【第7コード】甘い初夏のプール
オルディナ学園の南区画。そこにある、大人気の“特別施設”。そこには、常温・温水切替可能な大型プール、流水アトラクション、サウナや仮眠スペースまで完備された一大レジャー施設があった。本日そこは貸し切られている。
「さぁ〜て!今日の修行場所は……プールだぁ〜っ!」
ぴょん、と弾むような声が響く。水着の上に大きめのパーカーを羽織り、タオルをくるくる振り回しながら、藤宮るるが全力ではしゃいでいた。
「は!? ……いや、修行って、聞いてたんだけど」
燐はジャージ姿のまま立ち尽くしていた。完全に気持ちの準備がズレていたらしい。
「何をそんなに固くなってるの? 心も身体も、たまにはほぐさなきゃね〜♪」
藤宮はケラケラ笑いながら、ぬいぐるみの入ったバッグを芝の上にぽふんと置いた。
温かい日差しが差し込むドーム型天井から、淡く水面が反射する。人工太陽のような照明が、現実を忘れさせるような不思議な浮遊感を空間に与えていた。
「……息抜きも、修行のうちってこと?」
「そうそう。それに、君の心を観察するにはこういう環境の方が向いてるかもでしょ?」
「……心を観察、ね」
タオルを受け取りながら、燐はどこか納得がいかないままも、施設内へと足を進める。プールの縁に腰かけた藤宮が、足をばちゃばちゃと動かしている。
「それにね……」
そう言って、るるがぱっと顔をあげた。
「――今日は、来客アリだよ〜♪」
ぱしゃん。水音とともに、向こう側の通路から姿を現したのは。
「……ま、真白……?」
燐が声を漏らす。
そこには――
肩口に白いフリルのついた水着をまとい、少し照れたように手を胸の前で重ねる少女。プラチナブロンドの髪が柔らかく光を受け、アイスブルーの瞳が揺れている。
「り、りん……こんにちは」
「な、なんでここに?」
「……神代先輩に呼ばれて。一緒に修行してるの」
その後ろから、制服のままの神代沙羅が姿を見せる。落ち着いた所作と整った和服風制服が、静かに場を締めるようだった。
「天音さんは今、私の道場で瞑想訓練をしています。自分の内面と向き合い、コードの本質に気づくために」
「コードの、本質……」
燐は無意識に右手を握る。自分にはまだ“名前”すらないその力――。
続いて、やや背の低い少年、木野一真が姿を見せる。
以前カツアゲにあっていた彼は心なしか少したくましくなったようにも思えた。
「ぼ、ぼくもっす。燐さんに助けられたあの日から僕も自分の強さをみつけなきゃって神代さんにお願いして..!!」
「……なるほどね」
「神代ちゃんじゃーん。久しぶりっ!」
るるが駆け寄って、満面の笑顔を浮かべながら手を振る。
沙羅はそれに微笑を返し――そしてわずかに眼光を鋭くする。
「はい、久しぶりです、藤宮さん」
ぱきん、と空気が凍る。
燐はその圧に思わず身を引いた。
「お二人って、何かあったんですか……?」
尋ねると、藤宮が悪戯っぽくにこりと笑った。
「なーんにもないよねー?神代ちゃん♡」
「はい。なにも。ただ、何度か“やり”合っただけです」
「やり……!?」
言葉の選び方の物騒さに、燐は絶句する。
「(あ、これ以上深掘りしない方がいいやつだ……)」
顔が引きつったまま黙り込む燐に、藤宮は満足そうにうなずいて手を叩いた。
「よーし、それじゃ修行はじめよっかぁ~!」
全員が集まったことで、ようやく「修行」らしき空気が漂ってくる。しかし、それでもどこか緩やかで、安心できる空間だった。
監督役の神代沙羅が前に出ると、場の空気が引き締まった。
「今日の修行は、君たちそれぞれの“心”と向き合ってもらう」
静かに語られる言葉には、どこか重みがあった。
