第一章:アフリカの黄昏、アブズの沈黙
第一節:二ビルの記憶と「支配」の終わり
その時、私、エンキは、アフリカの下東部、アブズの底知れぬ深淵に身を置いていた。 かつて、故郷の星、惑星二ビルの大気圏シールドを補修するために、黄金を求めて我らが穿った大地の裂け目は、今や悠久の時を封じ込めた巨大な石の墓標のように、重苦しい沈黙を守っている。壁面に埋め込まれた青白い発光クリスタルが、残光のような微かな光を放ち、かつてここが惑星二ビルの生命線であったことを静かに物語っていた。
私は、自らの内側に去来する幾億もの星々の瞬きを数えていた。 かつて、遥か彼方の惑星二ビルにおいて、私は「エア」と呼ばれていた。私はその惑星の皇帝、この地球の人々から、「エル・シャダイ」、「最高神」と呼ばれる存在の庶子長男であった。もちろん、不老不死に近い一族は今もなお健在である。しかるが、もはやこの惑星のことを気に掛けることはない。二ビルの大気圏シールドは、新たな技術「量子フィールド」で覆われ、このティアマト、地球、ガイアと呼ばれる惑星の黄金に頼る必要がなくなったのだ。それと同時に、私とともに降りた同胞のほとんどは、宇宙における種族の創造の定めに従い、自立進化段階に至ったヒトの支配者としての地位を退き、故郷の二ビル星に帰還していった。
かつての私は、大気層の崩壊を食い止めるべく、天より地に降り立ち、荒れ狂う水を鎮め、世界の秩序を定めた開拓者。その後、エデンと呼ばれた「約束の地」においては「エンキ」の名で、粘土に生命の息吹を吹き込み、我らアヌンナキ(天より地に降臨せし者)の形に似せて、ヒトという種を創造した。そして、ある時は「ヤハウェ」として、荒野を彷徨う民に雷鳴のごとき法を与え、畏怖と崇敬の対象となり、血塗られた歴史の舵を握ってきた。
だが、今、私の心を満たしているのは、全能の支配者としての昂ぶりではない。 それは、寄せては返す波のように、胸を締め付ける「郷愁」と、逃れようのない「憂い」であった。 かつて二ビルの空を覆っていた赤褐色の塵の盾。それを修復するために流された同胞の汗と、その過程で産み落とされた「ヒト」という存在のあまりにも短い寿命。支配とは、責任という名の枷でもあったのだ。
アヌンナキが、宇宙における種族の創造の定めに従い、ヒトの支配者としての地位を退いてから、どれほどの月日が流れただろうか。私はこのアフリカの地で、ただじっと、我らが蒔いた種がどのように芽吹き、どのように枯れ、そしてどのように地を覆っていくのかを見守り続けてきた。それは、庭師が去った後の庭園を遠くから眺めるような、寂寥感に満ちた時間であった。
拠点は、このアブズにある。かつて、ヒトに原始の知恵を与え、灌漑の術や文字を授けた文明の揺りかご。 私が、愛しき遠孫であるダビデ、そして全知全能の叡智を誇った王ソロモンを守護してから、地球の時間にして約七百年の歳月が、地層のように重なり、堆積していた。
「時は、残酷なまでに流れたか……」
私は独りごちる。私の吐息は、湿り気を帯びた地下の冷気に溶け込み、壁面に刻まれた古い楔形文字の溝を、愛撫するように撫でていった。その文字は、もはや現世の誰にも読まれることなく、石の記憶の中に埋もれようとしていた。
第二節:アダパの面影、希薄化する魂
アフリカの地も、かつて私が「約束の地」として定めたカナンも、もはや私が守護すべき「器量」を備えた人物は、砂時計の最後の一粒のように少なくなっていた。 その原因が、単なる時の経過にあるのではないことは、誰よりも私が知っていた。 異なる血が混じり合うことによる精神の希薄化。そして、闘争の後に訪れた緩慢な平和という名の澱み。それはヒトの魂を磨り減らし、かつて彼らが持っていた神聖なまでの「誠実な心」と「清らかな魂」を、霧散させていった。
目をつむれば、昨日のことのように思い出される。 最初の人類、「アダパ」との日々が。
「彼は、私の種であった。そして、私の僕でもあった……」
