政略結婚も悪いことばかりじゃない
はじめて恋愛もの書きました。
「王族の風上にも置けない下衆男! 今夜をもって、あなたとの婚約を解消させていただきますわ!」
大国ヴァルファール王国の宮殿で開催された華やかな舞踏会。各国から招かれた要人や王族がワインに舌鼓を打つ中、女性の甲高い声がなごやかな空気を切り裂いた。
誰もが突然の宣言に驚き、声がした方をのぞきこめば、そこには強気に顎を上げる女性の姿。ヴァルファール王国の貴族、アエリアナ・ワイアット伯爵令嬢だ。整った目鼻立ちは間違いなく美しいものの、同時にややキツい印象を与える。
そんな彼女の眼前に立っていた私は、客人たちの視線が自分とアエリアナ嬢の間を往復しているのを見て、ようやく『王族の風上にも置けない下衆男』とやらが自分のことだと気づいた。
「アエリアナ嬢? 一体なにを……」
「あなたがわたくしにしたひどい行いの数々、忘れたとは言わせませんわ。自分より立場の低いわたくしを嘲笑したこと、家名を侮辱したこと……そして何より、暴力を振るったこと!」
「そんなことしてな……」
私の困惑の声は、客人たちのどよめきにかき消されてしまう。
まあ、そりゃそうだよな。ヴァルファール王国に比肩する大国、タロス王国の王子が婚約相手に暴行を働いていただなんて、一歩間違えれば二国間で戦争が起きかねない大事件だ。
そんな大事件の引き金に軽々しく指をかけていることを、我が婚約者はよく理解しているんだろうか。
とにもかくにも、まずは疑惑を晴らさないことにはどうしようもない。私は一つ咳払いをして注目を集めると、いつの間にかできていた客人の輪の中で声を張り上げた。
「いま君が挙げたような暴言および暴行だが、まったくもって覚えがないよ。そもそも、なぜ婚約中にそのようなことをする必要があるんだい?」
「言い訳は聞きたくありませんわ。いくつも証拠があるのだから」
それまで遠巻きに成り行きを見守っていた客人たちが、証拠なるものを一目見ようと輪を縮めて近づいてくる。
アエリアナ嬢はおもむろに腕を上げると、白い手袋をそっと外した。あらわになった彼女の細い腕には大きな紫色の痣があり、それを見た周囲からは悲鳴に近いざわめきが上がった。
もし私が王子という身分でなければ、そしてここに集う客人が爵位を持つ紳士淑女でなければ、私は今ごろひどい罵声を浴びせられていることだろう。だが、私は真相を知っている。
「数日前、新しいドレスの丈が長くて転んでしまったと教えてくれたのは君じゃないか」
「ひどい! 私が嘘をついたというの!?」
ちょっと無敵すぎじゃないか? このままでは、私がなにを言ってもこれで押し通されてしまう。
私はしかめっ面をしたいのを堪え、どうにか冷静な口調で反論する。
「そうは言っていないよ。なにか思い違いをしているんじゃないか?」
「いいえ。証人もいますわ。お願いしてもよろしいかしら?」
甲高い声から一転、彼女の媚びるような甘い声とともに現れた人物を目にして、私は目を見開いた。
「レオニス殿下?」
レオニス=ヴァルファール。その名が示す通り、ヴァルファール王国の王子だ。常に人当たりのいい笑みを浮かべ、誰に対しても物腰柔らかに接するため、国民からの支持は相当高いと聞く。
一方で、裏では権力を振りかざして好き放題やっている、平民に扮しては夜な夜な遊び歩いている、など黒い噂も絶えない。
「私が神に誓って証言しよう。この男はアエリアナ嬢を侮辱し、あまつさえ手を上げた。ヴァルファール王国の王子として、我が国の者がそのような扱いを受けているというのは看過しがたい」
