地獄への道、舗装が案外ぬるい
夏休みが始まって早数日。陸上部が合宿へ向かう日がやって来た。
向かう先は運動部OB所有の、自然公園と見紛う広大な私有地の山頂付近に建つ別荘だ。所有者はほぼ利用しないため陸上部の合宿場として毎年貸し出されているらしい。
同氏提供のジャンボジェットで近隣の空港まで向かい、それから貸し切りバスで山を登る。
インターハイ前最後の練習。陸上部名物、電波も届かない孤立した山荘での七泊八日ドキドキがっつり地獄のしごきである。
去年も経験している二年生以上の部員の目が一週間前から徐々に死んでいくのが恐怖ポイントだ。
とはいえ一年生はまだその恐ろしさを知らないのでどこ吹く風である。その中でも身体を動かすのが大好きな莟はわりと前向きに楽しみにしていた。加えて合宿での個人的な目標もあるから気合が入る。
だがしかし、意気込んで空港に向かうバスを待つ莟の足元には、デカいゴミがくっついていた。
身体を縮めてジャージ姿の女子高生の左足に抱き着く男子高校生──もとい葛和十瑪岐である。
「ほらとめき先輩、そろそろ他の部員も来るでしょうし、見送りはいいんで帰ってください。さもなくば通報されますよ」
足を振って払い落とそうとするが、静電気でくっついたビニール並みに離れない。しかもこの男ガチ泣きである。
「オレを置いて逝くというのかあ!!」
「漢字が違うっ。合宿を死出の旅路みたいに言わないでください。ただ山に籠るだけですよ! ……いや山に籠るってなに。よく考えたらおかしいような」
「山は予測不可能な事態が頻発する自然の事故現場なんだぞお! サスペンスドラマ見たことねえのかお前!」
「それは作為的な事件です」
宥めてなんとか引き剥がす。みっともなく泣きはらす少年に、莟は呆れてため息をついた。
「急に見送りに来たかと思ったら何なんですか。もう少しで鳴乍先輩とのお出かけでしょう? 準備でもしてればいいでしょうに。暇なんですか」
「不安なんだよちゃんとやれるかあ。助けてくれ莟ぃ」
どうやら十瑪岐は、鳴乍とのデートを上手くできるか心配らしい。失敗したあげく別れを告げられた前例があるから不安に思うのも当然か。
莟は地面に膝をつきうなだれる少年の肩に手を当てた。
「大丈夫です。いいですか、デートって自分も相手もいい感じに楽しむのが大事なんだそうです。恋人持ちの友人達がよく言ってました」
「そりゃあ説得力があるなあ」
「わたしが観察してた時のとめき先輩は肩に力が入りすぎておかしくなってました。相手の荷物を全部担いだり、扉をすべて無理やりにでも先回りして開けたり、階段の上り下りを異様にサポートしたり……あれはもう彼氏というより介護士の仕事でしたよ。慣れないことするからおかしくなるんです。普段通りでいいと思います。鳴乍先輩は、普段のとめき先輩を見て告白してくれたんでしょうから。もっと自然体で行きましょう」
ファイティングポーズで力を込めて言う。十瑪岐は輝くものを見上げるように潤んだ瞳を細めた。
「良いこと言うじゃねえか元ストーカー」
「もう時効だと思ってましたよっ。ほらさっさと帰ってください。こんなとこ見られたらまた──」
あっ、と口をつぐむがもう遅い。失言だ。
十瑪岐は途端に表情を剣呑なものにあらためて立ち上がった。
「なんだお前、部員の誰かともめてんのかあ?」
「げっ、いえ……」
「オレがどうにかしてやろうか」
見下ろす視線に容赦はなく、ここで頷けば何が起こるか想像したくない。
背筋にぞっと冷たいものが走って、莟は十瑪岐の申し出を固辞した。
