出会いがしら
人は人生の中で、選択肢の海を泳いでいる。
一つを選択して進んだ道の裏側には、それを選ばなかった世界線がある。
選んだ選択が幸せへと繋がるときもあれば、悲惨な道を歩かせてくることもある。
例えばそこの、トラックを運転している青年とか。
十代後半だろうか、とりあえず手ぐしで整えただけの髪と、目下にクマを携えている。
その黒い目は生気をなくしていて、見るからに疲れた様子である。
この状況は彼の数々の選択による結果なのだが、
例えば彼が、高校に通いながらバイトだらけの毎日を送っていなければ
例えば彼が、夜勤の翌日に日勤を挟んでいなければ
例えば彼が、そのあとに朝までゲームをしていなければ
例えば彼が、ちゃんと睡眠をとっていたならば
例えば彼が、トラックを走らせなければ
起こりえなかった未来が、あるかも知れない。
* * *
鮮やかな青空に白雲が点々と浮かび、太陽が世界を明るく照らしていた。のどかな土曜日の朝、暖かい日の光が青年のトラックにも差し込む。
彼はしっかりと前を見ているつもりだったが、その視界が徐々に白んでいく。暖気に誘われて、青年のまぶたが下がっていった。
前方の交差点では車用信号が青から黄に変わり、ほどなくして赤になった。しかし青年の足はアクセルに自重を乗せたままで。
歩行者信号が青になり、機械から鳥の歌が鳴り始める。人々が渡る歩道に走行音は突き進み、大きな衝突音が鳥の声を遮った。
青年のトラックは横にあった電柱にぶつかって停止する。その衝撃と轟音で、青年の意識は強制的に引き戻された。
「っ……」
激しい痛みに頭を押さえる。額から血が流れて手につくが、それよりも慌てて前方を見やった。
割れたフロントガラスの先で、道路に女性が倒れているのが見える。彼女の周りで、黒いコンクリートを赤い海が浸食していた。
青年は目を見開き、急いで車の外に出て彼女のもとに走った。
「お、おい!! だいじょう……」
大丈夫なわけないが、自然と言葉が出てきてしまう。しかしその言葉の続きは、目の前の光景に飲まれて喉奥へと沈んでいった。
「あーあー。痛いぞー? 骨折れちゃった? バキャっていったよ? どうしよう死んじゃう」
女性は平然と立ち上がり、全身から血を流しながら陽気な声で呟く。
女子高生だろうか。身にまとう制服は赤く染まっていて、ところどころ破れて痛々しい傷があらわになっている。
四肢が本来の可動域を超えて曲がっているが、痛がる様子もない。
そして折れ曲がった手足を、骨音を鳴らして元の位置に戻していた。
「……」
目の前の光景に奥底から恐怖を覚えて青年は息を飲み込んだ。
「元気……そうで……何よりだ」
本当は声も掛けず走り去りたかったが、仮にも彼女を轢いた身であるため見て見ぬふりはできず、顔を引きつらせて話しかける。
青年に声をかけられて初めて、女性は彼を見た。
黒い髪が揺れ、真っ赤な虹彩が青年を捉える。
(赤い、目……?)