ふてぶてしく顎を上げたレオニス王子のそばでは、いつの間にかアエリアナ嬢が腕を絡ませて上目遣いをしている。あれ、一応私の婚約者のはずなんだけどな。ていうか、レオニス王子って……。
と、ここでピンときた。
貴族の令嬢に課された使命は、より上位の爵位を持つ貴族または王族と結婚すること。いわゆる政略結婚というやつだ。そうすることで自らの家名が上がり、貴族としての地位が盤石なものとなる。
私とアエリアナ嬢の婚約もその類のものだ。しかしながら、令嬢はあまり異国に嫁ぎたがらない。なぜなら、嫁ぎ先との文化の違いや政治的な思惑から孤立しやすく、苦労が絶えないのが現実だからだ。
では、貴族の令嬢にとって最善なのは何か――そう、自国の王子との結婚である。文化的な違いがなく、もちろん相手も同国出身なので周囲から孤立しづらい。
つまり、この婚約破棄は、レオニス王子に鞍替えするための計画の一部なのだ。
「……まったく」
「なにか言ったか?」
「いや、なにも。ところで殿下、私が彼女に暴言を吐き、手を上げている現場を目にしたとのことだが、いつどこで目撃したのか聞かせてもらえないか」
私とアエリアナ嬢は婚約関係にはあるが、結婚式を執り行うまではそれぞれ自分の国で過ごすことにしていた。ただ、式までさっぱり会わないというわけにはいかず、私の方から定期的にヴァルファール王国を訪れていたので、もしレオニス王子が口にした日時が私の出入国記録と合っていなければ、その証言は効力を失うことになる。
さあ、どう出る。口をつぐむか、それとも賭けに出るか。
レオニス王子はきっと私を睨み、アエリアナ嬢を抱き寄せた。
「彼女は心に深い傷を負っている。……今この場で、そのつらい記憶を思い出させたくない。悪いが、具体的な話は控えさせてもらえないか」
「では、アエリアナ嬢には一時退出してもらっては?」
「本人を蚊帳の外にしようというのか。どこまでも救えぬ男だな」
……こいつも無敵だった。これじゃあ私が気遣いできない嫌味な男みたいになってしまうじゃないか。
レオニス王子の言葉は詭弁もいいところだが、彼のすごいところはそれを信じさせる表情づくり、言葉遣いだ。なるほど、いくら黒い噂が流れ出ようと、国民が彼に熱中してやまない理由が分かった気がする。
続いてはどう攻めようかと考えこんでいると、不意にレオニス王子が嘲るように言い放った。
「やはり、タロスの人間には黒い血が流れているのだな」
周囲が息をのむ。先ほどまでの喧騒が嘘だったかのように広間は静まり返り、誰しもが私の反応を伺っている。
黒い血。それはタロス王国の人間に対する最大の侮辱だ。昔からタロス王国には黒い水が湧き上がるのだが、飲めば体調を崩し、畑にまけば作物を枯らすという死の水であり、タロス王国は代々周辺国から水の援助を受けてきた。
そんな背景もあり、タロス王国の人間はことあるごとに『黒い血が流れているから』などと嘲笑されてきたのだ。
だが、それを一国の王子が言うなんてな。
「……ほう、黒い血とはな」
「婚約者に手を上げるなど、おおよそ赤い血の流れる人間の所業とは思えん。どうだ、決闘でもして試してみるか?」
「いいや、それには及ばない」
ここで挑発に乗っては同じ穴の狢だ。
私は芝居がかかったように両腕を広げ、アエリアナ嬢に向かって片眉を持ち上げた。
「アエリアナ嬢、君の言わんとすることはよく分かった。しかしだね、レオニス殿下の証言一つでは決定打とはならないんだよ」
