ドン底を這って光明差す
意識が浮上した瞬間に、莟は自分の現状を理解した。
古見に突き飛ばされ、崖から落ちたのだ。
「あー…………生きてるかぁ。そっか」
地面に横たわって空を見ていた。空は記憶にあるものと違いすでにオレンジに染まっている。ずいぶん長い時間、気を失っていたようだ。
全身が痛いが、上半身を無理やり起こして周囲を見渡す。よほど転がって来たのか、四方どこまでも木々が立ち並び果てが見えない。いや、足の方向にだけ傾斜があり、遠くに落ちてきたと思しき崖が見えた。
「うっわ、遠いな」
ため息が漏れる。大声を出した程度じゃ、たとえあそこを誰かが通っても気づかれないだろう。
諦めて自分の状態を確認することにした。
あちこちから出血してはいるが、枝が貫通していたり腹に穴が開いていたりはなさそうだ。そう視線が身体を辿っていって、
「げっ」
左足が歪に曲がっていた。どう考えても折れている。ズボンをめくってみれば、そこだけ悲惨な色に変わっていた。
「よりにもよって、足か……」
骨が肉を突き破るほどでなかったのが不幸中の幸いか。落ちてきた距離と高さを思えば軽傷と呼べる。
とはいえ、大会前のスポーツ特待生にとっては致命傷に等しいが。
「うーん、この程度ならいけるか。中学で暴れたときに巻き添えしちゃった同級生のほうが酷かったもんな。うん、あれに比べれば全然完璧問題なくいけるいける……」
言いながらジャージの下を通して片腕を出す。余った左袖を丸めて口に詰めた。
呼吸を整えて折れた足に両手をそえる。歯を食いしばり、一思いに力を籠めた。
「ふっ──ぐぅぅっ~~!!」
激痛に意識が飛びそうになった。力を込めたのは数秒だったのに、信じられないほどの脂汗が噴き出す。一瞬で呼吸が乱れた。
「──────っはぁ……! はぁ……。あ〜…………キツっ」
(中学のとき丸腰で喧嘩やっててよかった。あれがなかったら耐えられなかった)
痛みへの反射でパニックになりそうなのを、くだらない思考で押しとどめる。
筋組織の具合までは分からないが、とりあえず足を元の位置に戻せた。見た目に異質な瑕疵があると精神のほうが先にやられてしまう。痛みもさっきよりはマシになった気がした。
適当な枝を副木にして折れた部分を関節ごと固定する。すぐに助けが来るとは限らないので上着は使わず、ブラジャーの紐で縛った。昨日痛感した。夜の山は夏場でも冷える。出血している状態では保温には気を遣うべきだろう。
木に寄りかかって目を閉じる。この足では長距離移動ができない。自分が何処に居るかも曖昧だから、ヘタに動くのは悪手だろう。ここで救助を待つしかない。
処置が終わってやることがなくなると気持ちがどんどん沈んでいく。こういう時は無限に自虐が出てきて駄目だ。とりとめもない思考が連なっていく。
(思えば、わたしっていっつもこうなるんだよな……)
特に対人関係は。
頑張れば頑張るほどから回ることが多い。他人の気持ちに鈍感だから、迷惑をかけることも多々あった。
(どうせわたしに人の気持ちなんて推し量れるわけないんだ。ははっ、滅茶苦茶はっきり軸のある自業自得だ)
だからきっと分からない。恋心なんて高度な感情、自分には程遠い。
こういう思考の末にたどり着くのは、いつも罪悪感だった。
恋愛なんて、愛情なんてよく分からないと言うと必ず、異物を見る目を向けられるか、同情される。
可哀そうに。きっと愛されたことがないんだろうね、と。そして必ず家族関係を心配される。親の愛情が足りなかったんだろうと。
けれど、違うのだ。蕗谷家はごく普通の一般家庭で、もちろんくだらない喧嘩をすることもあるけど、莟は確かに愛されて育った。決して足りなかったなんてことはない。父親も、母親も、優しい人だ。不満を抱くどころかトラウマ一つ抱えてない。
けれど莟がそうだと知られると、必ず身内のことがやり玉に上がる。
違うのに。そんな、分かりやすい原因があるわけじゃないのに。
誰のせいでもない。ただ最初から、莟に恋愛する機能が備わっていなかっただけだ。
だからこそ後ろめたくなる。みんなが当たり前に獲得する感情を自分だけまだ持てていないから。持っていて当然、落ちて当たり前、それが恋だとみんな言う。だったら、その影すら掴めない自分はいったい何者なんだ。
