第四章 鉄の重み
母さんを止められなかった。あの冷たい瞳を前にして、ただ殴り続けるしかできなかった。
あの瞬間、何かが切れた。涙じゃない。言い訳も、逃げ道も。全部切り捨てられた気がした。
翌朝、鏡の前で自分の顔を見たとき、初めて「生きる」って言葉が俺の中で血の匂いを帯びて聞こえた。
生きたい。ではなく、生き抜く。でかくて動きづらい体で、でも生き抜く。
冷蔵庫の中身はほとんど空になっていた。冷凍ピザの箱が一つ、霜を被って光っているだけ。水もあと数本。選択肢は単純だ。ここに残って衰弱するか、外に出て食料を取りに行くか。
俺はバックパックを背負った。足腰は重い。息切れが早い。けど、その重さを抱えたまま立ち上がれなかったら、それこそ終わりだ。家のドアを閉めるとき、振り向かなかった。振り向けば立ち止まる理由が山ほどあったからだ。
スーパーまでは歩いて十五分。昔ならたいした距離じゃない。でも今は違う。道は無秩序に転がる車と割れた窓、倒れた自転車で塞がれている。時折、向こうの角から低いうめき声が漏れてくる。俺はそれを聞かないふりをして、呼吸を整えた。
駐車場に着いたとき、眼前に鉄の塊が転がっていた —— 錆びた、だが確かな重みを持つ鉄パイプ。落ちていた。誰のものでもない。雨にさらされ、泥で半分黒くなっている。
手を伸ばし、握る。ひんやりと冷たい感触。重心を確かめると、スッと計算が頭に入った。長さと重さが、振り回すのにちょうどいい。プラスチックのステッキとは違う。こいつなら、相手を確実に止められる。
「よし……これで行く」
振り方を確かめるために、俺は古い木箱を数回殴った。体幹がぶれる。息が上がる。だけど、パイプの重みが腕から腹へと伝わり、無駄な力が抜けていく感覚があった。力じゃない、使い方だ。体力のないやつは工夫で補えばいい。俺はそこから学ぶ。
スーパーの自動ドアは割れていた。内部はもぬけの殻かと思いきや、淡い光の向こうに人影が見えた。遠目には生き残りかもしれない。だが、それはじきに動き出した。こちらへ向かって、よろめきながら歩いてくるのは──人間じゃない。顔の皮膚が裂け、肩には血の筋。ゾンビだ。
心臓が早鐘を打つ。足が動く。俺は駆け出したわけではない。パイプを両手で握り締め、相手の動きを見定めた。ゾンビは直線的だ。ターゲットを追う習性がある。距離を保てば、こちらの有利だ。
最初の一撃は、相手の肩口を狙った。骨に当たるような鈍い感触と共に、ゾンビはよろめく。二撃目を、胴に叩き込む。倒れる。だが、倒れても完全には止まらない。腹部に力を込め、追撃を入れると、頭蓋を砕くような感触があった。静寂。
息を吐いた。手は震えているが、心は落ち着いている。パイプの先端に泥が飛んで、黒い斑点がついた。俺はその斑点を見つめながら笑った。笑ったというより、鼻で嗤った。小さな勝利だが、確かなものだ。
店内は荒れていた。棚はひっくり返り、缶やビスケットの袋が散乱している。だが、冷凍食品の棚だけは奇跡的に扉が閉まっていた。冷凍庫のコンプレッサーはうなっていない。電気が止まっている中で、冷気の残滓が漂っている。肉と野菜のパックが凍ったまま、光沢を放っている。
俺は慎重に手袋をはめ、箱詰めされた缶詰、レトルト、そして水を確保した。重さを計算してバックパックに詰める。やればできる。計画的に動けば、これだけの物資を持って帰れる。
帰り道、俺は街路樹の下で立ち止まった。握っている鉄パイプが、ただの鉄片ではなくなっているのを感じた。母さんのことを思うと胸が痛む。だけど、あの鉄の重みは俺に言ったように思えた。
「おまえは、動け」
俺は無言でうなずいた。傷だらけの手でパイプを握り直し、歩き出す。生き抜くための鉄。名前なんてつけない。道具は道具だ。だが、それがあれば、俺はもう少しだけ強くなれる気がした。
建物の影から、また呻き声が聞こえた。俺は答えるように、パイプを肩に担いだ。戻るべき安全な部屋へと、拾った食料と一緒に歩を進める。今日は――生き延びた。明日も、そして明後日も、同じように生き延びるつもりだ。




