第10話 思わぬ名剣
ジオールに新しい衣服を買ってもらったエルクは早速着替え、そのまま宿へと戻っていた。
「ふふん。どうだランド。似合っておるだろう」
一階のテーブルで一人食事をとっていたランドの前で、両腕を広げた。
紺色を基調とした絹の服。袖には色付きのボタンが丁寧に縫い付けられ、その襟元は銀糸によって縁どられている。
一見して安物ではないとわかるそれは、エルクが名のある商会に勤めることができたという証でもあった。
今までは擦れた布や革の服しか着ていなかったためか、立派な服を着ると随分と印象が変わって見える。
新しいおもちゃを自慢するかのような無邪気な笑みで服を見せるエルクに、ランドは苦笑を浮かべた。
「はいはい」
おざなりな返事ではあったが、エルクは気にとめることなく腕を上げたり、身体を見回したりと着心地を調べていく。
「うむうむ。やはり良い仕立ての服を着ると気持ちもずいぶん違ってくるな。労働意欲が湧いてくる」
「そうね。それ一着でここの二か月分くらいの宿代にはなりそうね」
カウンターからこちらを眺めていたメイファがボソリとつぶやいた。
「は、ははは。心配するなメイファ。今までのツケ、利息まとめて払ってやるともさ、なあランド」
「あ、ああ。きっちり払ってやるともさ」
ここ数日で宿代のツケはすでに二人の所持金を上回っていた。ランドの就職が決まったおかげで支払いを待ってもらっている状態である。冷や汗を浮かべ言葉をつなぐ二人に、メイファはとびっきりの笑顔を見せながら答えた。
「もちろん、心配なんてしてないわ。あたしはあなた達を信じているからね」
二人の安堵する表情をしっかりと見届けてから、メイファは小さくつぶやいた。
「あと二か月だけだけどねー」
***
とりあえず言葉が話せるというのは組合の保証もあることから信じてもいい。
しかし、だからといって訳士としての力量がどの程度あるかは全くの未知数だ。
というのも商業組合ではニ、三の質問とわずかな会話程度の確認しかしないからだ。
保証といってもそれは最低限の日常会話はできていますよ、程度のものでしかない。
商品について説明する際は専門的な知識も必要とするだろうし、相手の国の慣習なども理解しておく必要がある。
まずはそれらを確認しておかねばならなかった。
「ではエルク。あなたの訳士としての力量を試させてもらいます。訳士として働いたことは?」
「ありません」
――これは、期待薄かな。
エルクの返答にオルガは少し落胆する。
異国の言語を訳すというのは、深い理解と機転を要する。決して日常会話レベルでできる仕事ではない。
各地を放浪して学んだと言っていたが、もし本当にその程度なら雇用も考え直さねばならないかもしれない。
とある国では「はい」「いいえ」といったはっきりした返事しかないが、別の国では「前向きに検討させていただきます」「私どもの力では難しいかもしれません」などひどく曖昧な返事しかしないこともあるからだ。
そんな両者の言葉のニュアンスや意図を、相手にも分かるように簡潔に伝えるというのは、思った以上に難しいものだ。
そういったかけ違いは長年の経験によって修正されていくものだが、エルクにはそれもないようであった。
――まあ、まずは力試しね。
「クレド、いいわね」
隣にたたずむ男に声をかけた。
「はい」
「今からクレドがアートリ語で帳簿を読み上げるわ。なるべく正確に訳すこと。いいわね」
「分かりました」
「ではクレド、はじめて」
クレドと呼ばれた男はうなずき、一枚の紙を取り出し、アートリ語で読み上げていく。
少しあと、エルクもまた口を開いて、訳し始める。
「『竜尾の月、二十一日、晴れの日。オルスアン国籍の大型の貿易船到着する。当商会に純鉄を木箱で五十、錫を二十、銅を三十。しめて金貨二百五十三枚にて売却。購入されたものは――』」
「ちょ、ちょっとまちなさい」
オルガは驚きながらも、制止の声を上げた。
