふ。けど春にはまた来るのでしょう? その時を楽しみにしてるわ。今度町に来たときはぜひ顔を出してちょうだい。その時は仕事抜きでゆっくりあなたに町を案内してあげるから」
「ええ。楽しみにしておりますオルガ様」
「もう仕事は終えたんだから、敬語は必要ないわよ」
「……ああ。ありがとうオルガ。また来るよ」
「ええ。またねエルク」
*
「やはり無理だったか」
「何がですか、お館様」
「うむ。エルク君を我が商会に迎え入れたかったのだが。ゆくゆくは儂の後継として、お前の婿にでもと思っておったのだが、あの少年はそんな器にとどまる者ではないからな」
「そ、そんなことを考えてらしたのですかっ?」
波間を縫うように奔る船上で、潮風と日を存分に浴びながら二人は彼方を見やっていた。
「嫌かい?」
「……嫌、というわけでは」
「ふっふっふ。お前にそう言わせるだけでも大したものだよ、以前なら取りつく島もなく拒んでいたからね」
そんな言葉に自覚があるのか、ナタリアは頬にかすかな朱が浮かぶ。
「しかし困ったね、あんな少年を見せてしまったら他のどんな男も色あせてしまうじゃないか、ひ孫の顔が見れない内は死にきれないのだが」
「お、お館様……」
「帰ったら見合いをする気はないかいナタリア?」
「お館様の紹介する者と言ったら貴族や商人でしょう。気がすすみません」
「嫌かい?」
「男は強くてなんぼです」
「……ふう」
どうしてこんな脳筋になってしまったのか。算術より商売より先に剣術に興味を持ってしまったのが運の尽きだったのだろう。
そんな風に困り果てたビルドゲートの前に、慌てた様子の水夫が飛び込んできた。
「ビ、ビルドゲート様っ、大変です密航者ですっ」
「なにっ?」
振り返る二人の目に映ったのは後ろ手に両手を縛られ、水夫に連行されてきた見るからにやる気のなさそうな細身の男。
「……君か」
ディーノは捕らえられている自覚もないように、へらりと笑みを浮かべた。
「やあ、ビルドゲートさんにお嬢ちゃん」
「お、お前っ!」
「へっへ、ご無沙汰いたしておりやす」
「何のつもりかね?」
「いやあ、少々あの町にいづらくなっちましやしてね。この際なんで帰郷でもしようかと。ただ大陸に渡る船なんてめったに出てないでしょう、船賃も高いですしね。そんな時に知り合いの方がでっかい船で帰るっていうじゃありやせんか、これは是非とも同乗させていただこうと思いまして」
「ふざけるなっ、誰が知り合いかっ!」
「……この男の縄を解きなさい」
「お、お館様っ!」
「構わないよ、そもそも縄でしばっていようとこの男は船にのる者を全員殺せる程度の腕はあるからね」
「いやいや、そんなこたいたしませんよ。殿下が世話になった方々にそんなことしようものなら今度は拳骨だけじゃすみませんからね」
下手に斬られるより痛いんですよ、あれ。とへらへらと笑いながらディーノは告げる。
「ああそうだ。乗船許可をいただいたついでに働き口も斡旋しちゃくれませんかね。ビルドゲートさんの護衛なんてどうです? みっともない姿晒しちゃいましたが、そこそこ腕に自信はありますぜ」
ディーノはどこまでも図々しい。いっそこのまま町に戻ってエルクの前に突き出してやろうかと、半ば本気でビルドゲートは考える。
「護衛なら間に合ってるよ」
「そうですかい、残念です」
ちっとも残念そうでない風にディーノは言う。
だが、ビルドゲートの中でディーノの評価はかなり高い。あそこまで剣術を練り上げた精神力、汚名を被ってまで他人の命を救おうとした義侠心、何よりあのエルクという少年が確かに認めていたのだ。この男のことを。
「しかし、うちの護衛もいまだ経験不足でね、剣術指南役であるなら雇ってもよい」
「お、お館様っ!」
「ナタリア。この者の腕は儂よりお前の方がよく知っているだろう。それとも不服かね」
「剣の腕だけあればいいというわけでは――」
「俺の指導は厳しいぜ? お嬢ちゃんについてこれるかな」
「やかましいっ! 貴様は黙っていろ」
「時にディーノくん、君はいくつかね?」
「へ? 三十ですが、何か?」
「ふむ。いささか離れてはいるが許容範囲か」
「お、お館様……っ!? まさかっ?」
「まあこれからよろしく頼むよ、ディーノ君……色々とね」
「へい。大船にのったつもりでいてくだせい」
「密航者が言えるセリフか!」
「さあ決まったところで全速前進っ! 帆を開け。よーそろーっ!」
「貴様が言うなあああああああああぁぁっ」
何だかんだで二人は相性が良いのかもしれない。
ビルドゲートはまだ見ぬひ孫の顔を思い浮かべながら、顔をほころばせたのだった。
*