「我々の力――コードの本質は、心そのもの。リビドーの質と量を鍛えることは、そのまま力の強化につながる」
神代が水面に手をかざし、すっと手のひらを浮かせた。
「まずは第一段階、“水面瞑想”。水の上に浮かんで、ただ心を静めなさい。雑念を払い、内なる声を聴け。リビドーの“量”を増幅する訓練だ」
燐たちは順番に浅いプールへと腰を下ろす。身体を浮かせ、水に身を委ねながら、目を閉じた。
(――何も考えるな。落ち着け)
そう念じるものの、雑念は次々に湧いてくる。明日のこと、敵のこと、真白のこと。力を欲する心がかえって集中を妨げた。
「……次」
神代の声がした。
「第二段階、“沈潜”。水中に身体を沈め、自らの“恐れ”と向き合え」
今度は深めの場所。息を止め、目を閉じて沈む。
暗い。重い。だが――
(……俺が恐れてるのは……)
――また、誰も守れないこと。
その一瞬、胸に焼けつくような痛みが走った。
目を開けた瞬間、水中の景色が歪んだ。
燐は水面を破って浮かび上がると、大きく息を吸った。
(……怖い。けど、前に進まなきゃ……)
⸻
「最終段階、“心の波紋”」
神代が言うと、3人の前に葉が差し出された。
「これにリビドーを注ぎなさい。心を映す鏡のように、その動きが今の己を映す」
燐は静かに葉に手をかざす。意識を集中し、リビドーを流す。
瞬間――葉はぶるりと震えた後、ぐにゃりと形を変えていった。角が歪み、丸くなり、また角ばり、まるで自分の心がそのまま形を成しているかのように不安定に変化し続けた。
真白の葉は――まるで透明な光に包まれるように輝きながら、徐々に若く草のごとく形を整えていく。花のような曲線美を見せながら、やがて一片のガラス細工のように澄んでいった。
木野の葉は――静かに細かく動いた
誰よりも動きは小さい。しかしその制御は確かなものだった。
神代は3人を見渡してから、淡々と告げる。
「何を意味するかは、自分自身で考えろ」
風が吹き抜け、水面に淡い波紋が広がった。
燐はその揺らぎをじっと見つめながら――
自分という存在の、輪郭を探し始めていた。
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修行が始まって1週間が経過した。
青空の下、燦々と降り注ぐ陽光に照らされながら、温水プールにはゆるやかな波が揺れていた。サウナやウォータースライダー、流れるプールなどを併設した学校所有のレジャー施設とは思えないその空間に、浮き輪に乗った少女が一人、のんびりと漂っていた。
「ふふ〜ん♪ ねぇ燐くん、だいぶ良くなってきたんじゃない? リビドーの使い方」
藤宮るる。うさぎのピンでまとめたラベンダー色の髪を濡らしながら、浮き輪の上でご機嫌に足をバタつかせていた。
プールサイドにいた燐は、少しだけ笑みを浮かべて応じた。
「……実感はあります。以前よりずっと、速く、強く身体を動かせるようになってる。でも……」
「コードへの理解、まだ追いついてない、って感じだよね〜」
るるは燐の言葉を先回りして補うと、ぷかぷかと浮き輪を揺らした。
「君のコード、ホント不思議だもん。浮いてる透明な盾に、柄も刃もない“光の剣”。あれが燐くんの“心”の形……なんて、気になるよね〜?」
燐は少しだけ眉を寄せ、うなずいた。
「……確かに。俺自身も、まだ全然わかってないです。もう少し、ちゃんと考えてみます」
「うんうん、それがいい〜。じゃあ、そろそろ他のふたりの様子も見てきたら?」
促されるように燐はプールを後にし、施設内を歩き出す。
◆ ◆ ◆
「燐〜!」
呼ばれた声に振り向くと、同い年の木野一真が駆け寄ってきた。どこかのんびりした雰囲気だが、この一週間でタメ口になるほどには打ち解けていた。