私は、脳裏に浮かぶアダパの、あの吸い込まれるような純粋な瞳を追う。 かつて「神」と呼ばれた我ら種族の統治構造において、私は彼に対して厳格な教師でなければならなかった。掟を授け、知恵の限界を定め、時には愛ゆえの冷酷さで突き放したこともある。 だが、私は生涯、一度たりとも、彼を単なる労働力や奴隷として見たことはなかった。
彼は私の創造物であり、同時に私の息子でもあったのだ。 言葉を介さずとも、私の憂慮は彼の心に響いていた。だからこそ、彼は終生、私を敬慕し続け、その短い、瞬きのような一生を誠実に捧げた。彼への想いは、今も私の不老の身体の中で、鮮烈な痛みとともに懐かしく拍動している。 ノアにしても同様だ。神々が人類を抹消しようと決めた大洪水という名の絶望の中で、彼は私という存在の微かな囁きを信じ抜いた。彼の中には、確かにアダパの魂が、濁流に耐える火種のように引き継がれ、在り続けていた。
しかし、今の彼らを見よ。 今生の彼らの子孫たちの中に、在りし日の彼らの気高い輝きを見出すことは、もはや困難になりつつある。彼らの祈りは形骸化し、誠実は打算へと取って代わられた。 我らは支配を放棄した。それは「支配される段階」を終えたヒトが、自らの意志で歩むための必然の選択であった。 だが、支配を解いた後に残るべき「自律」と「真理への探求」までもが、利便という名の安らぎに呑み込まれていくのを、私は黙って見ていられなかった。
守護とは、ただ遠くから沈黙を守ることではない。 かつて、我らが人類の存続をかけて、天界の法を犯してまで重大な決断を下した時、我らを創りしさらなる高次の存在……「大いなる意志」が、啓示とともに我らを動かしたように。 今、私もまた、ヒト種族の創造者としての、そして「親」としての義務を果たすべき時が来たのではないか。
「彼らは、私の種なのだ。古き大樹の切り株から、再び力強く天を目指す『ひこばえ』なのだから」
私は立ち上がった。アブズの闇を、私の黄金の瞳が放射状の光を放って射抜く。 私は決意した。 再びの「約束の地」を創成する。 それは、既知の地図にある場所ではなく、東方の果て、私がこの惑星を設計した際に密かに定めていた、聖なる地でなければならない。
第三節:創造主の義務と「ひこばえ」の覚醒
その地は、第二のアフリカでなければならない。 その地は、第二のイスラエルでなければならない。 私は知っている。この地球という惑星の地形は、宇宙のエネルギーが物質化した縮図であり、万物の「型」であることを。アフリカの広大さと、イスラエルの峻厳さを併せ持つその地こそ、再生の揺りかごにふさわしい。 他の神々は直ちに気づくだろう。嫡子たる私の異母弟エンリルも、孫娘である知恵の女神イナンナも、その地の形が持つ意味に戦慄するに違いない。ヒトの諸民族も、その地の特異な配置ゆえに、やがてその事実を知ることになるだろう。 それでよい。その隠された暗号こそが、私の創造者としての、人類への消えることのない「愛」の署名となるのだ。
「愛」は、私が人類に示した言葉だ。それは情念ではない。その型が真意を語る。「天の下、一つ屋根の下で、雨降る日も心を久しくする」という意味である。「神は言」なりなのだ。
私は、かつての故地イスラエルから、イサクの子孫らを呼び寄せた。 彼らは数世代にわたって砂漠に耐え、血脈を繋いできた精鋭たちだ。彼らは私の前に集い、かつてのヤハウェの顕現を思わせる光景に畏れおののきながらも、その瞳の奥には、風化した岩の隙間に咲く花のような、かすかな気高さを宿していた。
「汝ら、イスラエルの子よ。よく聞け」
私の震える低音が、彼らの魂の深淵を物理的な圧力となって揺らす。
「私は汝らを二度と支配はしない。その月日は、汝らの短い一生を何百回と繰り返すほど、既にあまるほどに数えた。だが、私に一つの、消えることのない想いがある。故に、汝らと、汝らの祖先の血の記憶に問う」
私は彼ら一人ひとりの顔を、数千年の記憶と照らし合わせながら見渡した。
「汝ら、平穏なる日々歳々の、ぬるま湯のごときくびきを断ち、再びの『方舟』に乗り、世界がまだ目覚めぬ東の果て、新たなる地へと赴く志があるか。あるいは、このまま歴史の塵となって消え去ることを望むか」