「どうかなさいましたか、オルガ様?」
エルクは言葉を止め、不思議そうに首を傾げた。
隣にいたクレドにも顔を向けるが、自分と同じように驚愕の表情でエルクを見ていた。
「ええっとね、逐次通訳で構わないのよ」
逐次通訳とは、相手の言葉を翻訳する時間を得るため話をその都度区切るという翻訳する際の手法の一つである。
それに対しエルクが行ったのが、同時通訳である。
文字通り相手の言葉を瞬時に異なる言語へ変換し、相手へ伝えるという作業は非常に高い集中力と訳士としての能力を求められる。
商談などにおいては何よりもその正確性を求められるために、逐次通訳をどこも取っており同時通訳をする者などほとんどいない。いや、できる者がいないのだ。
「そうなのですか、なるほど、はじめて知りました」
エルクは初めて知ったという風に、感心したような声を出した。
「自分が見てきた方はすべて同時通訳を行っていたので、これが普通かと思っておりました。失礼いたしました、では逐次通訳にさせていただきますね」
――ほんとに一体何者なのよ、この子……。
オルガは異様なものでも見るかのように、エルクを見やるがすぐに気を取りなおす。
今はエルクの力を見るための場である。
できるというならさせてみてもいいかもしれない。
「いえ、いいわ。同時通訳ができるならそれに越したことはないから、それでいきましょう。クレド続けてくれる?」
「はい」
再びアートリ語で話し始めるクレドの言葉をわずかな時間差のみで訳していくエルク。
言葉はわずかなよどみなく、まるで歌でも歌うかのように自然な態度で訳していく。
そして、すべてを読み上げたのか、クレドが帳簿を持っていた手をゆっくりと下した。
「『――以上、竜尾の月の支出、金貨六千とんで七百八十八枚ナリ。収入、金貨一万二千百七十六枚ナリ。来月は今期における総決算をする』」
そして、エルクもまた言葉を結ぶ。
商談においては金額、数量、日時といった数値の間違いは決して許されない。そのため数年前の帳簿を持ち出したのだが、ミスは一つもなかった。
エルクは涼しい顔である。
対してクレドは息をつきつつ、エルクに睨むような眼差しを向けていた。
「お嬢っ! これだけじゃまだわかりませんよ、他にも話せるってんなら確かめたほうがいいでしょう、他の奴らも呼んできます」
読み上げる途中から、かなりの早口でまくしたてていた。
クレドの気持ちは分かる。
訳士となるものは、幾年も高い金を払い訳士の者に弟子入りし、国々を往復しその技能を身に着ける。
自分よりはるかに年若く、ポッと出の新人に、自分の能力以上の語学力を見せつけられたのだ。それも余裕たっぷりに。
幼いころから父について勉強し、才女ととばれたオルガであっても少しはプライドにヒビが入る。
「な、何か気分を害すことでもいたしましたでしょうか?」
「いえ。こっちの問題だからあなたは気にしなくていいわ」
こちらの顔色を読んだかのように訊ねてくるエルクは、やや居心地悪そうにしていた。
――空気もそこそこ読めるみたいね。
自身の感情は別にして、エルクの評価に再び追加点を加えてあげるオルガ。
「お嬢、連れてきましたっ」
バンと扉が開かれ、先ほどのクレドと共に三人の男が部屋へと入ってくる。
それぞれこの商会に在籍しているロクス、メロザーヌ、ペルトロッカの訳士である。
「ノックはしなさいといつも言ってるでしょう」
「すいやせん」
三人の手にはそれぞれ帳簿が握られている。
事前にクレドから何か聞かされていたのか、その眼差しはひどく険しい。
「お嬢を貴様なんぞに渡してたまるか……」
――うん、だいたいわかった。
「エルク、てめえの力試させてもらう。いくぜ!」
二人は順にそれぞれの言語で話していくが、エルクは先ほどと同じように慌てることなく戸惑うことなくしっかりと訳していく。いや、先ほどより流暢だ。
――経験は無いと言ってたけど……まさか、さっきのでコツをつかんだっていうの?