「レオニス殿下が信用ならないというの!?」
「そうは言っていない。ただ、君も彼も同じヴァルファール王国の人間であるというのは、公平性に欠けると言いたいんだ」
「彼は王族なのよ!」
「私も王族だ」
アエリアナ嬢は押し黙り、ぎりりと歯ぎしりをした。ヴァルファール王国唯一の王子であるレオニス王子の力を借りれば私など簡単に黙らせられると思っていたのだろうが、それはとんだ思い違いだ。同じ国ならいざ知らず、他国の王子にできることなどたかが知れている。
しかし、どうやら思い違いをしていたのは彼女一人だけではなかったらしい。
「貴様! こちらが下手に出ていれば、よくもぬけぬけと……この私さえも侮辱する気か!」
こちらがなかなか屈しないことに苛立ちを覚え始めたのだろうか、レオニス王子が額に青筋を浮かべて私を指さす。ていうか、そもそも下手に出てないだろ、君たち。
「そのようなつもりはない。ただ疑問なんだよ。日常的に暴言を吐いていたというのなら、レオニス殿下以外にも目撃者がいてしかるべきじゃないか?」
「人目につかないところで言ったのよ!」
「しかし、レオニス殿下だけは目撃していた、と。なかなか奇妙な話だ」
レオニス王子の顔が少しずつ赤くなっていく。さすがに証言に無理があることを悟ったか……いや、今の時点でそれに気付けるなら、最初からこんなことはしないか。今はただ、私がしゃべっていることに苛立っているだけだろう。
「そもそも、侯爵ならまだしも、伯爵令嬢が一国の王子と二人きりで会っていたというのもにわかには信じがたい話だ」
「わ、我が国は身分には囚われないのだ。貴様と違ってな」
「婚約相手がいるというのに? 少なくとも我が国では、婚約相手がいる者同士で腕を組むのはナシだな」
私の言葉に、ざわりと広間中がざわめき立った。「レオニス殿下、婚約者がいらっしゃるの?」とか、「そんなこと、聞いたことがないぞ」とか、客人たちが好き勝手に言い合っている。一応、ここは格式高い舞踏会の場のはずなのだが、各国の要人であってもゴシップには目がないらしい。
さて、レオニス王子はどう反応するかな、といたずらをした悪童のような気持ちで目を戻すと、彼は顔を蒼くしてわなないていた。
「なぜそのことを……まだ公表していないのだぞ!」
しらばっくれれば勝手に私が言っているだけで済んだものを、たった今公表したようなものじゃないか。まあ、それを指摘してやる義理はないけど。
「知っての通り、我が国は水や食料の大部分を他国からの輸入に頼っている。したがって、他国の政治が傾けば、そのまま我が国の損害につながる可能性があるのだ」
「そ、それが何だというのだ!」
「情報だよ。なんら資源を持たないとされる我が国において、もっとも重要なものは情報ということだ」
民からの情報収集、裏商人との情報の売買、そして王宮への密偵……みなまで言うつもりはないが、タロス王国を前に隠し事は意味をなさない。
「さて、私の記憶が正しければ、ヴァルファール王国は一夫多妻を認めていないはずだが?」
「私は……ええい、離れろ!」
「な、何をなさるの!」
おっと、これは泥沼だな。レオニス王子はアエリアナ嬢を半ば突き飛ばすようにして距離をとり、鼻息を荒くしている。
「私はあくまで同国の友人として、彼女の相談に乗っていただけだ!」
「こういうのは本人たちがどう思うかではない。された側がどう思うか、なんだよ」