外国人か、それともカラーコンタクトか。それにしては現実では見ないほど鮮やかな赤々とした虹彩。
まるで作り物のようだが、自分たちと同じ生を感じる目。
しかしどこか違和感があって。その感覚は気持ち悪いものだった。
それでも青年はなぜか、赤い目に視線も思考も奪われていた。
「お兄さんが私を轢いたんですか?」
「え、あ……」
問われて青年は意識を引き戻される。痛々しく血を流し続ける女性を前に、罪悪感が一気にこみあげてきて彼はうなずいた。
続けて何か言おうとしたが、彼が顔を上げると女性は目を見開いた。
「って、ああ! お兄さん頭から血出てるじゃないですか!? 大丈夫ですか!?」
「え? いや……君の方が血出てるって」
『いや血出てるとかいうレベルじゃないけど』と青年は内心ツッコむ。
目の前で血をドバドバ流している相手に心配されて頭が痛い。
轢いた罪悪感があるとはいえど、先ほどの手足を直していた行動と、流血しながら痛がる様子もなく笑う姿に気味悪さが勝って感情が迷子になる。
「その、止血して応急手当てするから。救急も呼ばないと……」
「手当て?」
とりあえず救護を試みようとしたが、彼女は不思議そうに彼を見つめた。
そして自分の体を見て「ああ」と納得したような言葉をこぼす。
「こんな傷大丈夫ですよ。唾つけときゃ治ります」
「唾って、治るわけないだろ。今は大丈夫かもしれないけど、あとあと体に影響が出てくることもある。死なれると困るんだよ」
「死なないので大丈夫ですよ。私人間じゃないので」
「……は?」
青年は呆然とする。が、すぐに冷めた表情で彼女を見おろした。
「ちょ、ちょっと! そんな頭おかしな子を見る目で見ないでくださいよ!」
「だって、なあ?」
普通、自分は人間じゃないなどと言われたら気狂いの妄言にしか思えない。しかし先のことといい、現状の血を流し続ける相手を見ていたら、否定もしにくくなる。
「というか、不審に思わないんですか?」
「いや、そりゃあそんな状態でピンピンしてるのには違和感しかないけど」
「それもそうですけど、そっちじゃなくて」
青年は意味が分からず怪訝そうにし、彼女は小さくため息をつく。
「ほら、周りのことですよ」
彼女が横を指さし、そちらへ目を向ける。その先の景色に青年は目を見開いた。
二人の周りで、全てのものが動きを止めていたのである。
横断歩道で立ち尽くす人々。ぶれている車体の群れ。水たまりを踏んだ子供の足元で雫が宙に浮いていて、空を見上げれば鳥が同じ場所に居座っている。
「どうなって……」
「気づいてなかったんですか? さっきから人の声もしなかったし車の走行音もなかったのに」
声はおろか人の息も聞こえず、風の音すら耳に入ってこない。
それに気づかないくらい、青年の意識は全て彼女に持っていかれていた。
「い、いや。お前があまりにも異様だから」
というより、と青年は改めて辺り見回す。
「どうなってんだこれ」
「世界の時が止まっているんですよ。あなたと私を除いて」
「そんな漫画みたいなこと」
「現実的ではないですけど、幻でも夢でもないんですよ。まあ止まっているというか、私が止めているだけなんですけどね」
「お前、いったい……」
「言ったでしょう? 私は人間じゃない、って」
女性は数歩下がって制服のスカートの裾を上げ、頭を下げた。
「私の名は『アリス』。人ならざる者、人を導く者です。以後、お見知りおきを」
今まで聞いたことのない、まるで創作物の中で出るような自己紹介に青年は目を見開いた。
「さて、いつまでも赤いのを流し続けていては飽きてくるので、この辺で止めておきましょうか」
アリスと名乗った女性は姿勢を戻し、体の前で二度手を打った。すると、彼女の体から流れ続けていた血が光の粒になって砕け散り、痛々しい傷が徐々に塞がっていく。
「な……」
青年は驚愕して一歩後ろに下がり口を開いたまま唖然とする。
「どうしても人間じゃないと信じてくれなさそうだったので」
『本当は安易にこういうことしちゃダメなんですけどね』とクスッと笑う。
そんな彼女とは反対に、青年は眉を寄せて頭を押さえた。
「っ、長い夢でも見てんのか。変な夢だなクソ」
「うーん、現実なんだけどなー」
信じてくれない彼に苦笑いする。しかしそんなことどうでもいいのか、「ところで」と話を切り替えた。
「お兄さん随分、疲れた顔してますね」
「え?」
「ほら、クマできてるし。目も死んでるし。ゾンビみたいな顔」
「ああ……」
『言い方もうちょっとなんかあっただろ』と内心思いながら、青年は目元に手を当てる。
