ルチア、父と対話する
ルチア・コンラードは確認した書類を片手に、奥の扉をノックした。
中から返答が聞こえたのを確かめ、ドアを開ける。
「これ、確認済み。問題ないから」
突き出された書類を受け取ったのは、コンラード商会を率いるルチアの父親だ。
パラパラと紙をめくり、さっと目を通す。
顔をあげ、目の前に立つルチアを見た。
「すぐに終わる。そこに座って休憩したらどうだ」
「別に後でもいいのに」
ルチアはそう言いながらも、ソファに音をたてて座る。
机の上に置かれたティーセットを勝手に引き寄せて、使用されていないカップにお茶を入れた。
すっかりと冷えたお茶に眉をひそめる。
「どれだけ放置してるんだよ」
「忙しい限りでね、おかげさまで」
にっこりとした作り物の笑顔に、ルチアは顔をしかめた。
コンラード商会は今、かつてないほど大盛況である。
貴族からのお声がけが止まらず、多くのことに制限をかけている。
そのきっかけは、ルチアの婚約者でもあるサリーナだ。
付き合いの長い商人を大切にする貴族から声がかかるようになったのは、サリーナが商会の名前を広めたからなのは間違いなかった。
「ルチアの婚約者殿は、ご家族含めて随分と交友関係が広いようだ」
父親は、決してサリーナの名前を口にしない。
あくまで「ルチアの婚約者」として扱い、コンラード商会から見たサリーナの立ち位置をはっきりと周囲に示していた。
彼女はルチアの婚約者であり、コンラード商会の人間ではない。
何か特別な待遇があったとしても、それはルチアによるもので、商会は一切関係ない、というアピールだ。
コンラード商会の後を継ぐ予定であるルチアの婚約者であるにも関わらず、サリーナを完全に切り離している。
サリーナが婚約を解消しても何も変わらないように、いつまたルチアとの関係が変わるかはわからない。
確実な補償がない以上、商会を率いる立場としてはサリーナを外して考えるのは当たり前だった。
ルチアはじっと父親を見つめた。
「サリーナは、俺の、婚約者だよ」
「結果として宣伝にはなったが、頼んだ覚えはない」
すっぱりとした言い方だった。
確かに、ルチアからはもちろん、父親から何か頼んだわけではない。
ルチアが送ったものを、勝手にサリーナが身に着け、勝手にアピールして、勝手に名前を広めてくれただけだ。
「ふーん」
ルチアはすっかりと冷えたお茶に口をつけた。
胃に流れていく冷たさが、頭の奥まで冷やしていくようだ。
「だったら、次はつぶす」
ごくごくと一気に飲み干して、空になったカップを机の上においた。
立ち上がり父親の前に立つ。
ルチアにとって、婚約者であるサリーナはすでに譲れない存在になっている。
そのサリーナを追いやるような扱いをしておきながら、宣伝効果を期待するやり方は気に食わない。
瞬く父親を見下ろしたルチアの瞳は、恐ろしいほど冷えている。
父親はサインをした紙を押しやり、ペンを置く。
「…お前、怖すぎない?」
「おかげさまで」
さきほどの自分のセリフを重ねて答えるルチアに、父親は声音を変えた。
これは、本気だ。
「商会としての方針を変える気はない。わかっているはずだ」
ルチアは黙る。
父親がサリーナを本当の意味で認めるには、ルチアと結婚しただけでも足りないだろう。
離縁する可能性がある以上、一切商会の仕事を見せることはないはずだ。
コンラード商会トップである父親の方針は、おそらく変わることはない。
だが。
ルチアは口の端をあげた。
「俺は優しいから、退職後に過ごしたい希望地ぐらいは聞くよ」
父親の考えは、今のコンラード商会の方針だ。
ただ方針なんてものは、上が変われば簡単に変わる。
サリーナの扱いを変えるためなら、今すぐにでもトップの立場を奪ってもいい。
「それに、コンラード商会の名前にも興味はない。俺の情報の価値を知っている人間は、他にもいる」
一方で、ルチアは必ずしも後を継ぎたいわけではない。
継がないのであればそれはそれで、何とでもできる。
少なくとも仕事を覚えてきたルチアが持っている知識と情報は、代えがたいものがある。
学院内について網羅しているルチアの情報を欲しい人間は、数えきれないだろう。
ルチアが後を継がないことは、コンラード商会にとって大打撃になることは明白だった。
瞳が全く笑っていないルチアを、父親はため息交じりで眺めた。
「…お前、本当に怖すぎるだろ」
にっこりと淡々と父親を脅すのだから恐れ入る。
ルチアの紫色の瞳の奥に見える鋭さには、迷いがない。
これが息子なんだもんなぁ、とある意味感動である。
「コンラード商会の後継ぎは、ルチア。お前だよ」
「今すぐに後を継いでもいいけど」
「…もう少し父の扱いを考えた方がいいな」
ブツブツと言いながら、父親は書類を手に取った。
まったく、自分の父親を何だと思っているのだろうか。
「これ、返却分」
受け取ったルチアは、面倒そうにまとめている。
その雑な仕草を見ながら、息子の婚約者のサリーナを思い出す。
我が息子ながら、こんな男に気に入られてさぞ大変そうだ。
何とも気の毒である。
「婚約者殿に逃げられるなよ」
「黙って仕事して、さっさと引退したら」
射殺されそうな瞳で睨まれ、苦笑した。
ルチアの乱暴な開閉に音を立てるドアを横目で見ながら、薄く笑う。
「まぁ、頑張れ」
誰よりも大切な息子の婚約者が、大切でないわけがない。
大きく深呼吸をした男は、置いたペンを手にしたのだった。