私はそう言い放ちながら、背後から静かに歩み寄る一人の女性に場所を譲った。途端にレオニス王子が目を引ん剝く。
「エイリス……王女……」
「ごきげんよう、レオニス殿下」
エイリス=ディアント。ヴァルファール王国の隣国のディアント王国の王女であり、レオニス王子の婚約相手である。
アエリアナ嬢に比べると若く、顔だちもやや幼い印象を受けるが、その実は他国にも噂が届くほどの才女だ。それでいておしとやかで気品があり、小さな宝石が散りばめられた髪飾りが魅力を引き立たせる。
「なんと、エイリス王女が……!」
客人たちはそろって言葉を失っている。
そりゃそうだ。なんと言ったって、彼女は宝石の国の王女なのだから。
ディアント王国は『足元を掘れば宝石が出てくる』などと言われるほど宝石の鉱床が多く、通称『宝石の国』と呼ばれている。そのため、この大陸では最も豊かな国であり、ディアント王国と関係を持つことができた国は、同盟が続く限り資金難に陥ることはないと言われてきた。
そんなディアント王国が、婚約相手にレオニス王子を選んだという情報を聞いたとき、最初に感じたのは純粋な驚きだった。ディアント王国は婚約者選びにかなり慎重になっていて、黒い噂のあるレオニス王子を選ぶことはないと踏んでいたからだ。
だが、考えてもみれば、ディアント王国もレオニス王子の外面の良さにやられたのだろう。噂の真偽を確かめようと直接会ってしまうと、あっという間に虜にされてしまう。癪だが、彼はそういう人間らしい。
まあ、今のところ、顔を真っ赤にしてぷんすか怒っているだけだけど。
「え、エイリス王女、なぜ出てきたんです!? いや、そもそも、参加していたなんて……」
「婚約者がいるということを知られてしまった以上、隠し通すのは難しいと判断したからです。それに……」
エイリス王女はちらりと私の方を見ると、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「このお方が、私に出てくるようおっしゃっているように感じましたので」
「そう感じさせてしまったのなら申し訳ありません」
「かまいませんよ。いずれにしろ、出ていくつもりでしたから」
エイリス王女はレオニス王子に向き直ると、毅然とした口調で告げた。
「我が国では、婚約者がいる身でありながら、異性と腕を組むことは不貞行為とみなされます。したがって、この場で婚約を解消させていただきます」
「ま、待て! 私は……!」
青くなったり赤くなったり白くなったり、レオニス王子はずいぶん忙しそうにしている。そこに詰め寄るはもちろんアエリアナ嬢。
「殿下、聞いていませんわ! 婚約者がいるなんて!」
「あ、いや、俺は……」
女性二人に詰められてさすがのレオニス王子も劣勢なようだが、不意にぎりりと歯ぎしりをして腰のドレスソードを抜き放った。周囲から悲鳴が上がり、一気に円が広がる。
「貴様……この私の名誉をかけ、ここに決闘を申し込む!」
「はあ?」
ここで私に勝てば形勢逆転とでもいうのだろうか。そもそもドレスソードはあくまで装飾用の剣であって、決闘用ではないのに。
どう落ち着かせようかな、とため息交じりに考えていると、エイリス王女が振り返って微笑んだ。
「期待しております」
「……ああ、ええ、どうも」
アエリアナ嬢を射止められなかったあなたの責任でもありますよ、とサファイアのように碧い瞳が告げていた。まあ、確かに、レオニス王子に魅力で劣っていたこちらにも責任があるのかもしれない……あるのか?
