ルチア、ひっそりと恋のキューピットになる
学院の図書館でレポートを書き上げたルチアは、目を閉じて息を吐いた。
肩を少し揉みながら片付け、その上に本を乗せる。
この本は、最近ルチアの婚約者となったサリーナ・シュベルグ子爵令嬢からのオススメだ。
分厚いし字は細かいし、正直かなり難しいのだが、遠方の国の宗教観についてわかりやすく説明されているらしい。
はっきりと言えばルチアにはかなり手強い本ではあったが、この本について語るサリーナはかなり詳しく読み込んでいることがわかったので、手にした次第である。
婚約者の令嬢に劣るなど、許されることではない。
距離感のあっさりとした婚約者は、大の親友とやらとさっさと帰ってしまっている。
あの距離感も、いずれはどうにかしたいところである。
薄暗くなった廊下を抜け、岐路につく。
学院には寮もあるけれど、平民であり商人であるルチアは、近くの店を自宅替わりにしていた。
馬車を使う必要もないので、近道である広大な庭園を抜けるのがルートだ。
その奥に見えた人影に、思わず眉を寄せる。
隣国の王女、フェアスーンと、その取り巻きだ。
全く関係性はないが、王女はルチアと同じ教養科なので一応ルチアの同級生となる。
取り巻きたちとにこやかに話している王女は、楽しそうだ。
その中に、どうにもこうにも気持ちの説明がつかない相手がいて、目を眇める。
さっさと通り過ぎれば良かったのだが、その一瞬で気づかれた。
「ルチア様」
柔らかく高い声に、にこやかに笑顔を返す。
立ち止まって「今気づきました」と、ばかりに頭を下げる。
フェアスーン王女が近づいてくるのがわかった。
「頭を上げてかまわないわ。今帰りなの?」
「はい」
頭をあげて、返事をする。
同じ学院に通っているとはいえ、相手は王女であり自分は平民だ。
ルチアは距離をあけて、視線を落とす。
王女は気にせずに言う。
「遅くまで何をなさっていたの?」
「来週提出予定のレポートを仕上げておりました。少し変更点がありましたので」
「まぁ、もう終わったのね。私も早く仕上げないといけないわ」
ふんわりとほほ笑んだ王女は、「そうそう」と両手を合わせる。
「ルチア様は婚約なさったそうね。おめでとう」
「ありがとうございます」
「婚約者の方が身に着けていらしたものは、コンラード商会のものだそうね」
「その通りでございます」
本題はこれか。
先日行われたパーティーで、ルチアは公の場で初めてサリーナを婚約者として扱った。
彼女が身に着けていたものはすべてルチアが選んだ1点もので、多くの貴族から声がかかっていたのを思い出す。
王女は少しだけ考えるように小首を傾げる。
「どれも本当に素敵だったわ。私もぜひ購入したいと考えているの」
「ありがとうございます」
「お忙しいとは聞いているけれど、来週にはお願いしたいのよ。品物については信頼しているから、私に似合うものを見せて頂けないかしら」
ルチアは舌打ちを堪えた。
「店に来て勝手に選べ」と口から出そうになる。
コンラード商会は今、有力貴族の来訪でさえ時間が取れないほど忙しい。
王女とはいえ、隣国からの留学生であり、この場が学院であれば優遇する理由などない。
そして、コンラード商会の会頭はルチアではない。
ルチアは深々と頭を下げる。
「申し訳ありません。私の一存ではお答えしかねます」
「まぁ、ルチア様。私、ぜひ選んで頂きたいと思っているのよ」
「お話は、父には申し伝えます。私ではお力になれず、申し訳ありません」
これ以上話はない、ときっぱりと強めに返す。
フェアスーン王女はまだ何か言いだしそうだったので、ルチアはザイードを見た。
ぱちりと視線が交わる。
この男が、ルチアが誰よりも大切にしたい婚約者であるサリーナの、元婚約者だ。
婚約を解消した理由について、サリーナは「縁がなかった」とけろりとして語っていたが、この男の心が誰に向いていたのかはすぐにわかった。
もやっとした気持ちが湧き出るが、ここは利用させてもらうことにする。
「フェアスーン王女殿下にお似合いのものを選ぶことができるのは、商会の人間だけではないと思いますが」
「え…?」
「周囲に多くの方がいらっしゃるではありませんか。彼らはフェアスーン様王女殿下のことをよくわかっておられるはずですよ」
ルチアはそう言って、ザイードを見た。
瞬時に赤くなる彼は、騎士としては問題があるように思える。
「店の方は開いておりますので、お越しいただければご購入は可能です。お待ち申し上げております」
言い切って、ルチアは頭を下げてさっさと歩きだした。
これ以上時間をとられてはたまらない。
王女なので外出にはかなりの制限がかかるはずだが、本当に商会に来たければ、どことなり許可をとって、貸切ればいいだけの話だ。
彼女が満足いくような品はそろえている。
あとは絶対についてくるであろうあの男が「似合います」等と言えばいいのである。
「…うまくいけば、かなり売り上げにつながるな」
王女の気に入りそうな品を金額順で思い出しながら、ルチアは口の端をあげる。
彼女が個人で買おうが、あの男が買おうが、誰が買っても売上は同じである。
だったら、たくさん購入してもらった方がいい。
ついでに身に着けてもらえれば良い宣伝になる。
あの男の財布事情はとっくに調べてある。
「しっかり貢いでくれよな」
全力でアピールをして、彼女の心を射止めてほしいと思う。
そして、留学が終わったら帰国する王女と一緒に、隣国に消えて欲しい。
彼の家には跡取りもいることだし、二度と戻ってこなくても大丈夫だ。
サリーナは、元婚約者一ミリも恋愛的な感情を抱いていないのがわかるし、むしろ何故か「皆、幸せに!」と謎の博愛精神を抱いているようだ。
彼女の瞳が自分だけを向いていることはわかっていても、ルチアの感情は全然納得いっていなかった。
彼女の部屋にも持ち物にも、彼から送られたであろうプレゼントがあるのが気に入らない。
物には罪はないけれど、あの男からの贈り物だというだけで握りつぶしたくなる。
「早く卒業したい…」
薄暗い空を見上げながら、愛しい婚約者の姿を思い出す。
卒業したら、結婚である。
まだまだかなり先になるが、引っ越しするときには、あの男の気配がするものは全部売り払ってやろうと、ルチアは拳を握りしめた。