「ここ最近まともに寝てないからな。寝るというか、休憩すら取れてないというか」
「それって、働き詰めだからとかですか?」
「……」
アリスの問いに青年は無言で返した。
もちろんバイトも疲労の原因ではある。しかし昨日の夜に仕事を終えた後、すぐに寝ればいいものを彼は朝までゲームをやっていた。しかも今日は深夜帯までの長時間勤務である。
寝てないからか若干、目が充血している。黙ったままの彼を見て、アリスは顎に手を当てた。
「ああ、ゲームが要因でもあるんですかね」
「なんで分かるんだよ」
「なんとなくですよ」
彼女はにっこり笑うが、どうにも心を読まれていそうで青年は小さくため息をついた。
「でもまあ、かなり仕事漬けでもありそうですけど」
「……まあな。一日に何個もバイト掛け持ちしてるし」
青年は学校以外の時間は全てバイトに費やしている。自分の時間などほとんど持っていない。
ただあくまで自分で選んでそうしているだけで、自分の時間を持っていないというよりは作っていないのだろう。
このままの生活を続けていると死にそうな様子で、アリスは不思議そうにする。
「そこまでお金が必要なんですか?」
「借金があるからな」
「借金?」
「身に覚えのない借用書、請求書の山。総額二億だ。請求元に問い合わせても、深く調査すればするほど俺が自分の意思で背負った負債である証拠しか出てこない。違法だと警察に相談しても違法性はないと跳ねのけられる。死ぬ気で働かないと返せねーし」
青年が悩まし気に頭を押さえるなか、アリスは口角を上げた。しかしすぐにその表情を戻す。
「大変だね、君も」
「君……?」
急にアリスの態度が変わって彼は怪訝そうにする。
アリスは制服のポケットに手を突っ込み、名刺のようなものを出して青年に渡した。
その紙にはアリスの名前と、愛らしくも憎たらしい顔をしたウサギの絵が描かれている。
「もっと稼ぎたいと思うなら、名刺に書いてある場所へおいで。私がとってもいい仕事を紹介してあげるから」
先ほどの雰囲気はどこへやら砕けた口調で笑う。彼女はそれだけ言うと青年から離れ、背を向けて歩いて行った。
「え、あ、おい!」
アリスが途中で歩みを止めて振り替える。黒い髪は宙に散り、赤い瞳は楽しそうに少し細められていた。
「アリスはいつでも君を歓迎するよ」
スッと片手を前に出し、顔に悦を浮かべる。
まるで導くように。
その手を取れば、どこか知らない世界に連れ込まれそうで。
「待ってるよ――入野昇一君」
「!! なんで俺の名前」
自分の名前を呼ばれ青年は驚き慌てて彼女の元に駆け寄ろうとする。しかし突然、意識が途絶えてしまった。
「ッ!!」
脳が暗闇を認識し、意識が再起してガバッと体を起こす。目を覚まして見えたのは、先ほどの交差点だった。
昇一はトラックのハンドルに突っ伏して寝ていたようである。しかし、そのトラックは先ほどのようにフロントガラスが割れていず、へこみどころか傷一つない。
歩行者信号の鳥の声が耳に入ってきて前方を見る。彼のトラックは交差点の横断歩道の前で停まっていた。
歩行者たちが横断歩道を行き交い、交差する道路には車が走る。
前方には、さっきの赤い海に沈んだ地面もない。まるで事故などなかったかのように、普段と何も変わらない光景が広がっていた。
「やっぱり夢、だったのか……?」
そう思うと安心感が勢いよく湧き上がってくる。大きくため息をついてハンドルにもたれかかった。
突っ伏している腕に額からの汗がつく。水気を帯びる絶妙な気持ちの悪さと、先ほどの奇妙な女が頭から消えないうっとうしさで眉を寄せた。
考えてみれば当たり前の話である。夢でなければ、あんなこと起こるわけがない。そう思うことで自分を落ち着かせた。
「にしても夢でよかった……危うく免許取ったばっかで、バ先の社用車で事故るところだった……」
ぼやいているとズボンのポケットに入れた携帯のバイブが鳴った。気だるそうにポケットに手を突っ込む。
ポケットの中で携帯以外の、紙の感触がして昇一の心臓が跳ね上がった。
携帯以外をそこに入れた記憶はない。そして紙の輪郭を触って、それが名刺くらいのサイズであることを認識させられた。
「おいおい……」
それを見るのが億劫で少し間を開く。小さくため息をつき、携帯ごと一気にポケットの中身を全て取り出した。
「まじかよ……」
自分の手の中に、見たくなかったものがあって眉が下がる。
紙の中からウザい顔で見てくるウサギに大きなため息をついた。