とにかく、こう言われてしまっては引くに引けない。私は唸りたいのを堪え、自分のドレスソードに手をかけた。
「いいだろう。だが、ここは少々手狭だ。舞踏場に上がろうじゃないか」
「よし……」
大広間の中央、一段高くなっている円形の場所に向かい合って立つ。本来は踊るための場所だが、まさかこんなところで決闘をする羽目になるとは。
「で、では、私が見届け人を務めよう」
ヴァルファール王国でもタロス王国でもない国の大臣が名乗りを上げる。
「両者、向かい合ってくだされ。……よいですか、これはあくまで名誉のための決闘です。名誉なき戦いはお控えください。勝敗は私が判断します」
先ほどまでとは一転、レオニス王子は意気揚々としている。確か情報によれば、彼はそこそこ腕がたつらしい。こうなってはどこまで真実かは分からないが。
レオニス王子は剣を構えると、嘲るように笑った。
「その黒い血を皆の前で見せてやろう」
「あなた程度にできるものならな」
試しに初手から挑発してみると、レオニス王子はあっさり乗ってきた。足を一歩前に踏み出し、剣を目にもとまらぬ速さで突き出してくる。なるほど、確かに筋がいい。
だが、こちらとて無策であおったわけではない。
レオニス王子の得意技が超高速の突きだと知っていた私は、素早くその剣をからめとった。剣がレオニス王子の手から離れ、宙を舞う。
「あっ!」
「よそ見は禁物だぞ、殿下」
素早く距離を詰めると、慌てて後退しようとしたレオニス王子はそのままバランスを崩して尻もちをついてしまった。私はその首に剣先を突き付け、落ちてきたレオニス王子の剣をつかみ取る。
「……っ、勝者、タロス王国王子!」
その瞬間、周囲から歓声にも似たどよめきが上がった。
レオニス王子はすっかり腰を抜かしていて、アエリアナ嬢は蒼ざめている。まあ、これから甘い汁を吸わせてもらおうとしている相手が無様に負けてしまっては、将来を憂いたくなるというものだろう。
「これで気が済んだか?」
「貴様っ……」
「悪いが、これ以上茶番に付き合う気はない。タロス王国としても、今後ヴァルファール王国との付き合いは考え直させてもらおう。……それと、アエリアナ伯爵令嬢」
アエリアナ嬢はびくりと体を震わせた。
「な、なに……」
「婚約破棄、謹んでお受けしよう。次はいいお相手に恵まれることを祈っている。私のような下衆男などではなく、な」
客人たちの間に徐々に広がっていく囁き声の中、レオニス王子とアエリアナ嬢だけが時が止まってしまったように固まっていた。
*****
「……まったく」
いくら向こうが悪いとはいえ、さすがに悪目立ちしてしまったので、私はバルコニーで一人ワインをたしなんでいた。まあ、ほどなくして今日の一件はなかった、というのが暗黙の了解になるだろう。公然の秘密というやつだ。
しかし、今後は身の振り方を考え直さなければならないかもしれない。知っての通り、タロス王国は輸入で成り立っているので、他国から距離を置かれると非常によろしくないのだ。
「個別で食事会をセッティングしないとな……」
そんなことをぼやいていると、背後から澄んだ声が聞こえた。
「殿下」
「ん? ああ、エイリス王女。先ほどはどうも失礼いたしました」
「そのことについて、少しお話が」
エイリス王女は有無を言わさず私の横に並んだ。
「どこまであなたの計画なのですか?」
「……おっしゃる言葉の意味が分かりませんね」
「レオニス王子は、私がこの舞踏会に参加していることをご存じない様子でした。あの方なら、出席者は全員記憶しているはずなのに。なにかレオニス王子の知らないところで手を加えられたのではありませんか?」
私は口角が上がるのを抑えられなかった。さすが噂の才女だ。
「しかし、それが私の手によるものだという証拠はないのでは?」
「逆に言えば、あなた以外手を加える理由がないのです。あなたは私を利用することで、レオニス王子の不貞行為を証明することができました。しかし、他の方々は? 私がいようといまいと、何ら変わりありません」
エイリス王女はまっすぐ私のことを見つめてくる。私はワインが入ったを軽く揺らすと、ふと相好を崩した。
「ことの発端はアエリアナ嬢とレオニス王子の不貞行為です」
「あなたは絡んでいないのですか?」
「もちろんです。私は本気でアエリアナ嬢と結婚する気でいました」
