添付された訃報
その日は、ごくごく普通の時間が流れていた。
機材が不調を訴えることも、風が乱れるわけでも無く。
水面がざわつくことも、プール底の黒影が落ち着きを失うこともなく。
うなじに寒気が走ることも、誰かの呼び声が耳の奥で聞こえることもなく。
靴ひもが突然切れたり、茶碗が欠けたりするわけでも無く。
俗にいう虫の知らせ、なんていうものはなく。
いつも通りに過ごしていた。
外部からの連絡が、モニターに通達されるまでは。
「…何………ん?」
業務終了間際。イリは誰が読むわけでも無い、今日一日の報告書を作成していた。
タッチパネルから飛び出たマークに眉を寄せる。
シンプルなアイコンが示すのは外部からの通知。施設関係者としてではなく、イリ個人宛てとされていた。ひとまず作成途中のデジタル書類を保存して画面を切り替える。
添付されていたのは、訃報だった。
名は、
「ゼノ、サーフィス?」
◇ ◇ ◇
あの訪問は一種の遺言だったのだろう。
翌日、葬儀に参列した。家族の意向で葬儀はモニター越しのみとなった。
黒色の正装で移ったイリを見た瞬間、三次元映像で久々に見たゼノの妻は泣き崩れた。肩越しに写る息子はそんな母を支えながら、送られた花の礼を述べた。
花。
送ったのはリシャンスという大ぶりな白い花。花は種に関わらず、緑少ない現在では貴重。
だけども、ゼノがただ珍しいだけの花に喜ぶだろうかと小首を傾げる。
そんなイリを見て、初めてゼノの妻も息子も少し表情を緩めた。あとはぽつぽつと近況を話し、名残惜しくも映像を切った。
ゼノ・サーフィス。前SICC施設長。葬儀にかこつけてどんな連中が来るか、家族は察していたのだろう。
それとも、生前ゼノ自身から何か言われていたのかもしれない。
ゼノの言う“喧しい連中”
イリにとっても、ゼノにとっても。会わないのなら、その方がいい。
「…行こ」
モニターの電源を切り、立ち上がる。自動で開く鉄扉を過ぎ、巨大水槽の淵に立った。常に手中にあったモニターも、今はない。
水底には常と同じく黒影。イリの来ている正装も、黒一色。
「ゼノ、サーフィスが亡くなった」
うっすらと金色の珠が開き、さらに大きくなった。
反応があったことに対して、イリは何も言わず続けた。
「前の訪問が最後の外出だったようで」
ざわり、と水面が波打つ。ゆうらりと、黒影が動いた。
「一週間後、病院で看取られた」
ざわざわと、さざ波が起こる。
空調完備されたはずの室温が、心なしか下がってきた気がする。
竜が反応を示したことに、イリは目を伏せた。
「悼んでいるの、悔やんでいるの」
波が大きくなる。忙しなく、何かを訴えるようで。
「…まぁ、いいや」
前より顔色悪く、頬がこけた。歩みも時々ふらついていた。
杖だって使っていなかったのに。差し出した腕には点状の紫斑がいくつもあった。針を刺した跡だ。治療か、検査の跡だろう。なのにイリは何も言わなかった。
言わずとも分かった。イリがわかったことを、ゼノも察していただろう。
じゃあな、と竜に言った姿。彼はいつもなら「またな」と言っていた。
その意味を、イリには推測しかできないけれども。
「それだけ。着替えてくる」
伝えるべきことは伝えた。
後は着替えていつもの白衣を纏い、業務に戻るだけ。
背中を向けた水槽で、未だに水面がざわついていることに気付かないふりをして。イリはまた、鉄扉の向こうに戻っていった。