この葛藤は自分のせいなのに、他の誰かのせいにされるのが堪らなく嫌だ。
だから欲しい。自分だけの恋が欲しい。愛を持ちたい。
もうこんなやり場のない罪悪感を抱えていたくない。自分が自分に生まれたことを、後悔したくない。他人のコイバナに想像で話を合わせているときの後ろめたさに耐えられない。
「でも、どれだけ理解しようとしても、やっぱり分からないっ」
恋をすると人は変わるという。映画や小説で繰り返し描かれる不変のテーマだ。肌艶は良くなり、それさえあれば生きていけて、なんでもできる気がして、なにを犠牲にしてもいいと思えるくらいに、大切な感情。
そんなすごいモノ、身の内に湧いて出た例がない。
ただそれだけで泣きたくなってくる。
自分が経験した中で一番似ている感情をもう一度模倣しようとしているけど、きっとこれもまがい物でしかないのだろう。一生、本物の気持ちには追い付けない。
どうせ分からない。理解できない。馴染めない。共感できない。ずっと物足りなくて、ずっと蚊帳の外。
人として覚束ない。疎外感が消えてくれない。
「…………どうしてだろ」
こんな思考になるのは、失敗して怪我をして、メンタルが落ち込んでいるからだと自覚している。普段は必死に目を逸らしているのだ。今までも出来たんだから、これからも大丈夫。今回は状況が特殊だった。もうこんなことはないはずだ。
だから大丈夫。大丈夫。大丈夫。
どれだけ自分が嫌いでも、なんとか誤魔化して生きていける。
「なんてっ、そんなわけ、ないじゃん」
言い聞かせるにも限度あるのだ。人間の心は、壊れた子供みたいに物分かりが良かったりしない。自分の言葉すら疑って、不安に苛まれて生きている。
「寒い…………」
ぐるぐると終着点も展望もない自虐を繰り返していると、いつの間にかとっぷり日が暮れていた。目覚めてから何時間経っただろう。喉が渇いた。お腹が空いた。身体が痛い。湿った地面が気持ち悪い。虫の羽音が不快だ。トイレに行きたい。吐きそうだ。一人は寂しい。
「助けて」
体内時計だととっくに日付が変わっているというのに、救助の声も聴こえてこない。
自分は見捨てられてしまったのだろうか。そんな妄想すら浮かぶ。
片膝を抱えて膝小僧に額を押し付ける。このまま眠ってしまおう。そう考えて。
目をつむると余計に小さな音が耳に響くようだ。
静寂の森の中、遠くに何かが飛んでいる気がした。
低く絶え間ない音。これはヘリコプターの羽音か。
「救助? でもこんな深夜に?」
夜の山は慣れた大人でも危険だ。深夜の捜索は避けられると聴いたことがある気がするのだが。
「とにかく、見つけてもらわないと……! 痛っ」
立ち上がろうとして失敗する。思ったように力が入らない。
不出来な自分は運動神経だけが取り柄だというのに、情けない。
ヘリの音が近づいてきている。早くしないと通り過ぎてしまう。なんとかしないと。なんとか……。
「もうやだ……」
足と一緒に心まで折れてしまったのか。涙がこみあげてきて鼻をすする。
木を支えにようやく立ち上がるが、それ以上は一歩も動けない。惨めな気分だ。
力が抜けて転ぶ。骨折部分を打ったようで激痛が全身を駆け巡った。
視界が涙に歪んで、本格的に泣きそうになる。
そのとき、木々の間から光が差した。
「見っつけたぞおらあああああっ!!」
「え?」
聴きなれた怒鳴り声が響く。眩しくて相手が誰か見えないのに、確信があった。
信じられなくて呆けていると、その人影は大股に近づいてきた。
横たわる莟を真上からライトで照らして舌打ちを鳴らす。
「なあに迷子になってんだこの阿呆っ!」
「とめき先輩、なんで……?」
茫然と口を開ける莟の状況を目視で確認し、十瑪岐は肩の無線に呼びかけた。
「──こちら十瑪岐。推測地点で本人を発見。意識は良好ぉ。やっぱ怪我してる。すぐ迎えをよこせ!」
どうやらヘリへ指示を飛ばしているようだ。十瑪岐の後ろからも数人のガタイの良い男たちが駆け寄って来る。
莟はあれよあれよと助けられ、気づけばヘリコプターに乗せられていたのだった。




