第三章 母親
ステッキの先についた黒い血を、ティッシュで拭きながら震えていた。
初めて殺した“誰か”の重さが、腕から伝わってくる。
けど、息をしていたかった。
怖くても、汚くても、死にたくなかった。
夜が明けると、部屋の中は静かになった。
冷凍庫のピザも底をつきかけている。
逃げなきゃ、餓死する。
俺はバックパックに缶詰と水を詰め、部屋を出た。
アパートの廊下は血の臭いがこもっていて、床には靴の跡がこびりついている。
俺の部屋の隣──202号室。そこに母さんがいる。
俺はしばらく立ち止まった。
母さんは、俺の生活費をずっと送ってくれていた。
電話も出なかった俺に、何度も「外に出なさい」と言っていた。
最後のLINEは三週間前だった。
> 「具合悪くない? 外、危ないから気をつけてね。」
……開けるのが怖かった。
でも、確かめなきゃ。
ドアノブを握った瞬間、内側から音がした。
「……う、うう……」
その声を、俺は知っていた。
涙が出そうになった。
けど、もう涙なんか出てこないほど乾いていた。
ゆっくりとドアを開けると、そこにいた。
白髪が乱れ、頬がこけ、唇が裂けた“母さん”が俺を見ている。
いや、“見ているように見える”だけだった。
「……母さん」
彼女が口を開いた。
呻き声。
そして、飛びかかってきた。
反射的にステッキを振る。
何度も。何度も。
ピンクのプラスチックが割れていく。
俺の喉の奥から、叫びが漏れた。
「やめろッ! やめろって!」
動かなくなるまで、叩き続けた。
沈黙。
ステッキの先が折れた。
その瞬間、俺は気づいた。
世界はもう、優しくなんかない。
俺が守られる側じゃなくて、殺す側に立たなきゃいけないんだ。