だから、アエリアナ嬢の不貞行為を密偵から聞かされた時は、さすがに驚かされた。相応にショックも受けたし、悩みもしたが、一国の王子がいつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。
そこで、彼女の不貞行為を利用することにした。
「いつかこうして婚約破棄されることは分かっていました。彼女と王子の性格からして、このような公の場を選ぶであろうということも」
「だから、私をレオニス王子に知られぬよう招待したのですね」
「ええ。あなたがいれば、さすがに王子も自重するでしょうから」
そして今回、エイリス王女がいないのをいいことに、レオニス王子は婚約破棄に打って出た。客人たちには金でも握らせれば、うやむやにできるとでも思ったのだろう。
「そういうわけで、これで私の目標は達せられたのですよ。レオニス王子とアエリアナ嬢に恥をかかせたかった、それだけです」
そう締めくくると、エイリス王女は未だ疑念の浮かぶ眼差しを向けてきた。
「それは本当でしょうか?」
「はい?」
「あなたがそのようなリスクを冒すとは思えません。私が出ていかず、沈黙を守った可能性もあったのですよ。そもそも、レオニス王子が婚約者がいることを否定したかもしれない。恥をかかせたかっただけにしては、あまりにもリスクが大きすぎます。ほかにも目的があるのでは?」
その瞬間、私はついにこらえきれず笑い声をあげた。
「やはりあなたには筒抜けか」
「何の目的があったのです?」
「あなたですよ、エイリス王女」
私はワインをエイリス王女の方に傾けた。
「あなたとお近づきになりたかったのです」
「……ご説明いただいても?」
「ええ」
私はグラスをそばに置き、居住まいをただした。
「黒い水、お分かりですよね」
「はい。飲用水には適さず、農業にも使えないと聞きます」
「おっしゃる通りです。しかし、最近新たに利用方法が見つかりましてね」
どうにか使えないかと長年研究していた成果が、ついに実ったのだ。
「――燃えるのですよ」
「燃える……」
「木より、石炭より、はるかによく燃えるのです。それだけではありません。加工すれば、新たな物質に精製できることが分かりました。硬いのに柔らかく、軽く、それでいて劣化しづらい、新たな材料です」
「燃料にもなり、材料にもなりうると」
「その通りです。これを受け、私たちは新たに黒い水を『石油』と名付けました」
エイリス王女は顎に手を当て、じっと考え込んだ。彼女なら分かるだろう、ことの重大さが。
「……もしそれが本当なら、今までの工業史を塗り替えますね」
「ええ。しかし、実用化にあたっては、多大な投資が必要です」
私はエイリス王女の瞳をまっすぐ見据えた。
「お互い、婚約者を失った身です。ここは一つ付き合っていただけませんか」
「……政略結婚はこりごりだと思っていたのですけれど」
「不快な思いはさせません。……絶対に」
真剣な口調で告げると、エイリス王女は目を伏せた。
やはり急すぎたか、と背筋を汗が伝ったとき、彼女は顔を上げて例の悪戯っぽい笑みをのぞかせた。
「うちの者にその石油というものを見せていただけますか?」
「も、もちろんです」
「それで十分に利益が得られると判断した暁には……」
エイリス王女は恭しく頭を下げた。
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
「……! でっ、では、都合のいい日を教えてください。いつでも歓迎します」
「急いては事を仕損じますよ。では、また後ほど」
エイリス王女は人差し指を立てると、そのまま踵を返して大広間に戻ってしまった。
取り残された私は、彼女の後ろ姿を見つめたまま、手のひらにじっとりにじむ汗の感覚に苦笑いした。
「気づかれたかな」
石油に投資してほしいのは本当だ。
しかし、彼女は気づいていただろう。私の本心は別のところにあるということを。
今日も綺麗だったな。
ディアント王国からの投資を取り付けようと調べていくうちに、私はいつの間にか彼女に惚れてしまっていた。
柔らかな物腰、それでいて毅然とした態度。学者をもうならせる頭脳に、宝石のような美しさ。
「石油プロジェクトには、ぜひ成功してもらわないとな」
きっとそれが、彼女の射止める一番の近道だろう。
だが、まずは政略結婚からだ。
「政略結婚も悪いことばかりじゃないな」
私は一人そう呟いた。