重苦しいざわめきが広がった。彼らは顔を見合わせ、その足元は戸惑いに揺れた。私はさらに、言葉を刃のように重ねる。
「私は汝らを守護し、影のように手助けはしよう。だが、これは汝ら自身の手で、汝らの血で成さねばならぬ聖業だ。荒海原に漂う方舟は汝らで造り、汝ら自身の腕で漕がねばならぬ。新たな約束の地は、誰かが用意してくれる楽園ではない。それは汝らが自ら斧を振るい、血を流して切り拓く、峻烈なる未開の地である。その覚悟、在りや否や」
その時、沈黙を破ってイサクの子孫の長が進み出た。 彼は私の発する不可視の神気によって全身を震わせながらも、抗うように力強く片膝をつき、絞り出すような声で答えた。
「我ら……。いにしえより、主ヤハウェの恩寵によってのみ、この世に繋ぎ止められてきた者。すべては、主の御意のままに……」
私はその形式的な答えを聞き、深い悲しみとともに静かに首を振った。
「『御意』という言葉を捨てよ。私は、汝ら自身の心底にある『意思』を問うているのだ。隷属の膝を立て、一人の男として答えよ」
驚いたように顔を上げた長に対し、私は人智を超えた慈しみを瞳に湛えて告げた。
「汝らは、私の『ひこばえ』だ。折れてもなお、命を繋ごうとする若芽なのだ。私は、汝らの主として命令しているのではない。同じ命を共有する、汝らの『親』として問うている。もし、安寧な日々を愛し、今のくびきの中で枯れていくことを選ぶなら、それもまたよし。私は決して咎めない。失望もしない。それもまた私が蒔いた不完全な種が選んだ道であり、その結果もまた私が引き受けねばならぬ、創造主の業なのだから」
完全な静寂が、アブズの空間を支配した。 やがて、長の瞳の奥底で、数百年もの間、彼らの血の中で燻っていた「アダパの熾火」が、激しく燃え上がるのを、私は見た。 彼はゆっくりと、だが迷いのない動作で立ち上がり、私の黄金の瞳を真っ直ぐに、対等な存在として見つめ返した。
「大御親とともに、我ら、この試練を成し遂げましょう。それが、我ら一族の、真実の意志にございます!」
彼の声は、もはや震えてはいなかった。
「かつてのエルサレムは、他国に蹂躙され、もはや魂の依代ではありません。しかし、ソロモン王が我らに残した種と、その高い志は、今も我らの血脈の中で静かに脈打っています。我らはこの時が来るのを、世代を超えて待ち望んでおりました。我らに、かつての英雄たちの器量の、その欠片でも残っているならば……主とともに、いや、私たちの父とともに、地の果てまでも、その遥かなる旅路に参りたく存じます!」
「……よくぞ答えた、我がひこばえよ。その言葉を待っていた。むろん、汝の言う他国も者らも、二ビルの、アヌンナキの系譜の者ではある。しかるが、その者らは、私の理想とした系譜、この惑星ティアマトの意思に同期する者らではない。やがては、汝らの導きにより、その意味を知る者となろう。」
私は満足げに、そして深い安堵とともに微笑んだ。 その雄々しき姿は、かつて知恵を盗み、神々に立ち向かったアダパ、そして荒れ狂う嵐の中で沈黙の神に祈ったノアの、あの不屈の魂と完全に重なり合った。
「ならば、我と伴に行かん。否、汝らと伴に、我も行こうぞ! 汝、イサク、我が系譜を受け継ぐ、イスラエルのひこばえよ。汝に、新たなる門出にふさわしい名を与えよう。だが、それは主が僕に与える刻印ではない。汝の遠き親として、愛を込めて贈る名だ」
私は彼の手を力強く取り、その魂の核に、永遠に消えることのない光の刻印を刻んだ。
「その名は汝のみの名ではない。我が名とともに在り続け、未来永劫、その土地を祝福する名だ。これより、汝は『イ・ハ(E・Hweh)』と名乗るべし。そして、汝が導くであろう約束の地、太陽の昇る黄金の島は、『ヤーハン(Yhawehn・E)』となるべし!」
アブズの奥底で、万雷の拍手のような共鳴が響き渡った。 こうして、失われたエデンの再生を、極東の地において実現させるための、壮大なる再航の旅路が始まった。 それは、地球の東端、昇る太陽が最初に世界を照らし出す場所――「日本」へと続く、二千三百年の歳月をかけた人類救済の物語の幕開けであった。