フィオークではすでに秋の収穫も終えた頃である。
空は晴れやかな青色から寒々しい灰色へと装いを変え、吹きすさぶ風も肌に痛いほどだ。
「冬が訪れましたねぇ」
セリルはしんみりとつぶやいた。山菜や川魚、森の果実をありったけ保存食にしたが冬を越すにはまだ足りない。
やはりエルク達の買い込んでくる物資のみが、自分たちの命綱である。
村に来ていくらも日も経たぬうちからこのことを予測していたエルクはやはり正しかった。
そんなことを思っていると――。
「セリル姉ちゃん、エル兄たち帰ってきたぁっ」
村の中で響くレンツの声に慌てて走るセリル。
村の入口の柵近く、こんもりと木箱や布袋が積まれた荷車があった。
その横で倒れ伏す二人の背にはこれまた小山のように荷が詰め込まれた背嚢が乗っかっている。
考えてみれば七人が一冬を越すほどの物資を運搬せねばならないのだ。
その量は想像を推して知るべしである。
息も絶え絶えといった二人の様子に、セリルは慌てて声を飛ばした。
「レンツ、シド、二人から荷物を降ろしてっ、ラナとロナは水を持ってきなさい、早くっ」
荷をどけ、水を数杯飲んだところで、二人はようやく顔を上げた。
疲労は色濃く残っているが、それでも二人の顔に浮かんでいたのは故郷を持つ者だけが浮かべる帰郷の喜び。
町でも色々なことがあったのだろう、使命を果たせた達成感に満ち溢れていた。
二人は約束通りやり遂げてくれたのだ。
「ただ、いまぁ」
「い、今帰ったぜ、え」
荒い息をつきながらもそう言ってくれる二人に、セリルはとびっきりの笑顔を浮かべてこういった。
「――――ええ。お疲れさま。そして、おかえりなさい。二人とも」
*
オルガの前には初老の男が座っていた。
いつも自分が座っている執務机の椅子に。
いくぶんか白髪の混じり始めた髪は、アッシュブロンドのような光沢を放ち、書類を見つめる瞳は猛禽類のように鋭い。
頬や額に浮かぶしわは深みを増しているが、その目に輝く活力は老いてなお猛るばかり。
シャイルーク商会の本来の当主、ラグアス・シャイルーク。その人である。
「本当におかえりなさい、父さん」
「話は聞いた、儂がいない間にずいぶん危ない目にあったようだな。すまなかった、オルガ」
「いえ。心強い仲間がいてくれたので」
お茶をのみながらラグアスはたずねた。
「ああ。凄腕の訳士と聞いたが、それほどなのかね?」
「はい。報告書にある通り、五つの言語の同時通訳ができて帳簿もつけれてました。色々仕事を振りましたが、少なくとも私の知る限りミスらしいミスもありませんでした。正直あんな有能な人材は金貨百枚積んでも惜しくはないと思います」
「それは随分とほれ込んだものだな。して儂の大事な娘をたぶらかしたその少年の名前は?」
「はい。エルクと――」
「――なっ!?」
カシャンと、カップが床へと落ちた。
これほど動揺を見せた父はオルガもはじめてのことだった。
「今、何といったっ?」
「と、父さん?」
「なんといったのだっ!」
怒鳴りつけるような父の剣幕に、オルガは戸惑いながらも答えを返した。
「は、はい。エルクと確かに名乗りました」
「五か国語を話せたのだな、他に特徴は?」
「年は十七、肌は褐色、髪は黒。瞳の色も黒でした。ただ貴族のような雰囲気がありましたのでどこかの貴族のご落胤か何かだと……思ったのですけど」
そこでオルガは言葉を止めた。
父の顔があまりの驚愕に、真っ白になっていたからだ。
唇は震え、瞳はどこか彼方をみやっている。
少なくとも瞳に映るものは何もラグアスの意識に入っていない。そんな顔であった。
「いや、まさかそんな……滅びた、はずだ。あり得ない、あり得るはずがない」
「父さんどうしたの? エルクを知ってるの?」
ラグアスはかつて見たことがないほどに表情を強張らせていた。
「その少年はフィオークへと向かったのだな」
オルガの問いにも答えず、言葉を放つ。
「う、うん。そう言ってたけど」
マントを羽織り、再び外へ出ようとするラグアスを慌てて止めた。
「ちょ、ちょっと、フィオークへ行くつもりっ!? 今は厳雪期よっ、自殺行為だわ!」
「それでも行かねばならん、確かめねばならんのだ」
「は、春には、春にはまた来ると言ってたわっ」
瞬時に叫んだ言葉がようやくラグアスの動きを止めた。
「本当か?」
「うん」
「もし今度見えたら何をおいても儂に伝えろ。絶対にだ」
「わ、わかったわ」
詳しいことをきける雰囲気ではないことを知ったオルガは部屋を後にする。
扉を閉める直前に父のつぶやきが耳へと入った。
「まさか、まだ生きていたというのか……ランクロットの一族が」