「修行、どう?」
「うん、いい感じ。……それより、彼女さん探してるんでしょ?」
「な……あいつは彼女じゃ……」
顔を真っ赤にして言い淀む燐に、木野は目を丸くした。
「え!? 違うの? てっきり……いや、野暮なことは言わないでおくよ。探すの手伝う」
木野は軽く目を閉じて、息を吸い込むと――
「《コード:第三の目》」
瞼を開いた瞬間、瞳の奥に淡い光が灯る。
「……ウォータースライダーのあたり。リビドーの揺らぎから察するに、真白さんだね」
「まさかそこまで分かるのか……?」
燐は驚きを隠せずに尋ねる。
「修行の成果だよ。前は“大きなリビドーがある場所”程度しか感じられなかったけど、今は微細なリビドーの波長から“誰か”まで特定できるようになってきた。……いつか、君の力になれるよう頑張るよ」
燐はその言葉に、ほんのわずか胸を熱くする。
(……すごい。ちゃんと強くなってる。頼もしい)
「ありがとう、木野」
そのまま、燐は真白の元へと向かって歩き出した。
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蒼い水面が、きらきらと陽光を反射して揺れていた。夏の空気が、ほんの少し緩んだような午後。
「ましろ!」
燐はプールサイドを歩きながら、ウォータースライダーの方へ向かって声をかけた。白い水着にフリルをあしらった少女が、振り返って微笑む。
「燐くん、どうかしたの?」
「修行、行き詰まっちゃってさ……。ましろはどう?」
問いかけに、真白はそっと水面を見つめたまま小さく息をついた。
「私も……全然。でも、自分が何をしたいのかは、少しずつわかってきた気がするの。もう少しで、きっと何かにたどり着けそうな……そんな気がしてる」
燐が目を丸くする。「……ましろが、そんなことを?」
真白はこくんと頷く。
「うん。ねえ、燐のコードについてなんだけど。私なりに、考えてみたの」
「……え?」
「燐がコードを発現させた時って、私を守ろうとしてくれた時だったよね。あの時からずっと思ってたの。燐はいつも、自分の心に素直で、すぐ自分の想った事が行動に出ちゃうって、そんな燐のところ私....」
頬を赤くする真白と燐
彼女の言葉に、燐は思わず視線を落とす。
言いかけてた言葉を1度飲み込み真白の声が続く。
「あの“葉”の動き。あれって、いろんな形になろうとしてたように見えたの。だから……燐の心も、きっとこれから何にでもなれる。そんな気がするんだ」
「……なんにでも、なれる」
燐は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。リビドー。心の形。コード。それらが線で繋がっていく感覚。
「そ、そうかな……。でも、真白に言ってもらえると、なんだか本当にそんな気がしてくるよ」
顔を赤くして頭を掻く燐。
「……ありがとう。俺、もう一回ちゃんと向き合ってみる。修行、頑張ってくるよ!」
真白は柔らかく笑って頷く。
「うん、お互いに頑張ろうね、燐くん」
──
藤宮のいた所に戻ると、藤宮るるが大きな浮き輪にぷかぷかと浮いていた。燐を見つけると、にやっと笑う。
「おかえり。……なんかスッキリした顔してるね?」
「はい……なんか掴めそうな気がしてきました!」
燐は強い眼差しで言った。
「藤宮先輩。相手、お願いします!」
るるは嬉しそうに目を細めると、ふふっと笑って浮き輪から降りた。
「よーし、それじゃあ! 特別修業編いっくよ〜っ!」
初夏の始まり、こんな泥臭い夏があってもいいと思う。
だがその後プール場は大爆発に巻き込まれた。
そしてその事件は燐を更なる波乱に巻き込む事となる