「結構です。自分でなんとかします。とめき先輩のほうこそ自分のことで手一杯でしょ。ほらさっさと帰った帰った」
背中を蹴りつけるようにして十瑪岐を追い返した。
入れ替わりのように部員たちが集まり始める。その中に古見の鋭い眼光を見つけて、莟は安堵と覚悟の入り混じったため息をついた。
◇ ◆ ◇
街の中流層が多く住む住宅街にその家はある。かつては榎本一家が暮らしていた二階建ての一軒家。現在は葛和十瑪岐が住み込みの家政婦さんの監督の下で暮らしている。
そのクーラーの効いたリビングで、十瑪岐はソファに寝転がり莟の言葉を反芻していた。
「いつも通り……肩の力を抜く……。頭じゃ分かっちゃいるんだがなあ」
呟き壁のカレンダーを見る。約束の日まであと三日。意識するだけで表情筋が意識の統制下から外れ、体が異常に強張る。こんな状態で自然体など不可能だ。気を抜けば床を転げまわりエビのように飛び跳ねて家具に足の指を強打しかねない。
打開策をかれこれ二時間ほど探っているが、脳裏に浮かぶものはどれも現実的ではなかった。
十瑪岐は頭痛がするほど悩みに悩んで、一番最初に思いついていたものを実行することにした。ソファから身を起こして家政婦さんのともへ向かう。
部屋をノックすると甲高いしゃがれ声が扉越しに許可を出す。十瑪岐は息を呑んでノブをひねった。
「代摸さん」
「うん?」
絶賛プランク中の女性が顔を傾け視線だけ向けてくる。
代摸は義父の古くからの友人なのだそうだ。戦場帰りとの噂もある。トレーニングウェアから覗く身体は鍛え抜かれていて、当人の気質も荒々しい。
実年齢は四十代くらいと聞くが怪しいものだ。二十代の終わりくらいに見える。そもそも日本人を名乗っているがそうは見えなかった。顔立ちに北欧の血が混じって感じられる。目元の笑い皺だけが唯一年相応だ。
代摸が汗を拭いて起き上がった。身長は十瑪岐より少し低い程度。鳴乍と同じくらいか。ハーフアップにした銀髪がさらりと揺れる。夏なので干されたそうめんを思い浮かべてしまった。
「どうしたクソガキ。決死の行軍に挑む男の顔をして」
訝しげに、据わった目を向けられる。素直に怖い。十瑪岐はしどろもどろに、視線だけは外さず口を開く。
「ちょっと……っお、お時間、よろしいですかあ」
「何度言わせる。語尾を伸ばすな。腹から声を出せ」
「少々お時間頂けないでしょうか!」
「よし。なんの用だ」
「オレを…………余計なことがしばらく考えられないくらい、しごいてくださいっ……」
今にも泣き崩れそうな表情で頭を下げる。自分の足が震えていて、十瑪岐はやっぱりよせばよかったと早くも後悔した。苦渋の決断だったのだ。
肩から力が抜けないなら無理やり、力を入れられないくらいにまで追い詰めてやればいい。
力が入らないのはどんなときか。十瑪岐は思い出した。代摸のトレーニングに付き合わされたあとはいつも、しばらく妙に清涼感のある虚脱感に包まれることを。たぶん一種の賢者タイムである。あれなら条件に合うだろう。
とはいえ彼女の課すトレーニングは地獄だ。筋肉の限界に迫り、魂が昇天しかけ──精神と肉体の垣根を超えかねないほどの負荷。それを自ら頼むなんて正気ではない。
だが今の十瑪岐には他に方法が思いつかないのも事実。
代摸は十瑪岐の葛藤を知ってか知らずか、陰惨な笑みでニヤリと笑った。
「ほう? ちょうど、最近のキサマはたるんでいると思っていたんだ。そっちから申し出てくるなら話が早い。さっそく始めようか?」
肩を叩かれ、ぞっと背筋を恐怖が駆け抜ける。
やめときゃよかった。
十瑪岐は心底そう思いながら肩を落として、高笑いを上げる代摸に連行されていった。