二人はむきになったかのように早口でまくしたてるが、結局先ほどと同じ結果となったのだった。
「ちぃっ! なら最後だ。こいつを訳せたらてめえのことを認めてやんぜ」
「いけえ! フェカトーレっ」
「俺たちの仇をとってくれぇ」
――何の仇なんだか。
オルガは嘆息しつつ、成り行きを見守る。
悔し涙すら浮かべる三人に、エルクは不敵な笑みを浮かべた。
「フ。ちょこざい奴らだ。我が力とくと思い知るがいいっ!」
意外とノリも良いらしい。オルガは再び評価を上げる。
フェカトーレと呼ばれた男は帳簿を投げ捨て、一冊の革張りの本を取り出した。
「お嬢、商談においては専門的な知識も必要でしょう。帳簿ではなくこの本を朗読することお許しいただきたい!」
「え、ええ。許します」
すごい気迫だ。いったい何がそこまで彼らを駆り立てるのか。
そして――
フェカトーレが口を開き、エルクの最後の試験が始められた。
「……っ!」
エルクの表情がはじめて変わった。
「ぅ……ぁ、ぇっと」
フェカトーレの話す言葉に対し口を開こうとするが、うめくように声を上げるだけで言葉はまったく出てこない。
「ハッハッハ! ここがお前の限界みたいだな。このフェカトーレ様の言葉に同時通訳かまそうなんざ百億万年はええんだよ」
「うおおおおおおおおっ! やったぞ我らのフェカトォレェェエエエエエエエっ!」
「ええ、そうですね。その年でアートリ、ロクス、メロザーヌの同時通訳をできたからといっていい気にならないでいただきたい」
そんな人間がこの町にどれほどいるのか、フェカトーレの話すペルトロッカの言葉を訳せなかったみたいだが、それは決してマイナスにはなり得ない。この年でそこまでできることがすでに驚異なのだから。
ペルトロッカの言葉はただでさえ聞き取りづらく、難解な文法をしているためにこれを習得しているものはかなり少ない。
それを早口でまくしたてられたから、さすがに訳しきれなかったのだろうとオルガは考えた。
――ていうか、こいつらのやることが何ともかんともセコすぎる。
鬼の首でも取ったかのように勝鬨を上げる四人に、オルガは叱責を飛ばす。
「静かになさいっ!」
バンと机を叩き付けるオルガに、四人はビクリと身体を弾ませ静まった。
オルガは場を取りなすように、コホンとせきを一つしてからエルクへ語りかけた。
「エルク、同時通訳が難しいなら逐次通訳にしてもいいわ。ペルトロッカも話せるのよね」
「い、いえ。訳せというなら訳しますが……よろしいのですね。オルガ様」
何とも煮え切らない態度で、オルガに訊ねるエルク。
「うん? ええ、もちろんかまわないわよ」
エルクはその言葉に覚悟をしたかのように、フェカトーレに向き直る。
「では、もう一度お願いいたします、フェカトーレ様」
「けっ!往生際のわりぃ野郎だな」
毒づきながらも再び本に目を落とし、フェカトーレはまくしたてていく。
鼻息は荒く、顔は紅潮しかなり興奮しているのが見て取れた。
それを見ながらもエルクは仕方なさそうに口を開いた。
「『――や、やめてくりゃれ』」
「…………はい?」
オルガの口からそんな間の抜けた声が飛び出した。
「『そんな言葉を無視するようにロレンツはホロウの耳を甘噛みする。「ヒャンっ」いつもの尊大な態度はなりをひそめ、ツヤのある声が桃色の唇から飛び出した。
潤いを帯びた琥珀色の瞳、そこには怯えるような感情が揺らめいていた。
傷つけるつもりはなかった。怖がらせるつもりも。
だがロレンツの嗜虐心に火をつけるに、そんなことは何の関係もなかった。
