第15話 過去を知るもの
エタッてないですよ?
ほんとですよ?
「あん?」
ディーノは声のする方へと首を巡らせた。
宵闇の中に身を包む男の姿はいまだ見えない。
声の調子から見てまだ若い。二十……いやもっと。
「誰ですかい兄さん、こちらはちょっと取り込み中なんですがね」
「うん? 何だ先ほどの話は余のことではなかったのか。そなたほどの剣士に勝てる子供が他にもいるとは世は広いものだな」
その言葉で脳裏によぎったのは、七年前の戦場。
とある国へ侵攻をした折に、民を国から逃がすためたった一人で千の軍勢を相手取った、王族の少年。
忘れもしないその名は――――
「――――エルクっ!」
「…………ありえ、ねぇ」
ナタリアの叫びに、ディーノは驚愕を隠し切れない声音でつぶやいた。
「ビルドゲート様、ナタリア様。駆け付けるのが遅くなり申し訳ございません。身体のほうはご無事でしょうか」
地面に転がるビルドゲートに駆け寄り、その身を引き起こす。
「カハ、あ、ああ。儂は、無事だ。ナタリアも大した怪我はしていない。相手がかなり手加減してくれたようでね。力の差がありすぎたことが幸いしたよ」
「ディーノ、ナタリア様を放してくれるか」
「…………行きな」
拳をおさめて、顎を動かす。ナタリアはビルドゲートのそばへ駆け寄り、ひしと抱き着く。
「お祖父ちゃん、お祖父ちゃん。ごめんなさいごめんなさい」
ビルドゲートの胸に顔をうずめ、泣きじゃくるナタリアをビルドゲートは力いっぱいに抱きしめる。
「馬鹿者、お前が謝ることなどないのだよ。相手の力量を見誤った儂の方こそ責められるべきなのだから」
そんな二人を見やり、エルクは再びディーノへと向き直った。
射しいる月明かりにエルクの顔が浮かび上がる。
黒目、黒髪、褐色の肌。
意志の強そうな眼差し。そしてその奥にある深い知性の煌きに、ディーノはようやく確信を得た。
見間違えるはずもない。
忘れることなどできはしない。
「どうし、て……あなたが、いえあなた様が……」
それでも震える声で尋ねずにはいられなかった。
「どうして、こんなところにいるのか、か? それはシャイルーク商会に訳士として雇われておるのでな。勤め先の賓客を守ろうとするのは当然であろうが」
「それとも――――」
「――――どうして生きているのかを聞きたかったか?」
「…………」
ディーノは何も答えない。いや、何も答えることができなかった。
「ふふ。さてどうしてだろうな? いつ死んでもおかしくなかった。幾度死のうと思ったかわからぬよ。それでもこうして生きているのはそれが運命だったから、としか答えられぬな」
ディーノは瞳をしっかり見開き、背筋を伸ばす。たったそれだけでいつもの気だるげな雰囲気は霧散する。
数多の戦場を剣一本で渡り歩いた名うての傭兵が、そこにいた。
「エルク殿下。遠きあの日よりもう一度お会いしたいと思うておりました」
エルクはそんなディーノを見て、おかしそうにクスリと笑う。
「フッ。戦場で一度相見えただけのそなたに殿下と呼ばれる筋は無いのだがな。まあ良い。そう呼ばれるのも久しぶりだ。許してやろう」
「はっ! ありがとうございます」
頭を下げる凶手の姿に、二人は目を白黒させる。
「エ、エルク君。あの男と知り合いなのかね?」
「かつて戦場で剣を交わした程度の知り合いですよ。あの時は力及ばず負けてしまいましたが」
「ご謙遜を。何百もの兵を斬り伏せ、決闘の刻も時間稼ぎのために力を抜いてらしたではありませんか。万全の状態でやりあえば今の自分はここには立っていませんよ」
「なんだ。気づいておったのか。うまく隠せていたかと思っていたのだが」
「ええ。隠せていましたよ。気づいたのは決着がつく直前でしたから。まったくしてやられましたよ。あれほど悔しい勝利は初めてです」
「ならば謝らねばならんな。あの日そなたの武人の矜持を汚すような真似をして悪かった」
「気になさりますな。自分に武人の矜持があるように、あなた様も王の矜持を守るために剣を振るっておられたのですから」
親し気に話を続ける二人を見やり、ナタリアは剣を握りしめた。
「エルクっ! 何を呑気に話しているっ、その男を殺せっ!」
「…………おい、女ぁ」
瞬間、体中の水分が一気に汗となって蒸発したかのような悪寒にナタリアは包まれた。
「……っ!?」
「口を慎め。その御方は貴様ごときが軽々しく口をきいていい方じゃあねえんだ。商会の孫娘風情が出しゃばるんじゃねぇ」
殺意をこめた静かな恫喝に、ナタリアは凍り付いたかのように身を強張らせた。
先ほどの戦闘でも殺意はおろか闘志すら出し渋っていた男が、これ程までに激情をむき出しにするとは、思いもよらぬことであった。
「よさぬかディーノ。そなたの相手は余であろう。まあ話もそろそろ終わりにするか」
「これは失礼を。残念ですが仕方ありませんね」
「一応聞いておくが、退く気はないか?」
「ございません。何よりもう一度殿下と仕合うてみたいと思っておりましたから。まさかこのような地で叶うとは思っておりませんでしたが」
迷いも葛藤もない即答に、エルクは笑みを深めた。
この者は相変わらず、剣に生きているのだな。そんな思いがエルクを喜ばせたのだ。
「エルク。わ、私では何もできなかった。だから、せめてこの剣を使ってくれないか。頼む」
握りしめたサーベルをエルクへと差し出すナタリアの顔は、どこまでも弱々しく涙に濡れていた。
「ええ。ありがたく使わせていただきます。ナタリア様」
サーベルを受け取り、エルクは前へ。
ディーノも剣を構えて前へ出る。
互いの間合いまで一歩という距離まで歩み寄り、二人は同時に剣を握りしめた。
「一つだけ聞いてもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「私を恨んでおいででは?」
「……あの時は、な。しかしそなたは余を最期まで人として扱ってくれた。そして――――余を人として扱ってくれた最後の人物でもあるのでな」
触れてはならぬことに触れたのだろう。エルクの瞳によぎったかすかな恐怖と悲哀の色に、ディーノははじめて罪悪感を感じた。
「……申し訳ありません、殿下」
「謝ることはない。そなたは武を売る傭兵だ。雇い主の意向に従うのは当然であろうよ」
「本当にあなたはお変わりない。誰より優しく、気高く、聡明だ。あなたのような方のもとで剣を振るいたかった」
「世辞ならいらんぞ」
「心からの言葉ですよ」
「まあ良い。では、そろそろ始めようか」
「ええ。お相手務めさせていただきます」
互いに構えて歩を前へ。
そして――――二人の間合いが重なった。