逃げようとするホロウのスカートの中から、揺れる尻尾が飛び出し、ロレンツはそれを鷲掴みにする。
『ファっ!?』
苦痛すらもすでに快感となっているのか、それは悲鳴というよりは嬌声にちかい。
月明かりに照らし出される地面、先ほどまでホロウが腰かけていた場所にはわずかな水滴の跡がついていた。
『これはなんだ、ホロウ?』
『こ、これは……これはわっちのものではありんせん!』
真っ赤に染めた顔をプイとそむけるその意地らしい姿に、ロレンツの理性ははやくも限界を迎えた。
押し倒したホロウの服をなけなしの理性をかきあつめ、ゆっくりと脱がしていく。
今度は抵抗はなかった。
『や、優しくしてくりゃれ――』」
「ちょぉっと待ちなさいっ!」
オルガは顔を真っ赤にしながらエルクを止めた。
フェカトーレは額にした汗を拭いながら、好敵手に出会えた武人のように爽やかな笑みを浮かべた。
「フフフ、中々やるじゃねえかあんた。認めてやんぜ」
「ていうかフェカトーレっ。嫁入り前の娘の前でエロ本朗読すんな!」
たまらずオルガは怒鳴るが、他の三人になだめられた。
「しかしまあこれで彼の語学力も分かったことですし」
「ええ。相当な腕前ということでしょう」
「悔しいですが我らよりよっぽど精通していると思います」
何にだよ、と思ったのは心の中だけに伏せておく。
なぜか前かがみになっている四人は口々にエルクを褒めたたえる。
そんな態度に、オルガは何度目かになりつつ嘆息を吐き出す。
まあ、この四人が認めるということならば訳士としては本物ということなのだろう。
「これで彼の力は証明できたわね。変ないさかいは起こさないように、いいわね」
「はい、お嬢」と四人そろって返事をする。
話が終わったところで、フェカトーレがためらいがちに話しかけてきた。
「その、お嬢。彼の語学力をもう少し試してみたいので少しお借りしてよろしいでしょうか?」
「官能小説翻訳させようってわけ?」
オルガはジト目でつぶやいた。
「ま、まさかそんなはずないじゃないですか、ハハ、ハ」
「もういいからあんた達は仕事に戻んなさい。シっシっ!」
手を払いながら、四人を追い出すオルガは気持ちを入れ替えエルクへと顔を向ける。
「エルク、午後からはあたしと一緒にきてちょうだい。すぐに商談にうつるわ」
「かしこまりました。微力をつくします」
***
エルクとともにいくつかの商談を行い、三日が経過した。
オルガの機嫌は数日前が嘘であるかのようにすこぶる良かった。
「エルク、次はペルトロッカのお客様よ。準備はいい」
「はい。いつでもいけます、オルガ様」
――これは、いい買い物だったわね。
心地よい充足感がオルガを包む。
同時通訳を受けるのはオルガにとっても初めての経験であった。
話を途中できらなくても良い。会話のリズムというかペースを保ったままに、異なるコミュニケーションツールを持った者たちと、商談が可能というのは予想以上にストレスフリーだ。
いくつもの言語の同時通訳をこなし、真摯な態度でオルガの背後に控えるエルク。何人かの客は商品よりエルクを一日でいいから貸してくれないかと言うほどであった。
大陸間貿易をする商会にとって、優秀な訳士はなくてはならないかけがえのない存在だ。
商人にとって言葉とは力そのものである。
しかし、その力を相手に伝えるためにはどうしても剣が必要となる。
相手の懐に切り込み、己の力を余すことなく伝えることができる訳士は、戦士のとっての剣に等しい。
自分が窮地の末に手に入れた剣は、どうやら思わぬ名剣であったらしい。
さあ、いよいよ本命の相手だ。
明日は思う存分ふるうとしよう。